佐々木盛綱、越後の加治城、佐々木加治春綱

December 2018 編集されました カテゴリ: 近江
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盛綱流 佐々木盛綱、加治春綱、加治氏 佐々木氏は、近江国を発祥の地とする宇多源氏の一流である。 宇多天皇の玄孫…

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  • 藤戸社

    藤戸神社 藤戸社 (新発田市)

    古くは加治明神と称した神社。
    社伝によると、創祀は文治五年(1189)。
    鎌倉時代、佐々木盛綱が加治荘の地頭職となり、要害山に築城した際に、祖先を祀ったという。

    式内社・美久理神社の論社の一つであるが、社伝が正しければ、平安時代に存在していた式内社ではない。ただし、菅與吉の『菅谿史跡』において当社を美久理神社に比定しており、『神社覈禄』にも、沼垂郡加治郷白山権現(当社のこと)としている。

    思うに、佐々木盛綱が加治城を築城する際に、
    当地に存在した式内社・美久理神社を、城郭の一角に組み込み藤戸社とした可能性があるのかもしれない。

    当社を建立した佐々木盛綱は、源平の藤戸合戦で名を上げた武将。藤戸社の社号は、その備前の地名(倉敷市藤戸町)から取られたらしい。

    藤戸合戦とは、寿永三年(1184)、
    倉敷沖の藤戸(児島)に陣を構える平家を攻めあぐねていた源氏にあって、
    海峡に浅瀬の存在を知った佐々木盛綱が、騎馬で海峡を渡り、
    先陣をきって、平家を屋島まで敗走させた戦い。
    能の演目(『藤戸』)にもなっている有名な話。
  • 加地の伝説 蔵戸屋の話-宝物を貸し出す狸-

    大字 茗 荷谷には、昔から蔵戸屋話が伝わ っていました。
    たまたま、昭和初期より国有 林の伐採が、年次計画で始まり、次々と伐採 されて蔵戸屋周囲も遂に地膚を現したとき以 来、また蔵戸屋話がもちあがり、近郷近在の 人達が物珍しさに、毎日のように列をなして 見物に来ました。

    その蔵戸屋話と申しますと......。

    佐々木盛綱を始祖とする加地氏は、最後の殿様景綱(1559~1646、越後に土着し上 杉遺民一揆で敗れ、その後隠居し万休斎と称し87歳没)にいたるまで19代も続いていますが、この話は景綱の祖父加地春綱(生没 不詳:戦国時代の上杉家臣団)のころの話と考えられます。その春綱が、加地家の将来を 考えた時、戦国大名は、いつ、どのような事がおこり滅亡してしまう運命になるかもしれ ない、と思い、先祖代々伝わる重宝、珍器を今のうちに隠そうと、城の西に洞穴を探しあ て、そこに運び入れました。そして、春綱は洞穴に長く住みついている狸を呼び、この洞 穴に隠した重宝を、末ながらく守ってくれる様にたのみました。こうして、加地家の重宝、 財宝は、蔵戸屋の奥深くに隠されました。ところで、春綱の杞憂は的中し、それから何十年もたたない中に、上杉謙信(1530~1578)が亡くなり、後継者争いの御館の乱(1578年、上杉謙信急死後に上田城主長尾政景の次男で母は謙信の姉である養子上杉景勝と小田原城主北条氏康七男である養子上杉景虎による家督相続争い。加地春綱の子、秀綱は景虎側につき敗戦。)が起こりました。 すでに春綱は亡くなって、その子秀綱の代になっていましたが、この乱で秀綱(1552~ 1587、35歳没。母は上杉謙信の妹なので謙信の甥にあたる)は討死をとげ、加地城も 滅亡しました 。
    そうして月日は流れ、徳川幕府が江戸に開かれ、平穏な日が続くようになると、加地城 下に住む者の中に、どこから聞いたのか、加地家の財宝が狸に守られて蔵戸屋に隠してあ ることを知っている者がありました。
    ある時、自分の家に大きな祝い事があり、膳、椀の類がどうしても足りず、大変困って いたところ、あの蔵戸屋の話を思い出し、さっそく洞穴の前に立って「狸どん、私の家に 祝い事があるが、皿や膳が足りないので、どうか貸してもらいたい」と頼みました。そし て、2日目の朝に洞穴の前に行ってみると、皿や膳が揃えてあり、祝い事が終わると、そ れを返しました。
    ところが、そのことが知れ渡り、次から次へと借りる者が出て、大変便利でしたが、中 に借りた物を返さなかったりするので、狸も貸し出しをしなくなりました。また、春や秋 に、この洞穴の方向にあたってガラッガラッと、大きな音がすることがありましたが、こ れは蔵戸屋の扉をあける音で、その方向によって、作物の豊作や凶作も占ったとのことで すが、この音も、聞かれなくなりました。 (奥村 功)
    (「しばたニューライフ第26号 昭和60年1月15日 3面より)
  • 源平の合戦で勇名を馳せた佐々木盛綱は、源頼朝から越後守護・ 加治荘地頭に任命され、今の新発田市一帯を収めます。
    のちに新発田城の城主となる新発田氏は、盛綱を祖とする加治氏の傍流。
    加治氏は19代の景綱を最後にお家断絶の憂き目に遭いますが、その景綱が晩年居を構えた地がここなのでした。萬休斉は、”万事休す”から来ているものと思われ、景綱の晩年の心境が読み取れます。
    菅谷地区
    南に二王子山の勇姿を抱き、素晴らしいロケーション。万休斉を名乗った佐々木景綱の墓がここにあり、位牌は香伝寺に安置されています。
    香伝寺
    ニノックススキー場へ行く途中の集落にある。
    境内は広く、庭園もなかなか見応えがあります。
    さて、この地に赴任してきた佐々木盛綱が居城を構えたのが、櫛形山脈の南端に位置する要害山(166m)です。
  • 加地氏の人物は鎌倉・室町期の秀忠(忠秀)・貞綱・近江四郎・氏綱・景綱であり、六角氏の人物は鎌倉期の信綱・頼綱・泰綱である。

