出雲と武蔵国造、兄多毛比命、武蔵の神社

February 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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武蔵国は、「夭邪志(むさし)」「胸刺(む(な)さし)」「知々夫(ちちぶ)」の各々の国造(くにのみやっこ)の支配…

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  • 大伴武日

    『日本書紀』垂仁天皇25年2月8日条では、武渟川別(阿倍臣祖)・彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている


    酒折宮(山梨県甲府市)
    『日本書紀』に見える「酒折宮」伝承地。
    また同書景行天皇40年7月16日条によれば、日本武尊の東征に際して、吉備武彦とともに従者に任じられている。東征では、甲斐の酒折宮(山梨県甲府市酒折に比定)において日本武尊から靭部(ゆげいのとものお)を賜ったという

    『日本三代実録』貞観3年(861年)11月11日条では、伴善男の奏言のうちで、大伴健日(武日)は景行天皇の時に倭武命(日本武尊)に従って東国を平定し、その功で讃岐国を賜ったと見える[1]。またその奏言では、子の大伴健持(武以/武持)を始めとして子孫の名が記載されるが、その中で允恭天皇朝には倭胡連公が讃岐国造に任じられたとある。
  • March 2016 編集されました
    天穂日命(又之菩卑能命、天之夫比命、天穂比命トモ記ス
    ┃ 又名、神活須毘命、熊野大隅命
    ┃ 【国引神八束水臣津野命子】赤衾伊努大住日子佐別命)
    l
    天夷鳥命(武夷鳥命、母水戸神女天甕津日売命、 伊怒比売(伊努比売命、香用比売命
    又名、武三熊命、阿波枳閉委奈佐毘古命、 此命御合於大歳神生向 日神聖神也
    ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
    伊佐我命(又、
  • 天穂日命の別名を熊野大隅命と言うが、これは熊野久須毘命の別名であると言う。
    和歌山県の熊野大社においては、熊野久須毘命は五十猛命を指すと言われており、
    須佐之男命の子(子孫)としては、一致している。
    岡山県津山に奈良時代以来の古社として、天日隅宮としての杵築大社から勧請された
    大隅神社が鎮座
  • 无邪志  武蔵 成務 出雲臣の祖の二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫の兄多毛比命を国造に定めた
    胸刺   武蔵    岐閉国造の祖の兄多毛比命の子の伊狭知直を国造に定めた
    菊麻   上総 成務 无邪志国造の祖の兄多毛比命の子の大鹿国直を国造に定めた
    相武   相模 成務 武刺国造の祖の伊勢都彦命の三世孫の弟武彦命を国造に定めた

    上海上  上総 成務 天穂日命の八世孫の忍立化多比命を国造に定めた
    下海上  下総 応神 上海上国造の祖の孫の久都伎直を国造に定めた

    阿波   安房 成務 天穂日命の八世孫の弥都侶岐命の孫の大伴直大瀧を国造に定めた
    伊甚   上総 成務 安房国造の祖の伊許保止命の孫の伊己侶止直を国造に定めた
    新治   常陸 成務 美都呂岐命の子の比奈羅布命を国造に定めた
    高    常陸 成務 弥都侶岐命の孫の弥佐比命を国造に定めた

    茨城   常陸 応神 天津彦根命の孫の筑紫刀祢を国造に定めた
    師長   相模 成務 茨城国造の祖の建許呂命の子の意富鷲意弥命を国造に定めた
    須恵   上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の大布日意弥命を国造に定めた
    馬来田  上総 成務 茨城国造の祖の建許侶命の子の深河意弥命を国造に定めた
    道口岐閉 常陸 応神 建許侶命の子の宇佐比刀祢を国造に定めた
    筑波   常陸 成務 忍凝見命の孫の阿閉色命を国造に定めた

    上毛野  上野    崇神天皇の皇子の豊城入彦命の孫の彦狭嶋命は、東の十二国を平らげ国造に封ぜられた
    下毛野  下野 仁徳 毛野国を分けて上毛野・下毛野とし、豊城命の四世孫の奈良別を国造に定めた
    那須   下野 景行 建沼河命の孫の大臣命を国造に定めた
    久自   常陸 成務 物部連の祖の伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼を国造に定めた

