阿波の建御名方神、建布津神、タテミナカタ

February 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image阿波の建御名方神、建布津神、タテミナカタ

建御名方神 神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという…

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コメント

  • 神奈川県横須賀市には、三浦氏が尊崇した諏訪神社が多く分布しており、諏訪神に
    関する貴重な伝承を残す神社があります。

    神奈川県横須賀市緑ケ丘34にある 諏訪大神社の由緒(神社庁の記事より転載)

    「康暦二年(一三八〇年)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、
    長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
    三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三
    浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
    慶長八年(一六〇三年)、徳川家康に将軍宣下して慶長十一年(一六〇六年)、
    平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、
    社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来
    永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。

    健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、
    後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。
    元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬
    された。もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、
    蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。上諏訪から勧請し、ご神体矢に神霊を祀っ
    てある。」

    この伝承は、諏訪神を祀った三浦氏によるものと考えられ、注目すべきことに、出雲から周防(山口県)に移ったと言う。

    タケミナカタ命には、御穂須須美命という別名がある伝承を案ずるに、タケミナカタ命の別名である
    ススミが訛って、ススマという地名になったと考える事が可能です。

    御穂須須美命の伝承は以下の記事で、タケミナカタ命の名がススミである事を指摘しました。
    御穂須須美命の伝承 -石見国邑智郡(オオチ)と信濃国高井郡小内郷(オウチ)
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16293756.html

    タケミナカタ命が逃走した小周防は、建御名方命の子孫に縁があって、タケミナカタ命の子孫
    と考えられる建許呂命(伊許呂止命)の子孫である加米乃意美(かめのおみ)命が応神天皇時代に周防国造になり、この小周防は周防国の国府所在地となりました。
  • 島根郷伊豆美は神代より海人族の繁栄した場所で、この地の王が波邇夜須比賣(はにやすひめ)と孝元天皇の御子である「建波邇安王(たけはにやすおう)」でありました。

    建島女祖神社で祀られるのは波邇夜須比賣。現在の小松島市より以南を支配下に治め、皇統をかけた争いが「波布理曽能(はふりその)」で展開されます。

    「波布理曽能」は現在「はの浦」、「ふる庄」として二分されている地域。
    争いでは勝浦川の前線、長川の最後の一線も破れ、天皇を名乗ってもおかしくない力量の持ち主であった建波邇安王は戦死してしまいます。
    その悲運の王子建波邇安王が祀られたのが、「式内和耶神社」こと「目佐穴権現」なのです。
  • 建沼河男命の9世孫、長比売命が越道君祖市入(伊 知利)命の妻となっている。市入命は成務朝の人物 であり、他の古代豪族系図との世代比較からも、建 御名方命は神武前代とするのが妥当。
  • 出雲臣富家の伝承では御穂須須美命は三穂津姫の事であると言われています。

    御穂須須美命は、奴奈宜波比売命と事代主神の娘であると言われ母系で辿ると、結局、神八井耳命の祖は奴奈宜波比売命にあたる事になります。諏訪大社の神官に、多氏と神氏があるのは、この婚姻によるものと言えます。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。

    諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜 科野国造)の妻となっています。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。
  • 佐那河内村史を読んでいると、徳島県南部は、観松彦伊呂止命九世孫にあたる「韓背足尼」(からせのすくね)が国造になって統治したのがはじまりであると書かれてありました。

    徳島県南部は今でも那賀郡という地名が残っております。知り合いの神官にお尋ねしますと、「徳島の南部は古代、『長(「なが」、もしくは「なか」と発音)』と呼ばれていた。」とのことです。近くの式内社、八桙神社にはここに祀られる八千矛神の神は長の国の祖神であると記述されています。
  • 吉備穴 12景行 和迩臣同祖彦訓服命孫 八千足尼
    (やちのすくね) 備後安那 纏向の日代の帝(景行天皇)の御世に和邇臣(わにのおみ)と同祖の彦訓服命(ひこくにふくのみこと)の孫の八千足尼を国造に定められた。

    長 13成務 観松彦色止*命9世孫 韓背足尼
    (からせのすくね) 阿波 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に観松彦伊呂止命(みまつひこいろとのみこと)九世の孫の韓背足尼を国造に定められた。
  • 12/06編集されました
    恵良山の旧地名は、伊予国風早郡(風早国)難波郷と考えられ、神名より古くから風早国周辺で奉られた神であった事が想像されます。

    風早国(伊予国風早郡)の和名類聚抄に掲載される地名には、
    西から粟井郷、河野郷、高田郷、難波郷、那賀郷と四つの郷が存在し、
    伊予北条から今治市菊間町までの地域を占めていたことになります。