    南北朝期の加地氏の人物が浮かび上がってくる。もちろん六角氏の人物と実名が重なる人物もいる可能性があり、取り除くにも慎重さが必要であろう。資料に基づきながら構成することがのぞまれる。越後加地氏の系譜は、鎌倉期と戦国期の間が断絶していて不明なことが多い
  • 盛綱流佐々木氏では、盛綱の嫡子兵衛太郎信実が源頼朝の面前で工藤祐経を傷つけたことから次男左衛門尉盛季が跡を継いでいたが比叡山堂衆との抗争で戦傷を負い、三男左兵衛尉盛則が在京御家人として活躍していた。しかし承久の乱では越後加地荘に逼塞していた信実が越後守護北条朝時の副将となり備前守護を獲得し、京方であった盛則は没落した。佐々木加地氏は敗者を御内人として復活させた一例といえる。こうして加地氏は備前守護家であるとともに、越後守護北条氏の守護代となった。

     越後守護代で確認できるのが信実の五男義綱(倉田権五郎)の孫佐々木加地有綱(筑後守)である(三浦和田氏文書)。また信実の七男氏綱(七郎左衛門尉)は鎌倉で御家人に列して、佐々木加地氏の本流となっていた。その子孫は大宰権少弐など顕官に補任されている。
     元弘の変では、加地時秀(小島時綱の子太郎左衛門尉)、隠岐清高(隠岐前司)、大原時重(備中前司)、および京極氏の佐々木善観(近江前司)・導誉(佐渡大夫判官入道)兄弟ら佐々木一族は上京し、善観・導誉兄弟は近江瀬田橋を警固、六角時信(近江守護)、加地時秀、隠岐清高、大原時重らは比叡山攻めの将になっている(光明寺残篇)。また、『太平記』巻七「赤松勢の蜂起」に討伐軍として見える備前守護加地源二郎左衛門尉は、加地時秀の近親者であろう。しかし、『太平記』巻十四「朝敵(足利尊氏)征討軍の下向」では、新田義貞率いる征討軍に佐々木塩冶判官高貞とともに佐々木加地源太左衛門尉(時秀)が見えることから、どこかの時点で時秀は宮方に投降したのだろう。
     南北朝期になると佐々木加地氏の本国越後では、七郎左衛門尉氏綱の曾孫佐々木加地景綱(近江権守)が北朝方の越後国大将になり、また佐々木忠清・忠枝父子が新田義貞に属し、一井貞政が戦没すると忠枝が越後守護代になった。この佐々木忠枝を越後守護代にすると述べた南保重貞宛新田義貞書状が、義貞最後の文書である。十郎左衛門尉忠清・弥三郎忠枝父子は、「忠」の通字と新田氏との関係から、信実の次男実秀(大友二郎左兵衛尉)の子孫越後加地氏ではなく、信実の長男秀忠(太郎左衛門尉)の子孫上野磯部氏と考えられる。
     佐々木近江権守景綱が北朝方の越後国大将であったことは、建武三~五年(1336-8)に発給された色部高長軍忠状案(色部文書)で知ることができ、建武三年十一月十八日付羽黒義成軍忠状写(中条家文書)では「大将軍佐々木加地近江権守景綱」と記されている。
     景綱が上洛のあいだは、佐々木加地宗敦(越前権守)が国大将になっているが(色部文書)、宗敦は時宗の一字書出を名乗っていること、またすでに越前権守を受領していることから、景綱の有力近親者であったと考えられる。『梅松論』建武三年五月足利尊氏が上洛に際し備前小島に着岸したとき、加地越前守が仮御所を作って奉仕しているが、この越前守と越前権守宗敦は同一人物であろう。越後国大将を任されるにふさわしい経歴であり、景綱の一世代前と考えられる。
     建武五年(1338)三月日付色部高長軍忠状案(色部文書)では、色部高長が佐々木七郎右衛門尉時経・太宰五郎宗綱に属して加地荘桜曽弥で戦ったことを賞されており、景綱の一族に時経・宗綱がいたことが分かる。時経と宗綱は仮名が異なるものの続群書類従や尊卑分脈に見える。とくに宗綱は尊卑分脈や続群書類従本では大宰権少弐と伝わるが、その仮名「太宰五郎」は大宰府官人の子息五郎という意味であり、父が大宰権少弐であったことが分かる。もちろん本人もそののち大宰権少弐に任官した可能性がある。宗綱(太宰五郎)・時経(七郎左衛門尉)を仮名の順に並べることができ兄弟と考えられるが、時経の通称「七郎左衛門尉」は、初代氏綱の通称「七郎左衛門尉」と共通であり、しかも排行名では五郎・七郎の順だが、色部高長軍忠状では七郎(時経)・五郎(宗綱)の順で記しており、尊卑分脈でも時経を氏綱の末子としている。そうであれば時経が叔父で、宗綱が甥となる。これは尊卑分脈や群書類従本と矛盾しない。尊卑分脈では景綱の父を宗綱とする。
    出典
    http://blog.sasakitoru.com/201003/article_1.html
  •  また越後の資料である嘉元二年(1304)七月十八日付左衛門尉宗経・同盛房連署請文写(山形大学中条家文書、新潟県史一七七〇号)に「左衛門尉宗経」とあり、幕府の命令で加地荘内の争論の使節を左衛門尉盛房とともに勤めており、越後での活動も確認できる。盛房は「盛」の字を使用することから盛綱流佐々木加地氏の一族と考えられる。
     そうであれば、景綱の父宗綱(四郎左衛門尉宗経)と建武五年当時まだ任官していない太宰五郎宗綱とは別人であり、太宰五郎宗綱は七郎左衛門尉氏綱の次男左衛門尉経綱の子宗経と考えられる。系図では宗綱と宗経が逆になっており、混同が見られる。

