出雲、荒神谷遺跡周辺の神社、神門臣、

December 2018 編集されました カテゴリ: 出雲
image出雲、荒神谷遺跡周辺の神社、神門臣、

荒神谷遺跡の近くの神社 4つの神社があるが、吉備の出雲侵攻、そして神門臣と吉備の和平の経緯が残されている。新説…

Read the full story here


タグ付けされた:
«1

コメント

  • 出雲振根。 
    別名:阿多命。出雲タケル。 出雲杵築宮の神主。 
    留守中に弟ヰイリネが『タマカワの神宝記』を、崇神天皇の使者タケモロズミに安々と渡したことに怒り、ヰイリネを殺す。しかし、キビツヒコとタケヌナカワに誅されてしまう。
    島根県松江市大庭町、神魂 (カモス) 神社
    島根県大原郡加茂町大字神原、神原 (カンバラ) 神社

    京都府亀岡市の「出雲大神宮」
    丹波一宮で社格も高く、もとは広大な神域を持つ大神宮だったが、現在では小ぢんまりした神社になっている。

     出雲大神宮の御神体は背後にある山(御蔭山)で、国常立尊のことだというが、元は拝殿もなかったらしい。原始的な信仰を伝える神社なのだ。主祭神は大己貴神とその妻である三穂津姫命であり、社伝では和銅二年(709年)に大己貴神だけを現在の出雲の杵築神社に遷した。そのため現在の主神は独り取り残された三穂津姫命であるが、あくまで本来の出雲はこの地であったという。そのため神社では「元出雲」と称している。

    播磨国風土記には、出雲の大神がよく登場する。たとえば「昔出雲の大神が神尾山に住んでいて、出雲の人が通りかかると、その半数を取り殺した」という伝承が伝えられている。男神だけが一人で来て、姫神は遅れて来たので、男神の方は待ちきれずに一人で行ってしまった。遅れてやってきた姫神は、一人でその山にいるという。そのため、いつも不機嫌なのだそうだ。残念ながら、その姫神の名は分からない。

     この話が出雲の大神の遷幸途上のことであったとすれば、出雲大神宮が伝えるところと、かなり符合している。元出雲では妻の三穂津姫と一緒にいたのに、夫の大己貴神だけが現出雲に遷されたという。これに対し、播磨では姫神は遅れてやってきたと伝えている。

    日本書紀の第二の一書によると、国譲りの後、妻であった三穂津姫命は、高皇産霊尊のすすめで大物主神の妻となったらしい。国土を奪われ、愛する妻も同時に奪われたのだ。

    三穂津姫命が大物主神の妻となった話は、白河本旧事紀では高皇産霊尊が大己貴神の妻にしたという話になっている。「国を譲ったといっても、今後国津神の娘を娶るなら、まだ逆心があると考えるぞ」と脅したのであり、日本書紀で大物主神に言った言葉とよく似ている。元来白河本旧事紀は大己貴神と大物主神を同一神としているので、最初から混同されているのだ。日本書紀では別の神として書かれており、本文にはないが、第二の一書では大己貴神が国譲りして隠れた後(ここでは事代主神は隠れない)で、この結婚話が持ち上がっている。ただし三穂津姫命がそれ以前に大己貴神の妻だったということは書かれていない
  • 後日談

    最古の出雲の神宝

     「天より将(も)ち来れる神宝」とは何か。
    『紀』崇神紀には、神宝を奪われた後日談が“不思議”な説話として記載されている。

     出雲臣等が大神を祭らなくなってからしばらくして、丹波の氷上の人で名は氷香戸辺(ひかとべ)という人が皇太子の活目尊に次のように曰したとある。

    「己が子、小児有(はべ)り。而(しかう)して自然(おのづから)言(まう)さく、玉萋鎮石(たまものしづし)。出雲人の祭(いのりまつ)る、真種(またね)の甘美鏡(うましかがみ)。押し羽振(はふ)る、甘美御神(うましみかみ)、底宝御宝(そこたからみたから)主。山河の水泳(みくく)る御魂(みたま)。静桂(しづか)かる甘美御神、底宝御宝主(ぬし)」。

    この話は皇太子から天皇(崇神)へ報告された。天皇は詔(みことのり)して祭らしめた。
     「神がかりした言葉は「小児」に託され、出雲王朝側の神宝を奪われた怨念に満ちたものである。したがって、そのことに気づいた崇神天皇は勅を発して、出雲側の怨念を鎮魂させようと祭ったのである。

