阿波の建御名方神、建布津神、タテミナカタ

December 2018 編集されました カテゴリ: 讃岐・阿波・伊予
image阿波の建御名方神、建布津神、タテミナカタ

建御名方神 神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという…

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  • 神奈川県横須賀市には、三浦氏が尊崇した諏訪神社が多く分布しており、諏訪神に
    関する貴重な伝承を残す神社があります。

    神奈川県横須賀市緑ケ丘34にある 諏訪大神社の由緒(神社庁の記事より転載)

    「康暦二年(一三八〇年)足利義満の頃、三浦貞宗が横須賀の鎮守として、
    長峯城の城口当る当地古谷山に、信州の上下両諏訪明神を勧請した。
    三浦貞宗が中心になり城下の横須賀村の人々によって祭られていたが、三
    浦氏が滅亡後祭祀権は地頭郡代を先達として次第に村の民衆の手に移った。
    慶長八年(一六〇三年)、徳川家康に将軍宣下して慶長十一年(一六〇六年)、
    平和な世になったので、代官長谷川三郎兵衛の発起で村の人々により、
    社殿・境内の大改修を行い農漁の守護神として崇敬を受け(棟札文による)以来
    永く代官の三浦郡中鎮守の遥拝祈願所に指定された。

    健御名方命は、山神で狩猟と経済によって山を生活の場とした部族の祖神であったが、
    後にこの部族の経済的発展に伴って農耕の神ともされた。
    元来、山神で狩猟において射的の上手な部族の神だったので、後に武士からも崇敬
    された。もと出雲の国から周防(山口県)に行き、伊勢から美濃を経て信濃に入り、
    蝦夷の牙城をおとして諏訪の神となった。上諏訪から勧請し、ご神体矢に神霊を祀っ
    てある。」

    この伝承は、諏訪神を祀った三浦氏によるものと考えられ、注目すべきことに、出雲から周防(山口県)に移ったと言う。

    タケミナカタ命には、御穂須須美命という別名がある伝承を案ずるに、タケミナカタ命の別名である
    ススミが訛って、ススマという地名になったと考える事が可能です。

    御穂須須美命の伝承は以下の記事で、タケミナカタ命の名がススミである事を指摘しました。
    御穂須須美命の伝承 -石見国邑智郡(オオチ)と信濃国高井郡小内郷(オウチ)
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16293756.html

    タケミナカタ命が逃走した小周防は、建御名方命の子孫に縁があって、タケミナカタ命の子孫
    と考えられる建許呂命(伊許呂止命)の子孫である加米乃意美(かめのおみ)命が応神天皇時代に周防国造になり、この小周防は周防国の国府所在地となりました。
  • 島根郷伊豆美は神代より海人族の繁栄した場所で、この地の王が波邇夜須比賣(はにやすひめ)と孝元天皇の御子である「建波邇安王(たけはにやすおう)」でありました。

    建島女祖神社で祀られるのは波邇夜須比賣。現在の小松島市より以南を支配下に治め、皇統をかけた争いが「波布理曽能(はふりその)」で展開されます。

    「波布理曽能」は現在「はの浦」、「ふる庄」として二分されている地域。
    争いでは勝浦川の前線、長川の最後の一線も破れ、天皇を名乗ってもおかしくない力量の持ち主であった建波邇安王は戦死してしまいます。
    その悲運の王子建波邇安王が祀られたのが、「式内和耶神社」こと「目佐穴権現」なのです。
  • 建沼河男命の9世孫、長比売命が越道君祖市入(伊 知利)命の妻となっている。市入命は成務朝の人物 であり、他の古代豪族系図との世代比較からも、建 御名方命は神武前代とするのが妥当。
  • 出雲臣富家の伝承では御穂須須美命は三穂津姫の事であると言われています。

    御穂須須美命は、奴奈宜波比売命と事代主神の娘であると言われ母系で辿ると、結局、神八井耳命の祖は奴奈宜波比売命にあたる事になります。諏訪大社の神官に、多氏と神氏があるのは、この婚姻によるものと言えます。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。

    諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜 科野国造)の妻となっています。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。
  • 佐那河内村史を読んでいると、徳島県南部は、観松彦伊呂止命九世孫にあたる「韓背足尼」(からせのすくね)が国造になって統治したのがはじまりであると書かれてありました。

    徳島県南部は今でも那賀郡という地名が残っております。知り合いの神官にお尋ねしますと、「徳島の南部は古代、『長(「なが」、もしくは「なか」と発音)』と呼ばれていた。」とのことです。近くの式内社、八桙神社にはここに祀られる八千矛神の神は長の国の祖神であると記述されています。
  • 吉備穴 12景行 和迩臣同祖彦訓服命孫 八千足尼
    (やちのすくね) 備後安那 纏向の日代の帝(景行天皇)の御世に和邇臣(わにのおみ)と同祖の彦訓服命(ひこくにふくのみこと)の孫の八千足尼を国造に定められた。

    長 13成務 観松彦色止*命9世孫 韓背足尼
    (からせのすくね) 阿波 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に観松彦伊呂止命(みまつひこいろとのみこと)九世の孫の韓背足尼を国造に定められた。
  • December 2018 編集されました
    恵良山の旧地名は、伊予国風早郡(風早国)難波郷と考えられ、神名より古くから風早国周辺で奉られた神であった事が想像されます。

    風早国(伊予国風早郡)の和名類聚抄に掲載される地名には、
    西から粟井郷、河野郷、高田郷、難波郷、那賀郷と四つの郷が存在し、
    伊予北条から今治市菊間町までの地域を占めていたことになります。

    風早国の統治者は、国造本紀によると応神天皇の時代に物部連の祖・伊香色男命の四世孫にあたる
    阿佐利命を国造に定めたこと始まるとされますが、和名抄の郷名を見る限り、徳島県(阿波国)の旧
    国名である粟国と長国(阿波国那賀郡)の名を冠する郷名が、粟井郷、那賀郷とあることを考えると、
    郷司レベルでは阿波の国造氏族の親族が支配していた事が考えられます。

    徳島県(阿波国)において、諏訪神であると認識される多祁御奈刀弥神社で、長国造家の建美奈命を祭っていた
    事を考えると、風早郡の東側にあたる難波郷や那賀郷において、長国造系の郷司が、建御名方神
    を伊予の風伯神として祀っていたと予想されます。

    建御名方神は長国造家の建美奈命(阿波の多祁御奈刀弥神社)と考えられる事から、結局
    (多祁御奈刀弥神と長国造族の系譜 :http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14784689.html
    伊予の風伯神とは建美奈命を指しているのではないでしょうか。

    和名類聚抄に掲載される難波郷は、讃岐国にも存在し、寒川郡難波郷という地名があります。

    寒川郡難波郷の近傍には、式内社の大蓑彦神社が鎮座し、大蓑彦神とは寒川神こと建御名方神が
    祀られています。(http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16200526.html

    これと同様に、神奈川県の寒川神社の本殿の背後には、難波の小池と言われる湧水があり
    古来から霊験豊かな神池として崇められてきました。

    今まで指摘してきたように、寒川神は相武国造(伊勢津彦三世孫弟武彦末裔) らが祖先神として

    建御名方神(諏訪大社上社祝家の系譜 建御名方神~会知速男命-真曽我男命-武国彦命-弟武彦)を祀った神社でした。

    伊予国風早郡難波郷風伯神
    讃岐国寒川郡難波郷大蓑彦神
    相武国高座郡寒川郷の寒川神社の難波小池

    難波の風伯神を拝んでいると考えられる神社が、伊予北条市にはあります。

    国津比古命神社の森

    國津比古命神社と櫛玉比賣命神社の2社がこの森に鎮座しています。
    物部連が国造になった時に、祭祀は地元の風伯神を祀る人々から物部連に変わり、
    奪われたと考えられます。國津比古命神社の本殿の真裏が恵良山であり、
    風伯神を祀る人々=長国造~諏訪大社祝家と物部連との因縁を感じます。
  • 大水上神社

    特選神名牒の記述
    「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。
    郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべしとあって大水上神、大水上御祖命同神にて、
    此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」
    とあります。