    武社   上総 成務 和邇臣の祖の彦意祁都命の孫の彦忍人命を国造に定めた
    印波   下総 応神 神八井耳命の八世孫の伊都許利命を国造に定めた
    仲    常陸 成務 伊予国造と同祖の建借馬命を国造に定めた(伊余国造は印幡国造と同祖とある)
    知々夫  武蔵 崇神 八意思金命の十世孫の知々夫命を国造に定め、大神をお祀りした

    関東以外でも、兄多毛比の子孫は「波伯(伯耆)・大嶋」で国造になっている。
    同様に、建許呂自身が「石城」で、建許呂の子孫が「道奥菊多・石背・周防」で、国造になっている。
  • 大宮氷川神社の別伝には
    『第13代成務天皇のとき出雲族の兄多毛比(エタモヒ)という人物が、夭邪志国造(むさしのくにみやつこ)を拝命し、一族を引き連れてこの地に移住してきた。そのとき、一族の祖神を祀る杵築大社 (きずきのおおやしろ、出雲大社の前身)を出雲国からこの地に勧請して祀った。それが当社の始まりだという。』
  • 淡州神社
    伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。ちなみに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。不思議なことだが関東地方には「アワ」の名がついた神社が数多く存在する。千葉の「安房」が、徳島の「阿波」から来ていることは有名だが、阿波国は「粟国」と書かれた時代もあり、阿波国内に「粟島」「淡島」があり、「阿波」「安房」「粟」「淡」、みな「阿波国」発祥の地名だそうだ。
     この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
    ところで埼玉名字辞典において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
     安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
    所在地    埼玉県比企郡滑川町山田765
    祭  神    品陀和氣命、息長帯比売命
    社  格    村社       
    由  緒    当社は、応永2年(1395年)に、神功皇后の三韓征伐の成功を讃え、
             当地にご神霊を奉斎したことに始まると伝えられる
    出典
    http://kagura.wa-syo-ku.com/比企郡の神社/淡州神社
  • 武蔵国造と吉見神社

    延喜式神名帳に記載される、武蔵国 横見郡の横見神社は、式内社調査報告によると、埼玉県比企郡吉見町御所1 に鎮座するとしていますが、式内社の論社としては、二社あると考えています。

    まず、吉見町久保田に1社あります。慶長17年(1612年)夏の洪水で吉見町御所の横見神社が流れ着いた為に祀られたと言われています。

    もう1社、論社というべきあるいは、本来の式内社と言うべき神社があります。

    横見郡という地名は、現在比企郡吉見町という地名に変化していてまた、旧来の横見郡の領域は、吉見町よりも広かったと考えられています。

    元々横見郡は、大里郡に隣接していて、横見郡の上側の地域が、大里郡に分割吸収されたことが分かっています。

    現在比企郡吉見町内には、町名を冠する吉見小学校は存在せず、大里郡の領域を受け継いだ埼玉県熊谷市箕輪に吉見小学校が存在しています。

    同様に、「横見」を引き継ぐ吉見神社が埼玉県熊谷市吉見(大里郡大里村)の吉見神社として存在しています。

    大里郡神社誌によると、吉見神社の氏子の地域は、旧大里郡、横見郡の200村であったといい、重要な古文書が存在しています。

    和銅六年五月奉勅外従六位下武牟刺国造笠原豊庭禰宜従五位下中臣諸次撰上当神社鎮座の由緒を記せる古文書にして養老元年

    三月十五日牟刺守正四位多治比真人縣守奏之

    とある
    吉見神社の摂社には、縁起に関係する東宮社があります。

    東宮社
    旧来は境外摂社なりしが、明治41年11月官許を得て翌年4月境内に移転奉祀せり而して東宮社は、祭神建豫斯味命、御諸別王、磐麿卿とす。けだし建豫斯味命は建夷鳥命の子にして牟刺国造の始祖なり。この命の御名により、この地名を豫斯味、則ち吉見(横見)と称すとも伝える。
    ゆえに吉見神社鎮祭の祖、御諸別王ならびに後孫磐麿卿と合祀する。
    東宮社と崇奉す旧字上中区に、鎮座せり。

