彦坐王、日本武尊、息長氏

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  • August 2017 編集されました
    宮道天神社
    ■住所
    豊川市赤坂町宮路1120番地
    ■交通
    ・名鉄名古屋本線「名電赤坂駅」下車徒歩約15分
    ・東名高速「音羽蒲郡IC」より車で約5分

    宮路山の麓の音羽町には日本武尊の東征のとき、その皇子の建貝児王(たてがいこのおおきみ:第3子)をこの地に封ぜられたといいます。
    これが宮道別(みやじわけ)の祖であり、その子宮道宿禰速麿は「穂」の県主になり、その子孫が建貝児王を祭ったのが宮路山の山頂と麓にある宮道天神社の起源です。
    宮路山の名が歴史に出てくるのは、大宝2年(702年)持統上皇が三河に巡行し、その最中に大宝律令が公布され、穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。
    壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、皇子は宮道天神社の祭神となっています。
  • ヤマトタケルは『日本書紀』、『先代旧事本紀』では景行天皇の第二皇子。『古事記』では第三皇子。母は播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)。

    妃:両道入姫皇女(ふたじのいりひめのひめみこ。垂仁天皇の皇女)
    稲依別王(いなよりわけのみこ) - 犬上君、建部君の祖。
    足仲彦天皇(仲哀天皇)
    布忍入姫命(ぬのしいりひめのひめみこ)
    稚武王(わかたけのみこ) - 近江建部君の祖、宮道君等の祖(『先代旧事本紀』)。

    妃:吉備穴戸武媛(きびのあなとのたけひめ。吉備武彦の娘)
    武卵王(たけかいこのみこ、武殻王・建貝児王) - 讃岐綾君・宮道君の祖。
    十城別王(とおきわけのみこ) - 伊予別君の祖。

    妃:弟橘媛(おとたちばなひめ。穂積氏忍山宿禰の娘) 9男を生む(『先代旧事本紀』)。
    稚武彦王(わかたけひこのみこ)

    妃:山代之玖玖麻毛理比売(やましろのくくまもりひめ)
    足鏡別王 (あしかがみわけのみこ、蘆髪蒲見別王・葦噉竈見別王) - 鎌倉別の祖。

    妃:布多遅比売(ふたじひめ。近淡海国造の祖・意富多牟和気の娘)
    (稲依別王)→ 両道入姫皇女の所生か。

    一妻(『古事記』では名は不詳、『先代旧事本紀』では橘媛)
    息長田別王(おきながたわけのみこ。『古事記』、『先代旧事本紀』) - 阿波君等の祖(『先代旧事本紀』)。
  • 尾張国の地誌『尾張名所図会』によると、ヤマトタケルが東征で尾張の「布曝女町(及び松姤社)」(又は曾福女町、そぶくめまち:江戸時代まで熱田神宮の八剣宮の南東に存在したとされる、松姤社と呼ばれる神社とそこの町名の呼称)の場所を通りかかった時、美しい女性(宮簀媛)が1人で川辺で布を晒していた。その時、ヤマトタケルと初めて出会った時、声を掛けられ、氷上の里への道を聞かれたが、宮簀媛は耳が聞こえない振りをしたという。『名古屋市史』では「布曝女」の由来は宮簀媛が裁縫をした場所とし、江戸時代の高力猿猴庵の随筆では宮簀媛が布をさらした場所としている。また、尾張藩が完成させた地誌『尾張志』ではヤマトタケルの東征の最中、宮簀媛は門戸を閉じて、誰の声も聞かずに、ヤマトタケルの帰りを祈願したとも言われる。

    『ホツマツタヱ』によると、宮簀媛は結婚した日本武尊との間に武田王(たけだのきみ)と佐伯命(さえきのみこと、佐伯王)の2人を産んだとされている。

    長野県駒ヶ根市赤穂にある大御食神社の「美しの杜」(美女ヶ森)の名は社伝記に、「宮簀姫またの名は厳郎姫を迎えまつりて、所の名を美しの杜と御名負はせまつる」とある。

    奈良県天理市にある出雲建雄神社の縁起には祭神(草薙剣の荒魂)が 「吾は尾張氏の女(巫女)が祭る神である。云々」と託宣されており、これは宮簀媛の事である。

    福岡県鞍手郡鞍手町中山にある八剣神社はヤマトタケルが熊襲討伐の西征の時、訪れた事がある、ゆかりの地でもある事から、ヤマトタケルの妃である宮簀媛も祀っている。
  • 武田王(たけだのきみ)は、古代日本の人物。父は日本神話に登場する日本武尊。弟に佐伯命(佐伯王)がいる。尾張国の丹羽建部君の御祖。仲哀天皇の皇弟。

