蘇我氏、葛城氏、河内王朝

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image蘇我氏、葛城氏、河内王朝

武内宿禰の末裔 竹内宿禰の子に、葛城氏の祖、葛城ソツヒコや蘇我氏の祖、蘇我石川宿禰がいる。本貫の地名を名前に入…

Read the full story here


コメント

  • 蘇我能 由 夜麻 奴斯(ソガノ ユイ ヤシマ ヌシ) /sogano yui yasima nusi ・清ノ湯山主・弥那佐牟留比古・夜斯麻斯奴(ミナ サムルヒコ・八島士主・八嶋主)・「八島士奴美・蘇我ノ八嶋主・(大国主?)」。スサノオと奇稲田姫の息。室に大山津見(大山都美)の娘・木花知利媛(木花知流比賣)。「2世神」。息に布波能母知汗那須奴。孫に深淵能水夜礼花。曾孫に意禰都奴。<夜麻奴斯=大国主の別名、八島士奴美(ヤシマシヌビ)に通じる名です
  • 八島士奴美神

    須佐之男神と櫛名田比売の御子神。
    『日本書紀』に清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、またの名を清之繁名坂軽彦八嶋手命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野といい、 『古事記』では大国主神の祖で、この神の五代孫が大国主神とあるが、 『先代旧事本紀』では、八島士奴美神のまたの名を大国主神、大己貴命とある。

    妻は、大山津見神の娘・木花知流比売。子は布波能母遅久奴須奴神。

    『古事記』によると、須佐之男神と櫛名田比売の子が、八島士奴美神。
    八島士奴美神と木花知流比売の子が、布波能母遅久奴須奴神。
    布波能母遅久奴須奴神と日河比売命の子が、深淵之水夜礼花神。
    深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の子が、淤美豆奴神。
    淤美豆奴神と布帝耳神の子が、天之冬衣神。
    天之冬衣神と刺国若比売の子が、大国主神となっている。
  •  延喜式神名帳
    『河内国丹比郡 大津神社三座 鍬靫』とある式内社。

     近鉄南大阪線・高鷲駅の南約200m、駅の西側を走る府道191号線(島泉伊賀線)を南下、二つ目の交差点(信号あり)の南西部に鎮座する。

    ※由緒
     当社由緒略記によれば、
     「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」
    とある。

     葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
     「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされ、・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)
    とある。
     この上表文によれば、その系譜は
    始祖・都慕王(ツモ・百済王)・・・貴須王-辰斯王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君 -塩君(午定君)-|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
               |-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
                |-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏

    となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。

     正史上における津史(ツノフヒト)の初見は、書紀・敏達3年(573)に記す、
      「冬十月十一日、船史王辰爾の弟、牛に詔して、姓を賜って津史とされた」
    の記事で、その後、淳仁朝・天平法字2年(758)に連(ムラジ)の姓を賜り、桓武朝・延歴9年(790)、勅により菅野朝臣の姓を賜っている(続日本紀)。
     新撰姓氏禄には、これら3氏について、
     ・右京諸蕃(百済) 葛井宿禰  菅野朝臣同祖  塩君男味散君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 船連     菅野朝臣同祖  大阿郎王三世孫智仁君之後也
     ・右京諸蕃(百済) 津宿禰    菅野朝臣同祖  塩君男麻呂君之後也
    とある。なお、本貫が右京諸蕃となっているのは、清和天皇・貞観5年(863)、その本拠を河内国から右京に移したことによる(三代実録)。

     これら3氏が当地一帯に勢力を張っていたことは、日本後紀(841)・延歴18年(799)3月条に記す、菅野朝臣真道等から出された
     「己等の先祖、葛井・船・津3氏の墓地は、河内国丹比郡の野中寺の南にありて寺山と曰ふ。・・・」
  • 百済貴須王(近仇首:きんきゅうしゅ)は高句麗軍の侵攻を撃退,神功皇后が新羅征討に派遣した将軍・荒田別らと会見

