大彦、阿閉臣

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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大彦命: 阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山臣、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり 阿倍氏については、『…

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コメント

  • 阿閉氏は、雄略の後の顕宗天皇の時代に任那に船で行くとき、対馬の日神に、壱岐の月神が神がかりして、磐余(阿部氏?)の地に日神を太秦(秦氏)に月神の領地を割くことになりまっす。
  • 阿閉氏は三重県は伊賀の地、青山高原辺りに本拠があるとされるのが真弓常忠氏(住吉神宮の宮司)です。伊賀上野には大彦命は阿部(阿閉)氏の先祖で伊賀上野には敢国神社があり、大彦命と金山ヒコ神を祀っている。

    阿部氏の同族の膳氏は若狭の出であり、千葉県の房総にも進出している。一族の高橋氏は天皇の料理係として磐鹿六雁命を祀る。
    阿閉氏は、雄略の後の顕宗天皇の時代に任那に船で行くとき、対馬の日神に、壱岐の月神が神がかりして、磐余(阿部氏?)の地に日神を太秦(秦氏)に月神の領地を割くことになりまっす
  • 古事記、
    阿閉氏の大彦と和邇氏の日子国夫玖命


    大毘古命が高志国(こしのくに=越)に下っていった際に、途中の山城幣羅坂(京都・幣羅坂神社)である乙女が歌っていた。

    御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 
    後つ戸よ い行き違ひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御真木入日子はや

    御真木入日子よ、御真木入日子よ。自分の命をこっそり奪おうとする者が、
    裏門からこっそり行き違い、表門からこっそり行き違うのも知らないで。御真木入日子よ。



    大毘古命が不審に思って乙女に「お前が口にした言葉は何を意味するのだ」と問うたが、乙女は「私は何もいったりしておりません。ただ歌を歌おうとしただけです。」と言うとあっというまに行方が知れなくなった。
    大毘古命は再び都に戻り、このことを天皇に申し上げると、天皇は「これは山城国の異母兄である建波邇安王(たけはにやすのみこ=孝元天皇皇子)が反乱を起こしたに違いない。伯父よ、軍勢を整えて討伐にいかれよ」と仰せられ日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと=和邇臣の祖=日子国意祁都命の縁者か?)を副えて派遣した。



    * 書記では倭迹迹日百襲姫命が歌の意味を見抜いている。さらには建波邇安王とその妻である吾田媛(あたひめ・古事記には記載なし)が共謀して反乱を起こしたとし、大坂の吾田媛を西に向かう途中の吉備津彦が討ち、山城の建波邇安王を北に向かう大毘古命が討っている。

  • 穴門より向津野大済(むかつのおおわたり)に至るまでを東門とし、名籠屋大済を西門とし、没利(もとり)島(六連島)、阿閉(あへ)島(藍島)を限って御筥(みはこ)とし、柴島を割いて供養の魚を捕るための地とする。逆見の海を塩地としたい。・・・熊鰐は海路を案内し、山鹿(やましか)岬からめぐって岡浦(おかのうら)に入った。
  • 系譜 兄弟姉妹1 兄弟姉妹2 兄弟姉妹3 備 考
     
    始祖 孝元天皇
           ↓
    1 大彦命
    - 開化天皇 - 彦太忍信命 - 武埴安彦命
      ↓
    2 武渟川別命
    - 組結命 - 大稲輿命 - 御間城姫命
    大稲輿命→磐鹿六雁命へ
      ↓
    3 豊韓別命
    - 意布比命
      ↓
    那須国造へ - 大屋田子命 - 木事命
      ↓   ↓   ↓
    4 雷別命
    田道命
      ↓
    筑紫氏へ
    日下部氏へ 高田媛 高田媛=景行天皇の妃
      ↓
    5 阿倍阿加古
    阿倍臣となる。
      ↓
    6 大籠
      ↓
    7 忍国
      ↓
    8 大(火)麻呂 - ----- -   歌麻呂 大麻呂=宣化天皇の大夫
      ↓  ↓   ↓
    9 目 久比
      ↓  ↓   ↓
    10 鳥子 - 黒古
     ↓
    許曽部臣へ 浄足   眞老
      ↓  ↓   ↓
    11 内麻呂
    (倉梯麻呂) 比羅夫  草麿
      ↓  ↓
    12 御主人 宿奈麿 - 安麿   名足 - 船守
      ↓   ↓      ↓   ↓
    13 広庭 小島      ↓ 仲麿
      ↓   ↓      ↓   ↓
    14 粳虫 家麿
     ↓
    陸奥阿倍氏へ      ↓
         ↓
         ↓ 弟当
     ↓
    三河阿倍氏へ
      ↓      ↓
    15 道守         ↓
      ↓
      ↓
      ↓      ↓
         ↓
         ↓
    17   ↓  安倍朝臣安仁 安仁=鎮狄将軍(793-859)
      ↓
      ↓
      ↓
    21 安倍晴明