    武蔵国造族は、建夷鳥命、天穂日命の後裔を自称していますが、実際は、大名持命の子である伊勢津彦命の後裔であって本来の出雲臣族です。

    従って、「建夷鳥命の子にして牟刺国造の始祖なり」とする建豫斯味命は、大名持命の子にして、牟刺国造の始祖なりとするべきでしょう。伊勢津彦命の別名に、建豫斯味命があるということになります。

    こういった武蔵国横見郡に関する縁起が伝わる吉見神社こそ式内社の横見神社と言うべきではないでしょうか。

    吉見(横見)神社は武蔵国造族の祖と関係し、出雲臣族の神を祀る神社という事になります。

    武蔵国横見郡には、高負比古神社もあり、出雲臣族の系譜に現れる高負比古命を祀る神社であると言われており、
    武蔵国横見郡の出雲臣族の神社であることは、横見郡の地名からして相応しいと言えます。
  • 大里郡大里村(現熊谷市)冑山神社
    祭神は、初代武蔵国造兄多毛比命だ。

    同神社は、径90mという巨大円墳・甲山古
    墳上に立地している。
    甲山古墳について、武蔵国造兄多毛比命の
    墓とする伝承があることは、「埼玉の古墳・
    大里」(塩野博著 2004年さきたま出版
    会)に、詳しく紹介されている。


    同神社前を、南北に通る国道407号線は、
    古代東山道武蔵路と同じ経路だからだ。
    武蔵国造の治所は、東山道につながる武蔵
    路沿いに必ずあるはずと、考えてきたことと
    合致する。

    もう一つは、さきたま古墳群の、8基の大型
    前方後円墳の向き。
    前方部の方位線8本は、放射状に、全て大
    里村を貫いている。
  • 01/18編集されました
    兄多毛比命について文献に出てくるのは1)国造本紀と2)高橋氏文である。

    「国造本紀」についてはその実体の「先代旧事本紀」が偽書とされ、また、こと兄多毛比命に関する限りその任命者(成務天皇)、その先祖(二井之宇迦諸忍之神狭命、兄多毛比命はその十世の孫という)についてははなはだ疑問だ。兄多毛比命の九代も前にそんな長たらしい意味不明の先祖がいたなんて考えられない。

    また、高橋氏文には、景行天皇が皇后とともに後の安房国へ旅行した際、食事の相伴係として无邪志国造の上祖大多毛比(エタモヒと読むがオホタモヒと読む説もある)と知々夫国造の上祖天上腹、天下腹等を呼んだ、とある。

    兄多毛比命は「国造本紀」では成務天皇の御代に出雲から武蔵に来たことになっている

    兄多毛比命は氷川神社を始め武蔵国のあちこちの神社で社伝ないし由緒に出てくる名前である。原典は神職に好まれたという「国造本紀」かと思うが、以下例を上げると、

    1.人見稲荷神社 府中市若松町

    御祭神は倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命三柱にして、武蔵国造兄武比命の祀られし社なと

    伝う。(社頭案内板)

    2.小野神社 府中市住吉町

    人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十

    世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、

    御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤

    井佐衞門助藤原直久)

    人見稲荷神社は小野神社を分祀したものか。稲荷神社を、後世、追祀したものであろう。また、いずれも「兄多毛比命」を「兄武比命」と読み間違えあるいは書き間違えしている。おそらく原典は藤原直久の由緒書にあるのだろう。

    兄多毛比命は伝承では現在の埼玉県にも東京都にもその足跡があるが、資料が少ないので恐縮だが稲荷山古墳出土鉄剣でもその痕跡は認められない。

    おそらく「国造本紀」は高橋氏文の後にできた歴史書であり、「国造本紀」を参照したとは考えられない。国造本紀が兄多毛比命を国造としているのに対し、高橋氏文は大多毛比を无邪志国造の上祖としている。此方の方が事実に近いと思うが、稲荷山古墳出土鉄剣にその名がないところを見ると今の埼玉県には居住していなかったのではないか。

    足立郡、埼玉郡、及び、上野国の一部(現在のJR高崎線沿い)は大彦(命)を始祖とする一族が支配していて出雲族が進出する余地はなかったのではないか。それに対して、出雲族は出雲伊波比神社とか出雲乃伊波比神社とかがある(但し、創建時より神社名に出雲がついていたかは疑問)入間郡とか男衾郡、はたまた、多摩郡とか現在のJR八高線に沿って入植したのではないか。
    従って、兄多毛比命が氷川神社を専ら奉崇したという氷川神社の社伝ははなはだ疑問だ。