    野中寺がある野々上あたりは3氏の中の船氏の本拠地で、野中寺は船氏の船史王後(おうご)が創建したといわれています。

    船史王後の祖父には王智仁(王辰爾:おう・じんに)がおり、柏原市・国分・松岳山古墳で発見された船史王後墓誌に記されています。

    王智仁は蘇我稲目の命で,船賦(ふねのみつぎ:船に積んだ貢物)をかぞえ記録したことにより,
    船の長になり,船史(ふねのふびと)の氏姓をあたえられた祖人です。
  • 大津神社は、十世紀はじめ、醍醐天皇(八八五~九三〇)の御代に編纂された「延喜式」に「大津神社」と明記されている由緒の古い神社で、「丹下の郷の大宮」と称えられていました。
    応神天皇(四~五世紀はじめ)の御代に、文字をはじめ各種の大陸文化が朝鮮半島を経由して我国に伝来した際、当河内地方は難波の港と大和を結ぶ要路であったことから渡来人が土着し、荒地を開拓し産業を興して、遂に河内文化の繁栄を見るに至りました。
    当時この地方には、百済貴須王の子孫といわれる「葛井(ふじい)氏、船氏、津氏」の三氏が勢力を張っていました。この三氏のうち津氏一族がこの地を卜して「大宮山」と称し、自分達の守護神を奉斎したことが「大津神社」の発祥だろうと云うのが古来からの定説で在ります。このように大津神社は津氏一族の守護神として創祀されましたが津氏一族が朝廷に召されれて大和に移住し、また時代の推移に伴って氏姓制度が衰退していくと、中世以降には、大津神社はこの地方九ケ村の人々の「氏神」として受け継がれ、「河内の大宮」と称えられました。その後、仏教の隆盛に伴い、「本地垂迹説」に基づいて「午頭天王社」と称し、境内に宮寺真言宗大宮山南之坊を設けて神仏混淆となり、社僧の支配を受けました。広く世の人々からは、「北宮の午頭さん」と称えられ、親しまれました。

  • 雄略紀8年に、任那王は、高句麗軍の攻撃を受けた新羅王の要請に応じ、膳臣、吉備臣、難波吉士を救援させている。

    膳臣の本拠は若狭。吉備臣と難波吉士の本拠は吉備だ
  • 船氏王後」墓誌といわれるものである。墓誌の表 裏に次の文が刻まれている。
    (表)
    惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕 於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲勅賜 官位大仁品為第三
    惟うに船氏の故王後(おうご)の首(おふと)は、是れ船氏の中祖(なかつおや)王智仁(おうちに)の首の 児(こ)那沛故(なはこ)の首の子也。乎娑陀宮(おさだのみや)に天下(あめのした)治(しろしめしし)天 皇(敏達)の世(みよ)に生まる。等由羅(とゆら)の宮に天下治らしめしし天皇(推古)の朝(みかど)に 仕え奉り、阿須迦宮(あすかのみや)に天の下治らしめしし天皇(舒明)の朝に至る。天皇、照見して、 其の知才を知り、仕えて功勲有り。勅(みことのり)して官位大仁を賜い、品第三と為す。
    (裏)
    三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑(641)十二月三日庚寅 故戊辰(668)年十二月殯葬於松岳 山上 共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊基牢固永劫 之宝地也

    阿須迦の天皇の末に殞亡す。歳は次辛丑(かのとうし)に次(やど)る十二月三日庚寅(かのえとら)。 故(かれ)、戊辰(つちのえたつ)の年十二月、松岳山の上に殯葬す。婦(つま)安理故能刀自(ありこのと じ)と共に墓を同じくし、其の大兄刀羅古(とらこ)の首の墓と並びて墓を作る也。即ち為安保万代(よろ ずよ)の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんとすなり。 (大阪府立「近つ飛鳥博物館」)
  • 上宮法皇


