履中天皇、鯽魚磯別王、讃岐の鷲住王

December 2018 編集されました カテゴリ: 崇神ー仲哀
image履中天皇、鯽魚磯別王、讃岐の鷲住王

讃岐国造(讃岐) 讃岐国造 国造本紀によると応神天皇(15代)の時代、景行天皇(12代)の皇子・神櫛皇子(かん…

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  • 金神社
    古来より産業繁栄、財宝・金運招福、商売繁盛の御神徳あらたかな神として、
    篤い信仰を集めており、御鎮座の年代は遠く昔、成務天皇の御代(西暦135年)に
    物部臣賀夫城命が国府をこの地に定め篤く金大神を崇敬されたと伝えられる
    当神社の主祭神渟熨斗姫命は、景行天皇の第六皇女で伊奈波神社の主祭神五十瓊敷入彦命の
    妃である。伊奈波神社に伝わる縁起によれば、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を受け奥州を
    平定したが、その成功を妬んだ陸奥守豊益は一足先、都に戻り謀反の心ありと報告したため
    朝敵とされこの地に至り討滅された。夫の死を聞いた渟熨斗姫命は深い悲しみの中、
    都を発ち御跡を慕ってこの地を訪れ、夫の御霊を慰めつつ生涯を終えられた。その間命は
    地域住民を母の如く労り、私財を使い町を開拓され産業・農業の発展に寄与され、後に
    岐阜の街の基盤となった。慈悲深い命の功績を慕い人々が集まり財をもたらす神として
    信仰されるようになり、この地に金大神と称され祀られた。
  • 雄略天皇

    菟代宿禰(ウシロノスクネ)は(自分が)勝てなかったことを恥ずかしいと思い、7日経っても結果の報告をしませんでした。天皇は侍臣(オオモトマヘツノキミ=側にいる部下)に問いました。
    「菟代宿禰はなぜ服命(=結果の報告)をしないのか?」
    讃岐田虫別(サヌキノタムシノワケ)という人がいて、進み出て申し上げました。
    「菟代宿禰は怖気付いて二日一夜の間に朝日郎(アサケノイラツコ)を捕らえることが出来ませんでした。それで物部目大連(モノノベノメオオムラジ)が、筑紫の聞(キク=豊前国企救郡=現在の福岡県北九州市小倉区と門司区)の物部大斧手(モノノベオオオノテ)を率いて朝日郎を捕らえて斬り殺しました」
    天皇はそれを聞いて起こりました。すぐに菟代宿禰が所有していた猪使部(イツカイベ)を奪って物部目連に与えました。

    即位19年春3月13日。詔して穴穂部を置きました。
  • 雄略天皇
    即位18年秋8月10日。物部菟代宿禰(モノノベノウシロノスクネ)・物部目連(モノノベノメノムラジ)を派遣して伊勢の朝日郎(アサケノイラツコ)を征伐させました。朝日郎は官軍(ミイクサ)が到着すると聞いて、すぐに伊賀の青墓(アオハカ)で迎え撃って戦いました。自ら弓を射ることができるのを矜持として、官軍に言いました。
    「朝日郎の相手は誰がやるのか?」
    その放った矢は二重にした鎧を通り、官軍は皆、怖じ気づきました。菟代宿禰は前に出て撃ちませんでした。相対して二日と一夜。物部目連は自ら大刀(タチ)を取って、筑紫の聞(キク=豊前国企救郡=現在の福岡県北九州市小倉区と門司区)の物部大斧手(モノノベオオノテ)と共に、楯(タテ)を取って、軍の中へと叫び、進みました。朝日郎は遥か遠くから見て、大斧手の楯と二重の鎧を弓で射て貫きました。その(大斧手の)身の肉に矢が一寸(ヒトキ)入りました。大斧手は楯を持って物部目連を覆い隠し遮りました。目連は朝日郎を捕らえて斬り殺しました。
  • 香春は銅山をもって知られている。『三代実録』 に「元慶二年、詔令採規矩郡銅」とある。この銅は香春の銅 山のことである。規矩は企救郡のことであるが、さらに古くは聞と記した。さきにも述べたように、「雄略紀」に、物部目連、筑紫聞物部大斧手をひきいて、伊 勢の朝日郎を斬るとある。これは天物部二十五部人の一つの筑紫の「聞物部」と関連があると考えられる。こうしてみるとき、久留米の高良神社と香春とをむす ぶ物部一族のつながりが明らかになる。高良も香春の名前も、もともとはおなじ語であったと思われる。
  • September 2016 編集されました
    帝塚山古墳 4世紀後半から5世紀の古墳
    大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原型をとどめている。
    被葬者は不明だが、住吉に居宅があった「大伴金村」の墳墓とする説があり。
    他にも鷲住王(摂津名所図会)地元では「浦島太郎」の墓とする伝承もあるようです。古墳では市内で珍しい「カンサイタンポポ」が見られるらしい。
        (説明版より抜粋) 