  • 継体天皇の后妃のうち、『紀』における茨田連小望の娘である関媛と和珥臣河内の娘である媛と、『記』における阿倍之波延比売である。

    茨田の関媛の所生三人のうちの下二人、白坂活日姫皇女と小野稚郎皇女は、『記』においては坂田大俣王の娘・黒比売の子として記載されているから、『記』の方は坂田大俣王の次に記載しようとした茨田連を落としてしまったのであろう。茨田は淀川の左岸、現在の大阪府寝屋川市・守口市・門真市のあたりである。

     オホトが何故に河内の豪族と婚を結びえたかは明らかではないが、継体天皇が最初に宮を置いた樟葉(大阪府枚方市)とはきわめて近いし、河内馬飼首荒篭も河内の住人と考えられるから、オホトが早くから河内と何らかの連携をもっていたことは確かである。茨田連の記載順は、『紀』では息長真手王と三尾君堅の間、『記』でも三尾君加多夫の前で、『記』『紀』とも記載は大体年代順になっているようだから、茨田連も継体政権の成立を支えた氏族の一つと考えられる。

     『紀』の和珥臣河内の娘媛と『記』の阿倍之波延比売とは、ハエヒメという名を同じくしているので、おそらく同一人物であろう。

     ワニ氏は五世紀代において、ほとんど歴代の大王に后妃を出している大族である。『紀』は孝昭紀に「天足彦国押人命は此和珥臣等が始祖なり」と記し、『記』は孝昭天皇段に「天押帯日子命は、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高臣・壱師君・近淡海国造の祖なり」と、実に一六氏にも及ぶワニ氏の同族を列挙するが、ここに阿倍氏の名はない。周知のように阿倍氏は、『紀』が大彦命の子孫とする七氏の一つである。
     ワニ氏はおそらく近江の和迩(滋賀県志賀町)を本拠とし、のちに大和の和爾(奈良県天理市)に移って多くの分枝を生んだのであろう。なかでも春日氏がその本家であって、六世紀にはワニ氏とはいわず春日氏を称していたらしい。継体紀における和珥臣河内が『紀』において和珥氏の名がみえる最後の記載なのである。その前には、和珥臣日爪(一本和珥臣日触)の女が仁賢天皇の妃となり、春日山田皇女を生んだとの記述がある(この春日山田皇女が安閑の皇后となる)。欽明紀には、春日日抓の女を妃としたと記し、敏達紀には、春日臣仲君の女老女子夫人を夫人としたと記す。しかし、これがワニ氏が皇妃を出した最後である。このようにみてくると、当時ワニ氏は衰退期にあり、和珥臣河内の娘を娶ったのが継体天皇の即位前か即位後かはよくわからないが、継体天皇の後ろ楯としてそれほど大きな力となりえたとは思われない。
  • 大彦の命の墓については次の三つの比定地がある。

