鉄剣、出土品、4〜5世紀

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image鉄剣、出土品、4〜5世紀

東大寺山古墳出土の中平銘大刀:奈良県天理市 古墳から金象嵌の長さ110センチメートルの鉄刀が検出された。推定銘…

Read the full story here


コメント

  • 埼玉県行田市にある稲荷山古墳

    墳頂には、粘土槨と礫槨の埋葬施設があり、粘土槨は盗掘を受けていたが、礫槨から金象嵌鉄剣や挂甲・馬具が出土している。墳丘にある円筒埴輪Ⅴ式で人物埴輪も出土しており、造出しから出土した須恵器はTK23・TK47と判定されている。稲荷山古墳の粘土槨は後円部中央の前方部よりに横たわってあり、礫槨は後円部中央から外れた位置に、粘土槨と直角に設置されている。粘土槨が第一主体で、礫槨が粘土槨より後に造られた第二主体と考えられる。稲荷山古墳の築造年代は、造出しから出土した須恵器はTK23とTK47の共存から470~489年と定めることが出来る
  • 熊本県玉名郡の江田船山古墳

    編年の要素としての、造出し・横口家形石棺・円筒埴輪Ⅴ式・馬形埴輪・横矧板革綴短甲・横矧板鋲留短甲・馬具・須恵器が出土している。江田船山古墳の築造年代は、消滅する要素としての「横矧板革綴短甲」「横矧板鋲留短甲」と、新たに登場する要素の「円筒埴輪Ⅴ式」の出会いから、460~469年と定めることが出来る。横口家形石棺から出土した須恵器の型式は議論が定まらないが、周濠からはTK23とTK47の両者(470~489年)が出土しており、古墳築造直後のもとと思われる。江田船山古墳は略天皇の治世(464~486年)の初め頃に築造されたと考えられる。
  •  王仁が生まれた頃は、霊岩は百済の支配下にあったと推測される。百済の近肖古王(在位346~374)の治世で、この王は南へ北へと領土を拡大し、百済史上最大の領土を獲得した。すなわち、南は馬韓諸国(霊岩が存在する諸国)を完全制服し、北は高句麗領の南部を占領し、その水軍は遼東半島・山東半島・北九州まで進出した。

     369年、百済と倭は同盟を結んだ。その記念品が、大和の石上神社(奈良県天理市)の秘法「七枝刀」(ななさやのたち)である。これは、実に奇妙な形の刀で、中心の刃から6本の枝の刃が出ている。何らかの呪術的意味もあろうが、重要なことは『日本書記』に谷那(こくな)の鉄山の鉄でつくったと書かれていることだ。谷那の鉄山は、369年の少し前の時期に、百済が高句麗から奪い取った鉄山である
  • 播磨に来た新羅の王子の未斯欣(微叱己知)

    『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦(はさむきん)は、微叱己知珍干岐(みしこちとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。一方、『三国史記』には、実聖王元年(402)3月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王(ヌルジワン)二年(西暦418年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。

    新羅本紀第三 実聖王 尼師今の七年(西暦408年)条には、実聖王は倭人(日本人)が対馬に基地を設置して、武器と資材・食糧を貯えて、新羅を襲おうと準備しているという情報を手に入れた。王は、倭(日本)が動き出す前に精鋭の兵を選び、敵の兵站基地を撃破しようと思ったが、部下の未斯品が諌めて言った。「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません。」これに従って王は思いとどまった。
  • 雪野山古墳(ゆきのやまこふん)

    滋賀県東近江市に所在する古墳時代前期前半の前方後円墳である。3面の三角縁神獣鏡が出土していることからヤマト政権との関係が考えられる。
    雪野山(標高308.82メートル、東近江市と蒲生郡竜王町の境)の頂に雪野山古墳が築造されている。本古墳と山麓との標高差は約200メートルである

    墳丘の全長は70メートルで、前方部を北北東に向けており、琵琶湖と平行に並んでいるといえる。後円部の直径40メートル、高さ4.5メートル以上、前方部の長さ30メートル、高さ2.5メートルである。後円部は二段築成であり、葺石が敷かれているが、墳丘の一部(後円部の下段部分や前方部の前端部分)が盛土でなく湖東流紋岩を削って墳丘の表面としている。山上や段丘、丘陵上に築造された古墳は、その地形を大いに利用している古墳が多い。埴輪は有していない。

