往来は心安かれ空の海、空海、弘法大師

December 2018 編集されました カテゴリ: 空海
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空海 大水上神社は多くの境内社を抱えていますが、本社祭神の神徳とみてよい「水霊」に深く関わる社が「滝の宮神社」…

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コメント

  • 秦氏の勤操・護命と空海の虚空蔵求聞持法
     若き日の空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは、空海にとって公私にわたる大外護者ともいうべき大安寺の勤操であり、実質的な恩師ともいうべき元興寺の護命であったが、この二人ともに出自は秦氏である。
     このうち勤操は大和国高市郡の出身で、大和国高市郡といえばその当時河内地方にかけて、渡来人(秦氏・東漢(やまとのあや)氏・東文(やまとのふみ)氏)などの一大居住地であった。
     余談ながら、高市郡に所在する久米寺で『大日経』を空海が感得する話にも勤操や渡来系の仏教僧が関与しているかもしれない。また、空海が碑銘を書いた大和益田池も久米寺南方の高市の地にある。益田池の修築になぜ空海がかかわったか。秦氏のもつ潅漑土木技術を思わないわけにはいかない。
  • 空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神(高野明神・高野御子大神)だったという伝え

    その狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。
     「狩場」とは、山の民が狩猟をする場所などと思われがちだが、鉱山とくに銅山のことをいう言葉である。山の民(例えばサンカなど)の隠語だともいう。

     丹生家信は、宣化天皇(467~539)を祖とする丹治氏から、延暦12年(793)丹生氏に養子として入り丹生総神主家を継いだことが伝えられているが、丹治氏といえば秩父の銅(和銅開珎、708)で知られ、本拠地を河内国丹比郡とし、中央の大伴氏や藤原氏や紀伊国の紀氏にも根を張っていた。今の秩父地方を開墾した「武信」という人は、この家信の子だという説もある。
  • 835 空海が死ぬ(63歳)
    空海が高野山上に庵を建てるとき、紀の国の有力者にあてた文。「昔の人
    から聞き及んでいるのに、私の先祖は太遣馬宿禰(たけまのすくね)はあ
    なたの国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の末裔であるとのこ
    と。
  • 高野山の開創と丹生・高野両明神と全く関係がなかったというと、そうでもなさそうです。
    ここで、弘法大師が時の天皇、嵯峨天皇から高野山を下賜され、これから高野山の開創に着手するにあたって紀伊の国の有力者に援助をお願いされた時の手紙があります。しかし残念ながらこの手紙の内容からは誰に宛てた手紙かはわからないのですが、その手紙には、
    「これを、先人の説に聞くに、我が遠祖、太遣馬宿禰(たけまのすくね)は、
    是則ち彼の国の祖、大名草彦(おおなぐさひこ)の派なり」とあります。


    実はこの大名草彦とは、紀値氏(きのあたへし)の実質的な始祖と考えられてきた人物です。では、大名草彦に始まる紀伊国造家(きいのくにのみやつこけ)とはどのような氏族だったのでしょうか?
    紀伊国造家は、紀伊国名草郡、現在の和歌山市を中心とする地域を本拠とし、名草郡を中心として紀ノ川流域に強大な勢力をもつ在地の豪族でした。
    また、大和朝廷、すなわち天皇家ともっとも早くから関係をもった豪族の一つともいわれ、出雲国造家とならんで伝統を誇る家系として有名であります。
    中でも紀伊国造家が祭祀をつかさどってきた日前(ひのくま)・国懸(くにかがす)神宮の祭神・日前大神と国懸大神のうち、日前大神は天皇家が祭祀権をもつ伊勢神宮の祭神・伊勢大神とは姉妹のような関係にあるとする伝承もあり、紀伊国造家は政治的にも、またその祭祀する神のうえでも天皇家と密接な関係をもち、かつ紀伊国においても強大な勢力をもつ豪族であったといわれてきました。
    さらに、「国造次第」にある六代目の国造に宇遅比古命(うちひこのみこと)とありますが、この宇遅比古命とは大名草彦の子であり、その宇遅比古命の二代後の豊耳命(とよみみのみこと)が伊都郡の阿牟田(あむだ)に住んでいた有力豪族の女を娶って生まれたのが子牟久君(こむくのきみ)であり、子牟久君から丹生祝(にうのはふり)・丹生相見(にうのあいみ)・神奴(かむやっこ)らがわかれ、それぞれ丹生津比売大御神・高野大御神・及び百余りの大御神達を祭祀するようになったと「丹生祝氏文(にうのはふりうじぶみ)」(延暦19年(800)9月16日)に記されています。