    出雲の神宝がいかなるものか、その手掛りを与えてくれているのだ。

     「玉萋鎮石(たまものしづし)」
    本文注に「萋、此をば毛(も)と云ふ」とあるところから、「玉のような藻(も)の中に沈んだ石」であろう。これは翡翠か、隠岐の黒曜石かも。
    本物の素晴らしい鏡が真種(またね)の甘美鏡。
    玉が山河の水泳(みくく)る御魂。勾玉か
    ここでの神宝は「鏡」と「玉」(勾玉)であるか。
  •  弓矢が神宝であった
    『出雲国風土記』の大原(おおはら)郡、神原(かむはら)の郷(さと)の条でも裏づけられる。

    神原(かむはら)の郷(さと) 郡(こほり)家の正北(まきた)九里なり。古老の伝へていへらく、天の下造らしし大神の御財(みたから)を積み置き給ひし処(ところ)なり。即ち、神財の郷と謂(い)ふべきを、今の人、猶(なほ)誤りて神原の郷といへるのみ。
    屋代(やしろ)の郷 郡家の正北(まきた)一十里一百一十六歩なり。天の下造らしし大神の[土朶](あむづち)立てて射(ゆみい)たまひし処(ところ)なり。故、矢代(やしろ)といふ。神亀三年、字を屋代と改む。即ち正倉(みやけ)あり。
    屋裏(やうち)の郷 郡家の東北のかた一十里一百一十六歩なり。古老の伝えていへらく、天の下造らしし大神、矢を殖(た)てしめ給ひし処(ところ)なり。故、矢内(やうち)といふ。神亀三年、字を屋裏(やうち)と改む。

    神原神社(かんばらじんじゃ)
    島根県雲南市加茂町にある神社である。旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土したことで知られる。

    大国主神、磐筒男命、磐筒女命を祀る。

    『出雲国風土記』大原郡条の神原郷の項に「所造天下大神之御財 積置給處也」とある。当初は大国主神のみを祀ったものと見られるが、宝永5年(1708年)に三刀屋天満宮宮司の広沢漆拾がまとめた『神原神社縁起』では祭神が磐筒男命・磐筒女命とされている。
  • 山城の国には愛宕(うたぎ)郡出雲郷という地名があり、出雲臣姓の人物が多数住んでいた。その場所は愛宕山からだいぶ離れている。現在の京都市内で、北区、中京区を含むという。同志社大学付近には遺構があるらしい。今も出雲路という地名や出雲神社がそのあたりにある。愛宕山も現在は京都と亀岡の境ぐらいにあるが、かつては丹波の勢力圏で、朝廷が直接統治する場所ではなかったのではなかろうか。

    「寧楽遺文(ならいぶん)」に神亀三年(726年)の「山背国愛宕郡雲上里計帳」、同じく「雲下里計帳」が掲載されている。そこに出てくる人名は、ほとんどが「出雲臣」という姓なのである。


  • 八上比売の子、三井神
    大己貴神の正妻(須勢理姫)の嫉妬を怖れて、因幡国に逃げ帰ってしまったが、その途中で大己貴神の子供を産み、木の股に挟んで置き去りにした。岩波古典文学大系本では「どのような神か不明」となっているが、島根県には「御井神社」があり、それによると八上姫はこの場所で産気づき、水がなかったので三つの井戸を掘ったところ、いずれの井戸からも豊富な水が湧き出た。その水で木俣神を産んだので、この神を三井神=御井神とも呼ぶ。水の神というのは、それが由来である。鳥取県にも八上姫を祭る神社が多いが、木俣神は祭られてないようだ。
  • 多紀理比売

    神魂御子神社(筑紫社、つくしのやしろ)多紀理毘賣命(大国主の妻で宗像三女神の一人)
    天照大神(アマテラスオオミカミ)とスサノヲノミコトが誓約(ウケイ)の時にスサノヲノミコトの剱を噛み砕いたときに生まれたお姫様です。 オオクニヌシノカミと結婚して、阿遅須枳高日子根神(アヂスキタカヒコネノカミ)と下照比賣(シタテルヒメ)を産みました。
  • http://tokyox.matrix.jp/wordpress/出雲大社、筑紫のなかの出雲/

    神社(合祀)、黒崎の岡田宮(熊手宮)、宗像の示現神社(田熊神社)などを筆頭に、遠賀、鞍手、宗像域に10社を集中させる。

    また、素戔嗚尊の祭祀も、同域に10数社を数え、宗像域、福間の西郷川流域には、大国主神の子神、建御名方神を祀る神社群をも鎮座させる。殊に、上古のこの域は出雲の領域であった。
  • 出雲の系譜
    「古事記上巻系譜」では・
    建速須佐之男命-八島士奴美神(八島篠)-布波能母遅久奴須奴神(布葉之文字巧為)-⑤深淵之水夜礼花神-淤美豆奴神-⑦天之冬衣神-大国主神-⑨鳥鳴海神-⑩国忍富神-⑪速甕之多気佐波夜遅奴美神-⑫甕主彦