    『ホツマツタヱ』によると、日本武尊が尾張国で後に結婚した宮簀媛(宮津姫)が武田王と佐伯王の2人を産んだとされている。

    武田王を奉祀する、愛知県一宮市の宅美神社の由緒書によると、武田王はその土地に御所屋敷を構え、土地を開墾したとされ、山梨県韮崎市にある武田八幡宮では諏訪神社の南西に位置するわに塚の桜の御所を治めた後、薨じてこの地に葬られ「王仁塚」と呼ばれたと言う
  • December 2017 編集されました
    祭神、武田王。
    当社ハ本国神名帳ニ従三位宅美神社ト見エ日本武尊ノ御子、仲哀天皇ノ皇弟武田王ヲ奉祀ス、王ハ丹羽建部君ノ御祖ニシテ、此ノ地ニ在ラセラレ土地ヲ墾キ産業ヲ勧メ美術工芸ヲ指導守護シ給イ古来此ノ地ヲ工ト称シ奉ル所以モ亦是ニ起因セリ、御所屋敷跡ハ現在ノ参道南部一帯デアル。付記、建部ノ制度、景行天皇ハ日本武尊ガ伊勢ノ能褒野ニ薨ゼラレシヲ痛ク悼マセラレテ其ノ御名代トシテ諸国ノ建部ヲ置カレシガ、当国ノ建部ハ尊ノ御子、武田王ガ率ヒラレタリシガ丹羽建部君デアル。昭和7年4月29日
    全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

    宅美神社

    長谷部利雄氏(昭和48年80才ほど)の談によると、祖父長谷川鎌太郎の時、明治初年に縣から宅美神社を祀れと嚴命があった。さりとて、誰もそんな厄介な事を進んで引き受ける者はいなかった。たまたま鎌太郎が、先祖が長谷川内匠頭と称して祠官をやっていたというので、由緒ある宅美神社の滅亡をなげき、縣の指示に從って祀ることになった。姓を長谷部と改め、名も雄建と改めた。村中で長谷部姓は一軒、氏子も同家だけであった。しかし、一軒ではいけないので籤で四十五軒を氏子に決めて発表したという。(中略)式内社治定の要素として地名が重視されるようだが、本社の場合は、縣からの命により、やむなく宅美神社を創建したようである。


    宅美神社

    由緒記
    式内 宅美神社
    祭神 武田王
    当社ハ本国神名帳二従三位宅美天神ト見エ日本武尊ノ御子仲衷天皇ノ皇子武田王ヲ奉祀ス。
    王ハ丹羽建部君ノ御祖ニシテ此ノ地ニ在ラセラレ土地ヲ墾キ産業ヲ勧メ美術工芸ヲ指導守護シ給ヲ古来此ノ地ヲ工ト称シ奉ル所以モ亦是ニ起因セリ。
    御所屋敷跡ハ現在ノ参道西南部一体デアル。
    附記
    建部ノ制度
    景行天皇ハ日本武尊ガ伊勢ノ能褒野ニ薨ゼラレシヲ痛ク悼マセラレテ其ニノ御各代トシテ諸国ノ建部ヲ置カレシガ、当国ノ建部ハ尊ソ御子武田王ガ卒ヒラレタ、ソレガ丹羽建部君デアル。
    昭和7年4月29日

    【住所】愛知県一宮市西大海道中山 73
           北緯35度19分10秒,東経136度50分25秒
       【祭神】武田王
       【例祭】10月20日 例祭
       【社格】旧村社
       【由緒】文治2年(1186)「詫美天神」『尾張国内神名牒』
           明治3年天神ヶ社の地に復興
           同5年9月村社

       【関係氏族】工(たくみ)氏
       【鎮座地】移転の記録はない

       【祭祀対象】本来は氏祖
       【祭祀】江戸時代は「天神ノ社」と称していた
       【社殿】本殿流造銅板葺
           拝殿・幣殿所
       【境内社】

    西成東小学校北に鎮座する。
    古代氏族の工氏(たくみ)(工部・工造・工君)に由来する名と言われている。
    神階も正四位下・従三位上・従一位と見え、鎌倉時代から室町時代にかけて昇叙したと見られる。
    中世衰退し西大海道村の天神ノ社として遺称する小祠が残されていた。
    明治3年、この小祠が式内社宅美神社と確定された。
  • 託美神社(たくみじんじゃ/たくみのじんじゃ)
    愛知県丹羽郡扶桑町高雄南郷にある神社。『延喜式神名帳』にある「託美神社(尾張国・丹羽郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