    牟弥乃(むみの)神社

    大水上神は、内宮の摂社である大水神社(式内社)に祀られていて、特選神名牒が指摘する牟祢神社は正確には牟弥乃(むみの)神社であり、内宮の末社で、社殿はなく御船神社と同座しています。

    大水神と寒川神は相武国造や志摩国造の祖先神である

    伊勢の土着神である大水神と大蓑彦神(寒川神)が讃岐国において祀られている事は、諏訪神の祭祀氏族がかつて讃岐国にあったことを示しています。

    一方、石見国仁摩郡水上神社は、古代からの祭祀を引き継いでいる神社が明確に無く、島根県大田市温泉津町西田281の神社と、島根県大田市水上町福原600の3番の水上神社の元社などが式内社の論社となっています。島根県大田市水上町福原600の3番の水上神社は、昭和46年以前には、三滝神社といって、元慶元年に創立された古社ですが、安濃郡側にあるため、古代からの神社ではないと考えられます。恐らく、室町時代からの石見銀山の発展に伴って、有力者たちが銀山側の土地に神社を移した可能性があるため、論社が分からなくなっているので
    はないかと考えれます。(城山神社は、移動しています)

  • December 2018 編集されました
    吉田大洋氏の『竜神よ、我に来たれ!』には、寒川神社創建に関する言い伝えが記されています。

    諏訪神家の守屋という青年から吉田大洋氏が聞いた話に、守屋青年の祖母の情報として、天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、相模国に逃れて定住し、寒川神社を建てて建御名方命を祀ったと言います。

    吉田大洋氏が聞いた話を裏付ける証拠があります。

    寒川神社は、現在高座郡寒川町にありますが、隣接する香川地区と寒川地区には、阿諏訪という姓を名乗る人が住んでいて、全国の60%以上の阿諏訪姓が寒川周辺に住んでいます。

    諏訪の諏訪氏の系譜に、足羽(あすわ)氏があって、阿諏訪(あすわ)という一族が諏訪と寒川に認められます。建御名方命の五世孫、あるいは子に伊豆早雄命があって、その12世孫に、足羽盛方という名が見られます。

    寒川神社は、相武国造と武蔵国造の祖とされる伊勢津彦命とも関係している

    ーーー
    神奈川県横浜市戸塚区に鎮座する富塚八幡宮の宮司氏によると

    平安時代、奥州「前九年の役」平定のために、源頼義、義家親子が奥州に下る途中、
    当地に露営した折り、夢に交神天皇及び富属彦命の神託を蒙り、其の加護により戦功を立てることが出来たのに感謝して、延文四年(西暦1072年)社殿を遺り、両祭神を勧請しました。

    山頂の古墳は富属彦命の墳堂と伝えられ、これを富塚と称し、戸塚の地名発生となったと伝承されています。平安時代、当地には戸塚(富塚)一族が住んでいました。
    一族の神様として当神社を篤く信仰しておりました。当時は鎌倉家の家臣でしたが、鎌倉時代になると二階堂家の 家臣に編入され、後に二階堂家が静岡の掛川に移封されると、 その地に戸塚(富塚)一族は移住しました。
    戸塚姓・富塚姓の方々にとって、当地が一族発祥の地であり、当社にまつられている富属彦命は祖霊神として一族を守護する神様です。
  • 相模国造の関連神社

    伊勢国度会郡の地主神である大山罪乃御祖命と大山阿夫利神社の大山罪命その子である、牟弥乃神社の寒川比古命 寒川比女命と寒川神社、
    大山罪の子である朝熊神社の朝熊水神と比比多神社の神吾田鹿葦津姫命

    というように、相武国の古社と伊勢国度会郡の地主神を祀る神社はよく一致している。

    相武国造氏族と関係する神が祀られる神社
    大山 阿 夫 利 神社 大山罪
    寒川 神社 寒川比古命 寒川比女命
    富 塚 八幡 神社 伊勢 津 彦 3 世 孫 の2 世 孫富属彦
    比 比 多 神社 神吾田鹿葦津姫命