    富家が伝える系譜は・・
    諏訪家の祖、建御名方は、向家の祖、八重波津身(事代主)の子神。

    富家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-⑤深淵之水夜礼花-淤美豆奴-⑦天之冬衣-八重波津身(事代主)-⑨鳥鳴海-⑩国忍富-⑬田干岸円味-⑮布忍富取成身-⑯簸張大科戸箕-弩美宿祢-飯入根
  • 鴨都波神社(かもつばじんじゃ)は、奈良県御所市にある神社である。式内社(名神大社)

    積羽八重事代主命(事代主)と下照姫命を主祭神とし、建御名方命を配祀する。葛城氏・鴨氏によって祀られた神社で、高鴨神社(高鴨社)・葛城御歳神社(中鴨社)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。事代主神は元々は鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主神の信仰の本源である。大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大国主の子に当たることから、「大神神社の別宮」とも称される。
  • 出雲の日置


    欽明天皇

    神門郡日置郷の地名起源を語るのに、
    『志紀嶋の宮に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の御世、日置の伴部等が、遣つかわされ来て逗留して、政務を執ったところだ。だから日置といふ。』・・・として記載されたものです。

    意宇郡舎人郷の地名起源を語るものとして、
    『志紀嶋の宮に御宇(あめのしたしろしめしし)天皇の御世、倉舎人君たちの先祖、日置臣志毘が大舎人としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘たちが住んでいたところだ。だから舎人という。ここに官庫がある。』・・・とされています。

    「日置の伴部等」であり、「日置臣志毘」という。この、「日置」を名乗る一族は出雲の人たちではない。
    そのことは、「遣つかわされ来て逗留して」とか、「倉舎人君たちの先祖、日置臣志毘が大舎人としてお仕え申し上げた」ということから分かります。

    この「日置」を名乗る一族の正体とは何でしょうか。
  • 舎人郷(とねのさと)
    郡家正東26里。志貴嶋宮御宇 天皇 御世、"倉舎人君"等之祖、"日置臣志毘"大舎人 供奉之。即、是"志毘"之 所レ居。故、云「舎人」。即、有正倉。~出雲国風土記~

    大和の磯城島の宮で天下を治めた欽明天皇の御世、今の倉の舎人の君の祖先にあたる日置臣志毘(へきのおみしび)という人が、大舎人として奉仕したが、その志毘が住んでいたのでこの郷を舎人という。官の倉庫がある。
    風土記抄に「吉岡・月坂・赤埼・沢村・野方・折坂を集めて以つて一郷となす」とある。郷長の家は野方あたりにあったとみられている。倉の舎人君は天平五年(733)頃にはこの郷には住んでいた一族で、舎人を氏とし君を姓とする一族という。
    大舎人は天皇・皇族の側近に奉仕した役人だという。日置臣志毘は「日宣臣」など万葉緯本など諸本に登場し、出雲国計会帳にも「日置首」とあり姓氏緑には高麗の帰化人としているようだ。
    伯耆国河村郡に舎人郷があるが「和名抄」でとねりと読んでいる。日置臣志毘が大舎人として奉仕したことから倉舎人族がいたものだという。

  • 書紀に書いてない高句麗系氏族の渡来について、幸いなことに出雲風土記や正倉院文書の
    天平十一年(739)出雲国大税賑給歴名帳(福祉関係帳簿)出雲郡・神門郡条が現存して、これ らによつて高句麗系氏族が出雲地方に渡来してきていることがわかります。
    大税賑給歴名帳(賑給帳)には老齢寡婦(寡夫)・自立不能者・精神薄弱など生活困難な人々に
    対する生活保護の受給者と戸主の氏姓が記載されていますがこの中に認められる高句麗氏族
    名は日置氏、舎人氏、神人、刑部氏等と考えられます。日置氏を見てみると、

              (加藤義成氏作成より抜粋)

     姓氏 出雲郡 神門郡 計
    日置臣   0   1
    日置部臣  49  11
    日置君   1   1
    日置部首   9   3
    日置部  29  36   140