  • 加地城主の加地氏は現在の新発田市、加治川村を中心とした加地庄地頭として栄え、新発田氏、五十公野氏、竹俣氏などの多くの支族を輩出した名門でした。しかし、御館の乱後、上杉氏に叛旗を翻した一族の新発田重家の乱で上杉氏と対立、景勝の軍勢に攻め込まれ落城します。その後は上杉氏に仕えたようですが直臣扱いではなかったらしく、軍役帳でも「加地某」とナニガシ扱いされています。上杉氏の会津移封後は多くの諸侯が会津へ同道する中、加地氏はこの地に残ります。その後のことはよく分かりませんが、一族の中には帰農したか、あるいは新発田城に入城した新発田藩・溝口氏の藩士になった者もいたことでしょう。
  • January 2017 編集されました
    飯能市東の加治氏 加治城

    越後の加治氏とは異なる。
    玉宝寺は加治藤兵衛頼胤の旧居所をそのまま寺地としたのかもしれない。
    中世の加治郷は飯能市の中心部から元加治駅周辺まで非常に広い範囲であり、加治氏を称する武人の足跡も加治郷内は元より東は所沢から西は秩父まで広く分布している。

    『寛政重修諸家譜』に載る系図は、この頼胤を初代として始まっている。
    二代胤勝は北条氏康に仕え、その子の三代正胤は赤沢に住み、徳川家康の関東入りの時に召し出されたと云う。
    正胤の嫡子直胤は家を継ぎ、次男の盛胤は水戸徳川家に仕えてた。おそらくこの出仕も水戸藩付家老となった中山信吉とのコネクションによるものと考えられる。

    「藤兵衛」という通称は江戸時代も五代則胤、六代忠胤、八代駛胤(よしたね)も名乗っている。
    この藤兵衛という通称が、その後の加治氏と飯能との数少ない共通項なのかもしれない。

    加治家の葬地も赤沢から能仁寺、そして高田馬場にあった浄泉寺へと換わり、飯能との結びつきは時代と共に希薄となっていったようである。
    浄泉寺も後に松雲寺と合併、さらに現在中野区上高田にある宗清寺と合併して寺号は消えてしまっている。

    時は移りゆき人が生きた痕跡が消えてゆくのは自然なことである。
    しかし郷土武人として有名な中山氏の母体であったはずの加治氏が、現代の飯能で広く顕彰されていないのは非常に寂しく感じる。

  •  加治城は、櫛形山系南端部にある要害山に築かれている。 山頂の主郭からは、眼下に水田が一面に広がる『米どころ新潟』の姿を一望することができる。

     要害山の西麓の藤戸神社から登城道があり、途中二重の堀切を見ながら急な坂道をロープにつかまりながら登る。

     城の縄張りは、山頂の主郭と主郭を取り囲む帯曲輪を中心に、北と西へ伸びる尾根筋にそれぞれ段曲輪群が構築されている。 北の尾根筋の曲輪群は、4条の堀切で区分され、この城の水の手もこの一角にあった。

     西の尾根筋は、藤戸神社から登城道を登り詰めたらこの曲輪群へたどり着く。 ここには両袖の土塁を伴う虎口、土橋を伴う箱堀状の堀切など、ブッシュにほとんどの曲輪が覆われているが、遺構が良く残り、山城好きにとってはたまらない一城だと思う。

    歴史
    加治城は、築城年代は定かでないが加治氏によって築かれた。 加治氏は、鎌倉時代初頭に加治荘の地頭となった佐々木盛綱を祖とし、盛綱の子信実が加治氏を称した。

     戦国時代、有力国人として勢力を誇った加治春綱は、上杉謙信に従い本庄・中条氏らと共に重臣の一人と数えられた。

     春綱の跡を継いだ秀綱は、天正9年に一族新発田重家が上杉景勝に叛旗を翻すと、これに加担するが、天正15年には景勝の軍勢に加治城は攻められ落城し秀綱も討ち死にした。
  • 宇多天皇の玄孫である源成頼が近江国佐々木荘に下向し、其の地に土着した孫の経方が佐々木氏を名乗り、
     其の経方を曽祖父とするのが、佐々木盛綱(加地盛綱)で有る。
      盛綱の父佐々木秀義(源三秀義)が、平治の合戦に源氏方が大敗した際、佐々木荘を捨て、
     一族郎党等を引き連れ、伯母の嫁ぎ先である奥州平泉の藤原秀衡(ひでひら)を頼り都落ちした。
      其の後、盛綱は三河守源範頼(頼朝の異母弟)に従い、「藤戸合戦」に参戦し、
     遠縁の備前国邑久郡豊原庄の豪族飾磨三宅氏三宅武範の知恵(平家物語の巻十[藤戸の事])に依り、
     勝利を得、其の功績で頼朝から、備前児島を与えられ、備前源氏と称す。
      其の後、上野国・越後国・讃岐国・伊予国を統治し、盛綱自身は上野国磯部(古くは伊勢部)荘を隠棲地とし、
      東磯部4丁目の松岸寺に佐々木盛綱公夫婦の墓が有り、範長公は佐々木盛綱の六世裔で有る事から、
     高徳公・先祖三宅藤原芳高等一族は、磯部城に在する盛綱一族と行き来していた。

    尚、盛綱の弟佐々木四郎高綱の後裔が、乃木希典大将で有る事は有名です。
  • June 2017 編集されました
     宇多天皇から数えて10代目。5代目の重頼が初めて佐々木氏を名乗ったとされていますので、重頼から数えて6代目にあたるのが佐々木三郎盛綱公です。盛綱公は5代目秀義の三男です。