    ① 川柳将軍塚古墳(長野県長野市篠ノ井石川)
    戦国時代の合戦場として知られる川中島の一画である。すぐ近くに、『延喜式』の式内社、布施神社がある。
    この前方後円墳については、「崇神天皇十年、詔あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北国を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚という。」(『石川村誌』『布施五明村誌』)という伝承がある。
    川柳将軍塚古墳は長野県長野市篠ノ井石川湯ノ入にある。千曲川をめぞむ標高480mの山頂上に立地した前方後円墳で前方部を東北に向ける。全長90m、後円部径42m、高さ8.2m、前方部幅31m、高さ6mあって地形を利用していとなまれており、葺石・円筒埴輪の存在が知られる。 1800年(寛政12)に地元民が発掘して多量の遺物の出土をみた。その後1893年(明治26)ごろ、やはり地元民の発掘があったが、内部主体の構造が判明して遺物の出土はなかったといわれる。江戸時代の発掘時に残された記録として『信濃奇勝録』『宝月楼古鑑譜』『小山林堂書画文房図録』『集古十種』などがあるが、学術的な調査としては、1929年(昭和4)の森本六爾の調査がある。森本の調査は、墳丘の測量と1893年(明治26)ごろの発掘の状態と石室の復原に関する聴取、さらに江戸時代に残された古記録からの出土遺物の集成であった。森本の伝聞調査によると、内部主体は後円部に主軸に沿ってあった割石小口積みの竪穴式石室で、数枚の天井石が架けられており、石室内は朱を見ることができたが石棺はなかったことを記している。また前方部にも主軸に沿って石室が存在していたことを記している。

    出土遺物のうち、現在、将軍塚古墳出土として布制神社に蔵するものに、内行花文鏡3・?文鏡1・珠文鏡1・管玉102・棗玉1・勾玉3・小玉560・玉杖頭2があり、他に珠文鏡1・四獣文鏡1がある。さらに前記の古記録や、それをもとにした森本の報告によれば、鏡は総計27・銅鏃17・ 筒形銅器2・筒形石製品2・車輪石1・鉄刀・鉄剣・紡錘車2などがみえ、鏡の中には方格規矩四神鏡類や素文鏡・重圏文鏡の類などが見える。さらに近年発見された、江戸時代の古記録『万伝書覚帖』によれば、鏡は42面あったといい、玉類の中にも臼玉や切子玉がみえる。なお金環2が出土品中に含まれている古記録もあるが、おそらく他古墳の出土品の混入であろう。
    築造年代の決め手を欠くが、4世紀末から5世紀初頭の年代が考えられる。
    〔文献〕森本六爾『川柳村将軍塚古墳の研究』1929、岡書院、復刻版、 1978、信毎書籍出版センター。宮下健司「長野県川柳将軍塚古墳をめぐる古文献」信濃31-9、 1979。(『日本古墳大辞典』)
    川柳将軍塚古墳を大彦の墓とする説については、志村裕子氏「大彦の墓」(『季刊邪馬台国』45号参照)

    ② 御墓山(みはかやま)古墳(三重県上野市) 御墓山古墳は三重県上野市佐那具字天王下の上野盆地北東隅、柘植川左岸平地に突き出た丘陵末端部に営造された前方後円墳である。前方部を北西方向に向けており、墳丘規模は主軸全長188m、後円部径110m、高さ14m、前方部幅80m、高さ10mと、三重県下最大の規模をもつ。墳丘には段築が見られ、墳丘くびれ部東側、後円部寄りには平坦な張出しがあって造出しと考えられる。墳丘全面には人頭大から拳大の葺石が覆い、円筒埴輪や形象埴輪の破片が散見される。後円部南側の墳丘周囲には弧状に周堀がめぐるが、前方部周囲には存在しない。周堀の囲繞はきわめて不定形である。後円部頂部には盗掘によるとみられる落ち込みがあるが、主体部の構造や副葬品については全く不明である。築造時期としては5世紀初頭が考えられる。なお、本古墳の東側に近接して一辺10mの方形の陪塚が2基ある。 1921年(大正10)国指定史跡。[文献]鈴木敏雄「史蹟御墓山古墳」三重県における主務大臣指定史蹟名勝天然紀念物1、 1936、三重県。(下村)(『日本古墳大辞典』)

    御墓山古墳の近くに敢国(あえくに)神社(伊賀国一宮)がある。
    これは、阿閉(あえ)氏と関係がある。
    佐伯有清編『日本古代氏族事典』(雄山閣刊)には次のようにある。
    「阿閉氏は大彦命後裔氏族の一つ。大彦命の子、彦背立大稲腰(ひこせたつおおいなこし)命を祖とする。伊賀国阿拝(あへ)郡(三重県阿山郡阿山町・伊賀町・島ヶ原村と上野市北部)を本拠とした地方豪族であるが、その一部は早くから中央豪族化した。・・・ 」
    敢国神社については、(『伊賀国一宮敢国津社記』に次のようにある。 「当社の参道入口には南北に通じる県道が走り、それを南へ400メートルほど行った所に北寺田へ至る低い峠がある。その地点の道の東側を小字「大岩」と称し、かつては「大石(おおいわ)明神」と呼ばれる大岩(通称「黒岩」とも)があって弥勒(みろく)の像が刻まれていた(『三国地志』)。この大岩は明治の末から大正はじめにかけての採石によって消滅したが、『三国地志(誌)』の著者、上野城司の藤堂元甫(げんぽ)は、大石明神を昔の敢国神社の祭祀地ではないかと推測している。」