    これらから大名草彦を先祖にもつ氏族には紀値氏と丹生祝家があることがわかります。
  • 丹生津比売命の名が見られる最古の文献は、「播磨国風土記逸文」

    要約すると、

    息長帯日女命(おきながたらしひめのみこと)、すなわち神功皇后は、新羅の国を平定しようとして播磨の国に下られた時、多くの神々に戦勝を祈願された。その時、イザナギ・イザナミ神の御子である爾保都比売命(にほつひめのみこと)は、国造石坂売命(くにのみやつこいしざかひめのみこと)に神憑かりして、「私をよく祀ってくれるならば、よき験をだして新羅の国を平らげてあげましょう」と教え、よき験である赤土(丹生)をだした。皇后はその土を天の逆桙に塗って神舟のモトと舳にたて、また神舟のスソにも赤土を塗り、御軍の着も赤土で染めて出かけたところ、前をさえぎるものもなく、無事新羅を平定する事が出来た。帰国後、皇后は爾保都比売命を紀伊の国管川の藤代の峯
    (現在の高野町富貴・上筒香に比定される)に祀ることにした。

    となります。

    わが国の新羅征伐に功績のあった丹生津比売命は、紀値氏、すなわち紀伊国造家に奉ぜられて、まず紀伊の国名草郡の玉津島に上陸し、国造家によって祭祀されていました。
    その後、紀伊国造家は勢力を拡大する為に、伊都郡の有力豪族であった阿牟田と婚姻関係を結んだ。その結果、丹生津比売命はこの婚姻によって出生した丹生祝家によって祀られることになり、菴田(あんだ)の丹生酒殿社に遷座した。さらに、紀ノ川をさかのぼって大和国の十市・巨勢・宇智郡をめぐり、また紀ノ川をくだって紀伊の国にもどり、那賀・有田・日高郡を遊行し、最後に現在の天野に鎮座したと考えられています。これにより丹生津比売命の祭祀権は、おなじ先祖をもつ紀伊国造家から丹生祝家にうつったといえます。

    したがって、弘法大師が手紙を出された相手としては、
    1、紀伊国造家・紀値氏
    2、丹生祝家・丹生氏
    のどちらかだと考えられます

    地理的に見ると、紀値氏は少し遠すぎます。
    それに対して高野山山麓の天野に鎮座する丹生津比売命を祭祀していた
    丹生祝家に援助を請われたと見た方が、より現実味をもつように思われます。

    出典 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/9365/kaisou/zyoudo.html
  • 丹生都比売神社 (にぶつひめ)
    伊都郡かつらぎ町上天野30

    由緒
    丹生都比売大神は天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。 神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。その後も皇室の御崇敬は厚く延喜の制で名神大社に列せられ、大正13年官弊大社になりました それ故社宝には、国宝や重文も多く保存されています。
     古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
     当社の特殊神事の1月の第3日曜日の御田祭、4月の第3日曜日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。


    神武に討たれた丹敷戸畔とは丹生戸畔のことであり、祭神の丹生都比売神をこの丹敷戸畔を祀ったものとする説がある。
    またこの伊都郡には丹生神社が53社あると言われている。水銀の採掘にかかわった丹生氏の勢力、丹敷戸畔の存在が大きいものであった事を示している。
     元々この神社は丹生川の水源地の筒香にあったが、吉野の丹生川上水分峯、大和の十市・巨勢・宇智、紀伊の伊都郡・那賀郡の各地を経て現社地の天野原に鎮まったと言われている。
  • 屋島寺
    この寺は唐の高僧鑑真が天平勝宝6年(754)、屋島の北嶺に創建。その後、弘仁元年(810)には弘法大師が伽藍を南嶺に移して千手観音を彫って納め、以後中世まで、山岳仏教の霊場として栄えたそうです。つまり空海ゆかりのお寺。
    不動明王から熊野権現社、血の池と名づけられた弁天様の池まで見事な小宇宙的構成になっている。

    屋島の禿狸(やしまのはげたぬき)
    屋島に伝わる化け狸で佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と並んで日本三名狸に数えられているとのこと。その奥にはとても風格のあるお稲荷さんが祀られている。

    金刀比羅宮

    神仏分離をする明治以前、ここは金毘羅大権現を祀る象頭山松尾寺金光院と言うお寺で、金刀比羅宮である象頭山松尾寺は役行者が開山。役行者‥空海とともに修験道の聖者。

    日吉大社は松尾大社と同じ大山咋神を祀るので関係があるとのこと。蚕の社、上賀茂・下鴨神社、松尾大社、日吉大社の神紋は全て双葉葵という。
  • 象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。

    クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。
  • June 2017 編集されました
    明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)

    讃岐の象頭山松尾寺金光院の鎮守として祀られていた金毘羅様もその被害を受け、松尾寺はその住職が僧職を辞し、神職として日本の海上安全の神である金刀比羅(ことひら)様に奉仕することを決め、寺院から神社へとその姿を変えた。このため多くの仏像が打ち壊しになり、これを見かねた金光院の末寺である万福院の住職宥明師が、明治7年(1874年)7月12日自らの故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、金毘羅大権現の本地仏である不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰った。

    その後、この話を聞いた岡山藩主池田章政公が、自らの祈願寺である下出石村の円務院に移したが、廃藩置県によって池田候は東京へ移り、西大寺住職の長田光阿上人が明治15年(1882年)3月5日当山へ勧請した。現在は、もともと当寺の鎮守である牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀されている。


    高野山真言宗別格本山金陵山西大寺(観音院)
    〒704-8116 岡山市東区西大寺中3-8-8 
  • 「弘法大師誕生地の研究」  乾千太郎  大本山善通寺御遠忌事務局  昭和11年
     大師誕生の屏風浦善通寺誕生院の外に、大師の生れた屏風浦と称するもののあらはれたとすれば誕生地訴訟の起こるべきは当然である。しかるに三角寺佛母院に対しては、その事のなくして済み、海岸寺に対しても、久しい間その事のなかったといふは、その流布が口頭に止まっていたためであらう、しかるに文化年間に至り、海岸寺は大師母君の別館の旧跡と称し、大師は奥院産盥堂に於いて生れ、その時産湯に用いたのが、石の産盥であるといひ、その産盥堂再建といふについて、(中略)納経帳には、弘法大師御産生之所也、と書きはじめ。(中略)
     訴訟は佛門の欲せざるところであつたのであらう、荏苒目下十一年に及んだ善通寺誕生院も、事ここに至つては最早、訴願の止むなき運びとなり、叙上の顛末を具して、領主丸亀藩へ訴へ、文化二年以来、施設の条条差止め方を申請したのであった。
     そこで丸亀藩に於ては、右の趣を海岸寺の領主多度津藩へ移牒し、それに就いて多度津藩に於て海岸寺へ訊問に及んだ、その答書と、その答書に対する誕生院の具陳を、左に要を摘み併挙することにする。(中略)
     丸亀藩に於いて誕生地訴訟の裁断、其日近きにありと聞き及んだ新義真言宗本山智積院座主能化僧正には、藩に於て是非の裁決を下さざるに先だち、これを内済にとの配慮から、窃かにその意を嵯峨御所、大覚寺門跡にいたすところがあつた、海岸寺は大覚寺の門末だからである。
     それで嵯峨御所、大覚寺に於いては、海岸寺とその本寺明王院とを招致し、結局厚き説諭を加へ『理解書』を、作製して、領主の藩政に拘はらざるものに限り、文化二年以来海岸寺の企画施設に係るものを、嵯峨御所大覚寺に於いて差止め、而して『理解書』の壱通は内済仲介の労を執つた、(中略)
     元来、大師の誕生地といふものが二箇所あるべきものではない、ゆゑに事実、海岸寺が屏風浦大師誕生の地であるなら、誕生院から訴へられるまでもなく、誕生院を訴ふべきである。(中略)
     海岸寺は、大師母君産屋の別館、と称するは勿論。屏風浦と称することも禁ぜられ。所謂、石の産盥は没収。従つて産盥堂再建の停止はもとより旧堂をも取拂はねばならないことに、なつてゐたのである。
     ところが、その裁決が俄に変更といふことになつたのであつた。それは右裁決を、今少こし寛大にとの、多度津藩主、京極壹岐守自筆の書簡を、丸亀藩家老職、岡織部に致された結果であつたのである。(中略)
     それで前裁決に於いて、産盥は没収。産盥堂の再建は更なり、従来の堂舎も取拂らはねばならず屏風浦と称することも、堅く禁ぜられることになつてゐた海岸寺は、この度の申渡しによつて。産盥の他見は禁ぜられたが、没収は免かれ、産盥堂も、産盥堂といふ名目は勿論、再建としては許されないが、新堂として建築は許され。屏風浦も単に屏風浦と称することは禁ぜられたが、頭書か肩書には許された等、非常に寛大な処置となつたのであつた。(中略)
     海岸寺では、藩の申渡と、嵯峨御所大覚寺、差止の八箇条によつて、すべてを処理すべきところ其儘であつたのみならず、依然、「切出し」を配布するので取調べらるるところあり、(中略)縁起、及び絵図の版木、ならびに大師初誕之像に、屏風浦と書いた「切出し」の版木没収、産水之井建札、取拂ふべく命ぜられ(中略)、叙上のごとくにして、この訴訟の終局をつげたのであつた、これは實に文化十四年丁丑六月十三日のことである。(中略)
     大師誕生所訴訟結末から、十五年の間隔を見た天保三年に至り、嵯峨御所大覚寺役方から、丸亀藩京都屋敷留守居添役中野瀬恵六へ、
    海岸寺は大師出化初因縁之霊跡たるに仍つて、嵯峨御所御門主深く御信仰あり、御祈願所に仰付け、永代朝夕御代拝を命じ、荘厳として玄関に翠簾を御寄付有るべきに付、丸亀多度津両藩に於いて御承認ありたく、それに就いて其旨國表へ移牒、よろしく取計られたい。
    と申込まれたのであつた。(中略)
     それで多度津藩からは書面を以て、丸亀藩からは中野瀬恵六を使者として、嵯峨大覚寺へ参殿せしめ、
    御内意の趣承はつたが、領法に差支あり、御意に応じがたし。
    と断はつたのである。(中略)
     その後、嵯峨大覚寺から、何の音沙汰もなかつたので、全く断念されたものと思つてゐたが翌年の春も半ばを過ぎて、約束の予告もなく、突如両藩の家老職、及び寺社役方へ、直接掛合ひの運びを執り、その書簡四通の伝送方を、野路井金吾から、中野瀬恵六へ左の書面を以て、頼み越されたのであつた。(中略)
     御誕生といふのも、御出化初因縁といふのも、結局出生と解すべきものであらう、ただその言葉のかはつてゐるといふに過ぎないのである。
     いかに大師といへども、出生地の二箇所あるべき道理はない。さればこそ誕生地訴訟の起つた所以である。その誕生所論争の裁きに、善通寺を大師の誕生所と、明らかに認めながら、一方海岸寺へも誕生所とは紛らはしい、出化初因縁之霊跡、と申し渡すといふのが既にいかがなことである。(中略)
     また高野山ならび善通寺は、大師初後之御遺跡、相次で海岸寺は御出化初因縁之霊跡云々とあるが、善通寺は大師の誕生。高野山は大師の入定といふので、初後の遺跡といふのは、古来よく聞くところであるが、それに次いで海岸寺を、御出化初因縁之霊跡といふはいかがであらう。(中略)
     結局
    此度の御頼み、甚だ好まざることではあるが仕儀によつては関東の御裁きと相成るとも、何処までも御断りに及ばるべし。
    といふ断乎たるものであつた。
     そこで天保三年以来、三年越しの応答もこれで大団円を告げたのである。これは天保五年午の秋九月のことであつた。(中略)
     『屏風浦記』に屏風浦を白方だとなし、大師は海岸寺に生れたとありとすれば、それは『屏風浦記』の誤りであらう。善通寺が、大師の誕生所といふことは、綸旨、院宣、官宣旨、国司庁宣等、その他、古書古文書に徴し動かぬことである。既に善通寺が大師誕生の霊地たる以上、大師の生れた屏風浦が、善通寺所在の地以外にあるべき筈のないことになる。(中略)
     また八百十七年前、聖賢阿闍梨も、その『弘法大師廣傳』に、大師を多度郡屏風浦の人と掲げてゐるのである。
  • (大意)風土記によれば、イナリと称する所以

