銅鏡、同笵鏡、内行花文鏡

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image銅鏡、同笵鏡、内行花文鏡

三角縁神獣鏡の同範鏡をもつ古墳 三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳1…

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コメント

  • 那珂八幡古墳

    福岡平野全体を支配した北九州の中小首長であると考えられている。大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差があるが、同じ時期のものと推定され、初期ヤマト政権との関係が注目されている。

    長さ約75メートル、後円部の直径約48メートルを測る。墳丘そのものは、墳丘裾が鎌倉時代からの現代の住宅地造成、さらに太平洋戦争中の防空壕の設置によって削平されていたが、後円部は神社の社殿が立地することからも良好に残っていた。一方の前方部は、大部分が那珂保育園(調査当時、現在は福岡市教育委員会埋蔵文化財課那珂整理室が立地)によって、大部分が削平されている。発掘調査で見つかった墳丘から、正円形でない後円部やくびれ部の広がり方は、箸墓古墳と同じ撥形になる、発生期・出現期古墳の典型的な姿を示している。

    主体部は後円部墳頂から2基が検出された。この内、墳頂中心部にあり、古墳造営当初の埋葬主体と考えられる1号主体部は大部分が社殿の真下にあるため、規模・副葬品は未だ不詳である。1号主体部の北側に位置した2号主体部も、一部が社殿の真下にあったが、長さ2.3メートルというさほど長大ではない割竹形木棺を石槨を造らず墳丘に直接埋葬した直葬形式をとっていることが確認されている。木棺内の土倉からは朱などが検出され、棺内から三角縁神獣鏡と勾玉・管玉・ガラス製小玉が出土し、棺掘り方からは赤色顔料が塗布された土師器の高坏が出土した。

    出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土しており、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品が知られている。鏡面とチュウの部分に繊維が残っており、鏡面の繊維は平絹、チュウの繊維は荢麻であることが判明し、絹布に包まれた状態で副葬されたと考えられている。
  • 吉備の車塚古墳
    古墳時代前期の4世紀初頭に築造されたと考えられている。龍ノ口山から南東に延びた標高180mの尾根上にある。全長は48.3m、前方部の長さ21.8m・高さ3.0m、後方部の一辺は23m~24.5m・高さ3.8m。前方部は三味線の撥型に前面に向かって大きく開いている最古の形式の前方後方墳である。法面には葺石が見られるが埴輪は発見されていない。

    昭和31年(1956年)地元・湯迫在住の男性3人による探索で三角縁神獣鏡11面・内行花文鏡1面・画文帯神獣鏡1面の計13面の後漢時代の中国鏡が出土した。同時に鉄刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・鉄斧なども出土した。出土した三角縁神獣鏡11面のうち9面は同じ鋳型で作られた同笵鏡で、京都府木津川市にある椿井大塚山古墳などから出土したものと同笵関係にある。このことから被葬者は畿内との関わりの強い人物であり、古事記に記された「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命であるとされている。

    考古学者の小林行雄氏によれば、三角縁神獣鏡の同じ鋳型でつくった鏡(同型鏡)は、関東に達しているものは、また、吉備にも多いという(『古墳の話』岩波新書)。湯迫(ゆば)の備前車塚古墳から発見された十三枚の鏡のなかには、三角縁神獣鏡の同型鏡が、八種九枚もあり、そのうち四面の同范鏡は関東に地方に分散して、発見されているものである。このようなことから、小林行雄氏はのべている。「同范(型)鏡の分配を考えるばあいに、ただ地方にあって分配をうけたもののほかに、積極的に分配に参加協力したものの存在をみとめる参考にはなろう。」
    「こういう事実がある以上、吉備の豪族が東国の経営に参画したという伝承をもっていることも、もっともなことだと思われる。」
  • 備前車塚古墳と吉備氏

    備前車塚古墳からでてきた三角縁神獣鏡のうち、四枚は、京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と、同范(型)関係にある。そして、椿井大塚山古墳が、崇神天皇のときに反乱をおこした武埴安彦と無関係でないであろうとは前回の5月の講演で論じた。
    そして『古事記』『日本書紀』その他の文献の伝えるところによれば、吉備の武彦も武埴安彦もいとこ同士で、ともに、第七代孝霊天皇の孫にあたり、ほぼ同時代の人である。

    晋尺1尺は24cmであった。このモノサシではかるとき、次の四つの古墳の主軸長の長さには、一定の関係がみとめられる。
    ・崇神天皇陵古墳・・・・・242メートル(1000尺)・・崇神天皇
    ・椿井大塚山古墳・・・・・190メートル( 800尺)・・武埴安彦
    ・吉備の中山茶臼山古墳・・120メートル( 500尺)・・大吉備津彦
    ・備前車塚古墳・・・・・・ 48メートル( 200尺)・・吉備の武彦
    これらが、一定の規格性、共通の文化のもとに築造されていることは、明らかであるように思える。そして、備前車塚古墳の被葬者を吉備の武彦とすれば、これらの古墳の被葬者たちは、大略同時代とみられる人たちとなる。