    前期前方後円墳の石室の特徴を備えており、長大に作られている。検出された墓壙の大きさは、上段墓壙は南北10.6メートル、東西7.0メートルで、下段墓壙南北8.6メートル、東西4.8メートルである。石材は、雪野山の基盤である湖東流紋岩。石室を構築している石は、一般には板石がよく使われるのだが、ここでは不正形の塊石が多く用いられている。石室には赤色顔料の弁柄が塗布されている。

    木棺はいわゆる舟形木棺であったと推定できる。さらに、木棺の両小口に半円形の縄かけ突起が付いており、棺内は2か所に仕切り板があって3分割されていた

    棺内に残っていた遺物は、銅鏡、石製品、玉類、農工具、漁具、土器などである。棺外に竪櫛と合子以外はすべて武器・武具である。棺蓋に置かれていたと推測できる鉄鏃、銅鏃数本が発見されている。

    中央区画には、被葬者が葬られ、その両脇には布に巻かれた抜き身の刀剣が添えられていた。北側に銅鏡が3面、南側に2面が副葬され、そのうちの北側の2面と南側の2面は、鏡面を被葬者に向ける形で南北の仕切り板に立てかけられていたと推定されている。北側の一面のみが鏡面を下に伏せておかれており、他の鏡とは取り扱い方が異なっている。碧玉で造られた鍬形石や琴柱形(ことじがた)石製品、玉類も出土している。

    次に北区画では、矢を入れた状態の靱や紡錘車形石製品、鎌・やりがんな・鑿・刀子などの農工具が、 南区画では、鉄刀、鉄剣、鉄鏃などの武具の他、漁具、壺形土器が出土している。

    棺外の副葬品としては、小札革綴冑(こざねかわとじかぶと)、木製短甲からなる防具、銅鏃、鉄鏃、鉄刀、鉄剣、竪櫛(たてぐし)、靫(ゆぎ)、木製合子(ごうす)などがある。

    これらの副葬品は、前期前半の品々を網羅している。棺内と棺外の種類では差違が認められる。これらの副葬品の日本製青銅鏡・碧玉製品・銅鏃の形式・小札革綴冑などから4世紀初頭の築造と推定されている。

    銅鏡は5面出土した。三角縁神獣鏡[1]が3面、内行花文倭鏡(ないきょうかもんわきょう)[2]2面。
    石製品はどれも碧玉製である。鍬形石はゴボウラ製の腕輪を模倣して作られた腕輪形石製品の一種で、本古墳出土の中でも古い形式である。琴柱形石製品は杖の頭の飾り部分と推定され、もともとは鹿角でつくられていたものを模倣した形と考えられている。軸の下に孔が穿たれている。紡錘車形石製品は元来イモガイ製の装飾品を模倣してつくられたもので、紡錘車として機能したわけではない。装飾品の一部と考えられている。これらの石製品はいずれも古い形式にあたり石製頻出現当初の様相を示すものである。
  • June 2016 編集されました
    日本海三大古墳
    蛭子山古墳(えびすやまこふん)または蛭子山1号墳は、京都府与謝郡与謝野町字加悦・明石にある前方後円墳。蛭子山古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている。

    網野銚子山古墳(京丹後市網野町)・神明山古墳(京丹後市丹後町)と合わせて「日本海三大古墳」と総称される

    京都府北部、丹後半島付け根の加悦谷の、東縁にある中位段丘上に築造された大型前方後円墳である。台地上ではこの1号墳含む古墳8基が分布し、これらは「蛭子山古墳群」と総称される[これまでに5次の発掘調査が実施されている

    墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける[2]。墳丘は3段築成。墳丘長は145メートルを測り、丹後半島では網野銚子山古墳(京丹後市網野町、墳丘長198メートル)・神明山古墳(京丹後市丹後町、墳丘長190メートル)に次ぐ第3位の規模になる。墳丘各段には埴輪列が巡らされているほか、墳丘表面には川原石の葺石が認められる。主体部の埋葬施設としては後円部中央において3基が認められており、そのうち中央の第1主体では舟形石棺および銅鏡・大刀などが発見されている