    上宮法皇の実在は法隆寺釈迦三尊像光背銘・隋書俀国伝・唐 国書・西方院・広隆寺縁起等が証明する。法興元年(591)に即位、法興22年(622)に亡くなった。上宮法皇 とは法名である。実名は不明である。隋書は「其王多利思比孤」と書く。国際思想であった仏教を國教として 導入したのは、この王であった。
    日本國の有力な豪族は蘇我氏・小野氏・物部氏であった。上宮法皇が誕生した時、その養育係として三人 の姫が撰ばれた。その三人はこれら豪族の娘だった。上宮法皇が622年亡くなった後、三人は出家して尼と なりその菩提を弔った。上宮法皇の養育姫の墓は磯長陵の向かいの丘に存在する。この三人の尼の伝記は 日本書紀の説話と大きく異なる。
    (冠位12階制定は、この王の政治改革であった。有力氏族だけでなく、有能な人材を求めたのである。「百 済」「新羅」「高句麗」から多くの人材が渡日して政権の中枢を担った。京都・太秦の広隆寺を建てた秦河勝 もその一人だった。
    日本書紀のみが上宮法皇を天皇家の皇太子として描く。日本書紀では推古帝が592年に即位した。同じ國 にほぼ同時期に二人のv君主が存在したことになる。どちらかが虚構である。上宮法皇の伝記・伝承、或いは 「隋書」「唐国書」には女帝推古は全く登場しない。また推古天皇実在の証拠となる事物は関西のどこにもな い。推古天皇-皇太子像は日本書紀編纂者が作り出した仮想現実である。
    (上宮法皇の墳墓は叡福寺にある。玄室には王・妻・母の三つの石棺が存在する。法隆寺釈迦三尊光背銘 が記録しているように、621年に王母、622年2月21日に王后、622年2月22日に上宮法皇の三人が相次 いで亡くなった。
    上宮法皇が亡くなった時の状況を日本書紀は次のように描写している。
    (推古)29年2月5日、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣及び 天下の百姓、悉に長老は愛き兒を失へるが如くして、鹽酢(しほす)の味、口に在れども嘗(な)め ず。少幼は慈(うつくしび)の父母を亡へるが如くして、哭(な)き泣(いさ)つる 聲、行路に満てり。 乃ち耕す夫は耜(すき)を止み、春(いねつ)く女は杵(きぬおと)せず。皆曰はく、「日月輝を失ひ て、天地既に崩れぬ。今より以後誰を恃(たの)まむ。」といふ。是の月に、上宮太子を磯長陵に葬 る。
    万民の哀しみを伝えている。亡くなったのは、民衆にかくも愛された、日本國王・上宮法皇であった。こ の肝心要の真実を日本書紀はぼかしている。神武天皇家の皇太子が亡くなったのではない。日本國王・上 宮法皇が亡くなったのである。陵は磯長陵である。叡福寺は日本書紀が名前を厩戸豊聡耳皇子命と微妙に 変え、命日を2月5日と変更したにもかかわらず、眞の命日2月22日を1400年間守りぬいてきた。
    日本書紀に は母、妻の埋葬記事はない。恐らく埋葬の事実の詳細を編纂者たちは知らなかったのであろう。
  • 聖徳太子は、『日本書紀』によれば、推古二十九年二月五日に没した。

    二十九年春二月己丑朔癸巳(五日)、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨ず。<推古紀、二十九年二月>

    一方、「上宮法皇」は、法興三十一年の明年の二月二十一日、つまり、推古三十年に当る年に没した。
    没年も一年ずれており、命日も異なる

    銘文には、「推古天皇」が登場しない。「鬼前太后」が亡くなり「上宮法皇」、「王后」が次々と病に倒れ、「法皇」の治癒を仏に願い、「法皇」の没後、その冥福を祈る為に作られた「釈迦三尊像」・・・というストーリーの中に、当時の最高権力者であるべき、推古天皇は一度も登場しない。これは、この像が「天皇家のお膝元」で作られたのであれば、あまりに不可解だ。しかも、「法皇=聖徳太子」であるとすれば、なおいっそう不可解である。

    これらを踏まえ、「上宮法皇」が決して「聖徳太子」に当り得ないことを示し、この同じ時代に「天子」を名乗り得た人物として、『隋書』の「多利思北孤」を挙げる。
    (『隋書』[イ妥]国伝の記載が天皇家ではなく「九州王朝」を指すことは、かわにし「九州王朝とは」参照)
    さて、私は、古田の論証のうち3の部分を差し引いても、充分に「上宮法皇=多利思北孤」は成り立つと考えている。
    だから、古田とは逆に、「上宮法皇=多利思北孤」の立場から、「法興」年号が「九州年号」であるのだと、主張したい。
    当然ながら「九州王朝の天子の冥福」を祈るこの「像」に記された年号が「九州王朝の天子の制定した年号」以外であるとは考えられないのである。

    http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO02.htm
  • 葛城氏の神は、「一言主神」であり、この神は賀茂山口神社の祭神で、神社の名に賀茂が入っているように、古来より賀茂氏によって祀られてきた神でした。
     そして、この「一言主神」は事代主神と同神でもあり、その事代主神は、素戔嗚尊の孫、または曾孫にあたる

