神社の神紋

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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三つ巴 三つ巴を神紋とする神社としては、石清水八幡宮・ 大神神社・ 二荒山神社・ 鹿島神宮・ 香取神宮・ 宇佐…

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  • 和爾下神社(わにしたじんじゃ)

     奈良県天理市櫟本(いちのもと)町
    「上治道宮 かみはるみちのみや」とも称し、創建:769年。

    祭神: 素盞鳴命  中央、大己貴命 左側、 櫛稲田姫命 右側。

    江戸期の記録では、天足彦国押人命、彦姥津命、彦国葺命、若宮難波根子武振熊命が祭神になっています。
    天足彦国押人命は和爾氏の祖で、父は5代孝昭天皇、母は世襲足媛(よそたらしひめ、尾張氏)、弟は6代孝安天皇です。

    和爾下神社の神紋は素戔嗚の木瓜紋。
  • 香春町採銅所にある古宮八幡宮は宇佐八幡宮放生会の出発点であるが、
    この神社の神紋は『違い鷹の羽』とのことです。

    香春岳こそ、香春神社の神紋のとおり、菱形山です。3階菱の神紋です。
    3つの山の形が三階菱。

    摂津住吉大社の御神紋は『花菱』紋です。
    筑後高良大社の御神紋は『横木瓜』ですが、これは『花菱』紋でもあります。
  • 香川では綾藤原氏が勢力をもち、その後裔を称する香西・大野・羽床・福家・新居・飯田・寒河の諸氏が「三階松紋」を用いた。『見聞諸家紋』には、大野氏の「下り藤に三階松」、羽床氏の「枝付き三階松」、新居氏の「三階松」、 福家氏の「三階松に水」、香西越後守元正の「三階松に岩に笹」、飯田氏の「三階松に鏑矢」などが収録されている。
  • 宮崎県には、もともと「日向」の地名はなく、そのほとんどは、日田周辺に最も多く、日田を中心とし、博多湾・国東半島・宇土半島を結ぶ地域に分布している。

    江戸時代末期の日田の歴史学者である森春樹は『造領記』という書物を著し、
    「允恭天皇の九年の春、豊国を分って前後となし、おのおの八郡を置く。この時までは、なお、比多国とて一の国なりしを、豊後の国に属して郡とぞなし給いける」と書いているという。その根拠は不明だが、当時まで残されていた確実な記録があったことだろう。このことは、最初に述べたように、日田を「トヨの国」 に属させることは地勢的にも不自然であり、本来は西の筑後川中・下流方面とつながっていた、とする感想を支持してくれる。

    福本氏は、「六世紀ごろまでは、日向の国と言えば、今日の日田郡とその西側の筑後川流域一帯にまたがる地域だった。それが、後に分割され、日田郡は豊後に組み入れられ、残りは筑前・筑後・肥後に編入された。それとともに、宮崎県が日向と呼ばれるようになった」というように述べている。


    豊前小笠原氏のルーツをたどれば甲斐武田氏である。謎、武田氏が三階菱(香春の神紋)を使うのか。

    、甲斐武田氏は源頼義の三男源義光(新羅三郎義光)の末孫です。室町時代に記された『見聞諸家紋』という書物には武田氏が『菱』紋を家紋としている由緒がしるしてあります。それによると、永承五(1050)年、源頼義が後冷泉院の勅によって奥州安倍頼時を攻めるにあたり、住吉社に詣でた時に神託があり、旗一流と鎧一領を賜った。それは、その昔、神功皇后が三韓征伐に用いたもので、神功皇后の鎧、脇楯は住吉の御子香良大明神の鎧袖なり。此の裙の紋、割菱なり。三韓帰国後摂津国住吉に鎮座し、寳殿に奉納す。今、霊神の感応により源頼義に之を賜わる。希代と言うべきなり。頼義の三男、新羅三郎義光は季子と雖も父の鐘愛に依り之を伝う。即ち旗と楯無の鎧が是なり。旗は白地無紋、鎧には『松皮菱』あり、故に義光の末裔である当家(武田家)の紋となす。

    「住吉の御子香良大明神の鎧袖なり。此の裙の紋、割菱なり。」、
    住吉の御子香良大明神とは、豊前國香春の神でしょうか、或いは筑後國高良の神でしょうか?
  • 三島大明神や越智氏が用いている折敷に三文字紋も「明治神社誌料」によれば本来は角切菱(亀甲)
    三文字紋は月神を表わす楔形文字。
  • May 2016 編集されました
    宇佐と高良の五七桐紋がきになる。息長タラシヒメと高良大社の関係は???