    『日本の神々6』(白水社刊には次のよう書かれている。
    「昭和6年の県道開削にともない、大岩池の西に通じていた古道に代わって池の東側に県道が通じ、池の東南に接していた大岩古墳が消滅した。内部構造は明らかでないが、須恵器・土師器の完形品が70~80個、破片だげでも12荷、ヒスイ勾玉2個、めのう勾玉数個、碧玉管玉1個が出土し(『史蹟御墓山古墳』)、またその工事に際して数個の祭祀用小形滑石製小形臼玉2個が出土した。前者は高坏3(高さ約6~9センチ、手捏(てごね)、2個に朱彩の痕がある)、盌(まり)3(手捏、4.5センチ前後、うち1個は楕円形を呈し捲上手法の痕をよく残す)、坩(かん)2個(小形丸底土器で高さ9センチ前後)であり、後者は径4ミリ・厚さ3ミリで坩のなかから出土したが、榊に掛けた臼玉が祭祀の終了後に土器の上に置かれ、やがて坩のなかに落ちたのであろう。したがって周辺の土を篩(ふる)えば、もっと多くの臼玉が発見されたのではないかと考えられる。」
    ③ 桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市) 塚口義信氏(日本古代史、堺女子短期大学大学学長教授)の説である。『季刊邪馬台国』108号、坂口義信『桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者について』参照

    また、志村裕子氏は、桜井茶臼山古墳の被葬者を崇神天皇の皇后で、大彦の命の娘の御間城(みまき)姫かとする。(『季刊邪馬台国』105号)

    これらを考えると②御墓山古墳は造出しがあり、5世紀の可能性もある。③桜井茶臼山古墳は御間城姫の墓の方が妥当性と考えられ、その結果①川柳将軍塚古墳が有力となる。
  • 石坐神社 (大津市)

    滋賀県大津市にある。
    JR東海道線・膳所駅の東500mほど、琵琶湖大橋西詰の北西500mほどの西の庄に鎮座。

    下記の由緒にあるように、創祀の頃は茶臼山後方、相模川の上流にある御霊殿山に鎮座していたという。山頂には巨大な磐座があるらしく、山頂の山宮に対して里宮と考えられている。

    また、茶臼山古墳と小茶臼山古墳は、当社祭神大友皇子と彦坐王命の陵墓であるという。

    創祀年代は不詳。
    社伝によると、瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の租・彦坐王命を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を神体山(神奈備)として祀ったのが創祀。

    天智天皇八年に旱魃があり、
    その時、毎夜琵琶湖湖水から御霊殿山に竜燈が飛んで行った。里人の奉聞により派遣された勅使の前で、竜燈は小童に姿を変「われは海津見神の幸魂である。旱害を除いてやろう」
    との託宣があり、勅令により御霊殿山に海津見神を祀ったという。

    この幸魂は彦坐王命の霊であると言われ、毎年、九月九日に祭典を行い、旱天の時は炬火を点じて登山し雨乞いを行うと、かならず霊験があったという。

    壬申の乱の後、近江朝の神霊である天智天皇、大友皇子、皇子の母宅子媛を弔祭できるのは
    一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀することが禁じられていた。
    そこで、持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て、御霊殿山の霊祠を遷すとともに相殿に、密かに祀り、この時から八大龍王宮とも石坐神社とも称したという。
    王林は、今の錦駅付近で、昔は石坐野、後に石神町と呼ばれた地域。

    光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等が授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜り、近江朝の三神霊が、公式に石坐神社祭神と認められたという。

