古代の河内国と摂津国、凡河内氏

August 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image古代の河内国と摂津国、凡河内氏

凡河内氏(姓:直→連→忌寸)とは、記紀によれば、山代国造(ヤマシロノクニノミヤツコ)や額田部湯坐連(ヌカタベノ…

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コメント

  • 安閑天皇元年

    天皇が皇后のために屯倉を設置しようとして、勅使を遣わせて、良田を選ばせることにした。勅使は、勅を奉じて大河内直味張(あぢはり)に、「肥沃な良い田を奉じるように」と言うと、味張は土地を惜しみ、「この田は労多くして収穫は少ない」と言って勅使を欺こうとしたが、結局罰せられ、国造の地位を追われそうになった。そこで丁(よほろ、人的労働力)を毎年提供することで許しを請うた
  • 土師宿禰。天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也。となっており、さらに姓氏録(摂津)を見ると、凡河内忌寸。天穂日命十三世孫可美乾飯根命之後也。

    となっています。つまり、凡河内国造は土師連と共通の祖先(天穂日命〜可美乾飯根命)を持つとされており、古事記の所伝(天津彦根命)と矛盾します。記注釈は「天穂日の子の建比良鳥と天津日子根は天穂日の分化したもの」とし、「建比良鳥を祖とするか、天津日子根を祖とするかは大した相違ではなく、要するにそれはともに天穂日から出たことを意味する」としています。

    つまり、この段においては、天菩比命の子の建比良鳥の末裔と、天津日子根命の末裔の二つの氏族の流れに分けて書かれてはいるが、実際はここに記された各氏族は出雲国造を代表として、天菩比命の末裔として一括りにされるべきものであるということです。
  • 天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

    とあります。また、新撰姓氏録(左京神別)に、

    額田部湯坐連。天津彦根命の子、明立(あけたつ)天御影命の後なり。允恭天皇の御世、薩摩国に遣はされて、隼人を平(ことむ)け、復奏(かへりごとまを)す日、御馬一匹を獻(たてまつ)る、額(ぬか)に町形(まちがた)の迴毛(つむじ)有り、天皇嘉(よろこ)びたまひて、額田部の姓を賜ひき。
  • ◯ 茨木国造 茨木は、うばらき、と訓みます。書紀一書に、

    天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

    また国造本紀には、

    茨城国造。軽島豊明朝御世(応神朝)、天津彦根命の孫、筑紫刀禰を国造に定め賜ふ。

    とあります。ところで、古事記のこの部分は、底本はじめ諸本には「木国造」とあり、「茨」がありませんが、宣長の説に従い、補うことにしました。

    通常「木国」と言えば「紀国」を指しますが、紀伊国造については、姓氏録に「紀直。神魂命五世孫天道根命之後也」(河内)、「紀直。神魂命子御食持命之後也」(和泉)とあり、その祖神は神魂命(カミムスヒ)とされています。

    茨木国造については、さらに、国造本紀に、

    師長国造。志賀高穴穂朝(成務朝)御世、茨城国造祖建許呂(たけころの)命の児、意富鷺意彌命を国造に定め賜ふ。

    須恵国造。志賀高穴穂朝、茨城国造祖建許侶命の児、大布日意彌命を国造に定め賜ふ。

    馬来田国造。志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖建許呂命の児、深河意彌命を国造に定め賜ふ。

    とあり、この茨木国造の祖とされるタケコロノ命は常陸国風土記の茨城郡条に、

    茨城国造が初祖、多祁許呂命は息長帯比売(おきながたらしひめ、神功皇后のこと)天皇の朝(みかど)に仕へて、品太(ほむだ、応神天皇のこと)天皇の誕(あ)れましし時までに至れり。多祁許呂命に子八人あり。中の男、筑波使主(つくはおみ)は、茨城郡の湯坐連らの初祖なり。

    と伝わっています。また新撰氏姓録に、

    高市県主。天津彦根命十四世孫建許呂命之後也。(和泉)

    奄智造。同神(筆者注:天津彦根命)十四世孫建凝命之後也。(大和国神別)

    とあり、この段に一緒に出てくる馬来田国造、高市県主、倭淹知造(後述)もタケコロノ命を共通の祖としていることが分かり、ここが木(紀)国造ではなく、茨木国造であることは確実だと考えられます。
  • ◯ 茨木国造 茨木は、うばらき、と訓みます。書紀一書に、