    日本書紀の記載によれば、吉備の武彦は、備前車塚のある地が属した吉備の上つ道の臣の祖である。

    いま、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の、中部および関東での出土状況を日本武の尊の東征経路にしたがう形で見てみよう。
    まず、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡が、静岡県小笠郡小笠町の上平川大塚古墳から出土している。日本武の尊は、『日本書紀』によれば、吉備の武彦とともに、駿河の国に至っている。駿河の国は、静岡県の中部である。駿河の国にいたるためには、当然遠江の国を通ったはずである。地図にみられるように、上平川大塚古墳の、すぐそばの地を通ったはずである。上平川大塚古墳のある小笠町は、むかしは、遠江の国の城飼(きこう)郡に属していた。
    なお、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の子の仲哀天皇の時代に、物部の連の祖の伊香色男(いかがしこお)の命の孫の因幡の足尼(すくね)が、久努(くぬ)の国造に任じられている。久努の国は、遠江の国山名郡の地で、上平川大塚古墳のある城飼郡の地である。
    また、『新撰姓氏録』の「廬原(いほはら)の公」の条に、つぎのような記事がある。
    「吉備の建彦の命は、景行天皇の御世に、東方につかわされて、毛人(えみし)また荒ぶる神たちを平定し、阿倍の廬原の国にいたり、復命をしたとき、廬原の国を与えられた。」
    そして、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成天皇の時代に、吉備の武彦の子の思加部彦(しかべひこ)の命を廬原の国造に任じたという。
    廬原の国は、駿河に国の廬原郡の地である。
    このように、吉備の武彦の子孫が、東国と中国地方の吉備との両方で栄えたことは、文献的にもたどることができ、同范鏡の双方での出土というように、考古学的にも裏づけることができる。
    さらに、『先代旧事本紀』によれば、やはり成務天皇の時代に、物部の連の祖、大新川(おおにいかわ)の命の子の、片堅石(かたかたいし)の命が、駿河の国造に任じられたという。

    備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同范鏡はまた、神奈川県平塚市大野町真土(しんど)の大塚山古墳からも出土している。『古事記』によれば、日本武の尊は、相模の国(現在の神奈川県の大部分)で、その地の国造を攻め滅ぼしたという。また、『古事記』『日本書紀』によれば、相模の国から東京湾口の浦賀水道をわたって、上総(かみつふさ)に船でわたろうとしたという。
    駿河から、浦賀水道へ出ようとするばあい、大塚山古墳のある平塚市のあたりは、とうぜん経路となる。なお、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成務天皇の時代に、武刺(むさし)の国造の祖、伊勢都(いせつ)彦(出雲の臣族。天の穂日の命の孫)の三世の孫の弟武彦を、相模の国造に任じたという。
  • 備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡は、また、群馬県富岡市の北山茶臼山古墳や、同じく富岡市の三本木古墳からも出土している。
    『日本書紀』によれば、日本武の尊は、碓日の坂にのぼっている。
    吉備の武彦は、碓日の坂で日本武の尊とわかれて越の国におもむき、美濃の国で再開し、そのあと、日本武の尊の病気を景行天皇に奏上したという。碓日の坂は、現在の群馬県碓氷郡や安中市の地で、富岡市のすぐとなりの地である。
    群馬県富岡市の地は、古代の上毛野(かみつけの)の国に属する。
    『日本書紀』によれば、崇神天皇は、皇子の豊城(とよき)の命をして、東国を治めさせたと記している。豊城の命は、上毛野の君・下毛野の君の始祖であるという。
    景行天皇は、日本武の尊の東征ののちに、豊城の命の孫の彦狭嶋(ひこさしま)の王(みこ)を、東山道十五国の都督(かみ)に任じている。
    彦狭嶋の王が、任地におもむくまえに没したので、彦狭嶋の子の御諸別(みもろわけ)の王に勅して、景行天皇は、つぎのようにのべている。
    「汝の父、彦狭嶋の王は、任地に向かう前に没した。よって、汝が東国を治めよ。」
    御諸別の命は、東国に行ってよい政治を行ったという。なお、『日本書紀』は、彦狭嶋の王を上野(かみつけ)の国に葬ったとも記している。
  • 『先代旧事本紀』では、崇神天皇の時代に、崇神天皇の皇子の豊城入彦の命の孫の彦狭嶋の命を、上毛野の国の国造に任じたと記す。崇神天皇が、曾孫を国造に任じたとするのは、やや時代があわないから、やはり、『日本書紀』の記述のように、景行天皇が、日本武の尊の東征ののちに、彦狭嶋の命を都督(かみ)に任じたとするのがよいであろう。
    また、垂仁天皇の時代に、上毛野の君の遠祖、八綱田(やつなだ)に反乱をおこした狭穂彦を撃たせたとある。『新撰姓氏録』に、八綱田は、豊城入彦の命(豊城の命)の子とあるから、彦狭嶋の命の父であろう。

    参考 前の3つ
    http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku300.htm
  • 鳥居原古墳(西八代郡三珠町)の中国江南の呉(ご)の年号である赤烏元年(238)の銘を持つ。

     古墳の形態……円墳。直系20 未満、高さ3 。
     鏡の銘
       赤烏元年五月廿五日丙午造作明鏡百凍清銅・服者君侯・宣子孫・寿万年
       (九州大学岡崎啓教授判読)   解説…山本寿々雄氏(『日本の古代遺跡・山梨』)
     「赤烏」(せきう)と云う年号は江南に国を立て魏(ぎ)や蜀(しょく)と対立・抗争した呉の年号であり、その元年は西暦238年にあたる。この年は遼東半島を中心に勢力をふるった公孫氏の建てた燕(えん)が魏に滅ぼされ、魏が遼東を勢力下におさめただけでなく、燕の勢力下にあった楽浪・帯方の二郡を接収し、東アジアにしの勢力を大いに伸長した年である。こうした状況を察知した「耶馬台国」の卑弥呼は、翌年、大夫の難升米等を帯方郡に派遣し、その使節は魏の都洛陽にいたり、明帝に朝貢した。この年は魏の年号で景初三年にあたる。景初三年の紀年銘をもった鏡には、大阪府の黄金塚古墳出土の画文帯神獣鏡と島根県の神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡がある。
     鳥居原古墳出土の陶磁片…筆者は鳥居原古墳出土の陶磁片と出品物との対比を時間をかけておこなった。その結果江南の浙江省上虞窯出土品の胎土とよく似ていることに気がついた。(中略)鳥居原古墳の陶磁片は日本の古墳出土資料に類似物はなく、これこそ赤烏元年銘鏡ぽおなじ地域で作られたものと推定している
  • 島根県神原町の神原神社古墳の三角縁神獣鏡の銘