    帝塚山古墳
    昭和38年国の史跡に指定され、大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原型をとどめ、4世紀末から5世紀初めの築営と推定される貴重な古墳です。当初の規模は全長120m、後円部の直径57m、高さ10m、前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されています。

    古く住吉近辺は玉出岡と称したことから帝塚山は玉手塚とも呼ばれました。玉手塚の呼称によって手塚山、そして帝塚山として現在の地名の元にもなりました。また、東側にはかつて大玉手塚あるいは大帝塚と称した古墳(現在の南海高野線帝塚山駅の周辺)、対する小玉手塚あるいは小帝塚と称した古墳(現在の住吉中学校付近)などが存在したが現在は消滅しています。

    被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王(摂津名所図会)、また地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。

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    帝塚山古墳は茶臼山古墳、御勝山古墳の三古墳のうち、墳丘がほぼ完全な形で残っている唯一の古墳で、国史跡に指定されている。『図会』では住吉の里を描いた挿図中に描かれ、本文にある鷲住王塚と大伴金村塚の2つの項目が帝塚山古墳の説明に相当する。
    鷲住王とは『日本書紀』の履中天皇の段に登場し、力が強く敏捷であり、住吉邑に住んでいたという。一方、大伴金村は『古事記』、『日本書紀』に登場する大和王権の有力豪族で、朝鮮半島情勢を見誤り失脚した後は、住吉の邸宅にひきこもったという。
    ーーー
    「摂津名所図会』では一心寺の背後に描かれており、本文の説明では「荒陵」という項目で紹介されている。一心寺は、浄土宗の開祖である法然上人が文治元年(1185)に開基したと伝える名刹である。
    「今、茶臼山という。形をもって異名とす。慶長元和の頃、御陣営となる。荒陵の号は、仁徳天皇より己前の号なり。」『日本書紀』の仁徳天皇58年夏5月の集に、荒陵の松林の南の道に、にわかにクヌギの木が2本生えた、とあることを受けたものだ。『書紀』の推古天皇元年(593)の集に、四天王寺を難波の荒陵につくりはじめた、とあることから、荒陵は茶臼山古墳しかない。
    茶臼山古墳は現状では円墳だが、地形図から復元すると墳丘長200m程度の前方後円墳と考えられ、茶臼山古墳の規模は上町台地最大の古墳となる。
    築造時期は四天王寺に安置されている石棺の蓋が「長持形石棺」だから、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)の古墳である可能性が考えられる。
    1986年の発掘調査では、石室などの遺構は確認されなかった。一方、四天王寺境内の発掘調査で埴輪などが出土しており、四天王寺周辺に古墳が存在していた可能性が高く、今後の研究や発掘調査の進展が期待される。
    御勝山古墳は大阪市内の代表的な前方後円墳として、府の史跡に指定されている。残念なことに、現在残っているのは後円部だけである。御勝山古墳は、『摂津名所図会』では姫古曽神社(比売許曽神社)をはじめとする多くの名所旧跡とともに描かれ、「御勝山」と記されている。本文では、元の名称の岡山で項目を立て、大小橋命の墓であると説明している。大小橋命は大化の改新で有名な中臣鎌足の先祖である。挿図中にも描かれた産湯清水は大小橋命誕生時に産湯に用いた湧き水と伝え、胞衣塚は大小橋命の胞衣を納めた所と伝えるなど、この地に大小橋命の伝承は多い。
  • 式内社那賀郡和奈佐意富曾(わなさおふそ)神社