    天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

    また国造本紀には、

    茨城国造。軽島豊明朝御世(応神朝)、天津彦根命の孫、筑紫刀禰を国造に定め賜ふ。

    とあります。ところで、古事記のこの部分は、底本はじめ諸本には「木国造」とあり、「茨」がありませんが、宣長の説に従い、補うことにしました。

    通常「木国」と言えば「紀国」を指しますが、紀伊国造については、姓氏録に「紀直。神魂命五世孫天道根命之後也」(河内)、「紀直。神魂命子御食持命之後也」(和泉)とあり、その祖神は神魂命(カミムスヒ)とされています。

    茨木国造については、さらに、国造本紀に、

    師長国造。志賀高穴穂朝(成務朝)御世、茨城国造祖建許呂(たけころの)命の児、意富鷺意彌命を国造に定め賜ふ。

    須恵国造。志賀高穴穂朝、茨城国造祖建許侶命の児、大布日意彌命を国造に定め賜ふ。

    馬来田国造。志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖建許呂命の児、深河意彌命を国造に定め賜ふ。

    とあり、この茨木国造の祖とされるタケコロノ命は常陸国風土記の茨城郡条に、

    茨城国造が初祖、多祁許呂命は息長帯比売(おきながたらしひめ、神功皇后のこと)天皇の朝(みかど)に仕へて、品太(ほむだ、応神天皇のこと)天皇の誕(あ)れましし時までに至れり。多祁許呂命に子八人あり。中の男、筑波使主(つくはおみ)は、茨城郡の湯坐連らの初祖なり。

    と伝わっています。また新撰氏姓録に、

    高市県主。天津彦根命十四世孫建許呂命之後也。(和泉)

    奄智造。同神(筆者注:天津彦根命)十四世孫建凝命之後也。(大和国神別)

    とあり、この段に一緒に出てくる馬来田国造、高市県主、倭淹知造(後述)もタケコロノ命を共通の祖としていることが分かり、ここが木(紀)国造ではなく、茨木国造であることは確実だと考えられます。
  • 三枝部連。額田部湯坐連同祖、顯宗天皇御世、喚集諸氏人等、賜饗。于時、三莖之草生於宮庭、採以奉獻。仍負姓三枝部造。(左京神別)

    「三枝部連。額田部湯坐連同祖、天津彦根命十四世孫達己呂命之後也。顯宗天皇御世,諸氏賜饗。于時宮庭有三莖草獻之,因賜姓三枝部造。(大和国神別)

    とあります。いずれも、「額田部湯坐連と同祖で、顕宗天皇の時、諸氏を集めて饗宴が催された。その時、三茎の草が庭に生えていたので、これを摘んで献上したことによって、三枝部造の姓を賜った」ということです。

    これに従えば、三枝部は顕宗天皇の名代部(天皇の身の周りの世話をする人々、多く天皇や皇后の名や宮にちなむ名がついた)、三枝部造はその管理を担当する伴造であったことになります。

    なお、顕宗記の方に、顕宗天皇の父、市辺忍歯王の歯について、「御歯は三枝の如き押歯に坐しき」とあることによって、これを市辺辺忍歯王の名代部とする説もあります。「押歯」とは倭名抄の「歯 於曾波(おそは) 歯重生也」のことで、いわゆる八重歯のことをいいます。三枝部造は、天武十二年に、この段に出てきた山代国造・凡川内国造などとともに連姓を賜わっています。
  • 凡河内直香賜〔おおしこうちのあたいかたぶ〕という人物が筑紫の宗像〔むなかた〕社に派遣されましたが、祭祀中の失態によって処罰されることになり、香賜は逃亡先の摂津の三嶋で捕らえられて斬られたとするものがあります(『日本書紀』雄略天皇巻)。

    宗像神は住吉大神と同じく大和王権の航海神です。

    凡河内氏は5世紀後半の雄略期頃より勢力を増したものと考えられます。また凡河内直香賜が三嶋に潜伏したことから、摂津地域にも勢力を張っていたことがわかります。
     凡河内直氏は現在の神戸市湊川付近に「凡河内寺山」を領し(「法隆寺伽藍縁起資材帳」)、摂津国菟原〔うはら〕郡に河内国魂〔かわちくにたま〕社があること(「延喜式神名帳」)も西摂〔せいせつ〕地域(摂津国西部)への勢力の扶植〔ふしょく〕をうかがわせます。凡河内直氏は猪名湊〔いなのみなと〕・武庫水門〔むこのみなと〕を管理し、この尼崎地域とも関わりを持ったと考えられます。凡河内直氏は凡河内国造〔おおしこうちのくにのみやつこ〕とも称しました。