    受給者の中で、日置氏は両郡合わせると最大の数であり、それだけ多くの氏族数がいたという
    ことです。

    一方で氏族は姓氏録に次のように、
    「高麗 日置造。男馬王裔孫古君之後也」左京諸蕃
    「高麗 日置造。高麗国人伊利須使主之後也」右京・大和諸蕃
    「高麗 日置倉人。伊利須使主兄許呂使主之後也」大和諸蕃
    「高麗 日置造。鳥井宿禰同祖。伊利須使主之後也」摂津諸蕃  
    「日置部。天櫛玉命男天櫛耳命之後者。不見」和泉未定雑姓。
      と日置造が畿内にいます。

  • 亀岡の「請田神社」に残る伝承は次のようなものです。松尾大神は、葛野(京都)干拓より前にまず丹波を拓いたといいます。最初単独で鍬を入れ始めたが難渋し、胸形神が大国主(大物主)を呼んできた。大国主は現地を見て「請けた」といったので、以後協力して開削を進めたという内容です。
    なお、請田神社の祭神は 大山咋神と市杵島姫命です。大山咋神は出雲からやってきた神とされます。大山咋命と大国主命はそれぞれは鋤・鍬をとり並んで丹波開拓に励みました。

    大国主が保津峡の開削を請け負ったこの地に創祀されたのが丹波国亀岡の「請田神社」で、709年のことだそうです。現在、請田神社は亀岡を代表する産土(うぶすな)で、周囲には秦氏、出雲氏にゆかりの神社が点在しています。また、「保津」の地名は大国主(大物主)の后、三穂津姫命に由来するともいわれています。

    亀岡盆地は、地質学的にも鮮新世・更新世頃まで標高280mほどの湖であったことがボーリング調査で確認されており、周辺の山体には一部平らになっている段丘地形も見られます。亀岡盆地が湖であったことは疑いようのない事実です。


    その後、大国主の一族は、続々と丹波に移り住んできます。大井神社の伝承によれば、松尾神社に五人の出雲神のご兄弟がおられた(いずれも大国主の子とされます)。そのうちの御井神(木俣神)が市杵島姫命と一緒に洛西松尾大社から亀に乗って大井川(桂川)を遡上されたが、保津の急流が乗り切れなかったので、鯉に乗りかえて、ここ大井に上陸して鎮座された。

    亀岡市千歳町には元出雲といわれる「出雲大神宮」があり、大国主命は、三穂津姫命と共にここに祀られています。出雲大神宮では大国主命の別名を「三穂津彦大神」や「御蔭大神」としています。出雲大神宮の周辺には西山断層が通っており、御影石も採れます。
  • 富家の伝承(出雲と大和のあけぼの 大元出版)では、スサノオは、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。
  • 筑紫国ー(景行記)倭武命は筑紫から出雲へ行き出雲建を征討したとあります。(記)大国主命が宗像三女神の一の多紀理毘売命を娶つたとあります。(荒神谷神庭遺跡)出土した銅矛は明らかに北九州系です。

    大和国ー(神門郡日置郷条)欽明天皇の時、日置伴部等が派遣されて停り政を行ったとあります。(意宇郡舎人郷条)欽明天皇の時、大舎人として朝廷に仕えたとあります。
  • 伊甚神社(出雲国出雲郡建部郷の式内社・風土記社)


    伊自美という名は、三輪氏の系譜にも現れる。
    建部郷は、建部臣氏が根拠地とした郷であり、
    神門臣氏の支族であって、出雲臣向家の富氏によると、神門臣氏は、天穂日命の系譜の氏族ではないと言う。


    伊甚国側にも、神門の地名が残り、伊甚国の大多喜に因む、大瀧直は、伊勢津彦命後裔の系譜(鈴木真年、百家系図)に現れる。

    伊甚国造と安房国造は、同祖である。


    安房の式内社の高家神社の伝では、磐鹿六雁命に膳大伴部の姓を与え、その子孫の高橋氏は代々宮中の大膳職を継いだと言うが 、、

    高家神社(安房国朝夷郡)

    古代氏族系譜集成に掲載される鈴木真年氏の百家系図の資料では、
    出雲臣の系譜に建御狭日命の子に大滝直の名があり、その傍注に
    賜安房国造、負膳大伴直姓とある。時代的にも大滝直と磐鹿六雁命は合致し、負膳大伴部姓という記載も合致している。
    磐鹿六雁命は出雲臣の大滝直であったという事が考えらる。
    一般に高橋臣は、大彦命の後裔と言いますが、出雲臣向家の富氏によると元々は出雲臣姓であったと言い、この合致を裏付けます。  

