吉備津彦、稲日大郎姫

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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稲日大郎姫 古事記 「針間之伊那毘能大郎女」または「伊那毘能大郎女」と表記される。 吉備臣らの祖の若建吉備津日…

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コメント

  • 五十狭芹 彦 吉備津彦・イサセリビコ・大吉備津日子命・吉備津彦命・上道臣。孝霊天皇の皇子。「四道将軍」のひとり。山陽道を平定。武埴安彦命討伐の別働隊。のち建沼河別命とともに出雲振根を討伐する。<吉備氏の祖。「モモタロウ伝説」のモデル。>

    雅武 彦 命 吉備津彦・ワカタケヒコ・若日子建吉備津日子命・(笠)下道臣。吉備津彦命の異母弟。南海道・四国、讃岐に遠征。

    犬飼ノ 健 イヌカイノタケル。吉備津彦命の将。鬼ノ城温羅を討伐。<「モモタロウ伝説」のモデル。犬>

    楽々ノ森 彦 佐佐・ササノモリヒコ。吉備津彦命の将。鬼ノ城温羅を討伐。<「モモタロウ伝説」のモデル。猿>

    留玉ノ 臣 トメタマノオミ。吉備津彦命の将。鬼ノ城温羅を討伐。<「モモタロウ伝説」のモデル。雉>
  • 吉備穴戸武媛

    吉備穴戸武媛(きびあなとたけるひめ)(記は大吉備建比売)である。彼女は吉備武彦の娘(記は吉備臣建日子の妹)で、ヤマトタケル(日本武尊)の第二妃(記は第四妃)である

    吉備には彼女を祀る穴門山神社が二つある。一つは真備町の呉妹、もう一つは川上町の高山市(こうやまいち)にある。いずれも、高山(こうやま)と呼ばれる山の山頂近くである。いずれの穴門山神社も明治初期には式内社に指定されていたが、現在は真備町の穴門山神社のみが式内社となっている

    真備町の穴門山神社が穴門山赤浜宮とも呼ばれ、川上町の穴門山神社も赤浜宮、浜の宮、または名方浜宮と呼ばれていることが注目される。すなわち、名方浜宮と云うのは、崇神天皇の皇女豊鍬入媛(とよすきいりひめ)(もしくは垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ))が天照大神の御霊を鎮め祀るべき土地を求めて、遂に伊勢国の度会郡に至る間での間、諸国を遍歴するが、その過程で、吉備国の名方浜宮に四年間とどまったとされる名方浜宮に他ならないからである。
  • 日本武尊が熊襲を討って帰京する段における記紀の記事
    記:「還り上ります時、山の神、河の神、また穴戸の神をみな言向け・・・・」
    紀:「吉備に到りて穴の海を渡り、そこに悪ぶる神ありしを殺し・・・・・」
    紀:「ただ、吉備の穴の済(わたり)の神と、難波の柏の済の神、・・・・・その悪ぶる神を殺して・・・・・」

    ここに出てくる「穴戸の神」「吉備の穴の海の悪ぶる神」「吉備の穴の済の神」を吉備穴戸武媛を指すものと解釈することもできるからである。

     すなわち、「吉備の穴国」あるいは「吉備の穴の海」は、一般には、備後国の安那郡、現在の神辺町と比定されているが、しかし、彼女が「穴戸」と云う名を持っていることは、穴門山神社のある備中の小田川流域もまた、「穴の国」「穴の海」と呼ばれていたのかも知れないと示唆する。
  •  そもそも吉備氏は、7孝霊天皇の子 「吉備津彦」を元祖とするとされている。

    弥生時代半ばにあたる1世紀には、そこに有力な首長が出現した。
    大和朝廷の勢力が急伸する4世紀初めになると、吉備の首長はすすんで朝廷に従う道をとった?3世紀後半から4世紀の極初めにかけて古墳が広がっている。
    最近では前方後円墳の原型は吉備に端を発しているとされだした。
    吉備氏は、吉備国(備前、備中、備後)平定のために朝廷が送った「吉備津彦」の子孫だとされている。しかし、この辺りは現在も諸説ある。
    上道、下道、笠、賀陽、三野などの臣姓をもつ有力豪族が割拠しており、これらが総て「吉備津彦」の子孫ということになっている。
    (系譜は色々あり、複雑)
    別系譜では、大吉備津日子が上道氏、その弟「若日子建吉備津彦」が下道氏、笠氏の先祖だとする。
    しかし、本当は、吉備に割拠する豪族は、元からその土地の土着豪族であり互いに同祖関係はなかったらしい。との説も有力。