    高良大社 神紋
    正殿:高良玉垂命 - 神紋は「横木瓜」
    左殿:八幡大神 - 神紋は「右三巴」
    右殿:住吉大神 - 神紋は「五七桐」

    宮地嶽神社(福岡県福津市)の神紋が「三階松(右三階松)」

    宇佐神宮
    豊前 八幡宇佐宮 三つ巴、
    豊前 比売神社 十二八重菊、
    豊前 大帯姫廟神社 五七の桐
    延長五年(九二七)に成る『延喜式』神名帳に宇佐郡三座として記される「八幡大菩薩宇佐宮 名神大」、「比売神社 名神大」、「大帯姫廟神社 名神大」、つまり、これら三社を一社に並びまつる現在の八幡総本宮・

    八幡宇佐宮御託宣集』や『八幡愚童訓』に「住吉縁起云。大帯姫新羅軍之時。登四天王寿山。爾時無寿無像 後令造之。 祈願云。欲降伏隣敵。天王護助給。又以大鈴附榊枝高振呼云。朝底神達乞施神威令降伏敵国」とあり新羅征伐の素材は香椎宮に伝わる大帯日売命伝承で宇佐八幡とは密接な関係がある。社伝によれば養老七年造営とされ神亀元年以後は神功皇后とされる。香椎・宇佐とも本来、仲哀は祭神ではなく(現在は『記・紀』によって香椎宮のみ仲哀を祭神に加える)、神亀元年以前は大帯日売命が祭神である。 宇佐八幡は『延喜式神名帳』によれば宇佐三座(八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫神社)であり名神大社として祭祀にあずかっている。しかし『記・紀』の神功・応神条には全く触れていないし、神代の巻でも宗像三神・綿津見三神は書かれているが、宇佐は記紀成立時点では大和朝廷の神統譜の外に置かれていた。



     三つ巴を神紋とする神社は、宇佐神宮をはじめとする八幡宮、住吉神社系、志賀海神社などの綿津見系神社、大神神社、籠神社、豊受大神社、西宮えびす神社、鹿島神宮、香取神宮系など、全国の神社の半数近いといわれる

    住吉大社 花菱、三つ巴
    博多 住吉神社 三つ巴

    巴は橘とともに石清水八幡宮の御神紋であり、御本殿の彫刻を始め軒瓦など各所に見られます。当宮の巴は「流れ左三つ巴」であり、
  • 伊勢神宮外宮と高良大社の神紋は木瓜=門光で、同じである
  • 尾張大国魂神社と熱田神宮の神紋は同じ

    尾張大国魂神社の神主は、天背男命を祖とする中島海部直の後裔という中島連が務めた。系図によれば、清嗣は久田を称し、その孫元政が神主を務めたとみえる。以後、代々が神主を務め秀守に至って野々部を称している。その後、秀富のときに姓を橘としている。
  • 八坂神社の神紋
    各神社には、家紋の様なその神社を象徴する神紋があり、素戔嗚尊を御祭神とする八坂神社の神紋には木瓜紋が用いられています。この木瓜紋に関する起源や意味については諸説あり、素戔嗚尊がキュウリの上に降臨したという伝説やキュウリを輪切りにした形に似ている。また木瓜はボケやモコウと読むことから、バラ科の植物であるボケに由来することや、モコウ=帽額にキュウリの輪切りの形が用いられたことが転じて木瓜紋となったなどがある。ちなみに帽額とは、平安時代に宮中や寺院でよく見られた御簾の上部分(上長押)に添って張り巡らされた絹布のことです。