  • 葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。

    新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを
    息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)
    弓月の君はもちろん秦氏だ。

    一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、
    「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。
    この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。

    そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、
    陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。
  • 出典
    http://blogs.yahoo.co.jp/nihonshinoiratsume/54414477.html

    欽明十三年(五五二)に百済聖明王から我が国にもたらされた仏像は、宮中において祭ることができなかったために、蘇我大臣稲目宿禰が、その仏像を譲り受け、その邸宅を寺となして祭っています。また推古元年(五九三)に、蘇我馬子宿禰は、百済僧によって受戒されるとともに、善信尼らを学問僧として百済に留学させています。こうした点から蘇我氏親百済説が唱えられていると考えられますが、ことに六世紀末から七世紀初頭となってきますと、蘇我氏は、以下の点からは、むしろ親新羅派に属すようになっていたと推論することができます。

     第一に、大宝蔵(だいほうぞう)殿(でん)の北倉(ほくそう)に戊子年銘釈迦三尊像(ぼしねんめいしゃかさんぞんぞう)という蘇我氏が造顕した仏像があることです。この仏像の光背には四行四十八文字からなる造像記が刻まれおり、「戊子年十二月十五日」「嗽(そ)加(が)大臣」と見えることによって、「戊子(つちのえね)」の年の推古三十六年(六二八)に、蘇我大臣(蘇我大臣蝦夷か?)が造ったことが、はっきりしています。仏教美術の様式学から見れば、この仏像は、新羅を経由して伝わっていた北朝様式の仏像なのです。新羅の仏教美術は北朝様式、百済の仏教美術は南朝様式という明らかな違いがありますので、蘇我氏の造顕した仏像が北朝様式であることは、蘇我氏と新羅との親しい関係を示唆しています。

     第二に、崇峻元年に建立された蘇我氏の氏寺、法興寺には、推古十三年になって止利仏師によって造られた丈六仏が本尊として安置されますが、今日、「飛鳥大仏」と呼ばれているこの仏像も、北朝様式の仏像です。飛鳥大仏を作った止利派の作風は、北朝様式なのです。

     第三に、西暦六四五年に乙巳の変をおこして蘇我宗家を滅亡させた中大兄皇子(後の天智天皇)が、その父帝の建立された寺院が百済大寺で、遷宮された最後の宮が百済宮であること、また自身の百済救援事業に象徴されるように、明らかに親百済派であることです。天智天皇と蘇我氏の間には、親百済と親新羅のコントラストを認めることができるのです。
  • 宗我坐宗我都比古神社 (橿原市・曽我町)

    宗我都比古神社は曽我川右岸、近鉄・真菅駅前の南西側に鎮座する蘇我氏の神社です。

    曽我川には、太古から蓑・笠・縄などの素材とされた菅が群生しており,真菅の地名はそれに由来します。又曽我町には蘇我一族の居館があったとされます。

    祭神:曾我都比古、曾我都比売

    宗我坐宗我都比古神社は大和国・高市郡鎮座・月次新嘗とされる式内大社です。推古天皇の時(6世紀末から7世紀前葉)に当地を拠点とする蘇我馬子が蘇我氏の氏祖である石川宿禰夫妻を祀ったのが創始です。

    石川宿禰は南河内の河南町出身で、大和川支流の石川の名前は石川宿禰に由来するとも言われます。蘇我氏は河内国石川郡で生まれた石川宿禰を祖人とし、大和国高市郡へ拠点を遷してから蘇我氏と名を変えました。

    蘇我氏の祖・武内宿禰の子である石川宿禰が河内から移り住んだとき、石川姓を「蘇我」姓に改め、以後一族の姓としたといわれます。

    紀によると、百済の辰斯王が日本の天皇に礼を失したので、羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰・紀角宿禰がともに百済へ遣わされ、百済を謝罪させました。この4人は全て武内宿禰の子で、父の獲得した朝鮮半島での勢力維持に努めます。