    下総国結城郡に高橋神社があり、磐鹿六雁命を祀っています。江戸時代までは、持田氏が世襲で神主を勤めていました。
    これは、伊甚神社も同様で、伊甚神社の社家は現宮司家以前は、持田家であった。(伊甚神社のある集落は殆どが持田姓)
  • 伊勢津彦命の後裔の系譜で、建御狭日命の子に大滝直が位置づけられますが、四代前に、五十根彦命という名が見えて、別名高負比古命という記載があります。
    高負比古命は、武蔵国 横見郡の式内社に、高負比古神社があって、現在は、埼玉県比企郡吉見町田甲に鎮座しています。


    埼玉県比企郡吉見町田甲の集落の隣に、中曽根という集落があります。

    富氏の伝えによると、
    大彦の名は、長髄彦といい
    個人名を「中曽根彦」と言うそうです

    出典
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14629295.html
  • June 2016 編集されました

    富家の伝承
    「大和や紀伊は出雲の分国」とある。出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していたのである。

    オオクニヌシは古代出雲において重要な存在ではなかった。出雲大社が杵築(きつき)へ移ったのは、霊亀二年(716)のことで、それまでは熊野にありクナトノ大神を祀っていた。

    クナトノ大神は、岐神(ふなと)、来名戸之祖神(くなとさえのかみ)、衡立船戸神(つきたてふなとかみ)、八衢神(やちまた)、久那斗神などと書く。
    天孫族も、この神は畏敬しており、常磐国などの東国は、この神が開拓したもので、香取神宮の主祭神(普都大神)ともなっている。

    富家の伝承にアマテラスは無い。天皇家でも古くは祀ってはいなかった。
    アマテラスに当てはまる神社は、いくつかあるがいずれも男性神で、女神のアマテラスは存在しなかった。

    「大和国城下郡:鏡作坐天照御魂神社」・「城上郡:他田坐天照御魂神社」
    「山城国葛野郡木島坐天照御魂神社」・「久世郡:水主神社十座の中に水主坐天照御魂神社」
    「摂津国嶋下郡:新屋坐天照御魂神社」・「丹波国天田郡:天照玉神社」・「播磨国:揖保坐天照神社」
    「対馬国下県郡:阿麻氏留(あまてる)神社」

    これらは男性神。尾張氏およびその同族とされる丹波氏の祖神を祀っている。
    祭神は、アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノ命です。
  • June 2016 編集されました
    ニギハヤヒは出雲神族のナガスネ彦の妹トミヤ姫を妻とし、物部氏の祖ウマシマジをもうけたことになっているが、富家の伝承には登場しない。

    ニギハヤヒは尾張氏の祖神で、物部氏とは無関係なのだ。物部神社の主祭神もニギハヤヒではなく、ウマシマジである。

    出雲の国ゆずり

    出雲神族の富家はアメノホヒノ命の後裔の国造家(北島、千家)、神魂神社宮司の秋上家とは婚姻関係を結び、形の上では、同族になっている。

    しかし、秋上氏の口から千家氏に対する怨念の言葉が洩れるなど、いまだに対抗意識をもっている。一般の人にはわからない過去の出来事によるか。


    アメノホヒノ命=天孫族の先発隊

    出雲国風土記」にヤマタノ大蛇や国ゆずりの話がないことに関しても、富氏は明解を与えてくれた。「敗れた記録を残した者はいない、それらは怨念の歴史として口から口へと語り継がれるものだ。
    風土記はアメノホヒの後裔の出雲臣広嶋がまとめたのだが、われわれの祖先が敗残の記は載せさせないように圧力をかけたのだ。日本の歴史学は風土記に出雲の神宝事件も記されていないのにこれを問題にする人はいない。

    アメノホヒ命とコトシロヌシの死

    天孫族はアメノホヒ一族を先発隊として送るがホヒはオオクニヌシへへつらい、三年経っても帰らなかった。続いてアメノワカヒコを派遣したがオオクニヌシの娘、シテタル姫を娶(めと)り葦原の中つ国を自分のものにしようと八年も何時いた。

    タカギノ神は怒りワカヒコを殺してしまう。これは、国ゆづりの前の段階ですがワカヒコは殺されたのにホヒは殺されなかった。それどころかホヒは出雲の※祭祀権を握り子孫は国造に取り立てられる。

    上古は人々の戦いでは無く、その氏族が奉じる神と神の戦いであった。※祭祀権を握るということは政権を握ることを意味します。

    ホヒは何故、国造家の祖となり得たのか?