    景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人□之
    位三公母人之□之保子宜孫寿如金石兮

     ○鏡の種類   三角縁三神三獣鏡
     ○鏡の種類   三角縁神人車馬画像鏡
     参考-岡山県車塚古墳・群馬県三本木古墳・福岡県藤崎遺跡出土鏡と同笵関係にある) 
     ○鏡の種類    製半円方格帯環状乳神獣鏡
     ○鏡の分類   ダ龍鏡
  • 専門家なら誰でも、三角縁神獣鏡のように、極めて精緻な文様を含み、しかも縁に三角の突起部分を持つ鋳物は、砂型によらなければ出来ないことや、その砂型が繰り返し使えないことは知っている。もちろん上野氏は「三角縁神獣鏡のように肉厚変化の激しい形状のものでは、鋳型を反復使用することは不可能といってよい」と述べ、舶載鏡における同笵鏡説を全面的に否定する。しかし上野氏は慎重で、八賀氏が認めた同笵鏡8面については、鋳型を補修しながら使用した同笵鏡であったことを認めている。ただし「著しく装飾性を喪失して鋳造品とは言い難いものだ」と酷評し、非常に特異な存在だとし、例外的なものであると述べている。
    また、銅鏡についてのオーソリティである樋口隆康氏も、「実験的テストにより、砂型を使用した鋳造では、一笵一面しか作れない」ことが解ったとし、「同じ図文の鏡は同型鏡と呼ぶのが正しいにも拘わらず、依然として同笵鏡という語を使う者がいる」と述べ、八巻氏の製鏡における同笵鏡論をも否定してしまった。
    ちょうどこの頃、岸本直文氏が『権現山51号墳』の報告書の中で、舶載の「同笵鏡」5面について精査し、笵傷の進行状態を見事に表現する論文を書いている。金属製の原鏡の踏返し法では決してこんなことは起らないので、状況は「同笵鏡」説に有利であるが、さすがにもう砂の鋳型の繰返し使用を主張するわけには行かない。そこで登場したのが「土製の原笵から蝋原型をおこし、そこから土製の二次笵を作る」方法、すなわち二次笵ロストワックス法である。原笵の傷みの進行は蝋型を繰返し作る際にできたものだと言うのである。もっとも、ロストワックス法は、三角縁神獣鏡の製造方法としては、当初から最も有力な案のひとつであったので、妥当なところに納まったと言うべきかも知れない。もちろんロストワックス法による鏡を同笵鏡とは言わない。
  • 三角縁神獣鏡は100面どころか、すでに約560面近く見つかっている。

    古代青銅の成分は、主に銅、錫、鉛の三種であり、これらはすべて鉱石を精錬して得られる。そのうち鉛には質量数の異なる4種の安定同位体(204Pb、206Pb、207Pb、208Pb)があるが、鉱床生成の年代によって同位体比が異なる 。したがって、鉛の安定同位体比を分析することで、青銅原料の産地を推定できる。 新井氏は、鉛同位体比分析を活用して、泉屋博古館の三角縁神獣鏡のほとんどは、国産の鏡の鉛同位体比に極めて近く、舶載鏡ではないことを突き止められた。このように化学分析によって鏡の材料の原産地を突き止めることが可能なのだ。
  • 桜井茶臼山古墳

    多数の鏡を埋葬した古墳としては、昭和28年(1953)に発見された椿井(つばい)大塚山古墳(京都府木津川町)の37面、昭和40年(1965)に発見された平原(ひらばる)1号墳(福岡県前原市)の40面、平成9年(1997)から翌年にかけて橿考研が発掘調査した黒塚古墳(奈良県天理市)の34面などがある。さらに、平成22年(2001)に橿考研が再調査した桜井茶臼山古墳では、以前に出土したものと合わせて384点という圧倒的な量の破砕した鏡片が見つかっている。その破片を整理分析した結果、国内最多の13種、81面の銅鏡が副葬されていたことが明らかになった。
  • 同一文様の精良な銅鏡が多数必要であれば、同型技法を用いて原鏡から必要な面数を踏み返し続けて鋳型を量産するのが一番確実である。ところが、分析結果から、三角縁神獣鏡は同笵技法を主力として、一部に同型技法を併用している可能性があることを、永野氏は突き止められた。三角縁神獣鏡は仕上げの研磨が雑なため、鋳型の傷が確認しやすい。そのため、永野氏は、銅鏡に残された鋳型の傷から舶載鏡一面と彷製鏡3面が同じ鋳型で作られていることを突き止められた。類例は他にもあるという。

    ■ 永野氏の研究成果が意味するところは大きい。従来は文様の出来・不出来で「舶載鏡」と「彷製鏡」を分類してきたが、そうした分類はもはや意味をなさないことになる。そのため、制作地は「すべてが中国製か日本製となる可能性がある」ことを指摘された。