    この木瓜紋は祇園祭の法被にも広く用いられており、小友祇園祭の法被にもこの神紋が描かれています。

    また、京都や博多の祇園祭と同じく、ここ小友の祇園祭でも祭事の期間中にキュウリを食べることは御法度とされています。その理由は、これも定かではありませんが先に述べた木瓜紋の起源などから推測されることと思います。
  • 香川では綾藤原氏が勢力をもち、その後裔を称する香西・大野・羽床・福家・新居・飯田・寒河の諸氏が「三階松紋」を用いた。『見聞諸家紋』には、大野氏の「下り藤に三階松」、羽床氏の「枝付き三階松」、新居氏の「三階松」、 福家氏の「三階松に水」、香西越後守元正の「三階松に岩に笹」、飯田氏の「三階松に鏑矢」などが収録されている。
    寒川郡北部に勢力をもったのが安富氏で、応仁の乱には東軍に属して活躍した。安富氏は紀長谷雄の後裔を称し、家紋は「丸の内に石畳」。讃岐を安富氏と二分したのが天霧城主香川氏で、「巴九曜紋」を用いた。坂東八平氏の流れで、同じ「巴九曜紋」を用いる上野・越後の長尾氏とは同族。その他、讃岐長尾氏は「庵紋」、大井氏は「輪紋」、 稲毛氏は「三つ並び鷹の羽紋」、筒井氏は「羽団扇紋」、三宅氏は「輪宝紋」をそれぞれ用いたことが知られる。
  • December 2016 編集されました
    三階松紋は、その他にも宮地嶽不動神社(福津市)、剣神社(鞍手郡木月)・高良下宮社(久留米市)・松崎天満宮(小郡市)・壱岐神社(福岡市)で使用されています。九州に広範囲に広がっている為、一説には九州王朝の紋だという人もいます

    三階松は菅原氏流の五条氏、前田氏、源氏流の中川氏、岡山氏、平氏流の宮村氏、藤原氏流の松田氏、松村氏、天野氏、中根氏、石原氏、前田氏、内田氏、在原氏流の牟礼(むれ)氏、綾氏(讃岐国阿野郡)がいる。また讃岐藤氏の大野、羽床、新居、福家、香西、飯田がそれぞれの三階松の替り紋を使用しているという。
  • December 2016 編集されました
    多くの神社は三つ巴を神紋としている。宇佐神宮をはじめとする八幡宮、住吉系神社、志賀海神社などの綿津見系神社、大神神社、籠神社、豊受大神社、えびす神社、そして鹿島神宮、香取神宮など、海人系の信仰を中心に、全国の半数近い神社が三つ巴を使うといわれる。

    古来より太陽を表す数が三とされて来た事に由来するとする見方は、宇佐神宮など、太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることなどから言われている。

     住吉三神は航海神。神話では伊弉諾尊が禊をしたときに生まれ、元宮は筑紫や壱岐あたりとされる。
     「筒」とは星のこと。三つ星の神格化とされ、三つ星といえばオリオン座の三つ星を思いおこすのだが、海人の三つ星は北極星を示す上台、中台、下台の「三台星」。北斗七星の外側にある三つ星であり「三筒」と呼ばれる。

    浙江省に天台山がある。天台山は、古く、大陸の神仙思想の源。古来、神仙の道士が多く住み、三台星の思想はここで生まれた。天帝の星、紫微星(北極星)を支える三台星の真下に在るとされ、天台山は三つの峰をもつ神聖な山。三つ星を宗紋とするのちの天台宗もここで生まれている。
     江南の海人にとって三台星は大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを示す。ゆえに、北を示す三台星は航海神となった。

     綿津見三神は住吉神と共に生まれた神。北部九州の海人、安曇氏の祖神とされる。摂津国一宮、住吉大社の奉祭氏族、津守氏の氏神が大海(おおわたつみ)神社。綿津見神と住吉神との関係を暗示する。綿津見三神は半島との拘わりの中で、住吉海人の信仰から生まれている。

     三つ巴は江南海人の三台星信仰に因むようである。
    末羅の海人、のちの波多氏(佐志氏)の家紋などは、丸が三つの「三つ星」であった。

    「巴」の由来には諸説あり、勾玉のかたちからきているとも、武神、八幡神に拘わり、弓矢の鞆のかたちとも。また、水渦からきているとも、道教の陰陽魚に拘わるともいわれる。

    勾玉は沖縄など南西諸島においてノロ(祝女、巫女)の祭具として今でも使われている。
  • 巴型銅器のかたちは、半球体から数本の巴形が出るもので、南域のスイジ貝を模したともされる。スイジ貝は南西諸島において、魔除けとして家の入口などに掛けられたもの。

     台湾南域原住のパイワン族の長の肩帯に、南海のイモ貝を輪切りにしたものが象徴的な章として付けられ、それが巴のかたちであった。而して、「巴」は台湾など南海より伝播したとする説がある。パイワン族はインドネシア由来とされる。