    それでは、兄多毛比命はどのような人物だったのだろうか。一説に弟がいて乙多毛比命と言ったと言うが、これは兄多毛比命と言う名に引きずられた説であろう。また、一説に相武国造の弟武彦命のことと言うが、祖先が少し違うような気がする。もっとも、国造本紀は当てにならないので何とも言えない。ここでは、「兄」の文字を兄多毛比と一続きの一文字と解する見解と、兄・多毛比、乙・多毛比の形容語として扱う二説に基づいて考察してみる。

    兄多毛比(エタモヒ)と一語に解する説によると、「イ」と「エ」は混用するところは少なくないので「エタモヒ」を「イタモヒ」と解すると、イタモのタモの意味であるが、タマ(多摩)、ツマ(妻)、トモ(鞆)とも考えられる。また、少し仰々しくなるが「魏志倭人伝」に不弥国とあり、そこの官に多模(タモ、タマもしくはトモ)というのがある。多摩も妻も鞆も同じ意味で海なら海に突き出た半島のようなところ、陸なら丘陵地帯の平野との境のところかと思う。発音が違うのは一種の方言なのではないか。従って、イタマ、イツマ、イトモも同じ意味でイトモ→イツモ→イヅモ→出雲で、兄多毛比(エタモヒ)とは出雲日、出雲霊、出雲氷などの漢字を当てることができるか。

    兄・多毛比の意味と解するなら多毛比が意味の中心になる。武蔵国には現在の東京都多摩地域のほか埼玉県にも玉ノ井村(熊谷市玉井)、玉川郷(比企郡旧玉川村玉川)、玉敷神社(北埼玉郡騎西町)、玉太岡(東松山市岡)など玉のつく地名が多い。或いは、多摩の地域が今の多摩から埼玉県までに及んでいたのか。即ち、多毛比は多摩比のことか。理屈を付ける人は多毛比となっているのに、何で多摩比となるのかと言うのかも知れませんが、「モ」と「マ」は口の開け具合によって多毛比とも多摩比とも聞こえる。この場合は、兄多毛比命は武蔵国の出身になるか。

    高橋氏文では景行天皇が无邪志国造の上祖と知々夫国造の上祖を招いたと言うが、お隣同士の国造で仲が良かったからではないか。ないしは、无邪志国造と知々夫国造とは同族か。

    ここで、武蔵国造に所縁のある主なる神社について見てみると、

    氷川神社 その分布図で見てみると、埼玉県や東京都でも荒川区、北区、板橋区などの埼玉県に接する地域に多い。ほかにも散見するが後世の人の移動によるものであろうか。

    「・・・成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が朝命により武蔵国造となって氷川神社を専ら奉崇し・・・」埼玉県さいたま市(旧大宮市)

    小野神社 「兄多毛比命が武蔵国国造となった時、御祖神としてこの地に勧請祭守された」東京都府中市

    大国魂神社 「・・・出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造に任ぜられ当社に奉仕してから代々国造が奉仕して・・・」東京都府中市

    氷川神社と小野神社は新旧の武蔵国一の宮で、いずれも兄多毛比命との所縁を説いている。

    特に、小野神社の説明では小野神社の祭神は天下春命と瀬織津比売命でこの説明では或いは兄多毛比命は知々夫国造と同族か。しかし、小野神社の祭神は本来瀬織津比売命一座という説もある。小野とは小野郷からの神社名と言うが、小野とか瀬織津比売命とか何か滋賀県に関係があるように思われる。
    古代豪族小野氏は滋賀県の出身(近江国滋賀郡小野村)と言うし、瀬織津比咩命は滋賀県の神社に祀られることが多い。例として、佐久奈度神社(さくなどじんじゃ)名神大社、天智天皇8年中臣朝臣金連が創建、河桁御河辺神社など。小野郷も小野神社も大化の改新後小野氏が近江から武蔵へ導入したものではないか。