    ■ 清水康二・主任研究員も、鋳型の傷を詳細に検討され、舶載鏡と彷製鏡の間でも、傷の位置や形状が複数箇所で一致し、同じ鋳型を再利用したと考えられる例があることを指摘された。つまり、鏡笵が損傷するたびに、傷を直して鏡笵を再利用する技法が確立していたようだ。そして「舶載鏡から彷製鏡まで同じような工人が作っていた可能性が高い」とされた。最後に講演された菅谷文則所長も、中国では出土しておらず、日本で約560面見つかっている以上、三角縁神獣鏡は国産とみる考えを披露された。
  • 平塚市
     三角縁神獣鏡自体は、全国で400面以上が発掘されている。ただ、真土大塚山古墳から出土した鏡の同笵鏡(同一の鋳型で作られた鏡)は椿井大塚山古墳(京都府)の1面、備前車塚古墳(岡山県)の2面、権現山51号墳(兵庫県)の1面が確認されているのみだ。特に、32面以上の三角縁神獣鏡が出土するなど、ヤマト政権の中枢にいた人物が被葬者と考えられている椿井大塚山古墳のものと同笵鏡であることから、真土から出土した鏡は「平塚の地がヤマト王権と深い繋がりがあったことを示す貴重な資料」とされるのである。
     なお真土大塚山古墳では、昭和10年~11年の調査の後、(盗掘もあったそうだが)昭和35年~36年にも調査が行われ、平成22年に市の重要文化財として指定された「変形四獣鏡、勾玉、算盤玉、管玉、銅鏃など」といった副葬品も多く出土した。平塚市博物館の栗山雄揮学芸員は「確かに『目玉』は三角縁神獣鏡なのですが、その他にも貴重な資料が出土しており、古墳自体が地域の歴史として非常に意味深いものである、と言えるでしょう」と指摘する。

    古墳時代前期(4世紀)に築造された真土大塚山古墳は、相模川流域の集団を統率していた首長の古墳と考えられる。昭和10年(1935)、銅鏃、巴形銅器、直刀や当時の中央政権から地方へ分与されたとされる三角縁神獣鏡などの副葬品が発見された。(東京国立博物館所蔵) 昭和35年(1960)には平塚市教育委員会が調査を行い、指定資料である変形四獣鏡他の副葬品が出土した。この資料は過去に出土

    平塚市の塚越古墳

    前方後方墳 全長55m 北金目字塚越 台地 朱、管珠、鉄製品、土器類 平塚の遺跡、現地案内板、神奈川の古墳散歩

    南東から。前方後円墳とされてきたが近年の調査で前期(4世紀)築造の前方後方墳と判明した。現在公園化され保存されている。

    天津彦根命の14世の子孫である建許呂命の子、意富鷲意弥命が、成務天皇朝に師長国造に任じられたのに始まるという。高市県主・茨城国造・三枝氏などと同系。


    本拠 相模国余綾郡磯長郷。現在の神奈川県大磯町。

    川勾神社(かわわじんじゃ)は、神奈川県中郡二宮町山西に鎮座する神社。「川匂神社」とも表記される。

    『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、同国二宮ともされる。「二宮町」の名は二宮である当社にちなみ、古くより「二宮大明神」、「二宮明神社」とも称される。

    当社は旧相模国の伝統的な祭事である国府祭(こうのまち)で知られ、祭の中心的な儀式「座問答」は相武(さがむ)と磯長(しなが、「師長」とも表記する)をあわせて相模国となったときに、寒川神社と当社のいずれを相模国一宮とするかで争った故事によるものとされる。

    寛永19年(1642年)9月に書かれた『二宮川勾神社縁起書』[注 1]によれば、垂仁天皇御世に余綾・足柄両郡の東西海岸が磯長国であった頃、磯長国国宰である阿屋葉造(あやはのみやつこ)が勅命を奉じて当国鎮護のために創建したのだと言う。『式内社調査報告 第11巻』も、この辺りが磯長国の中心地で、当社は磯長国造(しながのくにのみやつこ)に由縁のある神社であったと述べている。『新編相模国風土記稿 巻之40』[3]によれば、「川勾」の地名は、往古にこの地で押切川が曲流していたことに由来すると言われ、川勾神社の名も地名に由来するのだと言う。

    さらに『二宮川勾神社縁起書』によれば、磯長国造の大鷲臣命、相模国造の穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね、弟橘姫命の父と言われる)によって神宝の奉納があり、日本武尊が東征の折に参拝し、允恭天皇の妃である衣通姫命が皇子誕生安隠のために奉幣祈願したと言う
  • 飛禽鏡という鏡

    円鏡の背面に一羽の鳥が、中央の紐を背に中央にして、頭と尾部を上下に、羽を左右に広げた形を上から見た姿で文様化された図柄の鏡です。現在のところ、全国に7ヶ所で発見されています。三角縁神獣鏡のように大きくなく、どれも9cm前後の大きさです。

     宮山遺跡        岡山・総社市三輪     前方後円墳?
     成山二号墳       京都・綾部市成山     円墳
     上大谷十五号墳     京都・城陽市久世    方墳
     岩内古墳群       福井・武生市岩内     土壙
     汐井掛遺跡?       福岡・鞍手郡若宮町   土壙
     赤塚古墳         大分・宇佐市高森    方形周溝墓
     若水A11号墳       兵庫・朝来郡山東町    円墳

    飛禽鏡は枚数が少ないので、舶載鏡の可能性が強いと思われます。では何処から来たかとなりますが、中国の楽浪郡でよくは発掘されるそうです。楽浪郡の太守から、各豪族が貰ったことになります。各豪族は楽浪郡に行ったことになります。そのような資料は残っていませんから、楽浪郡の人が、皇帝から鏡を貰って、日本にやって来たことになります。
    いつ頃のことか検討しますと、楽浪郡は、前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりです。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置された。 しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東に移転している。成山二号墳から出土した飛禽鏡は舶載鏡であると書かれています。枚数が少ないので、飛禽鏡の可能性が強いと思われます。238年には、魏の国になっていますから、これ以前のものと考えられます
  • 三角縁天王日月獣文帯三神三獣鏡