    この蛭子山1号墳は、古墳時代前期後半の4世紀中頃の築造と推定される

    弥生時代末期から古墳時代前期にかけての丹後半島では、日本海交易により伸長した一定勢力が存在したことが知られ、蛭子山1号墳含む三大古墳はその様子を物語る古墳になるなお、谷1つを隔てて南50メートルほどの位置には中・小規模の古墳5基からなる作山古墳群(国の史跡)も築造されており、特に作山1号墳には蛭子山1号墳との関連性が指摘される

    南北主軸の舟形石棺直葬。墓壙底面に礫を敷き、その上に花崗岩(加悦谷産)製の刳抜式舟形石棺を据える。石棺は全長3.1メートル・幅1.1メートルを測り、短辺側には突起を有するほか、内外にベンガラを塗り、頭位を南向きとして石枕を備える。棺内は荒らされていたが、調査では漢代の長宜子孫内行花文鏡および直刀などが発見された。

    また棺外からは、直刀・剣身・鉄鏃・鉄斧といった多数の鉄製武器類も検出された

    墓壙周囲には、南北6メートル・東西5.5メートルの範囲で溝が掘られ、そこに方形埴輪列が据えられていた。検出埴輪は33本で、元々の推定埴輪数は45本。この埴輪はほとんどが丹後型円筒埴輪と朝顔形埴輪で、コーナー部内側4ヶ所にのみ家形埴輪が置かれたとされる
    第1主体舟形石棺内
    長宜子孫内行花文鏡 1、三葉環式鉄刀 1
    石棺外
    鉄刀 5、鉄剣、鉄槍 20振、鉄鏃 20余、鉄斧 4、鉄槍鉋 1
    埴輪
    丹後型円筒埴輪・朝顔形埴輪・形象埴輪(短甲形埴輪・鶏形埴輪・家形埴輪)
  • February 2017 編集されました
    会津大塚山古墳
    発掘調査の際に、後円部中心から出土した南北2基の割竹形木棺からは多くの遺物が検出されたが、その代表的なものは三角縁神獣鏡である。「卑弥呼の鏡」と通称されることの多いこの鏡は、ヤマト王権が服属した地方の豪族へその証として分け与えていたと考えられ、3世紀から4世紀にかけて畿内に成立した古代国家の勢力範囲を考えるうえで重要な遺物と考えられる。ちなみに会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している。

    備前和気郡の鶴山丸山古墳
    立派な石棺は、香川県東部の白色に近い凝灰岩の石材で製作されていたのである。香川県の東部には、この石材で作られた古墳時代の石棺は、以前から知られ、舟形の刳抜石棺だったが、丸山古墳のような形でもなく立派な彫刻もない。形や彫刻のある石棺と言うことでは九州の石棺に似ているが、それぞれに新古の問題があって、系譜をたどるのはむつかしい。古墳時代を通じて、30面を超える鏡を副葬した古墳は、数基しかないのでは。この古墳の外観となると、円墳で特に目立つものではなかった。謎である。
    大量の遺物発見後、届けられ公にされた遺物が、東京国立博物館に収蔵されているものである。先回鏡は30余面出土といったが、東博に収蔵されているものは17面に過ぎない。

    四道将軍
    北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた。

    大彦ゆかりの太刀であろうか?
    しかし、
  • February 2017 編集されました
    鶴山丸山古墳と呼ばれ岡山県備前市畠田の丘陵頂部にあります。

    墳丘は単純な円形をしており円墳と呼ばれ全国の古墳の中でもっとも多数を占める古墳の形式を持っています。
     墳丘の規模は、二段構築された墳丘の径が68×55mで高さ9mと測られています。

    基本的には土が盛られて造られたものなので1500年あまりの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊など発生しています。
     コンクリートなどで固められたものなら、それ相当の数値誤差も少なくなりますが、また水平面を出してから築造されたものなど皆無です。どこからどこまでを墳丘としたのかが明確なものはないといっても過言はありません。現在のような機械的測量をおこなって築造されていないわけですから、これらの規模数値もおおむねとして捉えるのが良いでしょう。
     現在でもなわ、木などの自然素材だけをつかって測量したなら、完全な水平面や長さを測ることなどほぼ不可能と思われますから、これらの規模の計測数値は必ずしも確定的なものではありません