    創祀年代は不詳。御祭神は日本武尊・大美和都根命。丹羽郡の別の式内社「宅美神社」と同様、工氏(工君・工造・工部、たくみ)との関連があるという。

    大美和都根命は、工造の組神、天火明命の十世孫で、「宅美神社」でも御祭神とされる場合がある。

    また、「宅美神社」の御祭神は、当社御祭神の日本武尊の子である武田王、つまり稲依別王。当社と「宅美神社」は、父子関係になる。

    ただし、両者の関係は不明。なお、式内社「宅美神社」の論社は、一宮市西大海道の宅美神社、犬山市今井の石作神社、小牧市の兒社(児社)がある。

    『尾張国内神名帳』に、「詫美天神」とある。もともとは現在地の北西500メートルほどのところに鎮座した。

    江戸時代には「神明社」と称した。江戸時代前期の慶安年間(1648年-1652年)、木津用水東岸に接した現在地に遷座した。移転は熱田新田へ水を引くための工事に伴うもの。

    江戸時代後期の弘化2年(1845年)10月17日に式内社に認定され、明治になり、明治3年(1870年)2月、改めて式内社とされた。論社はない。
  • 熱田宮は現在の位置にありますが、一説によりと現在の名古屋市緑区にある氷上姉子神社が草薙神剣が熱田神宮以前に奉斎されていた場所なので、『元熱田』とも呼ばれ古い熱田宮だといわれています。大高は尾張氏が西方より移住し上陸した場所とも言われており、また知多半島の付け根として、伊勢湾を見渡せる地として、笠寺台地と共に戦略上重要な場所だったようです。
  • December 2017 編集されました
    前期古墳として名古屋市守山区志段味にある白鳥塚古墳(4世紀後半、115m)と同市熱田区にある段夫山古墳(6世紀後半、約150m)とに分けられると思います。どちらも愛知県を代表する巨大古墳なのですが、白鳥塚古墳はその形状が崇神天皇陵に比定されている柳本行燈山古墳(奈良県天理市、250m)と相似形と云われていて、埴輪を使用しない古墳では当時の大和王権と強いつながりをもった畿内型の古墳であることがわかっているそうです。一方熱田の段夫山古墳は猿投型円筒埴輪に代表されるような尾張独自の技術が見られ、この技術は5世紀末に確立された技術なのですが6世紀前半には山城の宇治・乙訓、摂津の三島・猪名野で同様の技術をもった埴輪が出土した例があるそうです。此処から段夫山古墳は継体天皇との関わりを指摘する学者もいるそうです。

    東海地方最大の前方後円墳で、全長151mの規模を誇る。前方部と後円部の間のくびれ部に「造り出し」と呼ぶ小丘部が西側にある。後円部は三段築成であったと思われ、1段目に須恵器と土師質の円筒埴輪を巡らせていた。この古墳は6世紀初め、尾張南部に勢力をもった尾張氏の首長の墓と考えられている。と記されていました。
  • 『寛政重修諸家譜」には、「物部守屋末孫宮内大輔宮道朝臣弥益、山城国山科を領す。その後胤七郎親直越中国新川郡蜷川に住し、その地名をもって家号とす」とある

  • April 2018 編集されました
    息長田別命
    日本武尊ノ王ニシテ成務天皇ノ時来リテ當國ヲ治シ子孫世世之ニ居ル阿波君ト称セリ

    「徳島県誌略」に記載されている阿波国経営に加わった人に息長田別命がある。

    息長田別命が初めて阿波君となり、代々子孫が君を継いできた場所が白鳥宮の東にある海城。
    そして阿波君の範囲は元の名西郡と名東郡。
    さらに昔、この二郡を名方郡と呼んでおり、その名方のいわれは息長田別命の名、ナガタからとったものと伝えられる。

    息長田別王だけが石井町海城(あまぎ)、現在の尼寺(あまじ)の主将として影響を残し、息長の一族が急激に勢力を伸ばしています。

    名西郡石井町 白鳥神社
    石井町大字白鳥にあり日本武尊を祭る、三代寛録に貞観三年三月六日庚辰授従五位下、元慶七年十二月二日甲午授従五位上とあり、三好氏地二十貫を献じ區域七段余、本殿中殿前殿楼門等宏荘を極む、今鳥坂の北に宮田と呼べる地あり、蓋し其祭田なるべし古来葬埋を禁ぜりと。