    風早国の統治者は、国造本紀によると応神天皇の時代に物部連の祖・伊香色男命の四世孫にあたる
    阿佐利命を国造に定めたこと始まるとされますが、和名抄の郷名を見る限り、徳島県(阿波国)の旧
    国名である粟国と長国(阿波国那賀郡)の名を冠する郷名が、粟井郷、那賀郷とあることを考えると、
    郷司レベルでは阿波の国造氏族の親族が支配していた事が考えられます。

    徳島県(阿波国)において、諏訪神であると認識される多祁御奈刀弥神社で、長国造家の建美奈命を祭っていた
    事を考えると、風早郡の東側にあたる難波郷や那賀郷において、長国造系の郷司が、建御名方神
    を伊予の風伯神として祀っていたと予想されます。

    建御名方神は長国造家の建美奈命(阿波の多祁御奈刀弥神社)と考えられる事から、結局
    (多祁御奈刀弥神と長国造族の系譜 :http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14784689.html
    伊予の風伯神とは建美奈命を指しているのではないでしょうか。

    和名類聚抄に掲載される難波郷は、讃岐国にも存在し、寒川郡難波郷という地名があります。

    寒川郡難波郷の近傍には、式内社の大蓑彦神社が鎮座し、大蓑彦神とは寒川神こと建御名方神が
    祀られています。(http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16200526.html

    これと同様に、神奈川県の寒川神社の本殿の背後には、難波の小池と言われる湧水があり
    古来から霊験豊かな神池として崇められてきました。

    今まで指摘してきたように、寒川神は相武国造(伊勢津彦三世孫弟武彦末裔) らが祖先神として

    建御名方神(諏訪大社上社祝家の系譜 建御名方神~会知速男命-真曽我男命-武国彦命-弟武彦)を祀った神社でした。

    伊予国風早郡難波郷風伯神
    讃岐国寒川郡難波郷大蓑彦神
    相武国高座郡寒川郷の寒川神社の難波小池

    難波の風伯神を拝んでいると考えられる神社が、伊予北条市にはあります。

    国津比古命神社の森

    國津比古命神社と櫛玉比賣命神社の2社がこの森に鎮座しています。
    物部連が国造になった時に、祭祀は地元の風伯神を祀る人々から物部連に変わり、
    奪われたと考えられます。國津比古命神社の本殿の真裏が恵良山であり、
    風伯神を祀る人々=長国造~諏訪大社祝家と物部連との因縁を感じます。
  • 大水上神社

    特選神名牒の記述
    「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。
    郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべしとあって大水上神、大水上御祖命同神にて、
    此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」
    とあります。

    牟弥乃(むみの)神社

    大水上神は、内宮の摂社である大水神社(式内社)に祀られていて、特選神名牒が指摘する牟祢神社は正確には牟弥乃(むみの)神社であり、内宮の末社で、社殿はなく御船神社と同座しています。

    大水神と寒川神は相武国造や志摩国造の祖先神である

    伊勢の土着神である大水神と大蓑彦神(寒川神)が讃岐国において祀られている事は、諏訪神の祭祀氏族がかつて讃岐国にあったことを示しています。

    一方、石見国仁摩郡水上神社は、古代からの祭祀を引き継いでいる神社が明確に無く、島根県大田市温泉津町西田281の神社と、島根県大田市水上町福原600の3番の水上神社の元社などが式内社の論社となっています。島根県大田市水上町福原600の3番の水上神社は、昭和46年以前には、三滝神社といって、元慶元年に創立された古社ですが、安濃郡側にあるため、古代からの神社ではないと考えられます。恐らく、室町時代からの石見銀山の発展に伴って、有力者たちが銀山側の土地に神社を移した可能性があるため、論社が分からなくなっているので
    はないかと考えれます。(城山神社は、移動しています)

  • 12/06編集されました
    吉田大洋氏の『竜神よ、我に来たれ!』には、寒川神社創建に関する言い伝えが記されています。

    諏訪神家の守屋という青年から吉田大洋氏が聞いた話に、守屋青年の祖母の情報として、天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、相模国に逃れて定住し、寒川神社を建てて建御名方命を祀ったと言います。

    吉田大洋氏が聞いた話を裏付ける証拠があります。

    寒川神社は、現在高座郡寒川町にありますが、隣接する香川地区と寒川地区には、阿諏訪という姓を名乗る人が住んでいて、全国の60%以上の阿諏訪姓が寒川周辺に住んでいます。