     南東に15mの造り出し部が付設されています。
     円筒埴輪、家形埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。
     円礫による葺石が墳丘に施されていたとみられています。
     現地を確認したわけではありませんが、道路地図や資料から判断する限りでは、香登駅からそれほど遠くはないので車を利用されない方でも訪れるのに苦労することはありません。
     埋葬施設は竪穴式石室で家形石棺が収められていました。
     竪穴式石室は石英粗面岩でつくられ全長4m幅1.5m高さ1.2mと測られています。

    出土したものとして倭製内行花文鏡、倭製変形四神鏡、倭製変形獣帯鏡、倭製二神二獣鏡、倭製四神四獣鏡、倭製三神三獣鏡、倭製変形神獣鏡、倭製盤龍鏡、倭製変形四禽鏡、倭製変形五獣鏡、石製四脚付盆子、金子、坩、器台、勾玉、鉄刀、鉄剣、鉄斧、刀子、鉄鏃などが知られています。
     古代において吉備地域は畿内地域以外で200mを超える巨大古墳を築造しうる一大文化圏を築いておりましたが古墳時代後期ごろには畿内の文化圏にのみこまれています。
     この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀後半ごろと推定されています。
     道路地図に記載されており岡山県または備前市の史跡に指定されているのではないかと推測できます。
  • February 2017 編集されました
    西海道の吉備津彦は七代孝霊天皇の皇子、本名を彦五十狭芥彦(ひこいさせりひこ)といい、異母弟若建吉備津彦と共に吉備に来て翌11年には平定した旨を奉上している。
    吉備津彦も若建吉備津彦も、もともと吉備の豪族であり、兄は上道を弟は下道を支配していたものを皇統譜に組込まれ任命の形にしたものといわれる。
    吉備津彦は吉備の親神として、吉備の神域中山山麓へ「吉備津神社」として尊び祭られ、配神には若建吉備津彦・御友別中津彦・外五名がある。

    浦間茶臼山古墳
    古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられている。古代吉備最古の大型前方後円墳の一つである。全長は約138mで、前方部は長さ約61m、後円部は径約81m・高さ約13.8m。前方部は畑として開墾され、現在は桜が植えられて公園となっている。後円部は竹藪と北側に墓地がある。古墳の東側と南側には住宅団地が迫っている。古墳は本来の姿から変形しており規模は推測の域を出ない。前方部が北東を向き頂部は後円部頂部より約4m低くなっている。前方後円墳としては最古の形式であり、奈良県桜井市にある箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似しているとの指摘もある。

    後円部は3段となっていることが確認できる。頂部は平坦であり中央に乱掘坑が残っている。前方部は前述のように畑として削平されているため何段になっていたのか不明である。墳丘には角礫による葺石が確認されており、都月型円筒埴輪の破片が採取されている。
  • 『日本書紀』神功皇后49年3月条によると、鹿我別とともに将軍に任じられ新羅征討に参加した。神功皇后50年2月条に帰国した旨が記される。

    同書応神天皇15年8月条では、巫別とともに百済に派遣され、翌年王仁を連れて帰っている。この条において、荒田別と巫別は「上毛野君の祖」と記載されている。

    また『新撰姓氏録』の記載では、上毛野田道の父とする。『日本書紀』において田道は竹葉瀬の弟である旨があり、竹葉瀬も荒田別の子と見られる。

    『続日本紀』延暦9年(790年)7月の津連真道らの上表においても荒田別の百済派遣の旨が見えるほか、『住吉大社神代記』でも新羅征討の説話において荒田別の名が記載されている。
  • December 2017 編集されました
    高知
    波多国には数々の「謎」があります.
    まず,日本を代表する宝剣が置かれている国なんです.
    その名も「七星剣(七星宝刀)」.

    画像:http://blog.goo.ne.jp/kochi53goo/e/76326277a93e1eb9649b74334e8f2bdf
    四万十市(旧中村市)の一宮神社で発見されました.