    徳島県海部郡海陽町鞆浦

    『播磨国風土記』の「志深(しじみ)の里の条」で伊射報和気命(履中天皇)が井で食事をした時に、信深(しじみ)の貝が御飯を入れた筥のふちに上がってきたので、この貝は阿波の国の和那散に行ったときに食べた貝ではないか?といったので、この地の名を志深の里とよぶとある。

    阿波国の和那散(わなさ)は徳島県海部郡海陽町鞆浦の古名で、現在も那佐湾(なさわん)の地名がある。現在は海陽町大里松原の八幡神社内に移されている式内社那賀郡和奈佐意富曾(わなさおふそ)神社の旧社地があったといわれている。『阿波国風土記逸聞』にも奈佐浦があり、奈とは波のことで、徳島県海陽町穴喰の海岸のことで、古くは那佐湾沿岸を広く和奈佐と呼んだという。

    神社は、かつては那佐湾にあったが、のちに鞆奥の手久良の大宮山に遷宮され、天正年間に大里の浜崎地へ、さらに慶長9年(1604年)に現在の大里に遷座された。大里八幡神社といっしょに祀られていたが、式内社の由緒を伝えるために、大里八幡から分祀されて、八幡さんの南、少し離れたところに、お宮が建てらえた。

    玄松子」さんのHPによると、祭神に関して諸説あるとのこと。

    『大日本史』では、大麻比古神。
    『特撰神名牒』では、大麻神。
    『式社略考』では、和奈はワナであり鳥獣を取ることに長けた人々。
    『名神序頌』では、日本武尊の子・息長田別命、あるいは意富曾(オウソ)=オフスノ命=大碓命=日本武尊の兄。
    『阿波志』では、和奈佐居父祖として日本武尊。
    『下灘郷土讀本』では、和奈佐毘古命・和奈佐毘賣命。
    『海部郡誌』では、息長足姫命とある。


    ■海部一帯を開墾したのは鷲住王であるといわれている。

    『南海治乱記』によれば、「鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。」とある。

    鷲住王は、大阪の住吉に拠点があり、香川と徳島に勢力をもっていた海洋民の王で、海部氏の祖といわれている。子どもの名も、高知県の野根の地名に残っている。

    履中天皇の父は仁徳天皇で、仁徳天皇は難波の堀江の開削と茨田堤を築き河内王朝の基盤をつくった。その仁徳天皇のその父は応神天皇で、その母は住吉大社に祀られている神功皇后である。

    http://doragon-project.cocolog-nifty.com/namusan/2016/01/post-920f.html

  • September 2016 編集されました
    摂津名所図会に、
    「産湯清水、味原池の南にあり。大小橋命の産湯の水となん。名泉にして清徹、外に溢れて四時涸れず、味わい甘味なり。」とある。
    境内には「産湯清水」の跡である古い井戸が残っていて、この地が大阪城の金明水から鵲森宮神社の亀井の水、さらに天王寺の七名水へと続く、上町台地を南北に貫く水脈の上にあることを物語っている。
    「この水は飲めません」という注意書きがあったが、今でも水が湧き出ているようで、水垢離の行場になっている。

    『摂津名所図会』には、「胞衣塚、味原池の二町許り東にあり。大小橋命の胞衣を蔵めし所なり。土人過って此塚を穿つ時は、忽ち病悩して頭の髪抜け落つるなり。其の祟りを受くる者、近年両三人ありとなん。土人これを云い伝えて大いに恐懼す。」とある。

    産湯稲荷神社 大阪市天王寺区小橋町 :大小橋命
    御父は中臣の雷大臣いかつおみ御母は紀氏清夫と申す。
    三男子あり、長男は大小橋命おおおばせのみことなり、又は御味宿称とも申す、二男は意穂命いほのみことと申し、三男は阿遅速雄命あちはやおのみことと申す。