     最近の学説では、3世紀に造られた大和の巻向遺跡、箸墓古墳などの発掘調査の結果からこれらの文化は、大和の弥生人の文化の延長ではなく、吉備国の影響が非常に濃くでており、初期大和政権は、吉備国、讃岐国、播磨国、筑紫国などの連合政権であった。とする説(寺沢薫)、などが出現し、興味深い。
     5世紀初め吉備下道氏が全盛期となり、作山古墳、造山古墳(総社市)などの天皇家の古墳に匹敵する大型前方後方墳を営なんだ。
    5世紀末下道前津屋の反乱で21雄略天皇は、物部氏にこれを討たせた。
    これにより、吉備氏は、大きく後退したとされる。
    一方、5世紀末上道氏の娘が21雄略の庶妻になり「星川皇子」を産んだ。
    雄略没後、上道氏は、この皇子を王位につけようと企み、「大伴室屋」らに阻止された。
    中央政界では、大化の改新時「笠垂」が古人大兄皇子の謀反計画を密告し、中大兄皇子から褒美をもらっている。
     40天武朝、下道氏、笠氏が朝臣姓を与えられている。
    地方豪族ではこれ以外には、下毛野氏、上毛野氏があるのみ。
    奈良時代後期に活躍した「吉備真備」は、下道氏流れとされている。
    これ以後、吉備氏は歴史上から消える。
  • 吉備津彦神社の主祭神は大吉備津彦命(五十狭芹彦命)であるが、相殿に7代から10代までの4人の天皇が神として並ぶ。
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     7代孝霊は吉備津彦の父、8代孝元は吉備津彦の異母兄弟、9代開化は孝元の子、10代崇神は開化の子となる。実在の可能性があるのは崇神のみで、2代から9代までを纏めて欠史八代といい、天皇としては実在しないとみられている。
     ところで、相殿に祀られる7代から9代の天皇名は次の通り。
     7代孝霊 おおやまとねこひこふとにのみこと
    8代孝元 おおやまとねこひこくにくるのみこと
    9代開化 わかやまとねこひこおおびびのみこと
     天皇名に『やまとねこひこ』は6代以前には全く見られず、7代からの3名は同族を匂わせる共通な名として『やまとねこひこ』が連なる。
       
     記紀を見れば、吉備勢力の存在は天皇の系譜に絡まる。記紀を創作するにあたり、吉備の豪族の首長名を架空の天皇名として使用した可能性がある。


     吉備津彦神社が本来、吉備の有力豪族(『やまとねこひこ』やその尊称『吉備津彦』を名乗る)を祀る社(やしろ)であったとすれば、ヤマトから派遣された吉備津彦を新たな主祭神に迎えて、従来の祭神は相殿に祀り直したものと思われる。
       
      9代開化の後では、『やまとねこ』(『ひこ』は付かない)が22代清寧天皇の諱に現れる。「しらかのやまとねこのみこと」という。(清寧は生来白髪であったことから白髪皇子(しらかのみこ)と呼ばれていた)JR総社駅(備中)の近くに真壁という地区があり、その辺りが清寧天皇の名代(なしろ)であったことは、荷板の出土で分かっている。真壁という地名の由来は、白壁王と呼ばれた光仁天皇の名に憚って、白髪部郷を真髪部郷に改めたことから、真髪部=真壁になったという。JR総社駅は古墳群(吉備勢力)の中にあり、清寧天皇の諱に吉備の『やまとねこ』を用いたのであろうと推測できる。理由は後に述べるが、『やまとねこ』は、吉備の地を支配下に置いた勝利宣言とも言える。


     その後の『やまとねこ』は、ずっと後世で、41持統から44元正までの諡号に連続して現れる。
      41代持統 おほやまとねこあめのひろのひめ
    42代文武 
    やまとねことよをぢ
    43代元明 
    やまとねこあまつみしろとよくになりひめ
    44代元正 
    やまとねこあめたかみつきよたらしひめ
  • May 2016 編集されました
    岡山県の「吉備の中山」に、大吉備津彦の墓と伝えられる中山茶臼山古墳がある。
    古墳時代前期の3世紀後半から4世紀頃に築造されたと考えられている。全長は約120メートルで、後円部直径は約80メートル、後円部の高さ約12メートル、前方部の長さは40メートルである。