    3世紀の纒向石塚出土の弧文円板において、特徴的な透かし穴が「巴」のかたちであった。また、吉備の向木見型特殊器台や、吉備や纒向で出土する宮山型特殊器台にも「巴」が象徴的にみられる。
  • 「ともえ(ともゑ)」の起りには、弓を射る時に使う鞆(とも)を図案化したもので、もとは鞆絵であるという説、虫などの古代中国の象形文字が元となったとする説、勾玉を図案化したものであるなどの説がある。その後、水が渦を巻くさまとも解釈されるようになり、本来、中国では人が腹ばいになる姿を現す象形文字の巴という漢字が、形の類似から当てられた。水に関する模様であることから、平安末期の建物に葺かれた軒丸瓦などに火災除けとして、巴紋を施した。後には特に武神である八幡神の神紋として巴紋(特に三つ巴)が用いられるようになり、さらには他の神社でも巴紋が神紋として用いられるようになった。

    ちなみに、中国や、その影響を受けた韓国、モンゴル、チベットには「太極(タイジー)」と呼ばれる二つ巴に似た模様があるが、道教の陰陽思想など、二項からなる宇宙観を表す、別のものである。また、ヨーロッパには、三つ巴に似た「トリスケル(triskele)」という文様があり、日本では三脚巴と訳されている

    http://dream-d.net/ishijun/2011/08/時計回りの三つ巴紋/
  • January 2017 編集されました
    徳島県では、甲斐源氏小笠原氏が鎌倉時代に守護を務めたことからその一族が広まった。その一流である三好氏は、小笠原氏ゆかりの「三階菱と釘抜紋」、「釘抜紋」を単独で用いることもあった。三好長慶は一時期京都を支配下に治めたが、天下人となる野望は持っていなかったらしく、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、 嫡子義興が死ぬと、弟十河一存の遺児義継を養子としたが、実子を失って気落ちしたまま病没してしまった。
    長慶の弟が家督を継いだ十河氏は「公饗に檜扇紋」で、存保は鬼十河と異名をとるほどの猛将だったが、土佐の長宗我部元親によって国を逐われた。のちに、 豊臣大名として復活したものの、天正十四年(1586)豊後戸次川の合戦で島津軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。

    香川では綾藤原氏が勢力をもち、その後裔を称する香西・大野・羽床・福家・新居・飯田・寒河の諸氏が「三階松紋」を用いた。『見聞諸家紋』には、大野氏の「下り藤に三階松」、羽床氏の「枝付き三階松」、新居氏の「三階松」、 福家氏の「三階松に水」、香西越後守元正の「三階松に岩に笹」、飯田氏の「三階松に鏑矢」などが収録されている。
    寒川郡北部に勢力をもったのが安富氏で、応仁の乱には東軍に属して活躍した。安富氏は紀長谷雄の後裔を称し、家紋は「丸の内に石畳」。讃岐を安富氏と二分したのが天霧城主香川氏で、「巴九曜紋」を用いた。坂東八平氏の流れで、同じ「巴九曜紋」を用いる上野・越後の長尾氏とは同族。その他、讃岐長尾氏は「庵紋」、大井氏は「輪紋」、 稲毛氏は「三つ並び鷹の羽紋」、筒井氏は「羽団扇紋」、三宅氏は「輪宝紋」をそれぞれ用いたことが知られる。
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    愛媛県 は、大山祇(オオヤマヅミ)神が鎮座する三島神社の神紋が「折敷に三文字紋」で、三島神社を祭祀した越智氏をはじめ、その一族の河野・久留島・一柳・稲葉らが同紋を用いた。とくに、河野氏の家紋として世に知られた。河野氏は蒙古襲来の時水軍を率いて活躍、元弘・建武の争乱には、宗家は足利尊氏に属したが、一族の得能・土居氏は南朝方に尽くし、一族が二派に分かれて戦った。 室町時代になると伊予守護に任ぜられ湯築城に拠って勢力を持ったが戦国末期に没落した。
    伊予国は、都から下ってきた西園寺氏、下野から下ってきた宇都宮氏がともに「巴紋」を用いた。戦国時代、西園寺氏を補佐して活躍したのが大森城主土居氏で、紀伊国牟婁郡土居の鈴木党というが、その家紋は「一枚楓」であった。また、伊予国は水軍が多い土地柄で、瀬戸内海西部の一要衝である伊予国忽那七島に拠り、中世期海上に活躍した在地勢力の忽那氏は「杏葉牡丹」。 同じく水軍で、二神島に拠った藤原姓豊田氏後裔二神氏は「丸の内一文字」であった。
  • 英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。
    昔は「彦山」のみを用いていたが、享保十四年(1729)、霊元法皇より、天下に抜きん出ている霊山として「英」の美称を許され、英彦山と書かれるようになった。創祀年代は不詳だが、一説に、継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山 中で修行中、猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現し、鹿 に檜の葉に浸した水を与えると、鹿は蘇生して逃げ去った。その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって上宮三社を建立したとい う。その後、当社は衰退していた、弘仁十年(819)、法蓮が、ある日この山で、飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見、勅命を得て、当山を再興した。以後、西国修験道の拠点として、「嶺に三千人の仙人あり」と呼ばれるほどの霊場となったが、明治の神仏分離に際し修験道廃止となり、英彦山神社と改称。昭和五十年、英彦山神宮となった。
    神紋は、「鷹の丸に二引」。開山説話や中興説話に登場する鷹が用いられているのだろうか。