    この白鳥神社一の鳥居の傍に両国一社の石碑があります。
    これは香川県白鳥町に鎮座する讃岐白鳥宮とこちらの阿波白鳥宮を指している。
  • 業平の父・阿保親王を追っていて、垂仁天皇の皇子「息速別命」も「阿保親王」であることと、「阿保」(青)が「鍛冶に深く関係する」ことを知ったわけだが、その下に「彦坐王」のことを書いていて、2日の「日下部氏」と繋がりそうで。

    「彦坐王」は「崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠退治のために丹波に派遣されたとある。」(古事記)とのことから、派遣先の丹波での末裔が「日下部氏」のようで。

    「息速別命」は「小槻山君」の祖で近江とも繋がるようですね。
    (小槻大社:http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220203-01.html)
    (阿保氏/小槻氏:http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01219.htm)

    袁祁都比売命(彦姥津命の妹)
           |―山代之大筒木真若王(神功皇后の曽祖父・但馬国造の祖)
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           | 山代之荏名津比売(刈幡戸弁)(山背国造大国不遅の子)
           | |
           | |―大俣王―曙立王命
           | |    └菟上王
           | |
    開化天皇―彦坐王―丹波道主王―日葉酢媛命
        |   |      |
        |   └――狭穂姫命|
        |       |  |
        └崇神天皇―――垂仁天皇
                  |―息速別命
                薊瓊入媛(日葉酢媛命の妹)
  • 日本書紀の日本武尊
    ▼日本書紀 巻第一 神代上
    之上、常有雲氣、故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙劒。」素戔嗚尊曰「是神劒也、吾何敢私以安乎。」乃上獻於天神也。然後、行覓將婚之處、遂到出雲之淸地焉。淸地、此云素鵝。乃言曰「吾心淸淸之。」此今呼此地曰淸。於彼處建宮。或云「時、武素....→ このページで合計1件ヒット
    ▼日本書紀 巻第七 景行天皇~成務天皇
    本童男童男、此云烏具奈、亦曰日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉、身長一丈、力能扛鼎焉。三年春二月庚寅朔、卜幸于紀伊國將祭祀群神祇、而不吉、乃車駕止之。遣屋主忍男武雄心命一云武猪心、令祭。爰屋主忍男武雄心命、詣之居于阿備柏原而祭祀....→ このページで合計35件ヒット
    ▼日本書紀 巻第八 仲哀天皇紀
    彥天皇 仲哀天皇足仲彥天皇、日本武尊第二子也。母皇后曰兩道入姬命、活目入彥五十狹茅天皇之女也。天皇容姿端正、身長十尺。稚足彥天皇卌八年、立爲太子。時年卅一。稚足彥天皇無男、故立爲嗣。六十年、天皇崩、明年秋九月壬辰朔丁酉、葬于倭國狹城....→ このページで合計1件ヒット
  • December 2018 編集されました
    宝賀寿男氏の著にこの町の「阿曽」が書かれてありました。
    「揖保郡太子町には阿曽の地名が残り当地付近で阿宗君が奉斎した揖保郡の阿宗神社がある。応神巡幸の伝承も『風土記』にみえるが、天皇一族として異例なほど応神が播磨の記事に頻出することに留意される。このように系譜を考え直した場合、息長帯比売と息長日子王の父である息長宿王とは、実態が稲背入彦命にあたるとみられ、これが息長田別命の子に位置づけられる。
    針間国造一族(針間直、佐伯直)及び吉備品遅君・播磨阿宗君が稲背入彦命の後裔で、鍛冶氏族の「息長氏」の系統で、前王位を剥奪した。応神天皇はその息長氏の出であった。」

    『播磨国風土記』佐岡揖保郡太子町佐用岡 、神尾山
    『佐岡 。佐岡と名づくる所以は 、難波津宮天皇の世に 、筑紫の田部を召して此の地を墾らしめたまひし時に 、常に五月を以て此の岡に集聚ひて飲酒み宴しき 。故 、佐岡と曰ふ 。 』
    難波津宮天皇 (仁徳天皇 )の時に 、筑紫 (北九州 )の田部を呼んで 、この地を開墾させられた 。田部は故郷を懐かしみ毎年 、五月にこの岡で農事慰労の酒盛を開いた 。それで此処を佐岡と言うようになった 。