    よって、当社は彦坐王命(海津見神)を祀る八大龍王宮と近江朝の三神霊(天智天皇、大友皇子、伊賀宅子媛命)を祀る正霊天王宮を合わせたもの。
  • 新撰姓氏録
    左京皇別 - 阿倍朝臣、布勢朝臣、完人朝臣、高橋朝臣、許曽倍朝臣、阿閉臣、竹田臣、名張臣、佐々貴山公、膳大伴部、阿倍志斐連
    右京皇別 - 若桜部朝臣、阿閉臣、伊賀臣、阿閉間人臣、他田広瀬朝臣、道公、音太部、会加臣、杖部造
    山城国皇別 - 阿閇臣
    大和国皇別 - 坂合部首
    摂津国皇別 - 高橋朝臣、佐々貴山君、久々智、坂合部、伊我水取、吉志、三宅人
    河内国皇別 - 阿閇朝臣、阿閇臣、日下連、大戸首、難波忌寸、難波
    和泉国皇別 - 膳臣、宇太臣、松原臣、他田
  • 粟鹿大名神元記

    太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となって、粟鹿大神祭主となったと記されている。
    根麻呂の祖父にあたる「都牟自」は日下部氏の系図に見える日下部氏の祖、表米の子
    都牟自と同名であり、のちの粟鹿神社の社家が日下部宿禰であるところから、同一人物とも考えられる。
    いずれにしても、粟鹿神社の祭主は、古代に神部氏が務め、その後、日下部宿禰が務めるようになった。そして、神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』にある神部氏系図のなかにみえる都牟自に感じ取れるのである。

    これを裏付ける証拠が、出雲国秋鹿郡、出雲郡に残されています。
    出雲国秋鹿郡には、恵曇・多太・大野・伊農(いの)の四郷があり、その主帳にあったのは、日下部臣氏です。
    また、出雲国における日下部臣氏の本拠は、出雲郡伊努郷と秋鹿郡伊野郷(=伊農=伊努)と考えられ、出雲郡伊努郷に久佐加社および来坂(くさか)社(2社)があり日下部氏の存在が想定され、

    出雲国秋鹿郡伊農郷と出雲郡伊努郷が、風土記神である「赤衾伊努意保須美比古佐倭気命」
    および「天甕津日女命」を共有しており、その伝承が日下部氏の氏族伝承と考えられます。
    要するに赤衾伊努意保須美比古佐倭気命という出雲神族の神と日下部氏が、実は深く関係しており、粟鹿神社の系図を裏付けます。更に、伊野郷と日下部氏との関連を考えるに、「いの」とは日下部氏に関連する地名のようです。
    出雲国大税賑給歴名帳によれば、出雲郡漆治郷において、工田・深江・犬上(いぬかみ)の三里があったといい、出雲郡漆治郷にも「いぬ」地名があり、粟鹿神社社家系譜に登場する「都牟自」、と同名の都牟自神社が存在し、日下部氏(神部氏)がこの地に土着していたことが伺われます。

    日下部氏は但馬国造氏族(丹波(丹後)国造氏族と同族)と称している一方、宝賀寿男氏の古代氏族系譜集成によれば、神宮外宮の度会氏は、丹波国造氏族と同族であったと言います。
    度会氏は、元々磯部姓であり、丹波国造氏族も磯部と呼ばれていたと、宝賀寿男氏は指摘します。
    倭姫命世記によれば伊勢の外宮および内宮の神を最初に祀ったのは、度会氏の大若子命であり
    元々は、伊勢の神は、丹波国造氏が祀った神であったと考えられます。その証拠に、丹後国には外宮の元宮とされる宮が複数あり、但馬国には、内宮の神を祀る神社が
    集中しています。そういった事情から見て、伊勢や丹波・但馬の国は、出雲と同様に出雲神族である三輪氏が土着の氏族として開拓したものであって、その祖神をそれぞれの国において祀っていたものと考えられます。
    出典 http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/13732997.html

  • 筑波国造になった阿閇色命の別名を「安倍色呂(アベシコロ)命」と言い、彼の兄は「建許呂命(タケコロ)」と云う名前の持ち主でした。恐らく倉人は「クロ(コロ)人」であり、金属鉱物の生産加工に従事していた可能性がありそうです。ここまで書き進みながら漠然とした懸念が脳裏をよぎります。それは、日置の「言い伝え」自体がヤマト王朝の誕生間もない頃の出来事として記録されているにも関わらず「今来」の諸蕃の諸家が、恰も四世紀に実在した氏族と同列(同族)に扱われている部分です。七世紀に来朝したという「伊利之」と「伊利須使主」は全くの別人であることは明白なのですから。
  • December 2016 編集されました
    元明天皇ーーかしわ手の廃止、薄葬