    英彦山神宮略誌 

    御由緒

    英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
    嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。
    英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。
  • 松江市にある出世稲荷神社
    主祭神は稲荷神である宇迦之御魂神をお祀りしています。

    正六角形の亀甲紋は出雲の神紋で、実はこれは「亀の甲羅」を表しているのではなく、出雲の神の使いである龍蛇神の鱗を表しており、正しくは「龍鱗紋」と言います。

    この出世稲荷神社の神紋は、「出雲龍鱗に稲荷宝珠」であり、これが「出雲稲荷」を象徴であり、また「出雲稲荷」の証です。
  • August 2017 編集されました
    菱餅

    白色は菱の実を製粉して作り、江戸時代にはこの二色を三段に重ねたものであった。
    山梔子で紅に染めた餅を用い三色になったのは明治時代以降である。

    その形は三階菱紋に似ている。
    三階菱は武家礼法の家、小笠原氏の家紋として名高い。

    菱紋は甲斐源氏が用い、その中で小笠原氏は三段重ねの菱を家紋とした。

    小笠原氏の庶流や家臣などには松皮菱紋が多い。
    戦国時代に権勢を誇った三好氏は小笠原氏族とされ、三階菱の下に五つの釘貫紋を並べる

    .徳島県では、甲斐源氏小笠原氏が鎌倉時代に守護を務めたことからその一族が広まった。その一流である三好氏は、小笠原氏ゆかりの「三階菱と釘抜紋」、「釘抜紋」を単独で用いることもあった。三好長慶は一時期京都を支配下に治めたが、天下人となる野望は持っていなかったらしく、次第に家臣の松永久秀に実権を奪われ、 嫡子義興が死ぬと、弟十河一存の遺児義継を養子としたが、実子を失って気落ちしたまま病没してしまった。
    長慶の弟が家督を継いだ十河氏は「公饗に檜扇紋」で、存保は鬼十河と異名をとるほどの猛将だったが、土佐の長宗我部元親によって国を逐われた。のちに、 豊臣大名として復活したものの、天正十四年(1586)豊後戸次川の合戦で島津軍と戦い、壮烈な戦死を遂げた。
  • 鷹の羽互い

    鈴木梅太郎 。1874年4月7日 - 1943年9月20日、
    農芸化学者。
    静岡県榛原郡出身。農業・鈴木庄蔵の次男。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)、また、合成清酒を発明する。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
    高木貞治 。1875年4月21日 - 1960年2月28日、 数学者。
    岐阜県本巣郡数屋村出身。ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し多大な影響を受ける。代数的整数論の研究では類体論を確立しクロネッカーの青春の夢を解決した。著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』がある。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
    菊池武夫 。1875年7月23日 - 1955年12月1日、 政治家。
    熊本県菊池郡出身。菊池氏は中世以来の肥後国の名族で、南北朝時代は南朝に属した。日露戦争に従軍。陸軍中将。中島久万吉の足利尊氏論や、美濃部達吉の天皇機関説を攻撃する。興亜専門学校(後の亜細亜大学)を設立。家紋は丸に並び鷹の羽紋。