    雷大臣の息子に日本大臣がいます。
    次男ですが朝鮮で生まれたようです。長男は小橋命といって、後の鎌足に繋がります。産湯などの伝承地が大阪にあります。三男は暴代氏等、後裔氏族がいます。
    日本大臣の後裔氏族は、未定雑姓で中臣栗原連のようです。(日本の苗字7000傑)
    しかし出自には疑問が、、、

    祭神・イカツオミとアメノコヤネは祭祀氏族・中臣栗原連の祖神ということになるが、中臣栗原連は、姓氏禄では未定雑姓に区分され、その出自に疑問がもたれていること、また続日本紀には百済から帰化した氏族で、姓・連(ムラジ)を賜る以前は勝(スグリ)とすることなどからみると、渡来系氏族とも推測され(スグリの姓は渡来系に多い)、その氏族が何らかの関係で中臣氏の傘下に入り、アメノコヤネ・イカツオミを祖神としたとも考えられる。また寡聞にして、当地に中臣栗原氏が居住したとの資料はみあたらない
    http://www3.ocn.ne.jp/~tohara/naka-kurihara.html

    雷大臣は中臣氏の重要人物です。この人から始まるといっても過言では有りません。なのに世代を曖昧にさせるような系図の伝承(同名が3人)や、本来、親子ではないはずの真根子(後の卜部氏)を第二子に加え、息子を四人にし、そのうちの日本大臣の後裔と言われる氏族は別な素性であるらしい、極めて創作性の強い箇所です。
    http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11514893663.html

    参考 中臣氏の系譜

    天御中主尊―天八下尊―天三下尊―天合尊―天八百日尊―天八十万日尊―津速魂尊―市千魂命―居々登魂命―天児屋根命―天押雲命―天多祢伎祢命―宇佐津臣命―大御食津臣命―伊賀津臣命―梨迹臣命―神聞勝命―久志宇賀主命―国摩大鹿嶋命―巨陜山命―跨耳命―大小橋命―阿麻眦舎卿―音穂臣―阿眦古連―真人大連―賀麻大夫―黒田大連―(中臣)常盤大連―可多能祐連―御食子―鎌足(藤原)と流れ、中臣と称するのは欽明天皇より中臣の姓を賜った中臣常盤大連(なかとみときわのおおむらじ)からで、中臣家の始祖となっている
  • 長尾(ながお)氏のルーツと言うのは鎌倉幕府が開かれるより昔、まだ源氏の棟梁が軍神八幡太郎(はちまんたろう)源義家(みなもとのよしいえ)公だった時代、つまり平安時代に遡(さかのぼ)ります。
    当時、三浦市・逗子市・横須賀市・鎌倉市・横浜市・藤沢市・伊勢原市・厚木市一帯は坂東平氏(ばんどうへいし=関東の平氏)の棟梁で鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公の子孫達の領地でした。
    その中の一族の一つが鎌倉・藤沢・横濱を治めていた鎌倉景政(かまくらかげまさ)公でした。

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    その鎌倉景政公は源氏の棟梁:源頼義(みなもとのよりよし)公と子の軍神:源義家公に与力(よりき=協力し組織に入るが主従ではない)になり、鎌倉市に源氏の住まいや公田や武器製造地域を提供します。
    その後、前九年後三年の役で活躍し、関東では鎌倉景政公は御霊神社の御祭神として祀(まつ)られています。

    その神様の鎌倉景政公の子孫が長尾氏なんです。
    長尾氏の祖先は、景政公より今の横浜市栄区の長尾台一帯を与えられ、そこに長尾城を築きました。
    平安時代末期に長尾氏は石橋山の合戦(静岡県と神奈川県の県境で起きた戦争)で源頼朝公に反逆し平氏に味方した為(ため)、源頼朝公が鎌倉幕府の初代将軍に成ると長尾氏の子孫は冷遇されました。
    しかし、鎌倉幕府滅亡時に逸早く足利尊氏公に味方した為、その後、関東を治める鎌倉公方(かまくらくぼう=関東の将軍)の業務を代行する関東管領(かんとうかんれい)職の山内上杉家の執事(しつじ=権力の代行者)を務める事に成りました。
  • 帝塚山古墳
    「被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王、地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。」
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