    秦中家忌寸などの遠い祖先の秦氏族「伊侶具」は、稲作で裕福だった。ところが餅を使って的として矢を射ったところ、餅が白鳥に代わって飛び立ち、この山に降りて稲が成ったのでこれを社名とした。後になって子孫はその過ちを悔いて社の木を抜き家に植えて祭った。いまでは、木を植えて根付けば福が来て、根付かなければ福が来ないという。
    この秦氏について、もともと山城国紀伊郡深草近辺に在住していたことが見え(「秦大津父」『日本書紀』欽明紀)、また、

    秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒[6]
    — 『稲荷社神主家大西(秦)氏系図』
    とあり、秦氏と賀茂神社との関連や、秦氏が和銅年間に稲荷社の社家となったことを伝えている。
    社伝には、当時に全国的な天候不順で作物の不順が続いたが、勅使を名山大川に遣し祈請すると加護があって山背国の稲荷山に大神を祀ると、五穀が稔って国が富んだ、とも伝えている。

    上述の『山城国風土記』に見られるように、「イナリ」の表記はもともと「伊奈利」の字が当てられていたが、『類聚国史』にある淳和天皇の天長4年(827年)正月辛巳の詔で初めて「稲荷」の表記が用いられた。以降、『延喜式神名帳』には「山城国紀伊郡 稲荷神社三座 並名神大 月次・新甞」と記載され、名神大社に列し月次・新甞の幣帛を受けた。
  • 東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』では