    幡多地域で見つかった例の七星剣は,現存の中でも最も古いものである可能性があるとのこと.造形や材質からすると,5世紀頃,つまりまだ日本で製鉄が始まっていない時代のもので,朝鮮半島で製造されたものではないかと考えられているのだそうです.
  • 竹内宿禰の子、
    波多(羽田)八代宿禰は弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)とともに神功皇后による三韓征伐に従う。応神天皇3年(392年)には、百済の辰斯王が天皇に対して礼を失したため、弟の紀角宿禰らと共に百済に遣わされ、その無礼を詰問する。百済は辰斯王を殺して謝罪したので、八代宿禰らは阿莘王を王に擁立し帰国したという。また、17代履中天皇后である黒媛を八代宿禰の娘とする説もある

    推古天皇31年(623年)蘇我馬子が朝貢を促すことを目的に、境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を新羅に派遣した際、小徳の位にあった波多廣庭は副将軍の一人に任ぜられている

    天武朝に制定された八色の姓では、皇族出身である52氏の一つとして朝臣姓を賜与されている。

    推古天皇の時代に副将軍となった波多一族の一人が羽田と改名した。その後この羽田一族の一人が日本書紀の編者の一人として選ばれて編集した時に古事記の表記波多を日本書紀では羽田と全て書き換えてしまった。どちらも同じ一族で同じ波多郷に居た。
  • December 2017 編集されました
    崇神天皇の代に波多国造となった天韓襲命の後裔[

    天韓襲命は事代主の子(または孫)の観松彦色止命の後裔で、長・土佐国造の祖である韓背と同人とされることから、三輪氏族に含められるが、海神系の尾張氏族とする説もある

    波多武日子命
    記紀には記載が見えないが、新撰姓氏録 815年(弘仁6年) に   

    摂津国 皇別   三宅人  大彦命男波多武日子命之後也  
    河内国 皇別   難波   難波忌寸同祖 大彦命孫波多武彦命之後也

    とある。大彦命の(男)と(孫)と同じ姓氏録中でも表記系統が異なるが、大彦命の御子とする説が有力である。

     大彦命の御子は建沼河別命、彦背立大稲腰命、比毛由比命、波多武日子命、得彦宿禰(姓氏録)         比古伊那許志別命、御間城姫、 (古事記)
  • September 2018 編集されました
    応神天皇の孫である意富富杼王を祖とする。
    姓は君のち真人。八多(八多真人)、羽田(羽田公・羽田真人)とも表記される。
    大和国高市郡波多郷の地名に由来するが、のち推古天皇の時、羽田姓に改めた。
    壬申の乱の功臣に羽田矢国・大人父子がおり、天武天皇13年(684年)で真人姓(羽田真人)を賜与された。
    日本書紀編纂に向けて持統3年(689)6月2日、7名の一人として羽田朝臣齊(はだのあそん・むごへ)が撰善言司(よきことえらぶつかさ)に任命された。

    その後日本書紀の元となる先祖の墓記を上進する18人(691年)の一人となった羽田朝臣齊(はだのあそん・むごへ)は日本書紀の中では古事記の記述の中の家祖である波多を羽田に変えてしまった。
  • 河内国 皇別   難波忌寸   大彦命之後也  

    阿倍氏遠祖大彦命。磯城瑞離宮御宇天皇御世。遣治蝦夷之時。至於兎田墨坂。忽聞嬰児啼泣。即認□獲棄嬰児。大彦命見而  大歓。即訪求乳母。得兎田弟原媛。便付嬰児曰。能養長安□功。於是成人奉送之。大彦命為子愛育。号曰得彦宿祢者。異説  並存  

    大彦命が蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探して  みると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦  命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。これが難波忌寸の祖である。

    と記載があり異説があるとして上記の説を附会している。これによれば難波忌寸は大彦の命の養子「得彦宿禰」の子孫で、同じく難波の祖である「大彦命孫波多武彦命」と同祖であることから、「得彦宿禰」と「波多武日子命」は同一人物かあるかあるいは「波多武日子命」は「得彦宿禰」の御子とする説もある。

      また参考としては『国司文書 但馬故事記』に波多武彦命の記載があり、大彦の御子とされている。 『但馬故事記』は古史古伝に分類されているが、波多武彦命の系統を説明するのに矛盾は少ないと思われる。三宅首は大與比神社の社伝とこの『但馬故事記』に登場するが、社伝が伝える始祖「大屋彦命」より『但馬故事記』が伝える始祖「大與比命」とする方が遥かに三宅との関連が明確になる。
  • 古墳時代中ごろの5世紀前半、反正(はんぜい)天皇が丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)で即位したと伝えています。大和王権の宮が、河内におかれた初めての出来事です。松原は、この丹比野の一角にあります。

     わが国で最も古い歴史書である『古事記』や『日本書紀』によると、反正は仁徳(にんとく)天皇の第3皇子で、兄履中(りちゅう)のあと、18代天皇となりました。この丹比柴籬宮が上田7丁目の柴籬神社のあたりにあったと伝承されています。同社は、反正天皇などを祭神としています。