    この中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳と平面図がほとんど相似形である。墳丘全長、後円部径などの測定値が、中山茶臼山古墳は、崇神天皇陵古墳の、ほぼ正確に二分の一である。つまり、古墳の形式は、その古墳のつくられた時期によってかなり異なるが、古墳の形式からいって、崇神天皇陵古墳は、中山茶臼山古墳と、同時期のものであることが推定される。
  • 行燈山古墳(行灯山古墳)
    築造年代 4世紀前半。第10代崇神天皇(宮内庁治定)。
    奈良県天理市柳本町にある前方後円墳(帆立貝形古墳とも)。

    宮内庁により「山邊道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」として第10代崇神天皇の陵に治定されている。三輪山の山麓に築かれた大和・柳本古墳群の中でも、渋谷向山古墳(現景行天皇陵)に次ぐ大きさであり、現崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)に比定されている。

    遙拝所に続く参道の両側に2基の陪塚があり、やはり前方後円墳である。北側が北アンド山古墳(全長120m)、南側が南アンド山古墳(全長60m)で、それぞれ行燈山古墳の2分の1、4分の1の全長となっている。国道169号を渡った西側にある大和天神山古墳も陪塚とされ、前方部を南に向けた前方後円墳であるが、国道建設時に東側半分が削られている。また、すぐ東に櫛山古墳がある。
  • 中山茶臼山古墳 大吉備津彦命墓

    中山茶臼山古墳は、岡山市吉備津・吉備津神社(祭神は主神が大吉備津彦命)の南に500mほどいった吉備中山の山頂に築かれた前方後円墳です。 大吉備津彦命墓として宮内庁の管理下にあり、(墳長約120 m、後円部径約80m、後円部高約12m、前方部長40m) 吉備でもっとも古い浦間茶臼山古墳と同じ年代の古墳です。 大吉備津彦命は第七代孝霊天皇と三人目の夫人・意富夜麻登 玖邇阿礼比売命(オオヤマトクニアレヒメノミコト 倭国香媛)との間に、三番目の皇子として生まれています。 因みに一番上が、夜麻 登登母母曾毘売命(倭迹迹日百襲姫命)です。(撮影:クロウ)

    地元では御陵さんよ呼ばれているようですが、治定では御陵ではなく、大吉備津彦命墓であります。

     吉備津彦命には異母弟・若日子建吉備津日子命(稚武彦命)がおり、古事記によると大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命が一緒に吉備 国をせめたと云います。後に吉備の国を統治し、稚武彦命は吉備の祖となっています。 また日本書紀によると、崇神天皇10年9 月9日に大彦命(孝元天皇皇子)を北陸に、武渟川別(大彦命の皇子)を東海に、吉備津彦を西海に、丹波道主命(日葉酢媛命の父)を丹波に遣わされた。 この4軍は、10月1日に同時に出発して、地方の敵を平らげて11年4月28日に凱旋したことになっています。 以降はその子孫が吉備の国造となり、「吉備臣」を名乗ったといいいます。

     古代吉備国の中心地、総社平野を眼下に見下ろす標高400メートルの鬼城山山頂に、謎の古代山城、「鬼ノ城」がある。吉備津神社に伝わる「吉備津宮勧進帳」によると、朝鮮の皇子「温羅」が鬼の城城主である。温羅は西国から都へ送る船荷を略奪し、困った民が朝廷に訴えたため、朝廷は何度も討伐を試みたが、戦略に巧みな温羅に、全く歯が立たなかった。そこで、武勇の誉れ高い皇子・吉備津彦命が派遣され、温羅を討伐した。しかし、阿曽郷の神職の娘・阿曽媛を妻にめとりこよなく愛し「吉備の冠者」と呼ばれ親しまれた首領「温羅」の死を、吉備国の民衆は嘆き悲しんだという。 吉備津彦命は、討伐の際に陣を構えたといわれる備中中山にある壮麗な「吉備津神社」に祀られているが、温羅は神社の「釜」にその名を残すだけである。 温羅の居城「鬼ノ城」の存在もその後忘れられ、偶然の山火事の後民間の熱心な研究家によって調査が始まったのが、昭和46年、本格的な学術調査が始まったのは昭和53年のことである。
  • 浦間茶臼山古墳
    古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。