    出雲の国造が新任した時、一年の※潔斎を経た後、朝廷に出て出雲の神からの祝いの言葉を述べる。「出雲の国造の神賀詞(かむよごと)」では、ホヒは葦原の水穂の国を偵察した後、帰国して報告し、その子アメノヒナドリノ命にフツヌシノ命を添えて天降りし、荒ふる神どもを平らげ、オオクニヌシの媚びしずめた。とつじつまを合わせている。

    これは表向きの話で、ホヒの本来の姿はまるで違う。国造家の「出雲文書」では、「ホヒは隠中であった。」(隠中<いんちゅう>=スパイ)

    ホヒは出雲神族と婚姻関係を結んで、オオクニヌシに国ゆずりをするよう画策する一方、後続部隊の手引きをしたのである。出雲の祭祀権を握り、子孫が国造におどり出た理由はここにあった。

    神魂神社の秋神氏によると天孫族の本拠地は九州にあり、ホヒ一族は九州から対馬海流にのり海路にて出雲入りした。そして稲佐浜での攻防戦が始まる。出雲神族には戦いの歴史がなく後退につぐ後退を強いられた。

    オオクニヌシは至急、水軍の将であるコトシロヌシを呼び寄せ協議する。
    「これ以上出雲人から犠牲者を出したくない。 敵の要求をのみ国ゆずりをしようと思うがどうだろか」
    「私個人としては反対です。でもお父さんがそう仰るのなら従いましょう」コトシロヌシは天孫族にのろいの言葉を残し海へ飛び込んで自殺した。
    出雲を占領したホヒ一族はさらに大和へ侵攻、ここの出雲神族をも降ろした戦いは出雲より激しかったと伝えている。
  • 向家・富家が伝える系譜は・・
    諏訪家の祖、建御名方は、向家の祖、八重波津身(事代主)の子神。(鳥鳴海とは、異母兄弟。)

    ・御中主命=国常立命(クナト大神)
    向家・富家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-⑤深淵之水夜礼花-淤美豆奴-⑦天之冬衣-八重波津身(事代主)-⑨鳥鳴海-⑩国忍富-⑬田干岸円味-⑮布忍富取成身-⑯簸張大科戸箕-弩美宿祢(野見宿禰)-飯入根

    神門臣家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-
    ⑥八束水臣津野-赤衾伊努意保須美比古佐倭気-⑧八千矛(大穴持・大国主)-伊佐我(伊佐波)=出雲建子(伊勢津彦)・阿遅須枳高日子-鹽冶毘古能-⑪速甕之建沢谷地乃身-⑫甕主彦-⑭身櫓浪-⑰遠津山崎帯-⑱振根=倭健(日本武?)-伊賀曽熊の子↓
  • 宗像家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-⑥八束水臣津野-吾田片隅-田心姫・多岐津姫・市杵島姫(宗像3女神。)
    ※田心姫は、向家の天之冬衣の后(八重波津身=事代主神の母神。)
    多岐津姫は、八千矛(大穴持・大国主神)の后
    市杵島姫が、饒速日(物部始祖) の后
  • 古墳時代の到来と出雲
    3世紀中頃、前方後円墳を倭国の象徴とした初期ヤマト王権が成立します。しかし、出雲をはじめとする山陰各地では、弥生墳丘墓の伝統を継ぐ「方墳」が築造されます。ここでは、弥生墳丘墓からの伝統と革新を軸に、出雲の豪族たちが、ヤマト王権と新たな関係を結んだ古墳時代の始まりを紹介します。

    前方後円墳の登場
    古墳時代前期後半(4世紀後半)、大王墓の築造が大和盆地北部に移動します。ヤマト王権は日本海を介した対外交渉ルートの開発をすすめました。出雲に前方後円墳が築造されるのは、まさにこのタイミングです。ヤマト王権と山陰各地の豪族たちの活発な交流

    倭の五王と出雲の豪族
    古墳時代中期(5世紀)になると、海外への直接的な窓口となる大阪湾を擁した百舌鳥・古市に大王墓が移動します。出雲では50mを超える巨大な方墳がつくられ、最古級の人物埴輪が導入されました。最新の調査研究から、ヤマト王権を支えた出雲の豪族


    人形埴輪(島田1号墳・松江市)
    人形埴輪(島田1号墳・松江市)
    馬形埴輪(石屋古墳・松江市)
    馬形埴輪(石屋古墳・松江市)
    横矧板鋲留短甲ほか(月坂放レ山5号墳・安来市)
    横矧板鋲留短甲ほか(月坂放レ山5号墳・安来市)