    伊勢津彦命は、伊勢国の国名の由来になった神で、伊勢国、特に神国(伊勢国度会郡)
    に縁の在る神である。

    倭姫命世記によると
     大水神-櫛玉命(伊勢津彦)-大歳命-櫻大刀自 朝熊水神

    という系譜になっていて、伊勢国度会郡の式内社には、大山罪神の子神が多数祀られています。
  • December 2018 編集されました
    伊勢津彦命は、伊勢国の国名の由来になった神で、伊勢国、特に神国(伊勢国度会郡)
    に縁の在る神である。

    倭姫命世記によると
    大水神-櫛玉命(伊勢津彦)-大歳命-櫻大刀自   
           朝熊水神

    朝熊神社 朝熊水神(大山罪命の子)、櫻大刀自(櫛玉命の子、大歳の子)
  • December 2018 編集されました
    タケミナトミとは

    諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて
    子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜
    科野国造)の妻となっています。

    阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、
    大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる
    出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。

    長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣
    が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。
    これは、諏訪大社上社大祝の系譜の南方刀美神の
    五世孫に会知速男命があって、娘に阿蘇姫があるという伝承と同じ事を指して
    います。

    建御名方神とその関係者の神社が阿波には三座あるという事になるのです。

    旧出雲大社上官家の富家伝承では、事代主命の子(子孫か)が建御名方神であるといいます。富家は、大国主ではなく、事代主を祖としていたそうです。

    阿波国には阿波郡と勝浦郡などに事代主命を祀る式内社があり、事代主命を祖とする長国造族が繁栄した阿波の式内社に、タケミナカタやコトシロヌシ、ミマツヒコをを祀る、
    事代主神社、大御和神社、多祁御奈刀弥神社、御間都比古神社などがあります

    長国造の一族は、隠岐国造、都佐国造の系譜と一致しており、
    隠岐国造における系譜は

    事代主命(味鋤高彦根命)-天現津彦命-観松彦伊呂止命-大日腹富命-
    建美奈命-甕男立命-麻斯命-多米津古命
    (古代氏族系譜集成より)

    となっています。
    この系図を見る限り、
    多祁御奈刀弥とは、観松彦伊呂止命の孫の「建美奈命」の事であり、
    御間都比古とは観松彦伊呂止命と想定できます。

    富家の伝承では、大国主の子としての建御名方神の国譲り神話など
    無かったと言います
  • December 2018 編集されました
    建御名方神

    『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

    『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。

    『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。また諏訪でも建御名方神の母を沼河比売とする。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。

    ーー
    糸魚川の奴奈川姫伝説によれば、姫は大国主命との間に建御名方の神をもうけたものの、建御名方の神は出雲族に追われて諏訪まで逃げ、その地から出ないことを条件に命ながらえ、諏訪大社の祭神に祀られた。しかし奴奈川姫は逃げる途中で淵に身を投げて御隠れになったので、その淵を姫ヶ淵といい、その川を姫川という。・・・・なるほど、確かに姫川は奴奈川姫にちなんで名づけられた川のようです。
    詳しくは糸魚川市のホームページ・『奴奈川姫の伝説』をご覧下さい。

    ところが、高志の沼河比売の歌がある古事記には建御名方の神の名は出てくるものの、奴奈川姫が母であるという記述はありません。大国主命が天津神に国譲りを迫られ、大国主命の御子・事代主の神は賛成したが、今一人の御子・建御名方の神は抗ったため諏訪まで追いたてられた、という記載があるだけです。事代主の神は「神屋楯比売(かむやたてひめ)の生みませる子」と母君の名が記されていますが、建御名方の神の母についての記載はないのです。
    また、この国譲りは日本書紀にも記されていますが、書紀では大己貴神(おほあなむちのかみ)が相談した子は事代主の神一人だけで、建御名方の神は登場しません。
  • December 2018 編集されました
    出雲風土記・意宇郷の項にあるいわゆる“国引神話”によれば、「三穂乃埼」は「高志之 都都(能登半島の珠洲)乃三埼」を引っ張ってきたもので、美保郷と珠洲との間に交流があったことをうかがわせます。
    そして珠洲市の東端・三崎町には美穗須須美命を祀った須須神社があります。