    羽田矢代宿禰(はた・やしろ) ⇒武内宿禰の第一子で波多氏の祖
    石川宿禰           ⇒武内宿禰の第三子で蘇我氏の祖
    木菟宿禰(都久宿禰:ずく)   ⇒武内宿禰の第四子で平群氏の祖
    紀角宿禰(都野宿禰:きつの) ⇒武内宿禰の第五子で紀氏の祖
  • 赫居世である大卵を発見し、彼を新羅の君主として推戴した辰韓六部~新羅六村の一つの長「蘇伐公」とは、新羅の古名「徐伐」「徐羅伐」の「公」ですから、韓族の代表者が、倭人の「朴公」を「新羅」の君主として推戴し、これこそが、馬韓王=辰王からの新羅の自立の契機であり、かつ可能ならしめた最大の要素であった、と考えられます。 倭人と韓族両種族の言語で、それぞれ国号は、倭人語で「斯廬(シロ、上代日本語「白」)、韓族言語で、「徐伐、徐羅伐」と呼称されていたと考えられます。
  • July 2017 編集されました
    凡河内氏というのが三系統あるという
    凡河内を地名とするならややおかしい。
    三系統とは 1.天津彦根命の後裔 2.天穂日命の後裔 3.渡来系氏族、と言うものである。但し、「新撰姓氏録」には1.2.のみで3.はない。また、その発祥の地も 1.河内国志紀郡(大阪府藤井寺市) 2.摂津国菟原郡(神戸市灘区国玉通三丁目、河内国魂神社<式内社>) 3.務古(武庫)水門(神戸市兵庫区。大輪田泊か)の三カ所が挙げられている。中には河内国志紀郡が本貫地で、ほかは支流という見解もあるが

    天平19年(747年)の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帖」には、会下山の付近に凡河内寺山の名が見られる。

    記紀には、宣化天皇の妃に大河内稚子媛の名が見える。 続日本紀によると、慶雲3年(706年)10月には摂津国造凡河内忌寸石麻呂を従七位上から位一階進める、の記事があり、摂津の国造も出していた様である

    河内氏は河内国、和泉国、摂津国を支配した国造(中小国造を統括する国造)で、古代の畿内の有力豪族という。凡河内躬恒以外はあまり聞いたことがない。
  • 凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の真鍋(真部)一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしている。

    安岐・周防・淡道・伊余・都佐などの諸国造は凡直の姓を持つ。 讃岐も凡直を称することがあるが、大押直の意で、所部の地域を統率するいわゆる大国造であったことを示す。
    通常「国造」の姓は「直(あたい)」なのですが、これには例外があります。 「出雲」、「吉備」等は「臣」であり、「尾張」は「連」、「大分」や「諸県」は「君」です。 また「安芸」や、「伊与」、「美濃」等は「凡直(おおしのあたい)」を称しています。 これは彼等が通常の「国造」とは違う、ということを示しているのでしょう。 彼等は他の国造のように、豪族の分家ではなく、本家であることが多いのです。(略)
    伊予
    凡直は国造の系譜をもっており、また同郡にこれ以外の有力豪族を見出すことができないことからみて、郡司であった可能性が強い。
     桑村郡の初見は天平八年(七三六)の正税出挙帳である(正倉院文書・一)。これによれば、大領に凡直広田、主政に大伴首大山の名がみえる。ここには桑村郡と記されていないが、郡司の定員からみて小郡であることは明らかである。ともあれ、桑村郡の郡司は凡直であった。
  • July 2017 編集されました
    欽明記に

    「春日の日爪臣の女、糠子郎女を娶して生みませる御子、春日山田郎女、次に麻呂古王、次に宗我之倉王」


    このうちの「宗我之倉王」がそれです。(『欽明紀』では「倉皇子」の
     名を挙げています(母は違います。)

    これらの皇子の名からは想像できる「蘇我倉山田石川麻呂」です。
     「蘇我氏」と「蘇我石川氏」とは、「建内宿禰」を祖とした同族のように言われておりますが、元々は別であったのではないかと推測しています。
    「乙巳の変」で「倉山田麻呂」が中大兄皇子についた理由も、同族ではなかったとすれば、説明も理解もしやすい

    『日本三大実録』には、元慶元年の石川朝臣木村の上言に、
    「始祖大臣武内宿禰の男宗我石川、河内国の石川の別業に生まる。故、石川を以て名と為せり。宗我の大家を賜わりて居と為し、因りて姓宗我宿禰を賜わる。」

    とあって、大和国曽我を本拠とするいわゆる本宗家と、河内国石川を本拠とする「蘇我石川氏」は、ともに「蘇我」を名乗るものの、その氏族の出自はまったく別であった可能性が高いのです。