    或記伝、古来伝伝、竜頭太は、和同年中より以来、既に百年に及ぶまで、当山麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこるを業とす。其の面竜の如し。顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を竜頭太と名く。其の姓を荷田氏と云ふ。稲を荷ける故なり。而に弘仁の比に哉、弘法大師此山をとして難業苦業し給けるに、彼翁来て申し曰く。我は是当所の山神也。仏法を護持すべき誓願あり。願くは大徳常に真密の口味を受け給ふべし。然者愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮に弘法の練宇を守るべしと。大師服膺せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ。是以其面顔を写して、彼の神体とす。種々の利物連々に断絶する事なし。彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる。
    — 『稲荷大明神縁起』
    (大意)ある書物では、100年の昔の和銅年間から竜頭太という者が稲荷山の麓に家を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は山に入って薪を求める仕事をしていた。その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。姓は荷田、名は竜頭太といった。これは稲を背負っていたからという。(中略)空海はその顔を面に写し神体として祀り、それからは収穫が絶えることがなくなった。この面は東寺の竃戸殿に祀ってある。
    とあり、当時伏見稲荷大社の社家であった荷田氏の出自を述べていて、社家が秦氏の出身としている。社家の荷田氏は、「和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、この神は、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた」[8][9]。伝統的な社家には、この秦氏を出自とする荷田氏、西大路氏、大西氏、森氏などがいる。なお、東寺が空海(弘法大師)作という面を竃戸殿に置いた由来についてここでは述べられていない。縁起にある竜頭太は自ら稲荷山の山神を名乗り、「その顔は龍のようだった。頭の上に光放つものがあり夜でも昼のように明るかった。」とあり、これは後光を背した羅刹天を想起させる。
  • 天長4年(827年)、淳和天皇が病に倒れたため占わせたところ、東寺の塔を建てるために稲荷山の樹を伐ったことの祟りであることがわかり大中臣雄良が派遣され、それまで秦氏の私社であった稲荷大神に初めて従五位下の神階が下賜された。以来、京の人々から巽の福神(東南方向の福の神)との崇敬を集めた。現在の東寺との関係はここに端緒があるとする。社では稲荷山に明神が鎮座した和銅4年2月壬午を記念日として初午大祭を興し、稲荷祭もこの頃から始まったとされている
  • July 2017 編集されました
    『稲荷大明神流記』
    (大意)弘仁7年(816年)4月頃、紀州国の熊野で修行中の空海(弘法大師)は田辺の宿で常人とは思えない老翁に出会った。身の丈は八尺、立派な体躯で威厳が感じられるが、それを表に出さない顔立ちだった。その老人は空海に会えたことを喜んで語った。「自分は(以前そなたに会ったことのある)神である。そなたには威徳がある。私とともに修行して弟子となるがよい」空海は答えた。「霊山であなたに会った時の約束は、たとえ見かけが変わろうと心は同じであり、まだ忘れていません。私は密教を広めたいという願いが有ります。あなたには仏法でそれを守ってくださるようお願いします。京の都の西南の方角の九条というところに東寺という大伽藍があります。ここで私は国家を護るための密教を興すのです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」。睦まじく語らい合って約束を交わした。
    弘仁14年(823年)正月19日、空海は東寺を賜って道場を開くため法文や曼荼羅、道具等を運び、経蔵を納めて真言の道場とした。

    この年の4月13日、紀州の神が東寺の南門にやってきた。神は椙(すぎ)の葉を持ち稲を担ぎ、2人の婦人と2人の子供を連れていた。空海は大喜びで崇敬の心で一行を食事や菓子でもてなし、周りもこれに倣った。しばらく一行は八条二階の柴守(しばのかみ)の家に留まり、その間に空海は東寺の杣(すぎ)山に17日間祈祷して神に鎮まっていただいた。この事が現在まで伝わる由縁となっている。

    空海が稲荷神に「東寺」の鎮守神を懇願した理由

    823年(弘仁14年)に空海は、自らのお寺となった「東寺」の境内に自らの理想であった伽藍の一環として、「五重塔」の建設に踏み出します。その際、伏見稲荷の稲荷山を含めた周辺の山々から、五重塔を建てるための木材を得るために、山の木々を切り出します。
    しかし、これに怒りを示した稲荷山の神である「稲荷神」は空海に怒りの形相を向けます。

    これを察知した空海はすぐさま山の切り出しを中断し、稲荷神を自らのお寺である「東寺」の守護神として崇め祀ることを誓い、稲荷神へ許しを乞います。その後、空海は、自らがお寺を建てる時には、稲荷神の分霊をお祀りするようになったと云われております。
  • July 2017 編集されました
    伏見稲荷大社は、奈良時代の和銅4年(西暦711年)の2月の初牛の日(7日)に、
    「伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)」が、勅命を受けて、稲荷山にある三つの峯に稲荷大神をお祀りしたことが始まりとされています。

    中社の摂社に祀られる四大神についても諸説があり、一柱の神名なのか、四柱の神の総称なのかも明確には分かっていない。
    江戸時代の国学者、前田夏蔭によれば「若年神、夏高津日神、秋比売神、久久年神」の四柱とされるが、これらの神々は宇迦之御魂神と同一視されることもある穀物神・オオゲツヒメの御子神であり、四季を表す神とも考えられる

    オオゲツヒメ
    上一宮大粟神社(徳島県名西郡神山町)
    一宮神社 (徳島市)(徳島県徳島市)
    阿波井神社 (鳴門市)(徳島県鳴門市)
  • 和歌山県伊都郡かつらぎ町の三谷というところにある「丹生酒殿神社」には興味深い伝承が残っています。この神社の境内社である「鎌八宮」は、かつて熊手八幡宮とも称され、その御神体は神功皇后が三韓出兵のとき用いたという幟と熊手で、それは讃岐国屏風浦の熊手八幡宮に祀られていたものだといいます。空海が高野山を開いた時、そのご神体が空海の後をついてきたので、櫟(イチイ)の木をその証の代わりとして祀ったということです
  •  多度津の四国八十八寺の一つ道隆寺(どうりゅうじ)