    淤宇宿禰(おうのすくね)の時代
    『日本書紀』に記された出雲臣の祖「淤宇宿禰」とはいかなる人物でしょうか。近年の調査研究で明らかになった意宇平野に存在する居館遺跡の実態を中心に、地域の開発や手工業生産に参画した渡来人の足跡と、出雲臣の始祖的な豪族の存在が、5世紀にまで遡る可能性がある

    前方後方墳と「出雲」の形成
    古墳時代中期末(5世紀末)になると、出雲東部の豪族たちは「前方後方墳」の築造をはじめます。王権による地方支配の変革期である倭王「武」(雄略大王)の時代から、「前方後方墳」築造の謎と、律令時代につながる「出雲」という地域形成の始まり

    東西出雲の成立
    古墳時代後期(6世紀)、「前方後方墳」を築造する出雲東部勢力に拮抗する勢力が現れます。この勢力は出雲西部に興り、前方後円墳や円墳を築造する勢力でした。「倭の五王の時代」には顕在化していなかった拮抗する東西出雲の成立
  • 造山古墳(つくりやまこふん)は島根県安来市にある著名な古墳群。市が古墳群を整備し現在は「古代出雲王陵の丘」という名の公園となっている。

    1号墳は一辺60メートルの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳である。昭和11年、13年(1936年、1938年)に竪穴式石棺が次々と発見された。副葬品には三角縁神獣鏡、方格規矩四神鏡、紡錘車型石製品、ガラス製管玉、鉄刀、鉄剣、刀子などが発掘された。

    3号墳も古墳時代前期に作られた方墳で38×30メートルである。昭和40年(1965年)には竪穴式石室からは斜縁二神二獣鏡、碧玉製管玉、ガラス小玉、刀子、ヤリガンナが出土している。この他兵陵最高所には全長50メートルの前方後円墳(2号墳)や、小型古墳の4号墳があり、この2基は6世紀前半頃に築造されたものと考えられている。

    近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳であり、石棺からは三角縁神獣鏡・素環頭大刀などが明治44年(1911年)に出土している。この素環頭大刀の復元を刀匠 河内国平が行ったがその現物は安来市立和鋼博物館に展示されている。
  • November 2016 編集されました
    草薙神剣の荒魂とは出雲建雄神(いずもたけおのかみ)を意味しているとのことです。
    詳細は石上神宮の以下のホームページを参照ください。
    摂社 出雲建雄神社
    http://www.isonokami.jp/about/c3.html

    出雲建雄神社は延喜式内社で、草薙剣の荒魂である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしており、 同社縁起によれば、天武天皇の御代に御鎮座になり、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣された、とのことです。

    一方、摂社、出雲建雄神社解説板の由緒は以下のようになっています。

    出雲建雄神草薙神剣御霊坐     
    今去千三百余年前天武天皇
    朱鳥元年布留川上日谷瑞雲立
    上中神剣光放現「今此地天降諸
    氏人守」宣給即鎮座給

    出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐し、今を去る1300余年前天武天皇朱鳥元年(686年)、布留川の上流、日の谷に瑞雲立ち昇る中に、神剣が光を放って出現し、「今、此の地に天降る。諸々の氏人を守ろう。」と宣言され鎮座された。
    天武天皇朱鳥元年(686年)
    朱鳥元年は草薙神剣の盗難事件の神剣の返還の年。
    「日本書紀」によれば、天智天皇7年(668年)僧道行が草薙神剣を盗み、新羅に向かって逃げたものの、嵐に遭い、迷って帰ってきたとされます。草薙神剣はなぜか熱田神宮に返還されず宮中に収められ、天武天皇が神剣の祟りによって病気となり崩御したため、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に返還されました。
  • 古事記
    倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いて周囲を這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちはなお3首の歌を詠い、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」(天皇の葬儀に歌われる歌)となった。
    日本書紀
    父天皇は寝食も進まず、百官に命じて日本武尊を能褒野陵に葬るが、日本武尊は白鳥[10]となって、大和を指して飛んだ。後には衣だけが残されたという。
    古事記
    白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがて天に翔り、行ってしまう。
    日本書紀
    白鳥の飛行ルートが能褒野→大和琴弾原(奈良県御所市)→河内古市(大阪府羽曳野市)とされ、その3箇所に陵墓を作ったとする。こうして白鳥は天に昇った。その後天皇は、武部(健部・建部)を日本武尊の御名代とした。
    『古事記』と異なり、大和に飛来する点が注目される。
  • November 2017 編集されました
    『出雲国風土記』に
    そこには、・・・『郡役所の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命(ヤツカミズオミツヌ)が国引きをなさった後に、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げようとして、もろもろの神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め(きづき)なさった。だから、寸付(きづき)という。』(荻原千鶴訳)・・・とあります。