     太郎 定綱・二郎 経高・三郎 盛綱・四郎 高綱・五郎 義清の五人兄弟は父秀義とともに頼朝の鎌倉幕創設に協力し大く貢献した為頼朝の信頼が厚く、長男の定綱が近江の守護職になったほか、一族で17箇所の護職になったと伝えられています。
     この中でも頼朝が最も深い信頼を寄せていたのが、三男の三郎盛綱であり、盛綱は伊予の国(愛媛県)守護職を主として、備後の国(岡山県)の児島、越後の加地、上野の国(群馬県)の磯部など荘園を支配していいたといわれています。

     加地の庄の地頭となってからは平安時代から越後の国を支配してきた平氏の一族で、現胎内市中条町の鳥坂山の城 資盛の反乱を平定し、越後の守護にもなりました。盛綱が加地の庄を支配していたことから、長男の信実は加地明神の社前で元服し、「加地太郎信実」と名乗ったということです。当時は統治している土地の地名を名乗る慣わしだったのでしょう。 盛綱公の長男信実が越後加地氏の初代ということになります。

     信実公の8人の子供がそれぞれ独立したわけですが、長男 秀忠を除く次男 実秀以下八男 信朝までの7人がそれぞれ加治氏、新発田氏、新津氏、竹俣氏、桜井氏、福王寺氏、嶋氏という所謂「加地の七家」となり、その子孫は19代、約400年の長きに亘って榮え、この地方を支配したといわれています。

     加地太郎信実公から数えますと加地17代である加地安芸守春綱公が、村上の曹洞宗の古刹、耕雲寺の八代目の住職として招かれ、加地の庄であった倉光に新しく曹洞宗の「香伝寺」を建立し、加地氏の菩提寺とされたとの史実を、香伝寺三輪住職様からお聞きしました。
    出典
    http://www.n-shigaken.com/niigata.kodenjikoen.html

    耕雲寺(村上市):
    村上市門前にある曹洞宗の古刹です。創建は応永元(1394)年、楠木正儀くすのきまさのりの次男と伝わる傑堂能勝禅師けつどうのうしょう禅師により開基されたと伝えられます。室町期には一時 寺領を地元民に横領され寺勢の衰退をきたしましたが、戦国期には越後守護職上杉氏や岩船郡の国人領主本庄氏、鮎川氏の庇護を受けて次第に勢力を回復し、境内に七堂伽藍が立ち並ぶ下越の一大宗教施設に成長しました。江戸期には代々の村上藩主の崇拝を受けて百五十石の寺領を安堵され、幕府からは十万石の大名と同じ格式が与えられました。しかし明治19(1886)年の火災により全伽藍は焼失。唯一 残った鐘楼(元禄15 1702年創建)が山門として残存しています
  • June 2017 編集されました
    新発田
    曹洞宗 神応山 香傳寺(こうでんじ)

    『治安元年(1021)平保比丘尼の開基と伝えられている。
    当時神応院と号し天台宗であった。文治元年(1185)佐々木盛綱が加治城主となり、城主の菩提寺であった。天正年間(1573~92)十五代安芸守春綱の代に小館に再興し、曹洞宗に改宗、村上の耕雲寺八世固剛宗厳和尚を請して開山とし、香傳寺と公称した。
     しかし、その後間もなく戦乱の中で佐々木氏滅亡とともに堂宇焼失したが、大檀越関甚兵衛等が伽藍を整備し今日に至っている。境内に阿弥陀堂がある。』
      「新潟県寺院名鑑」より

    山号は霊樹山。本尊は釋迦牟尼佛如来。新潟県における最初の曹洞宗寺院。応永元年(1394)傑堂能勝禅師が開創したが、師の梅山聞本禅師を請して開山とする。残念ながら壮大な伽藍は明治19年(1886年)山門を残して、悉く焼失してしまった。直末、80余の寺院を有し、全国的にも屈指の古刹である。〔村上市〕

    特徴
     新発田市蔵光の、香傳寺境内一帯が蔵光館と伝えられている。周囲を取り巻く土塁跡は、いかにも中世の豪族の居館跡と言う雰囲気を醸し出しているが、方100mの規模で他に堀跡と思しき箇所があり、佐々木加地氏の菩提寺との石碑があることから、加地城城主の誰かが居住していた時期があったのであろうか。
    この地域からは北西の方向に加地氏の要害のあった山々がよく見える!
  • June 2017 編集されました
    佐々木加治春綱
    杉林の中にある墓所
    家紋の「四目菱」に佐々木氏関連の墓所

    加地庄は『吾妻鏡』の文治2年(1186)3月12日の条に
    「越後国加地庄、金剛院領、堀川大納言家沙汰」とあり、その後鎌倉時代になり城氏の領地支配から加地庄地頭として
    宇多源氏系の佐々木三郎盛綱が入封し加地氏を名乗った。櫛形山脈の南端に要害山があり

    佐々木氏の本拠と考えられている。加地城がある。
    その後、惣領家から庶士家が別れ竹俣氏、五十公野氏、新発田氏、楠川氏、古川氏など名乗った。

    佐々木春綱は18代目地頭で、永正8年(1511)に生まれ、幼名を彦次郎、元服して安芸守春綱と称した。没年不詳で天正6年(1578)6月~天正7年にかけてと考えられていて
    法名は楽翁である。
    上杉謙信に仕え本庄繁長、色部亨長、中条藤賢、竹俣清綱、
    新発田長敦、姉崎景家らと並び七年組大将として重用された。

    享禄3年(1530)、上条の乱が勃発するとこれに呼応し
    本庄房長・鮎川清長・水原政家・黒川清実・中条藤資・五十公野景家・新発田綱貞・竹俣昌綱らと共に上条定憲に従い
    守護代長尾為景に背いた。窮した為景は春綱に娘を嫁がせることで講和し、為景死後は上杉謙信に仕え重く用いられた。