    この寺は、号を桑多山明王院道隆寺といい、四国霊場第77番札所となっています。
     その創建は古く、奈良時代末の天平勝宝元年(749)の頃まで遡るといわれています。当時、多度津は和気氏という豪族の支配する地で、かつて、この寺の付近は一大桑園だったといいます。この桑園の中で、和気道隆が自分を育ててくれた乳母を怪物と見誤って弓で射殺する、という事件が起きます。道隆はそのことを大いに悔やみ、乳母の供養のために桑の大樹を切って薬師如来の小像を作り、それを小堂を建てて中に安置しました。それが道隆寺の始まりで、弘法大師空海が薬師の大像を作り、道隆公の小像をその胸の中に納めて本尊としたといわれています。
     その後、道隆の子孫である二代住職朝祐が弘法大師より授戒を受けて、和気氏の田園財宝のすべてを注ぎ込んで薬師堂をはじめとする七堂伽藍を建立し、和気道隆の名をとって寺名を道隆寺としたということです。以降、この寺は和気氏の氏寺として現在に至っています。
     空海が生まれたのは、奈良時代の末期宝亀5年(774)6月15日だといわれていますから、年代の順番だけから考えるとこの話は辻褄が合っています。乳母射殺事件の真偽はともかく、和気道隆という人物が存在し、その名をとって寺名としたのは事実のように思われ、善通寺も、空海が佐伯善通(よしみち)という自分の父の名をとってつけたといわれています。
     道隆寺境内の北東隅には、妙見社(みょうけんしゃ)という社があります。ここでは毎年3月7・8日に星供養が行われています。
  • July 2017 編集されました
    白方神社
    建弥依米命が河内国枚岡神社を勧請したと伝わる。
    福島県須賀川市今泉字町内245番に鎮座。石背国造の子孫である吉田家が社家をつとめ「石背国造系図」を伝える。

    枚岡神社(ひらおかじんじゃ)は、大阪府東大阪市出雲井町にある神社。式内社(名神大社)、河内国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。
    春日大社への勧請元のため、「元春日」の別称がある。


    白潟(しらかた)

    宍道湖の東岸を白潟と云う。松江は、城地 末次(すえつぐ)と大橋川対岸の白潟の両町を合わせて松江と称しましたが,松江という町名の由来については定説がない。
  • July 2017 編集されました
    曼荼羅寺 佐伯氏の氏寺

    名称 我拝師山 曼荼羅寺
    宗派 真言宗善通寺派
    本尊 大日如来
    住所 香川県善通寺市吉原町1380-1

    弘法大師の先祖である佐伯家の氏寺として推古四年(五九六)創建され、世坂寺と称していたが、弘法大師が留学後、ご本尊の大日如来を勧請し、大同二年、金胎曼荼羅を安置し、唐の青龍寺に模して堂塔を建立し、寺号も我拝師山曼荼羅寺と改めた。本堂から廻郎づたいの観音堂には聖観世音が安置されている。桧材一木造りの豊満端厳な尊容で、藤原時代の造顕という。
     境内には西行法師の「笠掛桜」と「昼寝石」の遺跡がある。西行法師は諸国を行脚中、この近くに滞在し、寺の境内でしばしば休息し、あるとき同行した旅人が桜の枝に笠をかけ忘れ、それを見て「笠はありその身はいかになりぬらん あはれはかなきあめが下かな」とよんだという。自然の中に人間性を見出して表現したところにその特徴があるといわれる。
  • 72番札所「曼陀羅寺」の縁起によると、創建は四国霊場で最も古い推古4年(596年)といわれており、讃岐國の領主で空海の出身氏族でもある「佐伯家」の氏寺「世坂寺(よさかでら)」として始まったそうです。
    その後、空海が唐から帰国した翌年に亡き母「玉依御前」の冥福を祈るために寺を訪れ、唐の「青龍寺」にならって伽藍を3年がかりで建立し、本尊に大日如来をまつり、唐から持ち帰った金剛界と胎蔵界の曼荼羅を安置し、寺名を「曼荼羅寺」に改めたとのこと。
    平安時代後期から鎌倉時代初期に活躍した歌人としても有名な「西行法師」が、近くに庵を建てて滞在し、「曼陀羅寺」に通っていたともいわれる歴史深いお寺です。
  • 仏母院は八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺と号す。
    八幡山とは童塚の近くにある山で、産土神の熊手八幡神社の分社を祀る山である。その草創は弘仁年間以後だといわれ、空海と親交のあった嵯峨天皇が空海の母の屋敷跡と聞き、自筆して贈ったという扁額が残っている。

     またここからずっと海べりに鎮座する熊手八幡神社本社のご神体である長鈎(熊手)が伝わっている。仏母院はもともと熊手八幡神社の別当寺であったという。

     『紀伊続風土記』の「熊手八幡縁起」に、

    巡寺八幡宮ト奉ルハ、旧讃岐国多度郡屏風浦ニ御鎮座アリテ、弘法大師ノ産土神ナリ。
    御神体ハ神功皇后征韓ノ日、用ヒ給フ所ノ御旗、長鈎ニシテ、皇后凱旋ノ時屏風浦ニ至リ、殿ヲ造リテ是ヲ蔵メ・・・・