    古代の河内国丹比郡は松原市・美原区・大阪狭山市一体に及び当初は反正天皇の名代だった丹比連の根拠地で、
    その後は丹比連とは無縁の宣化天皇系列の多治比氏が支配しました。

    どちらも丹比氏とも記され複雑です。
    丹比郡の中心部だった、美原には5世紀前半の墳黒姫山古墳があり、6世紀末から8世紀中にかけての平尾遺跡には大規模な掘立柱建築があり、7世紀後半創建の丹比廃寺・丹比神社があります。

  • 京丹後市弥栄町奈具丘遺跡からは、鉄の交易品となる水晶玉を作る玉造工房跡や、鉄製品を作った際の切れ端が出土している。
    奈具丘遺跡は弥生中期後半の遺跡で、この地域が早くから鉄素材の入手と加工に関わっていた事を物語る。
    また京都府与謝郡岩滝町、大風呂南1号墳墓は11本の鉄刀を副葬していた。墳墓の築造はおおよそ西暦200年前後で、同時代の鉄器の副葬量としては最大数を誇る
  • 難波津宮天皇 (仁徳天皇 )の時に 、筑紫 (北九州 )の田部を呼んで 、この地を開墾させられた 。田部は故郷を懐かしみ毎年 、五月にこの岡で農事慰労の酒盛を開いた 。それで此処を佐岡と言うようになった 。

    田部氏とは朝廷の直轄地を開墾する為に 、仁徳天皇が九州から召し寄せた鉄器製造技術を持つ氏族である 。この佐岡に 6 0 6年に推古天皇が佐岡の水田百町 (実際は 2 1 9町 1段 8 2歩 )を聖徳太子に与えた 。 6 0 9年 、春 2月には大部屋栖野古 (大伴連の先祖 、紀伊国名草郡出身 )をその水田の司とした (日本霊異記 )。現在の兵庫県揖保郡太子町鵤 の「斑鳩寺」です。

    今では僻地なこの揖保郡になぜ?推古天皇が聖徳太子に土地を与えたのでしょう?
    その答えがなんとなく見えてきた答えがあります。それが鍛冶氏族の「息長氏」です。

    『播磨国風土記』を見ると、天皇に関する記述が多く、その中でも品太天皇 (応神 )だけは 登場回数が断然多く 4 4回に達しています 。その中でも飾磨郡が 1 0回 、揖保郡は 1 8回でこの 2郡は特別多い 。次に登場回数の多い天皇は大帯比売命みこと (神功 )で計 9回である 。その中で大帯比売命みことの登場は揖保郡が最も多く 5回に達している 。この理由は未だ謎ですが、播磨国西端の揖保郡は両天皇と特別に深い縁があったと言え重要な地であったと考えられます。
    品太天皇 (応神天皇 )は 、 4世紀末から 5世紀初め旧来の奈良盆地から大阪平野に遷都して 、河内王朝を開いた史実性のある最初の天皇とされます 。

    斑鳩寺の隣村が「阿曽」という地名です。この地名が熊本県阿蘇、岡山県の阿曽、「ソ」=「鉄」ですが、この「アソ」が、妙に気になっていました。
    最近調べてみて、「阿曽」村のその横を流れる「林田川」を少し上がったところに「誉田」という地区があり、「阿宗神社」があります。「誉田」って言うのは応神天皇のことですよね。この「阿宗神社」というのが元々は「阿曽」村の近くの「立岡山」の山頂に鎮座していたのです。
    「立岡山」というのは、太子町の中心部に位置する単山 で、『播磨国風土記』における「御立の阜(みたちおか)」に比定されており、品太天皇(応神天皇)がこの山に登り、四方の地を眺め、国見をしたことから名づけられたとされています。
    阿宗神社の前身、北の宮(一の宮)岡ノ峯八幡が祀られていましたが、文治5年(1190)この社を内山城主塩津左衛門尉義経が、自分の領地広山村に遷し、現在の「阿宗神社」の始まりになりました。なんとこの「阿宗神社」は、息長日子王を祀っているんですよビックリマーク 息長日子王(おきながひこのみこ)は、息長帯比売命(神功皇后)の弟とされています
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。