    1564年には飯山城を任されている。永禄4年、謙信が小田原攻撃の際の諸将に川中島先陣5将に春綱の名前もある。天正6年(1578)上杉謙信の死後、家督相続をめぐって景勝と景虎が相続争いとなり、越後全土の国人をも巻き込んで御館の乱がぼっ発した。天正7年(1579)、景虎方は御館に籠城し、
    景勝は大軍を府中に進軍させ御館を攻撃し落城させた。
    新発田地域では景虎方に春綱がついたと考えられているのが定説であるが、景勝方であったという説もある。

    跡部大炊助勝助の諸将に宛てた天正6年(1578)の6月7日の書状、勝頼越後出馬云々という内容があり、その諸将の中に加地安芸守の名前があり景勝方であったという事がわかるという。春綱は景勝の伯父という立場で支援した可能性が指摘されている。

    新発田市蔵光の香伝寺は佐々木盛綱の菩提所で天正年間(1573~1592)に、春綱が蔵光小館(http://blogs.yahoo.co.jp/rekisi1961/10831759.html
    に再興している。

    春綱が居城した加地城の東側の沢を字「山沢」、通称「お墓沢」と地元で呼んでいる場所がある。
    杉林の中の少し小高い場所に明治38年頃建立された加地春綱の墓、加地氏先祖の墓、日露戦争従軍碑、乃木大将碑がある。
    加地秀綱が父春綱とともに景勝方として戦ったが春綱の死後景勝の論功行賞に不満を持ったのか景虎方につき五十公野氏の攻撃で落城した。
    この沢は加地秀綱一族が自害した場所と伝える場所である。

    引用参考文献
    飯田素州2005「越後加地氏と新発田氏の系譜」新潟日報事業社
  • June 2017 編集されました
    佐々木安芸守春綱
     永禄二年(一五五九)十月二十八日の「侍衆御太刀之次第」に披露太刀の衆として名を連ねている。天正三年(一五七五)二月十六日の「上杉家軍役帳」によると彦次郎春綱は鑓百八丁、手明十五人、鉄砲十丁、大小旗十、馬上十五騎の百五十八人の軍役を負担した。天正五年(一五七七)十二月二十三日の「上杉家家中名字尽手本」に「宗七郎」の名前が登場している。慶綱は、天正五年(1575)十一月二十二日死亡した。享年六十七歳であった。

    その子秀綱は謙信公の妹の子であり、謙信公に従って度々川中島に出陣して大功をたてた。謙信死後に起こった「御館の乱」には、景勝を退けて景虎を援けんとした。しかし、、景勝方の新発田重家と五十公野道寿斉に居城を急襲されて戦死した。時に天正十五年(1587)八月 三十五歳の若さであった。
    秀綱の子景綱は父が戦死の時は十四才で新発田重家方も親類の関係もあり一命をとりとめたのである。その後。慶長五年(1600)、竹俣壱岐守とともに越後浪人一揆を起こし上中越方面で勢を振るった。しかし、村上の戦いに敗れて、旧領地に隠居して旧臣の援助を受けて暮らし、その後、剃髪して萬休斉と号し正保四年(1646)八十七歳で死去した。

    慶長三年(1598)1月10日、越後の上杉景勝が、豊臣秀吉から会津への転封を命じられました
  • 春綱1509ー1575 秀経子彦次郎安芸
    秀綱1553ー1587 春綱子宗七郎但馬
    景綱1574ー1646 春綱子右馬
  • June 2017 編集されました
    越前佐々木加地氏の惣領は、氏綱(七郎左衛門尉)―宗経(四郎左衛門尉・大宰権少弐)―宗敦(越前権守)―景綱(近江権守)―氏綱(近江四郎)となる。
  • June 2017 編集されました
    三河 吉田城 (豊橋市)

    牧野氏
    三河牧野氏は戦国時代までに主に東三河の宝飯郡を中心に渥美郡・八名郡の一部を含む地域に分布した土豪として栄え、中でも牛久保城と吉田城に居城した牧野氏は国人領主に成長した。その係累・庶流もおおむねこれに従属したが、戦国乱世の合戦の優勝劣敗の結果、西三河地方や尾張国をはじめ他国に流れて移住したものもあった

    牧野氏の築城した城として、宝飯郡内に牧野城、牛久保城、正岡城、瀬木城などがある。また渥美郡には今橋城(のちの吉田城)を築城した。
    他に旧渥美郡内(現・豊橋市域)の和田地区に和田城、馬越地区に馬越城があり、いずれも牧野氏に由来のあるものと伝えられるが、事実関係は明らかにされていない。伝承が事実なら牧野古白の今橋築城以前の文明年間あるいはそれ以前に渥美郡内に牧野氏の根拠地があったことになる。 

    讃岐屋敷が牧野氏の居館
    讃岐屋敷の呼び名は牧野氏が讃岐国より来住したことによるという。
    宝飯郡牧野村柳貝津(古名・讃岐貝津、現・豊川市牧野町)に近年まで牧野氏の居館の讃岐屋敷があったが伊勢湾台風で壊れて荒れ果て、現在は豊川市に寄付され公園となっている

    宝飯郡牧野氏の初見史料は、嘉吉3年(1443年)牛頭天王社を「奉勧請牧野右馬頭御建立」と判読される豊川市石原所在の中条新草神社の棟札であるが、この棟札自体の年月は延宝9年6月(新暦1681年7月)になっている

    三河国渡来の時期について、牧野氏先祖が、承久の乱の時に鎌倉幕府(北条執権政権)の軍に参陣し、鎌倉方に対する戦功の恩賞として三河国宝飯郡牧野村の地頭に補せられ、その地名を名字としたという鎌倉時代(及びそれ以前)渡来説(→牧野村移住と地頭補任)と、室町時代の応永年間に阿波・讃岐の豪族であった田口氏の一族が三河国に渡来、同郡の牧野村に牧野城を築城してその地の領主となったという室町時代渡来説(→田口成方・成富父子の移住)がある。また、渡来した人物についても複数の伝承があるが、客観比較が可能な史料が乏しいために明確な見解の統一はなされていない。