    天武紀以降、続日本紀、他書もほぼ「阿閇皇女」と書かれています。天智紀だけが「阿陪皇女」です。よって本稿も「阿閇皇女」

    【阿閇皇女縁戚表】
    父 天智天皇の第四皇女    626~671 48歳
    母 姪娘(めいのいらつめ)蘇我倉山田石川麻呂の娘 桜井娘とも言われる。
    同母姉 御名部皇女 天武皇子高市夫人といわれる。
    夫 草壁皇子(天武皇子)   662 ~689 28歳
    子 氷高内親王(後、元正天皇)680 ~748 69歳
      軽皇子(後、文武天皇)  683 ~707 25歳
      吉備内親王(長屋王夫人) 685?~729 45歳くらい(夫、子供たちと共に自害)

    【続日本紀721養老5年10月13日、16日条】
    丁亥。太上天皇、右大臣従二位長屋王、参議従三位藤原朝臣房前を召し入れ、詔して曰く、
    「朕は聞く『万物の生、死ぬること有らずということなし』と。これ天地の理にして、奚なにぞ哀み悲しむべけん。葬を厚くし業を破り、服を重ねて生を損なうこと、朕、甚だ取らず。朕崩の後は、大和国添上郡蔵宝山の雍良岑よらのみねに竈を造り火葬せよ。他処に改むることなかれ。謚号は、「其国其郡朝庭馭宇あめのしたしらしめしし天皇」と称して後世に伝うべし。又、皇帝、万機を摂とり断ること一に平日と同じくせよ。王侯・卿相と文武百官は、輙たやすく職掌を離れて、喪車に追従すること得ざれ。各本司を守りて、事を視ること恒つねの如くせよ。その近侍官、併せて五衛府は、務めて厳警を加え、周衛伺候して、不虞に備えよ。」

    3日後、再度、念押しまでして徹底を指示しています。
    ~庚寅。太上天皇、また詔して曰く
    「喪事にもちいる所は一事以上、前の勅に准なずらへ依よれ。闕失けつしつを致すこと勿なかれ。その轜車・霊駕の具、金玉を刻きざみ鏤ちりばめ、丹青を絵えがき飾ること得ざれ。素しろき薄をこれ用い、卑謙にこれ順したがへ。仍よりて丘の体かたち鑿うがつこと無く、山に就きて竈かまどを作り、棘を芟かり場を開き、即すなわち喪処とせよ。又、その地には皆、常葉之樹を植え、即ち刻字之碑を立てよ。」

    【続日本紀721養老5年12月7、8、13日条】
    「己卯。平城宮の中安殿に崩りましぬ。時に春秋六十一。使を遣して三関を固く守らしむ。」
    「庚辰。従二位長屋王、従三位藤原朝臣武智麻呂ら、御装束の事を行ふ。
    従三位大伴宿禰旅人、陵事つくる事に供つかへまつる。」
    「乙酉。太上天皇を大倭国添上郡椎山陵に葬る。喪の儀を用いず。遺詔に由よりてなり。」

    崩御から埋葬まで7日で葬られたことになります。
    殯宮設営から諸僧尼發哭みね、奠みけ、誄しのびごと、そして埋葬まですべてが、6日間で執り行われました。
    火葬、薄葬、これらは持統天皇の継承と言われます。初代平城京当主として、明日香にある夫、草壁皇子墓、息子文武天皇陵への合葬は許されません。平城京に一人、徹底した薄葬といえます。
    その後、山が崩落したためか、瑪瑙めのう石の陵碑は「佐保神石」として恐れられ、松永久秀の城郭を築く際にもまぬがれたようです。結局、江戸時代、奈良坂春日社の一角に祭られていたのが発見されました。「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵」(要録・続古京遺文)と刻まれていたといいます。高3尺許、巾1尺許、厚2尺許(約60cm×30cm×90cmH)碑文は7行×8区の方眼に45文字。実際は碑の上部に書かれているようです。図は奈良坂村旧記(福山敏男「元明天皇陵碑」)よりコピーしたものです。すべて、伝承記事になります。
    現在この墓碑は、国が定めた元明天皇陵の中に人知れず安置されて、誰も見ることができません。