    この一族の本貫地(本籍地)が河内国志紀郡にあるという記録もあり(『日本三代実録』元慶7年6月条)。

     凡河内直氏からは継体天皇の子である宣化天皇の妃となった大河内稚子媛〔おおしこうちのわくごひめ〕が出ました。6世紀前半のことです。その間に生まれた火焔〔ほのお〕皇子を祖とするのが椎田君〔しいだのきみ〕一族です(『日本書紀』宣化天皇巻)。『日本書紀』では宣化天皇の后、橘仲皇女〔たちばなのなかつめみこ〕のもとに生まれた上殖葉〔かみつえは〕皇子を祖とするものとして丹比公〔たじひのきみ〕・偉那公〔いなのきみ〕一族を挙げるのですが(『日本書紀』宣化天皇巻)、『古事記』では火焔皇子・上殖葉皇子両者を大河内稚子媛のもとに生まれた皇子としており、やはり丹比公・偉那公一族は、上殖葉皇子の子孫としてあります。『古事記』と『日本書紀』の系譜にくい違いがあるのですが、偉那公とは為奈〔いな〕・猪名とも表記する猪名地域ゆかりの氏族名です。椎田君も尼崎市内の地名・椎堂〔しどう〕と関連し、一族には川原公〔かわらのきみ〕(市内の瓦宮と関連)がいます。

     宣化天皇後裔の椎田君・偉那公・川原君一族が尼崎地域に集住したと見られることは、この地域に拠点を持った凡河内直氏の女性を母とし、母の一族によって養育され、この地を基盤とした王族であったことを示しています。
  • May 2016 編集されました
    播磨の広峰神社
    『播磨鑑』には「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」とある

    素戔嗚尊・五十猛命を主祭神として正殿に祀り、左殿に奇稲田姫尊・足摩乳命・手摩乳命、右殿に宗像三女神・天忍穂耳命・天穂日命ほかを祀る。

    社家については、古くは七十五家あったと伝わるが、永禄年中の戦乱の影響で社勢が衰えた結果、江戸時代頃までにいわゆる「広峯三十四坊」といわれる三十四家が残り、その後、寛文年中には三十三家、安永年中には二十五家となった。ただし、三十四家という社家の枠は残り、不在となった家は他の社家が兼帯した。 江戸時代中期以降の主な社家には、廣峯・肥塚・魚住・椙山・谷・小松原・谷口・神崎・金田・竹田・竹井・柴田・内海・福原・粟野・大坪・芝・馬場・尾代等がある。

    大別当社務職を代々世襲し、各社家の頂点にあった(実質的には江戸時代初期まで)廣峯氏は、三十六歌仙の一人で『古今和歌集』の撰者でもある凡河内躬恒の子孫とされ、鎌倉時代には御家人を兼ね、室町時代には赤松氏配下の有力国人でもあった往古からの社家、関東の在名を苗字とする肥塚、金田氏等はかつての鎌倉御家人の子孫で、鎌倉時代に東国から播磨へ下向し、その後社家となったとされる家である。また、赤松一族といわれる魚住氏、小松原氏、谷口氏等のように室町後期~織豊期頃に赤松家臣団から流入して社家となったと考えられる家もある。 江戸時代(宝永年間以降)にはこれら各家のうち五家が従五位下諸大夫の官位官職に就く。

    由緒
     『播磨鏡』に「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て、素盞嗚尊、五十猛尊を奉斉し」とある。聖武天皇の御代の天平五年(733)吉備真備公に勅して、廣峯山に大社殿を造営、新羅国明神と称し、牛頭天王と名づけられたと云う。吉備真備は唐に修学18年、唐の暦書にはその国の歴神天道天徳歳徳八将神等、歴法家の造成した神であるので、その国の故事を取り入れ、素盞嗚尊を牛頭天王・天道神とし奇稲田媛命を頗梨采女・歳徳神とし、八王子の神を八将軍などと配して日本暦の歴神として祀ったものと『神社由緒』に記載されている。