    長岡藩々主家の牧野系図『牧野系図・姓』・『牧野家系図(本国三河・田口朝臣姓)』(いずれも長岡市立中央図書館蔵)の記述内容によれば、三河の牧野氏先祖は鎌倉時代承久の乱までに田口教良の子、牧野成朝・牧野成継兄弟が阿波国(または讃岐国)より三河国中條郷牧野村に移住、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府北条執権政権に加勢して功を認められ地頭になったとする[
  • June 2017 編集されました
    長岡藩主牧野家の『牧野家系図(本国三河・田口朝臣姓)』(前掲)の記述によれば、応永年間に讃岐国より田口成方・成富(成留)父子が舟にて渥美郡牟呂津に着船、同地の牟呂八幡宮に寄宿したという。成富の系はその子成時(白)、孫の信成と続く後の今橋城主の系(田蔵系)となる

    田口 成良(たぐち の しげよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・豪族。粟田成良、重能・成能とも

    別名 粟田成良、阿波民部大夫、阿波民部重能・成能、重良
    官位 従五位下、民部丞、阿波守
    主君 平清盛
    氏族 紀氏、田口氏または粟田氏

    紀氏の流れを汲み、弘仁元年(810年前後)に阿波守に就任した田口息継の後裔とされる。これに対して、『山槐記』治承2年10月19日条に「内舎人粟田則良」の名前があり、かつ同国の在庁官人として粟田氏が存在することから、田口氏は誤伝で正しくは粟田氏であるとする説もある。

    阿波国、讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安3年(1173年)、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。

    『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。しかし、『吾妻鏡』には平氏方の捕虜に成良の名が見られ、正否ははっきりしない
  • June 2017 編集されました
    「阿波廃城考」に

    或記に云、武内宿禰之後胤阿波真人広記(天智天皇御宇の人)十二代之後孫阿波助国風(朱雀天皇御宇之人)其の子桜間文治行直其後十代桜間外記太夫良連子無為以甥良遠子桜間助是也而良遠之兄成良阿波民部号勝浦郡之城主也 成良之子伝内左衛門成直(一名教良)号 源平八島合戦之時成良真随従義経云々。(勝浦郡城者今田林寺境内也云)
    出典
    http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/07/07/232606

    田口民部成良こと粟田口成良の祖先を遡れば武内宿禰にあたるとされた古文書が存在するみたいです。或記とは何なんでしょうか。とても興味が湧きます。


    田口大明神

    国府町桜間八幡神社境内にある高さ六尺ほどの五輪塔(凝灰石製)は桜間城主 田口氏の墓と云われています。

    桜間城主であった桜間介能遠は阿波国名西郡桜間を拠点とした豪族。阿波の政治や経済を執り行なう在庁官人の筆頭でありました。
    この神社は明治初め頃まで「田口大明神」と呼ばれていましたが、明治時代になって神社を登録する際に「田口大明神」では県庁が認めてくれないとのことから「桜間八幡神社」にしたそうです。

    桜間介能遠の兄である田口成能は阿波民部成能と呼ばれ、平清盛に仕える四国の将でありました。田口教能 - Wikipedia
  • 凡海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている。天武天皇13年(684年)12月に連姓の50氏が宿禰の姓を授けられたとき、凡海氏もその中にあるので、麁鎌もこの時に連から宿禰になったと見られている。

    大海人皇子(後の天武天皇)は、尾張(現・愛知県西部)の海部の加勢を受けて「壬申の乱(六七二年)」に勝利し皇位 についたとされています。
  • (田内氏)
     田内氏は(たうち・たのうち・でんない、傳内)と呼ばれ、阿波・讃岐・土佐・伊予での名族で、古くは第八代孝元天皇より出て武内宿禰の子、蘇我石川宿禰の子孫。蘇我氏の川堀(大和高市郡田口村より起こり)推古帝田口臣賜い田口姓。子孫、阿波介・讃岐状掾成行(名東大夫)阿波に赴任す、其の子田口阿波太郎成秀(公文所)-田口阿波民部大輔成能(重能・成良)-田内左衛門尉教能(則能・成直)-平三郎成継・・・と続く。土佐の香宗我部の家臣、田内與三郎・次郎兵衛等は教能の子孫。長曾我部氏に敗れる。三河の田内氏も教能の末裔、後の牧野氏。
     通説では壇ノ浦合戦で戦いの途中で平氏を裏切り三百艘をもって源氏方についたとされます。
     田内氏を名乗る祖としては、阿波田口氏族・清和源氏・桓武平氏・菅原氏族等が存在する。
      http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100773.html
  • 武内宿禰の後裔氏族である田口朝臣
    出身。田口筑紫または田口豊嶋の子とする説がある。
    始め石川朝臣姓を称していたが、大宝2年(702年)田口朝臣の本姓に復する。慶雲元年(704年)1月に従六位下より従五位下に昇叙。和銅元年(708年)3月上野守、翌和銅2年(709年)11月右兵衛率に任ぜられる。霊亀元年(715年)4月正五位下より正五位上に昇叙される。『万葉集』に2首入集。

    廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし(万葉集3-296)
    昼見れど飽かぬ田子の浦おほきみの命かしこみ夜見つるかも(万葉集3-297)
  • June 2017 編集されました
    田口 益人(斉明天皇4年(658年) - 養老6年11月20日(723年1月1日))は、飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての官人・歌人。氏姓は石川朝臣のち田口朝臣。官位は正五位上・右兵衛率。

    田口益人大夫が上野の国司に赴任するときに、駿河の清見の崎で作った歌二首
    296 廬原(いおはら)の清見の崎の三保(みほ)の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
     ※「上野」国名、群馬県。
     ※「廬原」静岡県庵原(いはら)郡、現在は静岡市清水区。古代の豪族廬原氏の地。
     ※「清見の崎」静岡県静岡市清水区興津清見寺町の海岸。
     ※「三保の浦」〈三保の松原〉として知られた三保の岬で囲まれた入り海。