    三角縁神獣鏡と言っても絵柄はさまざまある。
    この三角縁鏡は

    大分県宇佐市免田古墳群の赤塚古墳(4世紀)
    福岡県福岡市の天神森古墳
    同じく行橋市に近い苅田町の豊前石塚古墳(二面)
    同じく筑紫野市原口古墳
    京都府山城町椿井大塚山古墳(二面)

    の合計六枚が出ており、
    京都府の椿井大塚山古墳から出た神獣鏡の中にはこれが二面あった。そのうちの一面が上記九州の古墳の鏡と兄弟鏡(同笵鏡)である。つまり鋳型が同じ複製品である。

    宇佐市の赤塚古墳は4世紀の古墳で、国東の下原古墳(3世紀後半)と並んで九州最古級の前方後円墳であるから、3世紀中ごろ築造の京都の木津川沿線にある椿井大塚山の被葬者とここの被葬者には、北部九州や近畿地方よりも深い、古いえにしがあったということになる。ところがこの鏡は奈良の黒塚古墳の大量の神獣鏡には含まれていなかった。同じ三角縁仲間でも氏族関係が違うようなのである。

    京都大学の小林行雄は、椿井大塚の神獣鏡をそこまで細かには分析しなかったようである。ざっと三角縁神獣鏡が全国に分配された証拠品とおおまかにくくってしまった。これはヤマトが九州よりも先だという、先入観の時代だったからで、当然多くの疑問点が今になって噴出していることは邪馬台国ファンなら誰でも知っている。

    あくまでもほとんど同時代に、木津川から豊の宇佐や筑紫の各地首長に贈られた鏡があったということなのである。

    これは椿井大塚が豊や筑紫の海人系氏族と同族であることを物語っている証拠品である。決してヤマトなのではなく、京都の木津川沿線であることが重要なのだ。

    赤塚古墳からはほかに

    別の同笵鏡である天王日月獣文帯三神三獣鏡と
    唐草文帯二神二獣鏡
    天王日月・鋸歯文(きょしもん)帯四神四獣鏡
    波文帯盤龍鏡(はもんたい・ばんりゅうきょう)の全部で五枚が出ている。すべて漢鏡である。

    このもう一枚の天王日月獣文帯三神三獣鏡の同笵鏡は画像で示した
    三重県嬉野町の筒野古墳と
    伝・京都府向日市の物集女(もずめ=桂地域)付近
    滋賀県栗東市の岡山古墳
    で出ており、全国で合計四面。

    波文帯盤龍鏡は京都府長岡京市長法寺南原古墳
    同じく山城町の椿井大塚山古墳
    奈良県桜井市茶臼山古墳

    で合計四枚。
  • 山城の椿井遺跡

    後期の高地性集落を概観すると、まず後期前葉は、山城地域全体で遺跡数は少な く、木津町木 津城山遺跡をあげられるのみである 。木津城山遺跡は、後期前葉を中心とした 竪穴式住居跡39基 を検出した大規模な高地性集落である 。後期中葉は、 巨椋池周辺では、 竪穴式住居跡 1基を検出 した宇治市羽戸山遺跡をあげるにすぎないが、南東部では、山城町から木津町域にかけての木津 川東岸の丘陵上に、多く営まれている 。椿井遺跡のほか、椿井大塚山古墳下層遺跡、椿井天上山 遺跡下層遺跡、城山遺跡、木津町燈龍寺遺跡、同内田山遺跡などの例がある 。一 方、後期後葉 ~ 末には、高地性集落の分布域は大きく変化し、 巨椋池を囲む丘陵地帯に相次い、で出現するように なる。その例として、八幡市弊原遺跡、同備前遺跡、城陽市森山遺跡のほか、 東山正陵では京都市南日吉遺跡、乙訓地域では長岡京市北山遺跡、同長法寺谷山遺跡、などがあげ られる

    山城町から木津町の木津川中流域にお いては、特に後期中葉に相次いで出現する 。 椿井大塚山古墳の調査で出土した築造前の土 器とされた弥生土器のほとんどは、弥生時代 後期中葉の所産であり、周辺の丘陵 部では、後期中葉を中心に、高所に集落が大
    きく展開する可能性が高い 。西日本における 後期の高地性集落が、後期初頭と後期後葉 ~ 末にピークがあるとされるなかで、やや時期 を違えて展開している点は注意されるところ
    である 。周辺では、同時期に山城町上狛西遺 跡などの低地部の大規模集落が出現し、高所 の集落とその機能を分化させていると考えら れることや、防御性の高い iVJ字形の溝が 掘削される椿井天上山古墳下層遺跡、の例など もあり、集落の性格を考えるうえでは、防御 的・軍事的機能がまず重要である 。
  • 籠神社の内行花文鏡

    籠神社に秘法鏡(未公開)がある。

    。図録によれば 
    神宝「邊津鏡(前漢)(直径9.5cm)・学名、内行花文昭明鏡」
    と神宝「息津鏡(後漢)(直径17.5cm)・学名、内行花文長宜子孫八葉鏡」(写趣味悠遊・古代を訪ねて 真)である。