    諏訪の諏訪氏の系譜に、足羽(あすわ)氏があって、阿諏訪(あすわ)という一族が諏訪と寒川に認められます。建御名方命の五世孫、あるいは子に伊豆早雄命があって、その12世孫に、足羽盛方という名が見られます。

    寒川神社は、相武国造と武蔵国造の祖とされる伊勢津彦命とも関係している

    ーーー
    神奈川県横浜市戸塚区に鎮座する富塚八幡宮の宮司氏によると

    平安時代、奥州「前九年の役」平定のために、源頼義、義家親子が奥州に下る途中、
    当地に露営した折り、夢に交神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、其の加護により戦功を立てることが出来たのに感謝して、延文四年(西暦1072年)社殿を遺り、両祭神を勧請しました。

    山頂の古墳は富属彦命の墳堂と伝えられ、これを富塚と称し、戸塚の地名発生となったと伝承されています。平安時代、当地には戸塚(富塚)一族が住んでいました。
    一族の神様として当神社を篤く信仰しておりました。当時は鎌倉家の家臣でしたが、鎌倉時代になると二階堂家の 家臣に編入され、後に二階堂家が静岡の掛川に移封されると、 その地に戸塚(富塚)一族は移住しました。
    戸塚姓・富塚姓の方々にとって、当地が一族発祥の地であり、当社にまつられている富属彦命は祖霊神として一族を守護する神様です。
  • 相模国造の関連神社

    伊勢国度会郡の地主神である大山罪乃御祖命と大山阿夫利神社の大山罪命その子である、牟弥乃神社の寒川比古命 寒川比女命と寒川神社、
    大山罪の子である朝熊神社の朝熊水神と比比多神社の神吾田鹿葦津姫命

    というように、相武国の古社と伊勢国度会郡の地主神を祀る神社はよく一致している。

    相武国造氏族と関係する神が祀られる神社
    大山 阿 夫 利 神社 大山罪
    寒川 神社 寒川比古命 寒川比女命
    富 塚 八幡 神社 伊勢 津 彦 3 世 孫 の2 世 孫富属彦
    比 比 多 神社 神吾田鹿葦津姫命

    伊勢津彦命は、伊勢国の国名の由来になった神で、伊勢国、特に神国(伊勢国度会郡)
    に縁の在る神である。

    倭姫命世記によると
     大水神-櫛玉命(伊勢津彦)-大歳命-櫻大刀自 朝熊水神

    という系譜になっていて、伊勢国度会郡の式内社には、大山罪神の子神が多数祀られています。
  • 12/06編集されました
    伊勢津彦命は、伊勢国の国名の由来になった神で、伊勢国、特に神国(伊勢国度会郡)
    に縁の在る神である。

    倭姫命世記によると
    大水神-櫛玉命(伊勢津彦)-大歳命-櫻大刀自   
           朝熊水神

    朝熊神社 朝熊水神(大山罪命の子)、櫻大刀自(櫛玉命の子、大歳の子)
  • 12/06編集されました
    タケミナトミとは

    諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて
    子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜
    科野国造)の妻となっています。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、
    大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる
    出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。

    長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣
    が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。
    これは、諏訪大社上社大祝の系譜の南方刀美神の
    五世孫に会知速男命があって、娘に阿蘇姫があるという伝承と同じ事を指して
    います。

    建御名方神とその関係者の神社が阿波には三座あるという事になるのです。

    旧出雲大社上官家の富家伝承では、事代主命の子(子孫か)が建御名方神であるといいます。富家は、大国主ではなく、事代主を祖としていたそうです。

    阿波国には阿波郡と勝浦郡などに事代主命を祀る式内社があり、事代主命を祖とする長国造族が繁栄した阿波の式内社に、タケミナカタやコトシロヌシ、ミマツヒコをを祀る、
    事代主神社、大御和神社、多祁御奈刀弥神社、御間都比古神社などがあります

    長国造の一族は、隠岐国造、都佐国造の系譜と一致しており、
    隠岐国造における系譜は

    事代主命(味鋤高彦根命)-天現津彦命-観松彦伊呂止命-大日腹富命-
    建美奈命-甕男立命-麻斯命-多米津古命
    (古代氏族系譜集成より)

    となっています。
    この系図を見る限り、
    多祁御奈刀弥とは、観松彦伊呂止命の孫の「建美奈命」の事であり、
    御間都比古とは観松彦伊呂止命と想定できます。

    富家の伝承では、大国主の子としての建御名方神の国譲り神話など
    無かったと言います
  • 12/07編集されました
    建御名方神

    『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

    『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。

    『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。また諏訪でも建御名方神の母を沼河比売とする。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