    山梨勝之進 。
    1877年7月26日 - 1967年12月17日、 海軍軍人。
    宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士の長男として生まれた。軍政部門に歩み山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた条約派の1人。海軍次官在任中はロンドン海軍軍縮条約の締結に奔走。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
    野間清治 。1878年12月17日 - 1938年10月16日、 実業家。
    群馬県桐生市出身 。講談社創業者、報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ雑誌「キング」は大ヒット、昭和時代前期の出版界を牽引。主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は護国寺にて撮影。
    米内光政 。1880年3月2日 - 1948年4月20日、 海軍軍人、政治家。
    岩手県盛岡市出身。旧盛岡藩士米内受政の長男。林銑十郎内閣にて海軍大臣として入閣。海軍内の条約派として三国同盟・日米開戦に反対。後に内閣総理大臣(第37代)を務める。最終階級は海軍大将。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は盛岡・円光寺にて撮影。
    生田長江 。1882年4月21日 - 1936年1月11日、 評論家、小説家。
    鳥取県日野郡根雨町出身。本名は、生田弘治。『長江』の号は、上田敏より貰う。ニーチェの『ツァラトゥストラ』を翻訳。平塚雷鳥らの『青鞜』を後援。評論には、『最近の小説家』等がある。家紋の丸に違い鷹の羽紋は、文学者掃苔録図書館より。

    石橋湛山
    。1884年9月25日 - 1973年4月25日、 政治家。
    東京市芝区出身。僧侶・杉田湛誓の長男であったが母方の石橋家を継ぐ。石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。第55代内閣総理大臣就任直後に脳梗塞で倒れ首相在任期間は65日。歴代で3番目の短命政権だった。画像は善性寺。
    高須四郎 。1884年10月27日 - 1944年9月2日、 海軍軍人。
    茨城県桜川村出身。知英派で当時の欧米事情に詳しく日独伊三国軍事同盟や日米開戦に反対し、山本五十六や米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。最終階級は海軍大将。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

    木下杢太郎
    。1885年8月1日 - 1945年10月15日、 医学者、詩人。
    静岡県伊東市出身。本名は太田正雄。石川啄木創刊の「スバル」等に詩を発表。また「パンの会」(青年文芸・美術家の懇談会)を主催、永井荷風、高村光太郎、谷崎潤一郎等が参会する。医学の道では、らい病の権威でもある。画像は多磨霊園にて撮影。