    前者の昭明鏡は紀元前1世紀後半、前漢時代の後期、鋳上がりは非常によく、「内而清質以昭明面光・・・(この鏡の質は清く昭明のごとく光り、日月のように照り輝く)」の銘文がある。この鏡は佐賀県、福岡県の弥生時代の墳墓から十面近く出土している。後者の内行花文鏡は桜井市ホケノ山古墳出土と伝える鏡(大神神社蔵)も「長宜孫子」銘を持つ内行花文鏡の破鏡であり、33面の三角縁神獣鏡を出して有名な京都府椿井大塚山古墳にも同径の内行花文鏡の破鏡を持つ。更に奈良県郡山市の前期の竪穴式石室を持つ小泉大塚山古墳からも同類の内行花文鏡の破鏡が出土している。このように籠神社は、これらの大和の古い神社や初期古墳と同じ関係にあったことを示唆している。さて、この2面の鏡は海部宮司家に伝えられてきた日本最古の伝世鏡である。国宝系図に天祖からこれらの鏡を授かったと書かれており、その素性の正しさを表している。考古学的にも古墳から出土したものとは全く異なることが認められ、古代丹波(タニワ)を統治していた丹後王国の王権のシンボルといわれている。
  • 2005年(平成17年)に大発見があった。
    石川西岸の羽曳野市墳丘東阪田に所在する庭鳥塚古墳の発見である。

    空白の4世紀に、すでに周辺には有力な地域勢力が根を張っていたことを明らかにした点である。庭鳥古墳は4世紀後半の全長約65mの前方後方墳であり、組合式木棺の粘土槨を持つ埋葬施設である(木棺の形が大和に多い割竹形ではなく古市古墳群の祖形である箱形という
    点が注目される)。
    そこから出土した三角縁四神四獣鏡は、3世紀半ばに卑弥呼が魏王朝から下賜された銅鏡百枚に相当する古相の一枚である。

    その同笵鏡は静岡県磐田市の新豊院山D2号墳にも埋納されていた。

    初期大和政権を通じて三角縁神獣鏡を入手できる有力者の系譜が早くからこの地に存在したことが示唆される。しかし入手してしばらく手元に伝世鏡として残し、そして4世紀後半に庭鳥塚古墳に埋納された。その間の約百年弱のブランクは何を意味するのか、古市古墳が一気に誕生した分けでな く、このような有力な被葬者が台頭するまでの背景とも捉えられる。

    多くの副葬品に交じって、特に2点の筒形銅器(写真)の存在も重要である。武器の柄を飾る金具と推定される筒形銅器は4世紀半ば以降に現れるもので、近年では朝鮮半島南部の伽耶地域の墳墓からも多く出土し、倭と半島南部の活発な交渉が始まった時期のものだ。古市古墳群発展の原動力が、半島との交渉を通じて入手した伽耶地域の鉄資源であったことは明快だが、この筒形銅器を持つる被葬者もそうした半島交渉を重視する政治戦略の波に乗って台頭し、まもなく古市古墳群自体を生み出していく勢力の一部に発展していったのではないか。

    中国王朝の後ろ盾を失った初期大和政権の権威が揺らぐ一方で、伽耶地域との交渉を基盤に河内勢力が力を伸ばし、政治的主導権を手中にしていったと見るのが福永伸哉大阪教授の見解だ。
  • October 2018 編集されました
    熊本県宇城市国越古墳の同型鏡
    https://www.academia.edu/27140558/国越古墳の被葬者について.pdf
    熊本県宇城市に所在する熊本県指定史跡,国越古墳は,調査後,50年経過した現在も以下の二点から注目に値するといえる。第一には直弧文や連続三角文などを有する線刻壁画(線刻・彩色)の装飾古墳であること,第二に埋葬施設からは豊富な出土遺物がみられることである。 国越古墳の出土遺物,鏡3面,鹿角製装具,捩り環,銅鋺,家形埴輪は,6世紀代の地域間交流及び国越古墳の被葬者を考える上で,いずれも注目すべき品々である。被葬者たちは継体天皇を積極的に擁立した勢力に含まれると考えられ,また,百済・伽耶地域における対外交渉を担った勢力の一つと評価する

    石屋形の画文帯環状神獣鏡は,熊本県内では同型鏡が和水町江田船山古墳,阿蘇市迎平号墳にある。福岡県飯塚市山の神古墳,香川県綾川町津川西古墳,岡山県瀬戸内市西郷免古墳,奈良県奈良市吉備塚古墳,栃木県野木町野木神社周辺古墳,韓国国立博物館蔵鏡も同型鏡である
    (清水2013)
    。浮彫式獣帯鏡の同型鏡は伝宮崎県高鍋町持田号墳がある
    (辻田2014)
    。四獣鏡については舶載鏡,中国六朝鏡の可能性が指摘される
    (車崎2002)
    。つまり,石屋形,左右屍床の被葬者は累代に渡り,日本列島内の古墳被葬者と共通する同型鏡ないしは舶載鏡を入手していたといえる。
  • 『倭名類聚鈔』によれば大和国城下郡(しきのしものこおり)には、鏡作(加加都久利)・賀美・大和(於保夜末止)・三宅(美也介)・黒田(久留多)・室原(也本也)の6郷があった。
     奈良県天理市にある大和神社(おおやまとじんじゃ)の付近が、大和郷で、周辺には大和古墳群がある。この「ヤマト」地名が「倭」「大倭」「大和」の始まりと比定されている。
     弥生時代には、環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡があった。石製の銅鐸鋳型の破片やフイゴなどが出土している。銅鐸の技術者は、祭祀の形態が変わり、銅鐸が不用になると銅鏡の製作に従事したようだ。
     『延喜式』神名帳に記される城下郡の式内社には鏡作伊多神社(かがみつくりいた)・鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたま)などがみえる。