    『出雲国風土記』では、「ヤツカミズオミツヌ」という「国引き」をした「出雲の神」が、「オオクニヌシ」のために宮をお造り申し上げようとされています。

    『古事記』・『日本書紀』では、「高天原の神」が、「オオクニヌシ」のために宮を造ったとされています。
    「出雲大社」は、
    1.出雲の神の発案で、出雲の人の手で造られた。
    2.「国譲り」の代償などではなく、「オオクニヌシ」の国造りをたたえてのことである。
    3.オオクニヌシは、自分の宮を造ってくれなどと言ってはいない。


  • 『古事記』に
    「根の国」でのスサノヲからの試練に耐え、スサノヲの娘であるスセリヒメと一緒に根の国からの脱出を図った時に、スサノヲがオオクニヌシに投げかけた言葉です。

    ・・・『その、お前の持っている生太刀と生弓矢をもって、そなたの腹違いの兄どもや弟どもを、坂の尾根まで追いつめ、河の瀬までも追い払い、おのれが葦原の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、またウツシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻として、宇迦の山のふもとに、土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を太々と突き立てて、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳(そび)やかして住まうのだ、この奴め。』(三浦佑之現代語訳)
  • 民俗学者 谷川健一氏の『蛇: 不死と再生の民俗』
    『出雲風土記』によると、出雲郡に宇賀の郷がある。ここは「御崎」(日御碕)の海子(あま)の活躍したところで、海子と海蛇(ウカ)との関係が浮かび上がる。出雲の古社は、杵築大社、佐太神社、日御碕神社、美保神社のすべてが、海蛇を神とあがめ、「龍蛇さま」と呼んで祀っており、海蛇と神とのつながりがきわめてふかい。
    宇賀神といえば、福を授ける仏教の神の弁天のことで、そのかぶっている宝冠のなかに白い蛇がいるところから、白蛇を神として祀ったものを指すが、音が似ているところから、食物の神である「ウカの御魂」の異称であると辞書には説明されている。 私は、仏教の宇賀神とウカの御魂の習合したものではなく、海蛇のウカ(またはウガ)と食物の神のウカ(またはウガ)の合体したものが、宇賀神の正体であると推考”  
        ~ 谷川健一著 『蛇: 不死と再生の民俗』(冨山房インターナショナル)~

    宇賀神といえば、弁天様の頭の上の神様です。老翁や女性が頭となった蛇神です。
    宇賀神というのは、出雲郡宇賀郷を由来するのではないかと思いました。
    そして、その宇賀神を頭に載せている弁才天を考えると、
    出雲大社から西に向かう「稲佐の浜」の弁天島が思い浮かびます。

    稲佐の浜の弁天島

    この弁天島は、古くは「沖御前」といい、 今のように陸続きではなく沖にあったと言われています。
    昔は「弁才天」が 祀られていましたが、明治以降は豊玉毘古命(とよたまひこのみこと) が祀られています。

    稲佐の浜で行われる神迎えの神事ですが
    龍蛇神(セグロウミヘビ)が神の先導役を荷うようです。
    もしかしたら、宇迦之御魂=海蛇=カミムスビの神の使いだったのではないか?
  • November 2017 編集されました
    島根半島のちょうど中間どころに位置する内神社(うちじんじゃ)の由来

     内神社 (高野宮)  松江市大垣町746 

    祭神は、大国主命の御子ー和加布都努志命と下照姫命です。

    奥原碧雲著 島根県秋鹿村誌(大正11年)によれば、

     “二、御鎮座 当社は風土記ニ所謂、女嵩野山ノ山腹二存リテ、天下造ラシ
    大国主神ノ御子、和加布都努志命ノ此山ニテ御狩シ給ヘリシ御由緒二拠リテ鎮座シ給ヘリ。
    又、同ジ大神ノ御子高姫命(亦名下照比売 亦名雅国玉神 亦名阿太加夜奴志多岐喜比賣
    亦名大倉比売)ハ素ヨリ此山二座シ、神ナルカ故二、同シク當社二祀レルナリ。” 

    そして、この内神社が鎮座する山を高野山あるいは芦高山と呼び
    当神社を高野宮又は芦高宮とも呼ばれるようになったと書いてあります。
  • 出雲風土記(733年)記載の神門郡の神社では、「タキ」の名前が入った神社が

    多吉社2社(神祇官社5番目と22番目)
    多支枳社1社(神祇官社14番目)
    多支社1社(不在神祇官社10番目)
    多支々社1社(不在神祇官社11番目)

    計5社あります。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。