        廬原(いおはら)の地の清見崎
        ここから広く穏やかな
        三保の浦を見ていると
        旅の愁いも消えてゆく

    297 昼見れど飽(あ)かぬ田子(たご)の浦大君(おおきみ)の命(みこと)恐(かしこ)み夜(よる)見つるかも
     ※「田子の浦」静岡県静岡市清水区蒲原から由比町にかけての、駿河湾に臨む海岸。富士川の東側、
      富士市田子の浦港のあるあたりではない。

        昼でも飽きることのない
        田子の浦に今着いて
        おそれ多くも大君の
        命(めい)を受けて夜に見る

     ※公的な任務による急ぐ旅だから田子の浦をゆっくり見られないと嘆いている。嘆きは同時にこの地
      を敬う気持ちの表明であり、296と同様、旅する人の作法でもある。
    京都 粟田口の粟田神社
    平安時代 清和天皇貞観十八(876)年春に神祇官並びに陰陽寮より「この年隣境に兵災ありて、秋には疫病多いに民を悩ます」と天皇に奏上されました。そこで直ちに勅が発せられ、全国の諸神に御供えをして国家と民の安全を祈願されました。その際、従五位上出羽守藤原興世は勅使として感神院祇園社(今の八坂神社)に七日七晩丹精を込めて祈願されました。その満願の夜、興世の枕元に一人の老翁が立ち、「汝すぐ天皇に伝えよ。叡慮を痛められること天に通じたる。我を祀れば、必ず国家と民は安全なり。」と告げられました。興世が「このように云われる神は、如何なる神ですか?」と尋ねられると、老翁は「我は大己貴神なり。祇園の東北に清き処あり。其の地は昔、牛頭天王(ゴズテンノウ=スサノオノミコト)に縁ある地である。其処に我を祀れ。」と言われて消えられました。興世は夢とは思わず神意なりと朝廷に奏上し、勅命により直ちに此の地に社を建てて御神霊をお祀りしました。
     
    また一説には、孝昭天皇の分かれである粟田氏が此の地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云われています。
    旧社名は、感神院新宮(カンジンインシングウ)、粟田天王宮と称されていましたが、明治になり粟田神社と改称されました。

    当社の石段下の道は旧東海道・東山道であり、この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口であり、京都を行き来する旅人は旅の安全を祈り感謝し、このお社に参拝されました。何時しか当社は旅立ち守護の神として崇敬を集めております。
  • 尾張牧野氏 - 尾張国愛知郡牧野(名古屋市中村区牧野)を発祥とする牧野氏は尾張稲麿を祖とする大宮司家支流の牧野氏で成海神社神官を世襲。本姓は尾張氏。ほかに、尾張国知多郡大野村に移住した牧野氏もある。三河国渥美郡の吉田城(今橋城、豊橋市)城主であった牧野氏の子孫が吉田城落城の際に落ち延びたもの。田口姓を称す。(詳細→ 牧野信成)

    成海神社は天武天皇の朱鳥元年(686年)熱田神宮神剣飛鳥の都より御遷座のときの創立と伝えられています。

    是は社伝「成海神社故実聞書」のみでなく、奈良朝末期、天応元年(781年)に書かれた「熱田大神宮御鎮座次第本記」に「成海神社は天武の朝、日本武尊御東征の縁に依る祭神」と見えることでも肯けます。ナルミの地は日本武尊の御縁故地として特筆すべき所で、その御東征のとき尾張国の長官であった建稲種命はヒタカ(火高、今の大高)の丘に館を構えてここにお迎えし、妹の宮簀媛命は尊の姤になられました。寛平二年(890年)の記録である「熱田大神縁起」の中には鳴海に関する日本武尊の御歌が四首ありますが、その一つ「ナルミラ(鳴海浦)を見やれば遠しヒタカチ(火高地)にこの夕汐に渡らへむかも」は尊が古の鳴海潟の岸辺で口ずさまれたもので、成海神社は是を縁起としてその故地に創立されたのでした。

    その場所は現今「城」と呼ぶ鳴海駅北の高台で太古は波打際でした。鳴海潟が干拓となって室町初期、応永の代(約600年前)安原氏がここに築城した際、神社は現在の乙子山の地に御遷し申したもので、今も祭礼の日扇川畔で「御船流」の神事が行われるのも尊の御東征の遺意に依るものです。当社が古来「東宮大明神」「東宮さま」の神号でこの地方に広く敬仰されたのも熱田神宮東宮として創立当初から神宮とは格別の縁故が有ったからで、延喜の制では国幣小社として神名帳に登録せられ平安時代以来国家の待遇に与かり来った外、今川義元始め戦国武将尊崇の記録数々蔵し、尾張の名神大社として古地誌にも喧伝され、戦前は県社に列格されていました。

    昭和六十一年神社創始千参百年を寿ぎ、その記念事業としての拝殿・参集殿・直会殿等新築の上式年大祭は盛大に斎行され、宿願の社殿造営と社頭整備の工、ここに竣成し、いやちこに高き神威を敬仰する人夥しい。」
  • 四国出身としない諸説
    三河の牧野氏を穂国造の末裔、あるいは三河一宮の砥鹿神社や尾張成海神社等の神官の末裔ではないかとして、四国の田口氏末裔説に否定的な諸説が存在する。

    穂国造末裔説
    太田亮が戦前に唱えた説である。 太田亮は著書『神社を中心としたる寶飯郡史』で阿波国田口氏末裔説を否定した上で、牧野氏と贄氏は、穂国造の末裔ではないかとするが、穂国造が実在したとする学会での定説がない。