    木村篤太郎
    。1886年2月7日 - 1982年8月8日、 政治家、剣道家。
    奈良県五條町出身。読みは、きむらとくたろう。幣原喜重郎内閣の検事総長、吉田茂内閣で司法大臣、法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官を務める。全日本剣道連盟初代会長。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
    早川雪洲 。1886年6月10日 - 1973年11月23日、 俳優。
    千葉県安房郡千倉町出身。家は裕福な網元。本名は早川金太郎。日本人として最も早い時代に活躍した国際的映画俳優である。日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。代表出演作は『南海漂流』『戦場にかける橋』等。
    小原國芳 。1887年4月8日 - 1977年12月13日、 教育学者。
    鹿児島県川辺郡出身。読みは、おばらくによし。日本基督教団のクリスチャン。全人教育等の教育理念が建学の精神として、学校法人玉川学園を創立した。主著は、『全人教育論』。家紋の丸に違い鷹の羽紋は、墓所の写真にて確認。
    牛島満 。1887年7月31日 - 1945年6月23日、 陸軍軍人。
    鹿児島県鹿児島市出身。陸軍では教育畑を歴任。沖縄戦においては第32軍を指揮し自決。温厚な人柄で彼の人柄を懐かしむ声は多いという。最終階級は陸軍中将(死後大将に昇進)。家紋は反り違い鷹の羽紋。青山霊園の墓所にて撮影。
    菊池寛 。1888年12月26日 - 1948年3月6日、 小説家。
    香川県高松市出身。菊池家は高松藩の儒学者の家柄。文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立。川端康成、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助を行う。代表作は「父帰る」「恩讐の彼方に」。丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園の墓所にて。
    三木露風 。1889年6月23日 - 1964年12月29日、 詩人、童謡作家。
    兵庫県揖西郡龍野町生まれ。本名は三木操。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。代表作は「赤とんぼ」「かっこう」「野薔薇」「十五夜」等。家紋は折敷に違い鷹の羽紋。
    川島正次郎 。1890年7月10日 - 1970年11月9日、 政治家。
    東京市出身。鼈甲屋を営む母方の叔父のもとで幼少期を過ごす。自民党幹事長・副総裁を歴任。専修大学総長、成田山奉賛会初代会長、日本プロレスリングコミッショナーを始め日本学生卓球連盟会長などの要職を務めた。画像は妙寿寺にて。
    菊池山哉 。1890年10月29日 - 1966年11月17日、 郷土史家。
    東京府出身。本名は菊池武治。読みは、きくちさんさい。部落史研究としては被差別部落民を異民族起源とする説を唱えた。『穢多族に関する研究』が差別図書として全国水平社から糾弾を受ける。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
    大西瀧治郎 。1891年6月2日 - 1945年8月16日、 海軍軍人。
    兵庫県氷上郡芦田村出身。神風特別攻撃隊の編成を行なったことにより「特攻の父」「特攻生みの親」などと呼ばれている。最終階級は海軍中将。日本の敗戦を見とどけ8月16日に自決。家紋は鞠挟みに違い鷹の羽紋。画像は総持寺にて撮影。
    吉川英治 。1892年8月11日 - 1962年9月7日、 作家。
    神奈川県久良岐郡中村根岸出身。旧小田原藩士・吉川直広の次男。船具工、象眼職人などを経て、国民的大作家となる。代表作は
  • 富田氏は宇多源氏佐々木氏庶流といわれている。『寛政重修諸家譜』によれば、佐々木源三秀義の五男隠岐守義清の五代の裔にあたる義泰のとき、出雲国富田荘に居住し、その地名をとって苗字にしたという。
     義泰の子師泰が出雲国富田城を築いたといわれ、その子秀貞のとき、はじめ広田氏といっていたのをあらためて富田氏にしたという。秀貞のころがちょうど南北朝内乱期にあたり、秀貞は貞治六年(1367)、出雲において戦死している。
     戦国期の当主は知信および信高で、知信は一白の名で知られ、秀吉の使者として大名の間を往復して活躍している。普通知信といわれているが信広あるいは長家といった時期もあったようだ。天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦いにおいて、織田信雄との間を斡旋した功で、秀吉から名馬星崎を与えられている。文禄四年には伊勢安濃津城主となり、五万石を与えられた。秀吉死後の慶長四年致仕して水西と号し、同年没している。
     子信高も知勝・知治などと呼ばれた時期があった。天正十六年秀吉に仕え、父が安濃美津城主となったとき二万石を分知され、父の隠居後、城主となった。関ヶ原のときは東軍に属し、安濃美津城において分部政寿と合体して同城にがんばったが、西軍の攻撃をうけて支えきれず、ついに開城。剃髪して高野山に入った。のち家康に召し出されて加増されている。
     のちさらに増して、伊予宇和島十二万石の城主となった。しかし、慶長十八年(1613)坂崎直盛との係争がこじれて、根こそぎ失領することとなった。このとき、富高と親交のあった高橋家と、信高の弟佐野信吉も巻添えで、ともに除封となっている。家は信高の次男知休が綱吉について五百俵の旗本となり、その子知郷のとき七千石の大禄となって、大身の徳川旗本となって続いた。
  • 大麻比古神社・・・字の如く麻を祭った神社の神様の総本山。
    阿波の國一宮神社でもあり御祭神は天太玉命と猿田彦神。
    御神紋は「丸に麻の葉紋」。
    宮司さんも麻紋を使用されているそうです。
    神社を御護りしていた阿波忌部一族の紋もまた「丸に麻の葉紋」であり、一族が古い古い時代に房総半島に渡り麻や五穀を広めたと云います。字句の違いだけで

    千葉県は房国である。
    千葉県成田市には、麻賀多神社というのがあり麻を祭る神社があります。
    由諸書には、天照大の妹神を祭神とし産業を司る神様。
    麻は織物類の原料とし貴重な物だった。朝廷の身に着ける衣服はこの地方の麻が献上された。
    この神社もまた、「丸に麻の紋」である。
  • 葵紋

    賀茂神社の神紋の「葵」は松尾大社の神紋でもあり、「葵」紋は、賀茂氏から京都の秦氏に広がっていったが、京都の秦氏の主流は河内の秦氏が京都に移住したものなので、神紋の「葵」は河内秦氏にも広まっていた。

     神紋の「葵」は賀茂神社や松尾神社から、秦氏によって河内国の秦氏に伝えられ、秦氏が信濃国に移住すると信濃国に伝えられ、長野善光寺の寺紋となったが秦氏が河内国から信濃国に移動する過程で、三河国にも伝えられた。