    と記されているという。
  • 高雄山寺
     空海弘法大師は宝亀五年(774)、讃岐国多度郡に生まれた。
     母方の伯父阿刀大足は桓武天皇の皇子伊予親王の侍講として、儒教をもって一家を成した学者である。
     十五歳のとき阿刀大足について論語、孝経、史伝等を学んだ空海は、十八歳で大学に入り明経科を専攻し岡田牛養、味酒浄成から学問の指導を受けた。
     後に優れた文筆活動の才能を発揮するのも、この時代に培われたものだろう。
     この頃、ある沙門から虚空蔵求聞持法を授かって、それを転機として大学を去り、霊山を遍歴して仏道に励んだ。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えることによって、すべての経典の文句が暗記できるという秘法で、記憶力を飛躍的に増進させることができる。
     空海は入唐までの空白の期間、山林修業に励む一方で、南都の寺々であらゆる経典を読破していたものと思われ、唐から請来した経典は、新訳、新来のものばかりで、しかも体系的に収集されたものだった。
     また佐伯氏にゆかりの深い大安寺で唐語を習得し自在に操ることもできた。
    ーー帰国後ー

     密教の第七祖である恵果から法流を伝授され、それとともに必要な経典、曼荼羅、法具などのことごとくを授けられた。
     恵果は同年十二月十五日入滅されるので、誠に得がたい出会いとなり、師の遺言に従って翌年鎮西に帰着、その後九州、四国、泉州などを経て、三年後の大同四年(809)、高雄山寺に入山した。
     その消息は、最澄から空海に宛てた八月二十四日付の経典借用状によって知られる。
     最澄は、弟子に託して空海請来の経典十二部を借覧したいと依頼したもので、手紙を弟子に託しているところから、すでに面識があったと想像される。
     それ以後数年間にわたり、高雄山寺を中心に両者の親交が続けられ、天台と真言の交流へと進展していった。
     都に入った空海は、その年、嵯峨天皇のために世説の屏風を書いて献上した。
     以後天皇は空海のよき理解者となるとともに、詩文を通じてもその交友を深められている。
     弘仁元年(810)、薬子の乱が起こり、世情騒然たるうちに薬子が服毒によって自殺すると、皇太子高岳親王は、東大寺に入って出家し、後に空海の弟子となった。
     この年、空海は高雄山寺において鎮護国家の修法を行った。
     この七日間の修法が空海によって行われた鎮護国家の修法の最初である。
  • October 2017 編集されました
    弥勒は下生し修行するが、これが洞窟に籠もる花郎や童子である。下生した弥勒を写したのが、弥勒半跏思惟像とされる。弥勒は第二のシャカであり、それは出家前(在家)のシャカ、シッダールタ王子(悉達「太子」)像である。聖徳太子は、夢殿という「窟」に籠もった。聖徳太子信仰を支えた「聖徳太子伝建立七寺」(法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺)は、法隆寺を除き、いずれも本尊を弥勒半跏像とする。


    空海は、門外不出の秘法・虚空蔵求聞持法を讃岐秦氏出の僧道昌に伝授している。道昌は、828年に例の神護寺で空海から両部灌頂と虚空蔵求聞持法を受けて、翌年から秦氏の松尾社北麓の葛井寺に参籠する。百ヶ日の虚空蔵求聞持法を修して、ついに虚空蔵菩薩を空中に感得、一木を刻して虚空蔵像を安置し、寺号を「法輪寺」と改めた(『源平盛衰記』)。法輪寺とは、聖徳太子追善のため大和国斑鳩に建てられた法輪寺(飛鳥時代の虚空蔵菩薩立像がある)の借名である。道昌は、836年には山背太秦氏寺・広隆寺の別当職に就いている。

     空海の遺言『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には「必ず兜率天に往生し、五十六億年の後、必ず弥勒慈尊とともに下生する」とある。空海は高野山を、弥勒の兜率天へ上生往生するための聖地としたのだ。
  • October 2017 編集されました
    空海は長岡京(平安京の前都。ここも秦氏の土地)で、僧勤操から虚空蔵求聞持法(こくうぞう-ぐもんじほう)を学んだという。これは広大無辺の福徳・智慧を授かる秘法であった。その元は、帰国後に大安寺を開く僧道慈が入唐中(702~718年)に、インド僧・善無量三蔵から口承伝授されたものである。これを大安寺の善議-勤操を経て、空海へと伝授された

    道慈は大和国額田氏の出。
    氏寺の額田寺を額安寺とし、手ずから造った乾漆虚空蔵菩薩半跏思惟像(現存)を祭ったという。
    額田氏は手工業者の熊凝(くまごり)氏と同族であり、その氏寺・熊凝寺は聖徳太子が発願したという。これが後ちの大官大寺の前身であり、道慈によって平城京に移されて、大安寺となった。
  • 空海は勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移りここで受戒し、さらに山背国の高尾山寺へ入る。