    田部氏とは朝廷の直轄地を開墾する為に 、仁徳天皇が九州から召し寄せた鉄器製造技術を持つ氏族である 。この佐岡に 6 0 6年に推古天皇が佐岡の水田百町 (実際は 2 1 9町 1段 8 2歩 )を聖徳太子に与えた 。 6 0 9年 、春 2月には大部屋栖野古 (大伴連の先祖 、紀伊国名草郡出身 )をその水田の司とした (日本霊異記 )。現在の兵庫県揖保郡太子町鵤 の「斑鳩寺」です。
  • 01/13編集されました
    歴代天皇の中で唯一息長の名を持つ29代舒明天皇(息長足日広額、おきながたらしひひろぬか)の父は敏達天皇の皇子、忍坂日子人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのみこ) 母はその異母妹、糠手姫皇女(ぬかでのひめみこ)書紀では田村皇女の名で記されています。
    忍坂日子人大兄皇子は敏達と息長真手王の女、比呂比売の間に生まれているので、舒明の父、祖父さらに遡れば26代継体天皇まで濃淡はあるが息長氏との繋がりが見られる系譜伝承になっています。この舒明天皇の陵墓は桜井市忍坂にある段の塚古墳で3段築成の方形壇の上に2段築成の八角墳が築かれています。文久年間の「山陵考」によると南面が崩壊し石室が露出したとあり石室内に二基の家型石棺がおかれ、奥の石棺は横向き、前の石棺が縦向きに安置されているそうで舒明と母の糠手姫皇女の合葬陵といわれています。また忍坂日子人大兄皇子の叔母、大伴皇女の忍坂内墓もここにあります。舒明陵のある所は今、外鎌山と呼ばれていますが近世まで忍坂山と呼ばれていたそうで麓に式内忍坂坐生根(おっさかにいますいくね)神社が鎮座し祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)ですが本殿はなく背後の宮山がご神体になっています。

    地元には息長氏が勧奨した神社という伝承もあるが真偽の程は不明です。忍坂の西には神功皇后の磐余宮の伝承地もあり、また六世紀の磐余には天皇の諸宮がこの地に置かれて、この地に王権の武器庫があり、刀剣や武器・鉄器製作の鍛冶工房があり、王権の軍事力を支える基盤になっていたようで、その生産と管理にあたつていたのが息長氏だったという伝承もあります。
  • 01/13編集されました
    允恭皇后の忍坂大中津比売も息長氏族の出身者だといわれ。
    忍坂には、こうした息長伝承が色濃くありますが、残念ながら決定的な文献史料は存在せず伝承地の域から抜け出せません。上の写真は忍坂日子人太子の墳墓伝承のある奈良県北葛城郡広陵町の馬見古墳群にある牧野ばくや古墳で円墳で巨大な花崗岩の石室で長さ7m、幅3,3m、高さ4,5mで刳抜くりぬき家形石棺と組合せ石棺が納められていたそうですが組合せ石棺は盗掘で完全破壊されていたそうです。それでも副葬品の金銅製の馬具・武器・装身具・土器等が出土したといいます。

    皇后がまだ母と一緒に家においでになつた頃、闘鶏国造つげのくにつくりが側を通りかかり大中津比売に無礼なおこないがあったことを忘れずに皇后になられてから、その折の無礼な振る舞いを責めて姓を稲置いなきに落とされた記述があり、この時大中津比売が居たのが忍坂宮で闘鶏国造とは今の奈良市都祁つげの事だと思われます。この時点では大中津比売は母の弟比売真若おとひめまわかと忍坂に居住、此処で成長したので忍坂の名が付いたのでしょう。またこの忍坂に居住していたのは皇后になる十年から十五年前ぐらいと推定すると允恭二年は西暦413年ですから398~403年頃となります。「書記」(646)大化二年三月二十日条、に『群臣・連・及び伴造とものみやつこ・国造くにつこの所有する昔の天皇の時代に置かれた子代)の入部いりべ皇子たち私有の名入りの私民、皇祖大兄すめみおやのおおえの名入りの部五百二十四口、屯倉は百八十一所を献上します』という皇太子、中大兄皇子なかのおおえのみこの入部・屯倉献上の記述があります。
    この入部・屯倉は「皇祖御名入部」で大和国忍坂だといわれていて允恭天皇皇后の忍坂大中津比売の名代なしろで、この忍坂部が忍坂大中津比売から一世紀を経て忍坂日子人太子→田村皇子(舒明)→中大兄皇子にと引き継がれています。この膨大な「皇祖御名入部」の管掌者が息長氏であったともいわれています。因みに忍坂日子人太子は敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・比呂比売(広姫)で舒明天皇・茅渟王の父に当たる人です。
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