讃岐東部 白鳥神社、寒川神社

January 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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讃岐 寒川神社 讃岐の国の寒川氏ですが、旧香川県大川郡寒川町史他には地域の名族である寒川氏についての筋目につい…

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コメント

  • 吉田大洋氏の『竜神よ、我に来たれ!』には、寒川神社創建に関する言い伝えが記されています。

    諏訪神家の守屋という青年から吉田大洋氏が聞いた話に、守屋青年の祖母の情報として、天孫族の圧迫を受けた諏訪神家の一部は、相模国に逃れて定住し、寒川神社を建てて建御名方命を祀ったと言います。

    吉田大洋氏が聞いた話を裏付ける証拠があります。

    寒川神社は、現在高座郡寒川町にありますが、隣接する香川地区と寒川地区には、阿諏訪という
    姓を名乗る人が住んでいて、全国の60%以上の阿諏訪姓が寒川周辺に住んでいます。

    諏訪の諏訪氏の系譜に、足羽(あすわ)氏があって、阿諏訪(あすわ)という一族
    が諏訪と寒川に認められます。建御名方命の五世孫、あるいは子に伊豆早雄命が
    あって、その12世孫に、足羽盛方という名が見られます。

    寒川神社は、相武国造と武蔵国造の祖とされる伊勢津彦命とも関係しているそうです。
    http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/14346306.html
  • 物部「金連」

    「金連」が目連の弟とも子とも記されるものの、「野間連・借馬連の祖」という観点から、雄略朝の目大連の弟にあげる鍛冶師連(小軽女〔小軽馬〕連の祖)との近親関係か同一人とするのが良さそうである。鍛冶と金で、意味も相通じる。「借馬」の表記は軽馬・借間・苅間・軽間とも同じで、訓も「かりま、かしま、かるま、かるめ」多少違うが、皆、同じだと思われる(太田亮博士に同意)。鈴木真年編纂の「物部大連系図」には金連が「刈田首祖」とも見え、伊予国宇摩郡の従七位上苅田首倉継・同姓浄根が物部連を賜姓した記事(貞観十二年〔八七〇〕十二月紀)もある(近隣の讃岐国苅田郡に起る刈田首は紀臣氏一族とされるから、「田」は「間」の誤記か別族の可能性もあるか)。

     借馬連については、『続日本紀』神護景雲元年三月条に造寺大工正六位上軽間連鳥麻呂(宝亀三年十一月条には軽馬連鳥麻呂として修理次官に任官)の外従五位下の受位が見え、天平十年周防国正税帳には刑部少解部従六位下苅間連養徳が見える。山背国愛宕郡計帳に貫されている例(大日本古文書1-533頁の軽馬乎治米売) もあるが、どうも本貫は讃岐国のようで、松原弘宣著『古代の地方豪族』には、「「讃岐国戸籍」断簡と物部借馬連氏」という論考がある。「大日本古文書 1-317,318頁」に記載の八世紀代の「讃岐国戸籍」断簡文書に物部借馬連を名乗る九名の男女が見えることから、これを分析したもので、この九名が居 た郡名を寒川郡と推測する。讃岐国大内郡入野郷戸籍にも「借馬」氏が二名見えるなど、讃岐にこの一族が多く分布した。同郡には引田郷に疋田物部もいた事情 がある。

     借馬連などの先祖諸伝が様々な形で「天孫本紀」物部氏系譜に入れられた理由は、それでもまだ不明なのだが、矢田部造氏の一族が讃岐国寒川郡に居て(『三代実録』元慶元年十二月に正六位上木工大允の矢田部造利人が山城国へ貫付)、矢田部が同国大内郡に居た事情が関連してあげられる。矢田部造と借馬連は、近い系譜関係か通婚関係があったものか。矢田部は阿波国板野郡や周防国玖珂郡にも居た事情がある。延喜八年(九〇八)の周防国玖珂郡玖珂郷戸籍に矢田部子師丸が見えており、吉敷郡に八田郷があった(『和名抄』)。同じ史料に見える物部連有吉一族(中世周防の大族厚東氏の祖)は物部目大連の子の荒山連の弟・麻作連の後とされるものの、麻作連にも軽馬連・笶原連祖と「天孫本紀」に見えるから、麻作連の同書の位置づけには疑問が留保される。
  • 白鳥神社 (しろとりじんじゃ)
    御祭神 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕
    両道入姫命〔ふたじいりひめのみこと〕
    橘姫命〔たちばなひめのみこと〕
    旧称 白鳥宮 白鳥大神宮 鶴内八幡宮 白鳥八幡
    鎮座地 香川県東かがわ市松原69 (Mapion/googlemap)
    創建年代 成務天皇の御代(131~190)
    社格等 旧県社
    由緒 日本武尊は東征の帰途、伊勢国能褒野において薨去された後、白鶴に化して西に飛び去り、大和国琴弾原(奈良県御所市)、河内国旧市邑(大阪府羽曳野市)、さらに讃岐国大内郡鶴内の里にとどまったという。『源平盛衰記』には「日本武尊終に崩じ給ふ、御年三十。白鶴と変じて西を指て飛去。讃岐国白鳥明神と顕れ給ふ」とある。
    成務天皇(日本武尊の弟)は神櫛皇子(同じく日本武尊の弟で讃岐国造の祖)を武殻王(日本武尊の御子で讃岐綾君らの祖)に従わせて讃岐の国造に封じ、当地に神陵を営ませた。さらに仲哀天皇(日本武尊の御子)は神籬を建てて封戸を寄進、仁徳天皇の御代に祠が建てられたという。これを当社の淵源とする。
    源義経が屋島の合戦に際し、白鳥神社に戦勝を祈願すると、天から白い羽が舞い降りるという奇瑞があり、兵力劣勢にもかかわらず大勝した。これにより武神として崇敬され、八幡神を祀るようになった。
    天正年間(1573~92)長宗我部勢による虎丸城攻めの兵火で焼失。慶長10年(1605)高松藩主・生駒一正の援助により、僧・増乗が再興して「鶴内八幡宮」と称した。また「白鳥八幡」ともいわれたという。
    寛永19年(1642)高松藩主となった松平頼重は、大内郡の総鎮守である水主神社に対して白鳥神社を優遇した。
    寛文4年(1664)京都吉田神社の祀官・卜部(猪熊)兼古を招いて神主とする。御祭神のうち八幡神を西山村(東かがわ市西山)の別宮八幡神社に遷し、改めて日本武尊を主祭神として「白鳥宮」と改めるとともに、社僧を排して唯一神道とし、別当の鶴内寺は廃された。さらに広大な松原と壮麗な社殿を持つ境内が整備され、社領200石を寄進した上、幕府に申請して朱印地とした。その後も歴代藩主により手厚く保護され、領民の信仰を集めて、西の金毘羅とならぶ繁栄を誇ったという。
    神主・宮司は代々猪熊氏が勤め、江戸時代には朱印地の支配権を認められていた。境内東隣には猪熊家の邸宅が現存し、県の有形文化財に指定されている。
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