    大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。


    二つめは岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
    古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる

    また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、内海 航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる
  • 中山茶臼山古墳
    現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである

    大吉備津彦とは考えにくいか?
  • 日本書紀には、邪馬台国を説明できない、無理やり神功皇后に充てているが、時代が合わない
    ●狗奴国は強国で、邪馬台国は軍事的に悲鳴をあげて魏の援助を求めている
    ●日本書紀には、吉備津彦の吉備征服説話があり、また温羅伝説も地元に残っている
    ●卑弥呼の死後、吉備の祭祀を取り入れて、ある意味平和的に邪馬台国が大和に組み込まれた
    ●だが一部勢力は統一に参加せず、温羅伝説になったのかもしれない
    ●その統一のシンボルが箸墓古墳と考えた方が、時代が合う
    ●浦間茶臼山古墳は箸墓の丁度1/2のサイズ、九州の石塚山古墳もほぼ同サイズ

    前方後円墳体制を通じてゆるやかな日本統一がなされたのは、崇神天皇時代
  • 福岡県苅田町にある九州最大の古墳
    石塚山古墳
    前方後円墳、墳丘長120m前後 、 築造年代 3世紀中頃~4世紀初頭
    埋葬施設 竪穴式石室、 出土品 三角縁神獣鏡7面以上 銅鏃 素環頭大刀 

    出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている舶載三角縁神獣鏡6種7面、素環頭大刀、銅鏃があるが、小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡は11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。

    現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である

    石塚山古墳から出土したと伝えられ、現存する三角縁神獣鏡の種類の内訳と小林行雄らが明らかにした他の古墳との同笵鏡の分有関係は以下の通りである。

    吾作銘四神四獣鏡(複像式)  

    京都府椿井大塚山古墳、岡山県備前車塚古墳、大阪府万年山古墳出土鏡と同笵

    天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式)  
    福岡県御陵古墳出土鏡と同笵

    天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式)  
    岡山県備前車塚古墳、奈良県新山古墳出土鏡と同笵

    天王・日月・獣文帯三神三獣鏡一種2面   
    京都府椿井大塚山古墳、福岡県原口古墳、大分県赤塚古墳出土鏡と同笵

    日月・獣文帯六神四獣鏡

    日日日全・獣文帯三神三獣鏡
      以上6種7面である
  • 吉備武彦

    吉備臣きびのおみ等之祖 【古事記 中巻 景行天皇段】
    生年月日:( ~ 景行天皇40年7月16日)没年月日:(景行天皇40年10月7日 ~ )
    父:•稚武彦命わかたけひこのみこと
    先祖:稚武彦命 孝霊天皇 孝安天皇押媛絙某弟 和知都美命u子:•吉備穴戸武媛きびのあなとのたけひめ 【日本書紀 巻第七 景行天皇五十一年八月壬子条】補【母:不明】•浦凝別うらこりわけ補【母:不明】•御友別みともわけ 【日本三代実録 元慶三年十月二十二日戊寅条】補【母:不明】•鴨別かもわけ 【日本三代実録 元慶三年十月二十二日戊寅条】補【母:不明】•兄媛えひめ補【母:不明】
    出来事:
    •《景行天皇40年7月16日》

    景行天皇に日本武尊の東征に従うよう命じられる。【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年七月戊戌条】

    ◦景行天皇から東方十二国平定の命を受けた倭建命に副えられる。【古事記 中巻 景行天皇段】
    •《(景行天皇40年10月7日 ~ 景行天皇41年12月)》

    日本武尊の東夷征伐にて、吾嬬国あずまのくにで日本武尊と分かれて越国に行き、その地形と民の順逆を探った。
    その後、美濃で合流する。
    能褒野のぼのに着くと日本武尊は病気がひどくなり、天皇に奏上して「私は天朝の命を承り、遠く東夷を討伐致しました。神恩を被り、皇威に頼りまして、叛く者は罪に伏し、荒ぶる神も自ら従いました。そこで甲よろいを巻き、戈ほこを納めて、心安らいで帰還致しまして、何れの日、何れの時に復命しようかと思っておりました。しかし天命は忽ちに至り、余命幾ばくも無く、独り荒野に臥しております。誰に語ることも御座いません。身の亡ぶことなど惜しみません。ただ残念なのは、お仕え奉ることが適わなくなることで御座います」と。【日本書紀 巻第七 景行天皇四十年是歳条】
  • 日本武尊の妻は、吉備穴戸健姫