    遺詔諡号   :  其国 其郡  朝庭馭宇    天皇
    墓碑諡号   : 大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇
    続日本紀諡号 :  日本根子天津御代豊国成姫   天皇
  • December 2016 編集されました
    元明即位2年目708和銅1年11月大嘗祭時の歌と言われる。

    和銅元年戊申
    76 天皇御製
    大夫之 鞆乃音為奈利 物部乃 大臣 楯立良思母
    ますらをの とものおとすなり もののふの おほまへつきみ たてたつらしも
    ますらをの 鞆の音すなり 物部の 大臣 楯立つらしも

    77 阿閇皇女の同母姉。上歌に和したもの
    御名部皇女、奉和御歌
    吾大王 物莫御念 須賣神乃 嗣而賜流 吾莫勿久尓
    わごおほきみ ものなおもほし すめかみの つぎてたまへる われなけなくに
    我が大君 物な思ほし すめ神の 継ぎて賜へる 我がなけなくに
    物部(左大臣石上朝臣麻呂)の軍団に怯えた天皇を守護すると右大臣藤原不比等も同様に詠い、天皇を喜ばせたことだろう。

    78 710和銅3年2月15日平城京(奈良)へ遷都途上での歌
    和銅三年庚戌春二月、従 藤原宮遷 于寧樂宮 時、御輿停 長屋原、廻望古郷作歌
    一書云、太上天皇御製
    飛鳥 明日香能里乎 置而伊奈婆 君之當者 不所見香聞安良武
                一云  君之當乎 不見而香毛安良牟
    とぶとりの あすかのさとを おきていなば きみがあたりは みえずかもあらむ
                         きみがあたりを みずてかもあらむ
    飛ぶ鳥 明日香の里を 置きて去なば 君のあたりは 見えずかもあらむ
                  一云  君のあたりを 見ずてかもあらむ

    上田氏も言うように、奈良京遷都は、元明天皇の本意ではなかった
  • December 2016 編集されました
    滋賀県伊香郡高月町(平成22年長浜市高月町)に在る「阿閉」(あつじ)姓の由来
    出典
    http://www.za.ztv.ne.jp/cfdsj8xb/kousatu.htm

    天武天皇による壬申の乱の功臣の後裔

    孝元天皇を祖とし、元明天皇の乳母が出し三重県、伊賀上野市に本拠をおいた豪族であり大和朝廷の地方進出の際、糧食担当として遠征し「饗」える職掌を果たし「阿拝」「敢」(あえ)氏とも称するようになったが「阿閉」の字を用いることになったことと、「阿倍」(あべ)氏と区別するため、重箱読みし「あとじ」と称えることを経て、その後訛って「あつじ」となった。

    「阿閉」氏は大和朝廷の地方支配に同様の役目を担い大和朝廷の北陸支配の要所として畿内から東山道を経由し北陸道に繋がる伊香郡(平成22年に長浜市)高月町に至ったが同所は日本海により北九州とつながり、古保利古墳群を造営した安曇氏が先住していたが、同じように渡来していた、という出自を同じくしていたことから同化し琵琶湖の湖上通行の要として重要でその後その地に、土着するようになり、後世安土時代に浅井氏の被官となったが、豊臣秀吉によって奪われた所領を、本能寺の変の機会に奪回するべく敵対し滅ぼされた。


    「阿閉」氏は大和朝廷の地方支配に同様の役目を担い北陸道を更に北へ富山へも進展している。

    播磨国にも「阿閉」の地名は存在したが、同所では本来の「阿江」と称していた。

    いずれの「阿閉」氏も糧食担当であったため後同じく孝元天皇を祖とする軍事に長けた阿倍氏の発展によりその一族と見なされるようになった。
    さらに、天武天皇の死後、藤原氏の勢力を背景に持統天皇が即位し天智天皇へ回帰が強くなり、天武天皇に列なる阿閉氏は一層弱体化した。加えるに出自を考察するなかで、古代朝鮮の影響が大きいと思われる点があり、朝鮮より渡来し伊賀地方先住していたが、ヤマト政権成立の過程のなかで、闕史八代といわれる期間にあって孝元天皇に臣従していた。
  • December 2017 編集されました
    出雲伝承