    さらに奴奈宜波比賣命の親・俾都久辰為命(へつくしい)、そのまた親の意支都久辰為命(おきつくしい)という名にも注目です。沖にある島を沖津、その島を望む本土が辺津。海辺(水辺)であることを示す名です。
    そして“くしい”という名。「くしい」という苗字、希少な苗字なんだそうです。ということは多分、地名としても珍しいはず。
    ところがこの地名、輪島市(旧鳳至郡)門前町にあるのです。『櫛比』と書いて「しっぴ」ではなく「くしい」と読みます。櫛比小学校として今もその名を留めています。

    能登では
    美穗須須見命を祀る須須神社は三社あり、合祀されている神様には建御名方命はともかく武甕槌命(=建御雷の神。建御名方神を出雲から追い払った天津神の軍神)の御名まで見えるのに、「ヌナカワヒメ」の名前はありません。
  • 出雲風土記の御穂須須美神の母・沼河比売。
    御穂須須美神が祀られている出雲の美保神社にも、珠洲の須須神社にもヌナカワヒメは祀られていません。
    では、夫とされる大国主命を祀った神社はどうか?
    大己貴命を主祭神とする能登一ノ宮・羽咋市の気多大社、七尾市の気多本宮にもヌナカワヒメの名はありません。

    ところが富山県高岡市の気多神社では主祭神が大己貴命と奴奈加波比売命、新潟県上越市の居多神社では大国主命・奴奈川姫・建御名方命。

    新潟県に入ると、その名も奴奈川神社があります。
    Wikipediaによれば、糸魚川市の天津神社の境内社・奴奈川神社の主祭神が奴奈川姫で、後年に八千矛神が合祀された、とあります。同じく糸魚川市田伏の奴奈川神社の祭神は奴奈川比賣命・大日孁命・八千矛命。どちらもさすが奴奈川姫の地元だけあって、姫の名前が先に記されています。
  • 糸魚川市の奴奈川姫伝説には、『ヌナカワの底なる玉』の話が全く出てこない。
    むしろ、布川であり、機織りの姫である。

    糸魚川市のホームページにある奴奈川姫伝承を読んでみましょう。
    ストーリーとしてまとめてみると、以下のようになります。
    1.“奴奈川姫”は黒姫山(糸魚川市)の麓の大鍾乳洞に住んでいた。
    2.機(はた)を織って洞穴から流れ出る川でその布をさらしたので、この川を「布川(ぬのかわ)」という。
    3.奴奈川姫は、出雲族に攻められた。
    4.奴奈川姫の夫は大国主命との争いに敗れた。
    5.奴奈川姫(色が黒くて美人ではなかった)は大国主命に伴われ能登へ渡ったが夫婦仲が悪くて逃げ帰り、平牛山稚子ヶ池あたりで行方をくらました。
  • 観音寺市にあった粟井神社の神紋である「鎌の打ち合い」は、建御名方神をお祀りする阿波国式内社 多祁御奈刀弥神社と同じ。
     建御名方神は別名、御名方富命・建御名方富命。
     阿波忌部族の一派であった天富命の「孫」である鷲住王が飯野山の近くに居を構え讃岐国造になった。
  • 中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
    同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
    長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。
    「観松彦」とか「天八現津彦」とかいう呼称は、大和の支配者の美称にふさわしい。大和朝廷第五代の天皇である孝昭天皇の和風諡号が観松彦香殖稲尊とされることも想起される。観松彦の下の「イロト(色止・伊呂止)」が弟を意味する語であることで、長髄彦が事代主神の後継者であっても実際には子ではなかったとすると、兄・事代主神に対する「弟」の意味で妥当か(この意味で、建御名方命にもあたるか。後述)。
    上記の推定からは、長髄彦本人は討たれたものの(ないしは討たれたと装って逃走した可能性もあるのか)、その子孫は後世に残ったことになる。その一部は四国の阿波・土佐方面に逃走・遷住し、後の長・都佐両国造を出した。これら地域には、後期の銅鐸が多数出土しており、関連して、同じような銅鐸出土の傾向を示す三河・遠江が諏訪神一族の東国への逃走経路にあったことが想起される。三河・遠江地方を中心にする地域には、弥生時代後期では畿内地方とは異なる三遠式銅鐸が発達し多く出土するが、古墳時代では物部氏族系の諸国造に変わっていた
  • 建御名方命を祀る式内社が阿波国名方郡にあることをあげたが、その子の八桙神を祀る式内社も阿波国那賀郡にある。それが八桙神社という名で、徳島県阿南市長生町宮内に鎮座しており、『特撰神名牒』なども祭神を八桙神(建御名方命の子、あるいは曾孫)とする。その由緒には、「八桙神社は上古長ノ国造の祖神として竹原庄要津に鎮座す」とあるから、建御名方命の子の八桙神が長国造の遠祖でもあった。この所伝からも、「建御名方命=長髄彦」ということになる。長生町からも銅鐸出土の伝えがある。
    諏訪の「神氏系図」には伊豆早雄命の弟に「八杵命」と見える者があり、これが阿波国の「八鉾命」にあたるとする指摘が『大日本史』神祇志や飯田好太郎の著述に見える。また、『諸系譜』第六冊所載の「長公系図」には、弟の意味「イロト(色止・伊呂止)」を名にする「伊侶止命」(すなわち長髄彦)の子に「八上乃命」があげられており、これが「八桙神」にあたるとみられるから、諸伝が符合する。同系図では、八上乃命の子の代に阿波の長国造系統と土佐の都佐国造系統に分かれたと見える。
     