    名(日本書紀)吉備穴戸武媛 きびのあなとたけひめ
    名(古事記) 大吉備建比売命 おほきびたけひめ

    景行四十三年以前 -
    父(日本書紀) 吉備武彦命 兄(古事記) 吉備臣建日子
    夫 日本武尊

    王子 武卵王
    王子 十城別王
  • 五十狭芹彦命
    兵庫県加古川市加古川町大野、日岡 (ヒオカ) 神社
    香川県高松市一宮町大字一宮、田村 (タムラ) 神社
      

    ★『書紀』彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)。 
    ■他文献では大吉備津彦命とよばれている。ホツマにおいてはキビツヒコはこの人のことではなく、弟ワカタケヒコの子である。

    『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子生む 名は皆ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』32文
    『五十三年 西中負えず チノクチと 播磨ヒカワに 斎瓮主 ヤマトヰサセリ これに添え』32文
    『"ヰサセリヒコを 逢坂へ" 向かひアタ姫 討ち破り ついに殺しつ オオヒコと ヒコクニフクと 向わしむ』34文
  • 日岡山の神は播磨国風土記では『伊波都比古命』でしたが、延喜式神名帳では『イササヒコ』に変わっています。そして、神社伝承では、印南別嬢のお産の時に『イササヒコ』が祈り続けて無事にヤマトタケル兄弟が生まれた、という伝承が残っていましたよね。このイササヒコの名前は、イサセリヒコと似ていません? 例えば、吉備津のイサセリヒコの娘が『伊波都比古命』のところに嫁いでいたとしたら、その父の名前の一部分をとった名前を付ける可能性があるのではないでしょうか。そして、その娘が印南別嬢だったとしたら、なんて、推測に推測を重ねることになりますが
  • 尾道の艮神社

    盥石と吉備津彦命の足跡

     吉備津彦命が上陸した地、尾道造船所内の吉備津神社と吉備津彦命が休息をした艮神社は同じ祭神である。艮神社には、盥石というものがある。直径1m少々の円形の石である。中央がくぼんでおり、ちょうどパラボラアンテナのような形をしている。
     ここで吉備津彦命が水浴びをしたという。現在もすぐ近くに蛇口があり、盥のような用途で使われているのかも知れない。
     
    それにしても不思議な形だ。台座もきちんとあり、大きな盃のような感じである。こんな石が自然の状態で存在していたのであろうか。
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    『古代豪族系図集覧』より抜粋し合成した系図。
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    (大物主神) (御鉏友耳建彦命)
    ┌─稚武吉備津彦命──┬─吉備武彦命(従日本武尊有功)──○──
    ○─┤ (稚武彦命) │
    └─彦狭嶋命 │
    ├─穴戸武媛────ーーー ーー─┐
    │(大吉備建比売) ├─武卵王(建貝児王)
    └─播磨稲日大郎姫─┐ l
    ├─日本武尊─┘
    景行天皇──────────────┘
    :『古代豪族系図集覧』の「吉備氏」の系図を見て下さい。
    「景行天皇」の位置が、「孝霊天皇」の子どもたちと同じ位置にあるのです。
    (不思議です。)

    「神功皇后」について
    日本書紀・神功皇后紀には、「気長足姫尊」は、開化天皇の曾孫で気長宿禰王の娘である。 :母は葛城高額媛という。と、書いてあります。


    「武内宿禰」について
    記紀によると、武内宿禰は、「孝元天皇の」ひ孫(記では、「孫」)になります。
    成務天皇紀によると、成務天皇と武内宿禰は、同じ日に生まれています。
    仲哀天皇紀によると、 :武内宿禰は、大臣(おおおみ)です。そして、神功皇后紀では、武内宿禰は、神功皇后の :そばにいますが、古事記に書かれている、父(息長宿禰王)・弟(息長日子王)は、登場しません。
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