    ーー
    糸魚川の奴奈川姫伝説によれば、姫は大国主命との間に建御名方の神をもうけたものの、建御名方の神は出雲族に追われて諏訪まで逃げ、その地から出ないことを条件に命ながらえ、諏訪大社の祭神に祀られた。しかし奴奈川姫は逃げる途中で淵に身を投げて御隠れになったので、その淵を姫ヶ淵といい、その川を姫川という。・・・・なるほど、確かに姫川は奴奈川姫にちなんで名づけられた川のようです。
    詳しくは糸魚川市のホームページ・『奴奈川姫の伝説』をご覧下さい。

    ところが、高志の沼河比売の歌がある古事記には建御名方の神の名は出てくるものの、奴奈川姫が母であるという記述はありません。大国主命が天津神に国譲りを迫られ、大国主命の御子・事代主の神は賛成したが、今一人の御子・建御名方の神は抗ったため諏訪まで追いたてられた、という記載があるだけです。事代主の神は「神屋楯比売(かむやたてひめ)の生みませる子」と母君の名が記されていますが、建御名方の神の母についての記載はないのです。
    また、この国譲りは日本書紀にも記されていますが、書紀では大己貴神(おほあなむちのかみ)が相談した子は事代主の神一人だけで、建御名方の神は登場しません。
  • 12/07編集されました
    出雲風土記・意宇郷の項にあるいわゆる“国引神話”によれば、「三穂乃埼」は「高志之 都都(能登半島の珠洲)乃三埼」を引っ張ってきたもので、美保郷と珠洲との間に交流があったことをうかがわせます。
    そして珠洲市の東端・三崎町には美穗須須美命を祀った須須神社があります。

    さらに奴奈宜波比賣命の親・俾都久辰為命(へつくしい)、そのまた親の意支都久辰為命(おきつくしい)という名にも注目です。沖にある島を沖津、その島を望む本土が辺津。海辺(水辺)であることを示す名です。
    そして“くしい”という名。「くしい」という苗字、希少な苗字なんだそうです。ということは多分、地名としても珍しいはず。
    ところがこの地名、輪島市(旧鳳至郡)門前町にあるのです。『櫛比』と書いて「しっぴ」ではなく「くしい」と読みます。櫛比小学校として今もその名を留めています。

    能登では
    美穗須須見命を祀る須須神社は三社あり、合祀されている神様には建御名方命はともかく武甕槌命(=建御雷の神。建御名方神を出雲から追い払った天津神の軍神)の御名まで見えるのに、「ヌナカワヒメ」の名前はありません。
  • 出雲風土記の御穂須須美神の母・沼河比売。
    御穂須須美神が祀られている出雲の美保神社にも、珠洲の須須神社にもヌナカワヒメは祀られていません。
    では、夫とされる大国主命を祀った神社はどうか?
    大己貴命を主祭神とする能登一ノ宮・羽咋市の気多大社、七尾市の気多本宮にもヌナカワヒメの名はありません。

    ところが富山県高岡市の気多神社では主祭神が大己貴命と奴奈加波比売命、新潟県上越市の居多神社では大国主命・奴奈川姫・建御名方命。

    新潟県に入ると、その名も奴奈川神社があります。
    Wikipediaによれば、糸魚川市の天津神社の境内社・奴奈川神社の主祭神が奴奈川姫で、後年に八千矛神が合祀された、とあります。同じく糸魚川市田伏の奴奈川神社の祭神は奴奈川比賣命・大日孁命・八千矛命。どちらもさすが奴奈川姫の地元だけあって、姫の名前が先に記されています。
  • 糸魚川市の奴奈川姫伝説には、『ヌナカワの底なる玉』の話が全く出てこない。
    むしろ、布川であり、機織りの姫である。

    糸魚川市のホームページにある奴奈川姫伝承を読んでみましょう。
    ストーリーとしてまとめてみると、以下のようになります。
    1.“奴奈川姫”は黒姫山(糸魚川市)の麓の大鍾乳洞に住んでいた。
    2.機(はた)を織って洞穴から流れ出る川でその布をさらしたので、この川を「布川(ぬのかわ)」という。
    3.奴奈川姫は、出雲族に攻められた。
    4.奴奈川姫の夫は大国主命との争いに敗れた。
    5.奴奈川姫(色が黒くて美人ではなかった)は大国主命に伴われ能登へ渡ったが夫婦仲が悪くて逃げ帰り、平牛山稚子ヶ池あたりで行方をくらました。
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