    御間都比古色止命を祭神とする名方郡式内社の御間都比古神社は、現在、名東郡佐那河内村の長峯中腹にあるが、そこから園瀬川を少し下った地の徳島市上八万町星河内の巽山古墳は前期(四世紀前半か)の大型円墳であり、古墳の対岸にある星河内美田の赤土採取場からは七個分もの銅鐸(袈裟襷文銅鐸の破片)が集積埋納される状況で出土した。神社と美田とのほぼ中間地東方にある同市八多町多家良辺りからも所伝を含め三個の銅鐸出土がある。徳島県内からは伝も含めて合計約四〇個もの銅鐸出土があるが、これらが徳島市・阿南市の地域に集中する。なお、高知県でも約十個の出土があるが、こちらは散発的なものである。
  • 05/17編集されました
    吉野川の河口部は昔、イズと呼ばれた

    イズ早雄

    こんな説がある
    出雲である島根県の「出雲国風土記」は,天平5年(733年)に完成し,ほぼ完本で残っているといわれている。しかし,「出雲国風土記」には,大国主命の物語が書かれていない。「出雲風土記」の中に大国主命は一度も出てこないのである。しかも出雲国を造ったのは大国主命ではなく,八束水臣津野命(ヤツカミズオミツノミコト)と書かれている。
     当時の出雲国(島根県)の人々は,「こちらには,こちらの神様がいる」と国の神話をかなり率直に語り,独自性を強調している。
     これらの事を見ても,「古事記」に書かれる出雲を島根県に当てはめるという極めて不自然な解釈が横行していると言わざるをえない。しかも,後世に出雲を島根県に当てはめ,ますます,その状況を作りあげてきたことに他ならないのである。
     「古事記」に書かれる出雲は,島根県の事ではなく,阿波の徳島県の海岸部だったのである。その状況は,阿波と島根の式内社の分布状況をみても明らかである。
     「古事記」に書かれる出雲の神々が島根県に祀られておらず,阿波にそろって祀られていることを知れば,それはわかることである。

    【阿南市長生町にある大国主命を祀る 式内社 八桙神社】
  • 05/17編集されました
    式内社 伊豆國賀茂郡 阿波神社 名神大

      御祭神 阿波咩命(阿波神)

      『續日本後紀』に「承和七年九月乙末伊豆ノ国言ス賀茂ノ郡有造作島本名上津島。
       此島坐阿波神ハ是三島大社本后也。又坐物忌奈命即前社御子神」とあります

    「阿波神社」の箇所を見てもらえば分かるように、三嶋大社の御祭神は大國主命の御子「八重事代主命」。
    その八重事代主命の本后が、阿波神社御祭神「阿波神」です。


    この「事代主命の本后、阿波咩命(阿波神)」とは、どなたのことか?
    式内社に詳しいHP、伊豆の神社を解説したHP等を見ても、一切記載されていません。
    事代主命の本后、阿波神と記すだけで、どのような神か?追及は無しです。
    例によって、徳島の阿波と関係があるとは夢にも思わないようです。