     『三代実録』貞観八年(866)に「播磨国無位素盞嗚神に従五位下を授く」とあるのに該当するようである。
     貞応二年(1223)文書に祇園本社播磨国広峯者とあり、京都の八坂神社(祇園観慶寺感神院)とは、本社と分霊と云う関係の争いが続いていたと云う。現在でも決着していない。
  • 大河内直氏は外交・水運に関わった河内・摂津の有力
    氏族とされ、大河内直氏の最も重要な拠点に創建された
    のが凡河内寺(房王寺廃寺)であろう。
    大河内直氏が重要な外交使節に関わった例としては、 推古天皇16年(608)、隋の裴世清(はいせいせい)が 来日した際、大河内直糠手が掌客(まろうどのつかさ)とい う接待係を難波津でしている。舒明天皇4年(632) には唐の使者の高表仁一行を難波館に迎える導者(みちび き)として大河内直矢伏がみられる。隋・唐からの使者 は倭国にとって別格である。接待役は漢音(古代中国語) を解したのではないかと推測される。
    この大河内直氏の拠点が西摂にあり、敏売崎での破格 の新羅使節の対応にも大河内直氏があたったのではない か? 新羅王子もむろん漢音を解したであろう。
    長田社は房王寺廃寺の西隣に位置しており、凡河内寺
    は長田社の神宮寺(神社の運営を実質的に担った寺)の
    ような性格ももっていたのではないだろうか。
  • 12/05編集されました
    法隆寺が宇奈五岳の祭祀に使用
    奈良時代、上沢・室内遺跡一帯は法隆寺の寺領だった。 天平19年(747)に作成された法隆寺の財産目録で もある『法隆寺伽藍縁起幷(ならびに)流記資材帳』には、 26ケ所の「山林・岳・嶋等」が列記されており(「山林 岳嶋等 弐拾陸地」)、そのうちの1ケ所である(「摂津国 雄伴郡宇治郷宇奈五岳 壹地」)。さらに四至が明示され ており、東は彌奈刀川(みなとがわ)、北は伊米野(いめの) という今も残る地名が登場する(「東限彌奈刀川 南限加 須加多池 西限凡河内寺山 北限伊米野」)。
    彌奈刀川は(旧)湊川であり、伊米野は現在の夢野町 が遺称地になる。県立兵庫高校の山手あたりが凡河内寺 (おうしこうちじ)山で、山の麓に位置する房王寺廃寺は、 「凡河内寺」と呼ばれていた可能性が高い。

    凡河内寺は、大河内直(おうしこうちのあたい)氏が造寺 を主導した寺と考えられている(凡と大は同意)。
    しかし、法隆寺は多くの寺領を所有しているのに、な ぜ、宇奈五岳のみ特別視したのか説明できない。

    山陽道 凡河内寺山 房王寺廃寺
    『続日本紀』天平勝宝四年(752)三月条 「大宰府奏す。新羅の王子韓阿飡(かんあさん)金泰簾、 朝貢使大使・金暄、送王子使・金弼言ら七百余人、船七 艘に乗りて来泊す、と。」
    平城京には「使下三百七十余人」が入京している。

    10世紀に編纂された律令施行細則である「延喜式(え んぎしき)」の玄蕃寮(げんばりょう)諸蕃条には、新羅使 に対し、敏売(みぬめ)崎と難波で神酒と肴を給する儀礼 を定めている。敏売崎は、JR灘駅・阪神岩屋駅の南に なり、今も式内・敏馬神社が鎮座する。神社は敏売崎の 先端に位置し、西には脇浜、東には深泥(みどろ)という 地名が残る。敏馬は「萬葉集」にも多くの歌が収録され ているように、泊・津であった。
    敏売崎での饗宴に使う神酒(みわ)は生田社(神戸市) で醸され、稲(酒米)は広田・生田・長田社と片岡社(大 和国)の四社が負担した。広田(西宮市)・生田・長田社 (房王寺廃寺の西隣)は今も馴染みの神社である。
    新羅使の往来がもっとも頻繁であったのは高句麗滅亡 (668年)から持統天皇没(696年)の29年間で、 新羅使は25回とほぼ毎年、遣新羅使は9回記録に残る。 新羅と唐の関係が緊張した時期である。
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