    伊斯許理度売命/石凝姥命
     伊斯許理度売命/石凝姥命(いしこりどめのみこと)は、『古事記』では伊斯許理度売命(伊斯許理度賣命)、『日本書紀』では石凝姥命とあり、鏡作連の祖神として、記紀の天の岩屋戸の神話や天孫降臨神話に登場する女神である。
     『古事記』の上巻3では「『僕(あ)は国津神で、名は猿田毘古神(さるたびこのかみ)なり。出(い)で居(お)る所以は、天津神の御子が天降り坐(ま)すと聞きつる故に、御前(みさき)に仕え奉らんとして、参向(まえむか)えて待り」と申した。
     「しかして、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)・伊斯許理度売命・玉祖命(たまのおやのみこと)、併(あわ)せて五伴緒(いつとものを)を支(わか)ち加えて天降りたまう」とあり
     また「伊斯許理度売命に課して、鏡を作らしむ」とあり、「鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖」と記す。
  • 石凝姥命は、鏡作部の遠祖の天糠戸の子で鏡作連(かがみつくりのむらじ)の祖神、「凝」は「樵」と同じで、山林の木を切りだす職業の人で、やがて「石凝」として石を切り出して運び、後に金属も扱うようになった。
     「姥(とめ)」は老女を指す。石凝姥命は老女であった。
     天照大神(あまてらすおおかみ)を岩屋戸から引き出すために八咫鏡(やたのかがみ)を作り、また天天孫降臨神話では天孫に随従する「五部神」の一人とされている。

    鏡作造(連)は鏡作部を管掌し、鏡の製作と神祇の祭祀にあたった。記紀では、伊斯許理度売命/石凝姥命(いしこりどめのみこと)を鏡作連の祖神とした。『和妙類聚抄』の大和国城下郡鏡作郷、今の奈良県磯城郡田原本町付近を本拠とした氏族であった。
     鏡は、当初は中国から伝来したが、銅に錫・鉛・亜鉛などを加えて強度化し、鏡やほかの器物を製作する技術者が、弥生時代に、既に中国・朝鮮半島から渡来していた。卑弥呼の時代には、彼らが作る仿製鏡が量産されるようになった。大和王権はこうした鏡などを製作する人々を鏡作部として編成し、品部として隷属させた。鏡作造がその伴造である。
     その品部は各地に拡散し、大和・伊豆に鏡作郷があり、摂津・美濃・甲斐・美作・安芸にかがみ(覚美・香美・各務・加賀美・加賀見・加々美・加々見・・香々美・香々見)などの地名が残る。
     天武12年10月条では、連とされた鏡作造、正倉院文書の『優婆塞貢進解』では鏡作首が登場する。優婆塞は在家の男の仏教信者である。優婆塞貢進文のなかに本貫を詳しく記すのは、戸籍と照合して誤りのないことを確かめたうえで、課役免除の措置を行うためである。
  • 鏡作氏とは何か 