    徳島県阿波市市場町八幡の「粟島神社」の御祭神は「天津羽命」と申します。
    徳島県阿波市市場町伊月の式内社「事代主神社」(阿波には出雲にさえ無い、式内社事代主神社が2か所もある)の御祭神、事代主命の后神です。
  • 「延喜式神名帳」の大和国葛上郡条には式内社「鴨都波八重事代主神社」、高市郡条には「高市御縣坐鴨事代主神社」が記載されています。

    コトシロヌシの名を冠する「延喜式」に記載された式内社は、ヤマト以外では阿波国の2座。

    阿波郡条の「事代主神社」と、勝浦郡条の「事代主(生夷)神社」だけになります

    この「事代主神社」の南側の「吉野川」には、日本最大級の「川中島」の「粟島」があります♪

    現在は「善入寺島」と呼ばれています。

    「阿波忌部族」が「粟」を植えて拓したとの故事をもつ「粟島」には、かつて「阿波忌部」ゆかりの2社が祀られていました。

    一つは「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」を祭神とする「浮島宮」で、もう一つは「天津羽命(あまつはねのみこと)」を祭神とする「八条神社」です。


    「天津羽命」は、「天日鷲命」の兄弟神なんです!

    そして、すぐ北にある伊月の「事代主神社」の祭神「事代主神」の「后」とされています(*^^)v
    又の名が「阿波咩(あわめ)」「阿波波神(あわわかみ)」「阿波神(あわのかみ)」です。
  • 土佐神社は味鉏高彦根神、朝倉神社は天津羽羽神が祭祀されています。

    この二柱の神は夫婦神であり、阿波國に伝わる積羽八重事代主神と大宜都比売神の夫婦と同一神と考えられています。下記にある内容、これは大宜都比売命の裔である粟國造家(粟飯原家)の記録に残されているものです。
    粟國造 都佐國造ハ同祖粟凡直長直モ基本一系ナリシヲ、属地ニ依テ粟凡直ニ分レテ異姓ヲ称スルナル可(べ)シ。天津羽羽神 阿波女神 同神(ニ)當(リ)阿波國十郡中麻植美馬三好等ノ三郡ヲ除キ残ル七郡ヨリ土佐國ヲカケテ皆本来人種ハ此神之氏人ナリ。八倉比賣大神ノ當國第一尊ク㘴ス事ヲ知ル可シ。土佐國一宮阿波国一宮ハ夫妻之御神也。
    その昔、阿波国の一ノ宮だった天石門別八倉比賣神社。その祭神を八倉比賣命(大宜都比売命:天津羽羽神)とし、土佐神社の味鉏高彦根神は夫とされていた。その二柱の子孫が粟國造と土佐國造になったということですね。
    それでは土佐神社から。
    土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。 『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文より
  • 大国主-味鋤高彦根命-天八現津彦命-観松彦伊呂止命→

    -大日腹富命-建美奈命-甕男立命-麻斯命-多米津古命→

    -忌寸宿禰-萬杯足尼-依網男垂見-狭毘古
           |                |
           -韓背足尼          -十挨彦
           |(長国造)           (意岐国造)
           -小立宿禰
            (都佐国造)
  • 建速素盞鳴命-大国主命-味鋤高日子根命
                       |
                       -都美波八重事代主-天事代主籖入彦命→

    -奇日方天日方命-飯肩巣見命-建甕尻命-豊御気主命-大御気主命→

    --阿田賀田須命
     | (宗形朝臣等祖)
      -建飯賀田須命-大田々根子命--大御気持命-大部主命-大友主命
                  (大直禰古命)          |   (三輪君・大神朝臣等祖)
                                      -大鴨積(賀茂朝臣・鴨部祝等祖)
  • 第5代 孝昭天皇
     御真津日子訶恵志泥命(記)/観松彦香殖稲尊(紀) (みまつひこかえしねのみこと)

     徳島県名東郡佐那河内村下

    正式地名ではないが、『道は阿波より始まる』によれば、この山を「三(美)松の峰」と記している。

    式内社 阿波國名方郡 御間都比古神社 が鎮座。
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