    何せほかの多摩地域の式内社は出雲系の神を祀る神社が多いのに(例として、阿伎留神社、阿豆佐味天神社、穴澤天神社、布多天神社)、小野神社ばかりが特殊な神々を祀っている。案ずるに、やはり武蔵国には今の東京都府中市界隈に出雲系の国造と埼玉県行田市界隈に土着の大彦を祖とする国造がいたのではないか。二人の国造がどのくらい並立していたのかは分からないが、棲み分けとしては。出雲系の国造が多摩川以北の多摩地域から児玉郡までを結んだ地域ではなかったか。

    大彦系の国造は埼玉郡、足立郡及び今の東京23区あたりが地盤ではなかったか。安閑天皇の御代武蔵国造笠原直使主が屯倉として横淳(武蔵国横見、今、比企郡吉見町)、橘花(武蔵国橘樹、今、川崎市住吉)、多氷(氷は末の誤りとし、武蔵国多摩郡)、倉樔(樔は樹の誤りとし、武蔵国久良(岐)郡、今、横浜市)の地を朝廷に奉ったというのも、横淳は別としてみんな今の多摩川以南の地であろう。多氷は今の多摩市あたりかと思う。また、横淳も横見ではなくどこか今の多摩川以南にある神奈川県の地ではないか

    要するに、武蔵国と言っても今の神奈川県は統治の範囲外だったのではないか。この時、まだ出雲系の国造がいたかどうかは不明である。

    以上より「兄多毛比命」のことをまとめてみると、

    1.読みは「エタモヒ」では。

    兄(エ)は、「大」の意味であり、多毛(タモ)は、多模(タモ)であり、出雲国で言う地方長官(大和国で言う国造か)、比(ヒ)は、彦や姫のヒで、意味するところは広く「人」の意味か。これを漢字で書くと「大官人」となり、魏志倭人伝に言う「大官」と同義か。

    2.兄多毛比命はどこから来たか。

    やはり名前からして出雲国からではないか。出雲国から出雲族が多い今の長野県諏訪地方、山梨県、奥多摩を経由して武蔵国に入ったのでは。

    3.兄多毛比命はどこに住んだか。

    東京都府中市か。大国魂神社は延喜式神名帳には載っていないが、古くからあった神社のようで、祭神の大国魂大神は大国主命のことであるという。延喜式神名帳に記載されている多摩地域の神社も多くは出雲系の神を祀っており、その中心となる地域ないし神社だったのではないか。後世、武蔵国の国府に選ばれたのも神社の建物自体が出雲の杵築大社と同じく壮大なものだったのがその理由ではないか。

    兄多毛比命は今の府中市に定住後、その開拓の進路を多摩川を下流へとは向かわず、今のJR八高線を北上し現在の埼玉県本庄市児玉町へととったのではないか。もっとも、多摩川沿岸には古墳が多いので、その築造者が出雲族だったかは一考を要する。

    4.「国造本紀」に、胸刺国で兄多毛比命の息子の伊狭知直が国造になったとするが、これは、伊狭知直が兄多毛比命の後を継いだことを意味するのであり、无邪志国は兄多毛比命が、胸刺国は伊狭知直が、国造になったとするのは誤りではないか。

    5.武蔵国造家であるが一般には、兄多毛比命直系→一族の笠原氏→一族の物部氏→一族の丈部氏となったと思われており、記録では辛巳年(633)物部連兄麻呂が武蔵国造に任命された(聖徳太子伝暦)とあり、また、神護景雲元年(767)足立郡の人、丈部直不破麻呂が武蔵国造に任命された(続日本紀)とある。

    この場合、笠原氏と丈部氏は大彦の子孫であり、物部氏が兄多毛比命の子孫ではないか。従って、无邪志国では大彦直系、笠原氏、丈部氏が間断なく続き、胸刺国では兄多毛比命直系、物部氏が続いたのではないか。

    兄多毛比命の息子が国造になった国として胸刺国、菊麻国、波伯国、大嶋国が挙げられるが、胸刺国、菊麻国は今の関東で問題がないとしても、波伯国と大嶋国は今の山陰や山陽で関東にいた人の子どもがどうして中国地方に行ったのだろうか。

    胸刺国造の祖が岐閉国造の祖兄多毛比命の子というのもどういうことなのだろう。単に書き間違い、写し間違いという説もあるが、兄多毛比命が複数いたことも考えられる。この場合、兄多毛比命なんて人名のごとき言っているが、あるいは「兄多毛比」とは単なる官名を言ったものかも知れない。
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