    葛城山系には「鴨氏」の奉斎した、高鴨阿治須岐詫彦根神社、葛木御歳神社、鴨都味波八重事代主命神社。
    「尾張氏」の祖神を祀った葛木坐火雷神社は鎮座するものの、「蘇我氏」に関する神社はありません。「蘇我氏」と言えば、橿原市曽我町の宗我坐宗我都比吉神社が本命なのです。

    そうは言うものの、「馬子」の本願は葛城の主張は、このあたりに由来するものなのでしょう。

    「乙巳の変」で「蘇我入鹿」が暗殺され、「蘇我」本宗家は滅亡しました。

    「大化改新以後『日本書紀』に活躍が記される蘇我一族には、蘇我倉山田石川麻呂・蘇我田口臣川堀・蘇我臣日向・蘇我赤兄臣・蘇我連大臣・蘇我果安・蘇我臣安麻呂などがいる。このうち蘇我田口臣堀川と蘇我果安臣の系譜については明らかでないが、そのほかは蘇我倉氏につながる系譜をもっている。このなかで石川臣を称し、天武十三年に石川朝臣の姓を賜わったのは、蘇我連大臣の系譜であった。」
      
  • 蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場します

    『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。

     明日香村の都塚古墳が階段状の方墳であたっことで、にわかに蘇我氏との関係が注目

    『二中歴』「都督歴」に見える次の記事

    「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)


    また、『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとあります、、、、

    ・倉麻呂(?-?)
    父:馬子 母:不明
    子供:倉山田石川麻呂、日向、果安、赤兄、連子  別称:雄当(おまさ)
    宗家滅亡後もしぶとく生き残った分家の祖。
    日本書紀でも殆ど記述無し。推古天皇没後の時期天皇問題では、蘇我氏の中で中立の立場を通し一族の安泰に繋がった。
    実に目立たない人物。しかし、結果的にはこの流れがそれ以後の蘇我氏ー石川氏へと繋がったわけである。
     
     ・日向(?-?)
    父:倉麻呂 母:不明
    石川麻呂の異母弟。 妻:石川麻呂長女 別名:身狭臣
    644年中大兄皇子が中臣鎌足の仲人で石川麻呂の娘と婚約した夜、その娘を盗んで邪魔した男。
    649年右大臣石川麻呂に皇太子中大兄皇子殺害の逆心ありと讒言。石川麻呂討伐に加わり石川麻呂を自殺させた。その後石川麻呂の潔白が証明され、筑紫太宰帥になる。
    この人事は穏流とされた。総てが中大兄皇子ー鎌足の策略の匂いあり?とされている。
     
  • 大阪平野は、大和王権の直接の支配がおよぶ地域でしたから、比較的多くの屯倉が分布していました。『紀』によると、仁徳のころに茨田(まつた)屯倉(寝屋川市付近)や依網(よさみ)屯倉(松原市北部から大阪市住吉区)が見られます。また、6世紀前半の安閑(あんかん)大王の時代には摂津三嶋の竹村(たかふ)屯倉(茨木市)・河内桜井の桜井屯倉(東大阪市か富田林市)・難波(なにわ)屯倉(大阪市)・和泉の芽渟山(ちぬやま)屯倉(和泉市付近)が記されています。

    このうち、依網屯倉は地名から見て、河内国丹比郡依羅郷であった天美地区の城連寺・池内・油上(ゆかみ)・芝・我堂・堀や、同郡三宅郷の松原市北部に置かれていました。さらに、摂津国住吉郡大羅郷に含まれる大阪市住吉区我孫子(あびこ)・山之内・杉本・浅香・苅田・庭井町にも広がっていたと思われます。庭井には大依羅神社があります。
     いまも、松原に三宅の地名が残っているのは、そこに屯倉を管理する役所や収穫物を納める倉庫が建てられていたからでしょう。同地に屯倉神社が鎮座しています。同社は平安時代の天慶5年(942)に、土師氏の祖である天穂日命や菅原道真を祭神として創建されました。社名の由来は、この地が屯倉管理の中心地でしたから、その址地にちなんで屯倉神社としたと考えられます。
  • 滋賀県の名前の由来は、豊後直入豊肥地区から阿蘇にかけて居た『志賀氏』が、西暦258年10月の杵築市にての崇神天皇(自称で神武と名乗った人)退治以後に、景行天皇に依って直入物部氏・直入中臣氏(藤原氏)と伴に『犬猿』・『八田』・『國摩侶』として退治されています。この時に景行に助けられたり、協力した一部の人々が近江他に移動して名付けられたものと考えられます。