    出雲王国は2王制で、主王を大名持、副王を少日子と言い、東出雲と西出雲が交互に王を出す
    この出雲王朝は日本海沿岸と四国、九州北部を支配。

    第8代大名持 (出雲王の意)

    八千矛 (大国主)▶︎神門臣家(高鴨家)(西出雲王家)
    八千矛が宗像家のタギリ姫を娶りできた 御子にアジスキ高彦 ・高(照)姫でアジスキ高彦は今は大御神と言われる。

    アジスキ高彦は御梶姫との間にエンヤ彦、多岐都彦、大屋姫 をもうけ、この神門臣家の多岐都彦が富家の奇日方を頼り 大和へ 進出し、高鴨神社、葛城御歳神社を建てました
    (※ 宗像家は6代大名持オミズヌ王の御子アタカタスが筑前 に進出 して起こした家系。桜井市外山(トビ)、登美家の根拠地に宗像神社がある
    火明(海家)と八千矛王の娘 高照姫との間にできた御子五十猛(海香語山)

    その五十猛がアジスキ高彦の娘 大屋姫を娶りできた御子が高倉下で、この五十猛が筑後の饒速日(物部)の娘の 穂屋姫を娶り 大和の初代大王 海村雲をもうけます!

    第8代少日子(出雲副王の意)
    八重波津身 (大物主大神・事代主)
    向家(富家亦は登美家・出雲臣家・鴨家)

    (東出雲王家)
    御子 奇日方は大和開拓の祖、葛城を開拓し鴨都波神社に 父、積羽八重事代主(八重波津身)をお祀りし、後に三輪山
    に大物主大神(八重波津身)を祀りし ました
    鴨都波神社は大神神社の別宮といわれる事からも 御祭神が同じだという事が分かります

    静岡県三島市にある伊豆一ノ宮の三島神社は実は大彦に奇日方の母、活玉依姫の実家は摂津国三島(高槻市富ノ里)
    活玉依姫の亦の名を三島溝杭姫といいます
    日本書紀では事代主の后、 古事記では大物主の后からみても大物主大神様と事代主(八重波津身)は同一神
    大彦命と共に少彦名命と金山比咩命、金山比咩(彦?)は海家の信仰する神様です

    大彦の母はウツシコメではなく、モモソ姫
    登美家のクニアレ姫は大彦、大日日(開化天皇)モモソ姫をお産みになり長兄の大彦は王位継承者

    物部勢力が拡大し道教の神獣鏡を祀るその圧力で大和の人々が農耕神の銅鐸を埋め隠し銅鐸祭祀が終わりを告げていく事を大彦は深く悲しみ戦う。大彦は出雲王の登美家の血筋である事を誇りとしていました

  • 05/15編集されました
    孝元天皇
    孝元天皇はウチ家に妻問しています。
    ふつうは姉妹と結婚するけど、ここでは叔母と姪。

    オオビコの子・建沼河命
    阿部家の祖と書かれています。
    糟屋郡久山町の黒殿神社は阿部家の祀る神社。

    建沼河命が久山町にいる間に阿部家の娘に子を生ませたんですね。
    現地伝承と『古事記』がぴったり符合しました。
    その阿部というのは安曇族だという話を宮地嶽神社で伺いました。

    大彦の甥が竹内宿禰である。
    竹内宿禰の子・波田八代宿禰
    竹内宿禰を祀るのが織幡神社(宗像市)。
    壱岐真根子の子孫が祀り続けています。
    オリハタ。ハツ。秦氏
    福津市の縫殿神社も布を作っています。
  • 富家伝承


    静岡県三島市にある伊豆一ノ宮の三島神社は実は大彦に奇日方の母、活玉依姫の実家は摂津国三島(高槻市富ノ里)
    活玉依姫の亦の名を三島溝杭姫といいます
    日本書紀では事代主の后、 古事記では大物主の后からみても大物主大神様と事代主(八重波津身)は同一神
    大彦命と共に少彦名命と金山比咩命、金山比咩(彦?)は海家の信仰する神様です

    大彦の母はウツシコメではなく、モモソ姫
    登美家のクニアレ姫は大彦、大日日(開化天皇)モモソ姫をお産みになり長兄の大彦は王位継承者
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