    穂国造が祀る神社は讃岐に所縁があり、尾張鳴海神社もヤマトタケルのとう所縁が有る。
  • 東国最古の神社と蘇我氏

    岩屋古墳の近くにある龍角寺は東日本で最も古い寺院ですが、現在は金堂と塔の礎石跡等を残すだけになって、岩屋古墳を築いた印旛地方の豪族が畿内の有力者と結びつき、仏教をいち早く取り入れ、 その勢力を広げるために一族の寺を建てたものです。
     塔跡の北西に瓦を生産した窯跡があり、「加刀利」などの文字瓦が出土し、五斗蒔瓦窯跡でも文字瓦は大量に出土しており、「朝布」「赤加真」「玉作」などで、絵模様も含めると1800点を数えます。
     龍角寺の創建時期は7世紀後半で、640年代~670年代と思われ、大化の改新直後にあたり、 東国への寺院普及は早かったといえます。
     龍角寺は、大化の改新後に右大臣となった蘇我倉山田石川麻呂が建立した山田寺と関係し、山田寺式の瓦が葺かれており、 伽藍配置は法起寺式とされています。
  • June 2017 編集されました
    平家を逃した田口(粟田)成良
    祖谷に逃れた平家に以下のような伝承が残されています。
    三好郡山城谷粟山城主 田口(粟田)成良(阿波民部重能)は知盛始め諸武将と協議し、成良は源氏に降伏した風を装い、安徳天皇はじめ平家を一門が入水した如く見せかけ、同月二十八日成良自ら天皇を供奉して己が居城である山城谷に導き奉い、二カ月の間御滞在の後、剣山の麓(木屋平村、祖谷山村)に潜行した。

    寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。(Wikipediaより)
  • 松平 忠房(まつだいら ただふさ)は、三河吉田藩の第2代藩主。のち三河刈谷藩主、丹波福知山藩主を経て、肥前島原藩の初代藩主となる。「家忠日記」で有名な松平家忠の嫡孫。島原藩深溝松平家2代。

    興慶院殿大倉令泰雲源通大居士
    墓所 愛知県額田郡幸田町深溝の本光寺
    官位 従五位下、主殿頭、従四位下
    幕府 江戸幕府
    藩 三河吉田藩主→同刈谷藩主→
    丹波福知山藩主→肥前島原藩主
    氏族

    島原藩松平文庫
    幼名:又八郎 島原藩主

    三河吉田(現愛知県豊橋市)に生まれる。祖先が深溝(ふこうず)城(現愛知県額田郡)を本拠としたことから、深溝松平と呼ばれる家系であり、祖父の松平家忠(1555~1600)は徳川家康に仕えた武将。家忠の記した日記は『家忠日記』として知られ、徳川家の初期の動向や当時の武士の生活を伝える。連歌をたしなんだことでも知られる。
    寛永9年(1632)相続して、吉田で2万9千余石を領し、のち刈谷に転じたが、慶安2年(1649)福知山に移封し、石高は4万5千石となった。寛文9年(1669)、将軍家綱より特に命じられ、2万石を加増して島原へ移封となった。82歳で江戸で没した。
    林鵞峰を師とし、学者との交わりがある好学の藩主であった。
  • November 2017 編集されました
    長享元年(一四八七)のころの伊予の宇摩郡代は賀治(加地)氏であった。この年のすえ、管領細川政元は、おりから佐々木六角氏討伐のため、近江鈎の陣中にあった将軍義尚を訪ね、そのあと琵琶湖畔で三万人に及ぶ大規模な狩猟を開催した。そのとき、宇摩郡守護細川政春の代官「賀治」某が兎を捕えようとして過って崖から落ち、死去するという事故が起きている(蔭涼軒日録)。この賀治某は、おそらく越後加地荘から備前に遷った佐々木流加地氏であろう。細川頼之の中国出陣のころ、加地氏はその被官となったのであろうといわれている。明徳三年(一三九二)八月二八日の相国寺供養のとき、管領細川頼元(頼之の養子)の随兵中に「佐々木加地彦次郎朝包」が見える(相国寺供養記)。これは備前の加地氏とも思われるが、「予州弥津郷地頭」であった「佐々木加地朝房」(尊卑分脈・佐々木系図)と同族と推定されるので、宇摩郡代の賀治(加地)氏に連なる一族にちがいない。

    西条九郎入道佐々木壱岐入道?仕細川義之満久阿波守護代応永頃
    長綱
      盛行長綱子壱岐
      益大夫盛行子
      盛光益大夫子良正
    清貞佐々木壱岐清員
    綱貞三郎太郎
    加地盛隆野村盛季裔?佐々木盛綱流
      盛時六郎兵衛仕三好康長
      又五郎仕大平国祐
  • November 2017 編集されました
    頼朝が最も深い信頼を寄せていたのが、三男の三郎盛綱であり、盛綱は伊予の国(愛媛県)守護職を主として、備後の国(岡山県)の児島、越後の加地、上野の国(群馬県)の磯部など荘園を支配していいたといわれています。


    新潟
    加地の庄の地頭となってからは平安時代から越後の国を支配してきた平氏の一族で、現胎内市中条町の鳥坂山の城 資盛の反乱を平定し、越後の守護にもなりました。盛綱が加地の庄を支配していたことから、長男の信実は加地明神の社前で元服し、「加地太郎信実」と名乗ったということです。当時は統治している土地の地名を名乗る慣わしだったのでしょう。 盛綱公の長男信実が越後加地氏の初代ということになります。

     信実公の8人の子供がそれぞれ独立したわけですが、長男 秀忠を除く次男 実秀以下八男 信朝までの7人がそれぞれ加治氏、新発田氏、新津氏、竹俣氏、桜井氏、福王寺氏、嶋氏という所謂「加地の七家」となり、その子孫は19代、約400年の長きに亘って榮え、この地方を支配したといわれています。

     加地太郎信実公から数えますと加地17代である加地安芸守春綱公が、村上の曹洞宗の古刹、耕雲寺の八代目の住職として招かれ、加地の庄であった倉光に新しく曹洞宗の「香伝寺」を建立し、加地氏の菩提寺とされたとの史実を、香伝寺三輪住職様からお聞きしました。
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