     「浪合記」に書かれたように、南朝や後南朝の活動範囲は信濃国の伊奈郡と三河国の設楽郡や加茂郡であり、信濃国と三河国との交流は盛んであった。

     神紋の「葵」が、どの時点で「立ち葵」紋となったのかは、よくはわからないが、葵紋を家紋とする武将は三河国の武将だけであるといわれているので、三河国で「立ち葵」紋がデザインされ信濃国に伝わったと考えられる。

     これが、本多氏の家紋と長野善光寺の寺紋が同じ「立ち葵」紋となった理由であると考えられる。

     そして、松平清康は、新しい世良田氏の家系の創造と一緒に、本多氏の「立ち葵」紋と酒井氏の「酢漿草」紋を組み合わせて「三つ葉葵」紋を創作したのだと考えられる。
  • 05/15編集されました
    「高良玉垂宮神秘書」
    まずは御祭神のこと。

    一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
    一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
    一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
    一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

    最前には赤い糸!高良大菩薩です。
    神紋は木瓜(もっこう)。

    黒糸!八幡大菩薩神紋は巴(ともえ)です

    白糸l 住吉神の鎧の神紋は「五七の桐」。
    横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。

    309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。

    産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

    住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。
  • 10/05編集されました
    宮地嶽神社の神紋である三階松をあしらった宮地嶽大明神(恐らくこれが阿部相凾)を乗せる山車と抱き菊の葉に十六葉菊をあしらった神 功皇后の山車(姥神神社HPによると神功山車と説明)

    主祭神として高良玉垂命と神功皇后とが並んで祀られていたところがあります。旧瀬高町(現みやま市)河内の河内玉垂宮(現仁神社)です。
    ただ、これについては、つい最近、安置されていた神功皇后の像までがなくなり、現在では高良玉垂命の神紋五七桐と神功皇后の神紋である三五桐が並んで置かれているだけです。
    このように時代の流れと政情の変化によって、絶えず祭神、社名、神紋は変わる
  • 10/05編集されました
    宮地の村
    宗像郡の村、津屋崎の東なる一村にして西に宮地嶽。宮路岳大明神の祠あり。

    阿倍 御主人(あべ の みうし)
    日本の飛鳥時代の人物である。氏は布勢・普勢(ふせ)ともされ、阿倍普勢(あべのふせ)の複姓で記される場合もある。姓は臣のち朝臣。左大臣・阿倍内麻呂の子
    672年の壬申の乱では、大海人皇子の側に立ったことだけが知られる。阿倍普勢臣御主人がこのときの功績で100戸の封戸を与えられたことが、『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条にある。

    天武天皇13年(684年)11月1日、阿倍臣は朝臣の姓を与えられた。

    天武天皇の時代には、納言として太政官で働き、政治の枢要にあずかった。しかし文献上の初見は天武天皇崩御後の朱鳥元年(686年)9月28日で、この日の天武天皇の葬儀で直大参の布勢朝臣御主人が大政官(太政官)のことを誄した。翌持統天皇元年(687年)1月1日、皇后(持統天皇)、皇太子(草壁皇子)、公卿、百寮人が殯宮で慟哭したとき、納言の布勢朝臣御主人が誄した。

    持統天皇2年(688年)11月11日、天武天皇が大内陵に葬られたとき、布施朝臣御主人は大伴御行とともに誄した。
  • 10/05編集されました
    天武天皇系

    天智天皇の皇女の大江皇女と新田部皇女を妃にしている。大江皇女は天武二年(673年)に妃となったとされ、長皇子と弓削皇子をもうける(二人は『万葉集』に歌を残している)。新田部皇女は天武の妃となり、天武五年 (676年) に舎人皇子を生んでいる。この二人の皇女は、天智天皇の崩御後に天武天皇の妃になっているようである。そのうち、新田部皇女は橘娘 (たちばなのいらつめ) を母にもち、その父の安倍内麻呂(倉梯麻呂)は田村皇子(後の舒明天皇)の擁立に働き、孝徳朝で左大臣を務めた。系図を遡ると、崇神天皇の皇后御間城姫の父大彦に至る(おとくに『古代豪族』Web)。まさに安倍氏は狗奴国血統を継いでいるのだ。天武天皇にとって新田部皇女は、遥かなる遠祖に繋がる重要人物であったのだ。

    大海人は、胸形君徳善の女、尼子娘を納して高市皇子をもうけていた(白雉五年 654年)。兄弟の中では最年長である。高市皇子は壬申の乱では総大将となり、大海人を勝利に導くことになる。尼子娘は寝所にはべる女官とされる。
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