    そして、豊後に残った志賀氏は欽明天皇(宣化天皇の時代とも謂われています。)の時代に、武内宿禰の末裔の『蘇我稲目』として登場しています。志賀氏が蘇我氏の事であります
  • 八島士奴美神
    やしまじぬみのかみ

    別名
    清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠:すがのゆやまのぬし、みなはさるひこやしましの
    清之繁名坂軽彦八嶋手命:すがのゆいなさかかるひこやしまでのみこと
    清之湯山主三名狹漏彦八嶋野:すがのゆやまのぬし、みなはさるひこやしまの
    ……
    字義は、大八州国を領する神。

    須佐之男神と櫛名田比売の御子神。
    『日本書紀』に清之湯山主三名狹漏彦八嶋篠、またの名を清之繁名坂軽彦八嶋手命、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野といい、 『古事記』では大国主神の祖で、この神の五代孫が大国主神とあるが、 『先代旧事本紀』では、八島士奴美神のまたの名を大国主神、大己貴命とある。

    妻は、大山津見神の娘・木花知流比売。子は布波能母遅久奴須奴神。

    『古事記』によると、須佐之男神と櫛名田比売の子が、八島士奴美神。
    八島士奴美神と木花知流比売の子が、布波能母遅久奴須奴神。
    布波能母遅久奴須奴神と日河比売命の子が、深淵之水夜礼花神。
    深淵之水夜礼花神と天之都度閇知泥神の子が、淤美豆奴神。
    淤美豆奴神と布帝耳神の子が、天之冬衣神。
    天之冬衣神と刺国若比売の子が、大国主神となっている
  • 11/09編集されました
    天葺根命。天冬衣神。 
    カンタチとフトミミの子。サシクニワカメを妻とする。 
    父カンタチ亡き後、オオモノヌシを継ぎ、ハデツミの子のトヨツミヒコと共に筑紫32県を治める。 
    子供ができなかったのでオホナムチのとりなしで、ツミハの子のクシミカタマを養子とする。 
    最後はツクシのヤス(夜須)で妻サシクニワカメと共に世を去る。 
    臨終の時、クシミカタマに「生まれ来る御子(タケヒト)の祝いに捧げよ」とムラクモの剣を渡している。これこそがソサノヲがヤマタノオロチから得たハハムラクモの剣のようだ。代々ソサノヲの家系の長男(オオモノヌシ)に受け継がれてきたようである。
      

    島根県簸川郡大社町大字日御碕、日御碕 (ヒノミサキ) 神社
    佐賀県小城郡小城町大字池上字牛尾、牛尾 (ウシオ) 神社
    石川県輪島市河井町、重蔵 (ジュウゾウ) 神社

    櫛甕魂命。櫛御方命。天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタノミコト)。 
    ツミハ(八重事代主)とタマクシ姫の子。クシナシ・タタラヰソスズ姫の兄。 斎名:ワニヒコ。
    ツミハ夫妻が阿波へ帰るワニ船の船内で生れる。
    叔父オオタの娘のミラ姫を娶り、アタツクシネを生む。

    オホナムチのとりなしでフキネの養子になり、フキネ亡き後にオオモノヌシを継ぐ。フキネの後任として筑紫ヲシカを命じられるが、弟クシナシが死に、母タマクシ姫に請われてヲシカを辞退する。これによりウガヤ自らがツクシに赴くことになったため、クシミカタマはタガ皇君 (ヰツセ) の右臣を勤める。この時に八重垣の剣をウガヤから授けられているようであるが、情勢不安からタマヨリ姫が預り、姫の死後はワケツチ宮に納められる。

    タガ皇君がナガスネの暴挙を恐れてツクシに避難すると、クシミカタマは代の殿として根の国を治める。山崎の関を封鎖したナガスネを討たんとしてオシクモと共に河内まで追い、さらにタケチノコリとアウエモロをして大和の層冨まで退かせる。

    タケヒトの大物主=剣臣=右臣。 
    タケヒトの大嘗会ではタネコと共にミケナヘマツリモフスヲミ(神饌供え祭り申す臣)を務める。
    直り物主神の家名を神武より賜る。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。