     鏡作氏は、高天原神話ではともかく、神武天皇以降の時代には殆ど現れず、『日本書紀』天武天皇十二年十月条に鏡作造が連を賜姓しただけだから、活動実態の把握はまるでなされてこなかった。
     ここで、なぜ鏡作氏かというと、越前国丹生郡の式内社に麻気神社があげられ、いま論社が三社あって、その一つ、福井県南条郡南越前町(旧南条町)牧谷の麻気神社が祭神を奇玉饒速日命とする事情がある。丹生郡の当該式内社の論社三社の祭神がそれぞれ異なり、また同国足羽郡にも同名の式内社があって、これは現在、所在不明となっており、このように祭神の確定自体が難解な神社なのだが、大和国城下郡との関連で注目される。
     すなわち、現在の奈良県田原本町に城下郡式内の「鏡作麻気神社」という神社があり、当社の鎮座地は物部氏の本拠の近隣ないし圏内にあるとみられ、付近の同町八尾の鏡作坐天照御魂神社や、鏡作伊多神社ともども鏡作氏が奉斎した神社とみられる。
     鏡作坐天照御魂神社の祭神は、一に火明命(実は饒速日尊を指す)ともいわれ、鏡作麻気神社のほうは天糠戸命を祀るというが、越前の麻気神社との関連も考えられる。鏡作伊多神社のほうは、田原本町保津と同町宮古に近隣して合計二社があり、保津は穂積に通じて、初期段階の物部氏(あるいはこれから分岐の穂積氏)の根拠地とみられる。しかも、近世以前の保津社は、現在地の東約三百Mほどの小字・伊多敷〔イタシキ〕の地にあり、保津集落の移転に従って現在地に遷座したらしいといわれる。両社ともに、祭神は石凝姥命であり、天糠戸命との関係は父娘説、夫婦説がある(このうち、夫婦説が妥当か)。なお、『式内社調査報告』によれば、『磯城郡誌』(一九一五年刊)に記す、保津社は式内・鏡作伊多神社ではなく、同じ城下郡の式内社で、物部系の穂積氏が奉斎していた富都神社(現田原本町富本)ではないか、との見方もある。
     鏡作氏は、城下(十市)郡鏡作郷一帯に住んで鏡の製作を管掌した氏族であり、奉斎神からしても、天目一箇命後裔の物部氏族と近い同族の天孫族系統とみられるが、その系譜ともども謎の古代氏族であった。『先代旧事本紀』には、鏡作氏の系譜について、遠祖の饒速日命の十一世孫・鍛冶師連公に「鏡作小軽女連等の祖」(記事の表現のママ。「鏡作連、小軽女連等の祖」という意か)と見えるが、これは明らかに系譜の混乱である。鏡作氏は物部氏の同族であっても、物部氏一族(宇摩志麻治命後裔)ではなかった。土佐にあった物部鏡連氏については、系譜ははっきりしないものの、物部氏一族ではなく、物部同族の安芸国造の流れ(少彦名神後裔の玉作氏族)とみられる。
     『新抄格勅符』には、「鏡作神十八戸(大和二戸、伊豆十六戸)、麻気神一戸(丹波国、神護景雲四年充)」と見える。丹波国も、出雲・丹後から畿内大和までの物部氏の移動経路上にあって、物部郷・物部神社、芹田神社があったから、ここでも物部氏と鏡作氏との近縁が示される。同国の麻気神は、船井郡の式内社で京都府南丹市園部町竹井にある摩気神社に比定されるが、同郡には式内社で嶋物部神社(同市八木町美里の荒井神社に比定)があった。
     斎部広成が撰した『古語拾遺』には、崇神天皇の段に、斎部氏の先祖をして石凝姥神の裔、天目一箇神の裔の二氏を率て、鏡・剣を造らせ、天皇護身用の御璽〔ミシルシ〕とした、と見える。これは、女性用の鏡、男性用の剣の製作を各々別氏(前者は鏡作造、後者は額田部連か)が担当したとしても、それぞれ祖先の女神・男神をあげたものであって、天目一箇神と石凝姥神は夫婦神ではなかったろうか。
     なお、鏡作氏の系図は、中田憲信編『諸系譜』第十四冊のなかに見えるが、物部氏とは早くに分かれた事情があってか、物部氏や三上祝の系統に見える人物とは異なる名で伝えており、人物対比がしにくい事情にある。これについては、後ろで取り上げることとしたい。
  • 物部氏族の初期根拠とみられる唐古・鍵遺跡に銅鐸片や鋳型の出土があり、この銅鐸片と出雲の加茂岩倉遺跡出土の銅鐸は、成分が極めて類似するという。物部氏族の根拠地域たる天理市石上町からも、突線鈕式の銅鐸二個が出た。出雲では、荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から銅鐸の大量出土(両遺跡で合計四五個)があり、物部氏祖先が出雲に居た場合の居住地とみられる島根半島でも、佐太神社近隣から銅鐸二個の出土があった。銅鐸の関係氏族としては、尾張氏族の伊福部連をあげる説もあるが、これは局限的のように思われる。銅鐸は、総じて海神族系統の祭祀に関係したものであり、これと連合的に政治活動した物部氏などの天孫族系鍛冶部族も製作に関与したものではなかろうか。
     銅鐸絡みで越前国丹生郡にはもう一つ注目すべき古社がある。それは、丹生郡から分かれた今立郡にあり、須波阿須疑神社という名であり、その論社(今立郡池田町稲荷に鎮座)の祭神のなかに大野手比売命があげられ、当地開発の祖神とされることである。この「野手」〔ヌデ〕が鐸すなわち銅鐸の意とみられる。もともと大野手比売は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の神で島内でも祀られているが、なぜか越前でも祀られるということは、それなりの事情があったとみられる(たんに「阿須疑」がアズキすなわち小豆に通じることだけではなかろう)。「須波」も「スワ」と訓まれて「諏訪」と解されているが、おそらく原義が「サバ(佐波)」であって、鯖江に通じるのではなかろうか。丹波国何鹿郡には類似の名の阿須須伎神社(京都府綾部市金河内町東谷)があって、往古物部氏による創祀だと伝えている。
     大野手比売という女性は海神族の倭国造ないし阿曇氏の系図に見えて、倭国造の祖・珍彦や尾張連の祖・手栗彦(高倉下)の叔母の位置におかれるが、これは小豆島の神ということにも通じよう。さて、その夫神たる「大野手比古(大鐸比古)」たる者は具体的に誰だったのだろうか。実は、上掲系図では、三輪君の祖・建日方命の妻という記事があるのだが、世代的にやや難があるうえ、越前にもあったという事情からは疑問が大きくなる。
     そして、河内国大県郡の式内社、鐸比古神社及び鐸比売神社(いま合わせて、大阪府柏原市大県に鎮座)の存在から見て、鐸比古・鐸比売とは、凡河内国造の祖・彦己曽保理命の両親たる意富伊我都命夫妻の異名にあたるのではないかとみられる。「伊我都」はイカツすなわち雷であり、越前国丹生郡には式内社の雷神社があって、その論社が大虫神社(越前市大虫町)の相殿に合祀されている事情もある。
     意富伊我都命とは、鍛冶神・剣神たる天目一箇命(天御影命)の子で、その子に上記彦己曽保理命をもつほか、三上祝や額田部連の祖・彦伊我都命(彦己曽保理命と同人の可能性もある)や山背国造の祖・阿多根命の父でもあった。意富伊我都命の兄弟には、物部氏族の祖・饒速日命がいて、これらが、わが国鍛冶部族の主体をなしていた。越前には剣神を祀る古社が多い(具体的には後述)から、天目一箇命の後裔氏族が開発者として入って丹生郡など各地に繁衍したとみられる。
     白山開基の泰澄も、そうした流れを引いていたのではないかとみられる。丹生郡麻生津(現・福井市南部の浅水の一帯)で生まれ、越智山(越前町の越知山)で修行したと伝えるが、越知山には今も独鈷水があって、巨石の割れ目から水が湧き出ている。これが、物部氏族特有のオチ水(変若水。若返りの水)であった。その出自は「三神氏」と伝えるが、近江の三上氏と同族であったか。
     その鍛冶部族に通じそうな古墳が福鉄浅水駅付近にあった鼓山古墳であり、今は消滅したが、全長四八Mの前方後円墳であった。その副葬品として鉄剣や?とともに出土した鏃をいっぱいに詰めた革製の靱二具は、全国的に珍しい遺物であった。この古墳の陪塚からは弥生時代末かと思われる甕棺を出土したが、古墳の年代は四世紀末頃と考えられると白崎昭一郎氏は記している(この段落の記事は主に『福井県の歴史』に拠る)
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