    高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祭る例の高尾社近くにあった、和気清麻呂が八幡神の託宣により創建した神願寺(一名、高尾寺。高尾社が鎮守)を、子の真鍋と仲世が山背国の高尾山寺に移したもので、後ちの神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の寺である。愛宕社の神宮寺・白雲寺の開祖は役小角と雲遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・泰澄のことである。

    愛宕山は「白山」権現でもある。多少遡るが、桓武天皇即位の781年、山背国への遷都を前にして愛宕権現で祭祀が行なわれている。このとき、「大安寺」僧・慶俊を本願主、和気清麻呂を祭祀奉行としている。桓武天皇の長岡・平安両京への遷都造営大夫は和気清麻呂だった。山背国の地は、秦氏の神地だった。
  • October 2017 編集されました
    伏見稲荷の

    東寺の鎮守は二つあり、内鎮守が八幡社、外鎮守が稲荷社である。『高野大師行状図画』と『稲荷記』は、稲荷大明神は「魏国の大臣」と記す。どこから「魏」が出て来るのか。
    『熊野縁起』に熊野権現は北魏(あるいは唐)から英彦山へ飛来したとか、『彦山縁起』に北魏僧善正が英彦山の開山だという。

    空海の密教
    自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰
  • 空海は唐から帰国後、高野山を開山したり土木技師や教育者として目覚ましい活躍をしていたこと、薬子の変後の国家の動揺を国家鎮護の修法で鎮めたことから、嵯峨天皇のお気に入りとなり、都を鎮護する目的としてまだ未完成だった東寺を下賜されたといいます。

    また空海は唐へ渡ったとき、福州で足止めされた際の上陸嘆願や、渤海王子への手紙を書いていることから、語学が堪能で能書家だった空海が通訳兼秘書としているなど、国際派としての見識を認められたこともあるようです。

    東寺は唐の長安にあった鴻臚館にならって鴻艫館と呼ばれ、都の入り口の羅城門の東に建てられていました。東寺は当初、来訪した外国使節の宿泊、接待用の迎賓館という機能を持っていました
  • 鎌足が没し、さらに天智天皇が没すると「壬申の乱」が起きる。この時に不比等はまだ14歳である。その後天武朝において彼が恵まれた環境にあったとは思われない。彼が再び歴史の舞台に表れるのは持統朝になってからである。その後の不比等は急速に出世し、文武天皇には娘の宮子姫を入内し、次の元明朝では右大臣となる。

    それにしても持統朝以降の不比等の出世はすさまじい。また後宮に娘を入れたことといい、天武未亡人の異母妹と通じて藤原麻呂を儲けたことといい、持統朝以降何か特別な待遇を受けていたと感じられる
  • 奈良仏教を代表する法相宗(ほっそうしゅう)の徳一と真言宗の空海とは25才の開きがあり、空海がまだ若くて虚空蔵求聞寺法修行中、徳一からかなりの啓発を受けたとされている。空海は、入唐(802年、29才)に際し東大寺戒壇院で元興寺の泰信によって具足戒を受けたとさているが、それ以前においても、奈良で勉学と修行にいそしんでいた場所というのは、奈良7大寺のうちでもとりわけ東大寺が中心であったと考えられている。810年、唐から帰った空海は、早々と東大寺別当に任じられている。空海は東大寺との縁がことのほか深い。

     最澄は徳一とは宗論で渡り合いともに相ゆずらなかったが、空海は奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようだ。当然だろう。815年、空海42才の時、会津は磐梯恵日寺(えにちじ)にいた徳一に対し、空海は、名香ひとつと包みを添えて、お経分の書写を頼んでいる。その手紙の一部を次に紹介しておく。

    「聞くなら徳一菩薩は戒珠玉の如く智海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重。」

    空海は、当時極めて多忙で高雄にゆっくりおれないほどであったが、813年、藤原氏の菩提寺である興福寺に南円堂(なんえんどう)を建てるのにも奔走した。一族が競いすぎて勢力が衰え気味の藤原氏にあって、北家を継ぐ冬継がどうすれば家運が上向くかを問うてきたのである。これに対して空海は南円堂の建立を進めたのだ。空海の尽力によりその年の終わりには八角宝形(はっかくほうぎょう)の御堂ができ立派な観音像を納めて落慶したのだが、その記念に大灯篭が納められることになり、銘文は空海が選んで橘逸勢が筆をとった。

  • 徳一は、晩年、東大寺の僧正を引き受ける

    空海と徳一との縁は並々ならぬものがある。良弁と徳一とは、同じ藤原一族であり、興福寺を通じて密接な間柄にある。良弁も、徳一と同様、若い頃学んだところは、興福寺である。興福寺は藤原氏の菩提寺であり、そのことは必然といえば必然のことであろう。良弁はいうまでもなく東大寺の初代大僧正であり、空海が帰朝後直ちに東大寺別当を任じられたことの意味は極めて大きい。
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