伊香色雄命、伊香色謎命、物部氏と国造

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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饒速日の系譜 物部氏 饒速日 | 御炊屋姫 宇麻志摩治命 | 師長姫 彦湯支命 (兄弟に味饒田命) | 出雲色…

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  • 近江の兵主神社(ひょうず)

    式内の名神大社で、現在滋賀県野洲郡中主町五条に鎮座します。この兵主大社を中心に、現在の中主町のほぼ全域と守山市の一部地域を氏子区域として、「兵主十八郷」と呼ばれる地域に総氏神と末社二十二社(現在数)が鎮座しております。
    この末社のなかの乙殿神社(中主町五条)が稲背入彦命を祀るとされます。

    兵主神社は八千矛神を祀り、兵主の神は延喜式で21座(19社)あるなか、この神社の社格(神位)が最も高いものですが、なぜ稲背入彦命が近江の地に祀られるのかは不明です。

    その由緒としては、当社は景行天皇の御代、皇子稲背入彦命により大和国穴師(奈良県桜井市)に奉斎されたのを創祀とし、近江高穴穂宮遷都に伴い、宮域近き穴太(大津市坂本)に遷座になり、その後の欽明天皇の御代に琵琶湖上を渡り、現在の地に御鎮座されたと伝えますから、稲背入彦命は創祀のときだけ関係したのかもしれません。
    普通は鎮座地の野洲郡に稲背入彦命の子孫が居た由縁によるほうが自然ですが、同人の子孫は息長君などで、主に江北の坂田郡にありました。また、兵主十八郷は野洲郡服部郷を主としており、服部氏も、また近隣の御上神社を奉斎した三上祝氏もともに兵主神の流れを引きますが、これら関係者だったのでしょうか。所伝では地元の豪族五条氏が祀ったとされますが、その姓氏は不明であり、この兵主神社に高い神位をもたらした奉斎氏族の姓氏は何だったのか、その奉斎氏族と稲背入彦命との関係はどうだったのか、よく分かりません。

    稲背彦命は古代において重要な人物ですが、その足跡は四国北部から播磨にかけての地域に残る
  • 物部氏と和邇氏

    物部氏が最も権力を握った時期は、開化、崇神、垂仁天皇の時代

    はじめに神武東征を阻止しようとした、生駒長スネ彦の抵抗は失敗。
    叔父を殺して恭順したウマシマジの子孫は、大臣に任命されたものの、有力な后妃の入内はなかった。
    三島氏、尾張氏、物主家、天足彦の家系にほぼ占められていた

    后妃に割り込んだのは、
    孝元天皇后となったウツシコメである。

    ウツシコメは、大彦と開化天皇を生んだ。

    ウマシマジの子孫は、同族の生駒氏や近江の三上祝につながる女性との結婚が続いていたが、ウツシコメの兄弟である物部ヘソキネ(後に大臣)が、高屋阿波良姫を娶ったことである。

    イカガシコオ、イカガシコメの母となった高屋
    阿波良姫

    物部氏と尾張氏の連合がこのときに生まれた。

    これに対抗した勢力は、天足彦を祖とするワニ氏と天日方奇日方命を祖とする物主家。
    この連合は、千千速姫(孝霊皇女)と物主家のアタカタス命(赤阪彦・吾田片隅命)の結婚で対抗したと見る。アタカタスは孝霊天皇時代、宗像神社の最初の神官に任じられた人物。
    狭穂彦狭穂姫の反乱につながっていく、この皇女の降嫁を、記紀は書いていない。

    イカガシコオの息子、物部トイチネは、崇神、大彦との従兄弟関係に加えて、さらに尾張氏建諸隅の娘、時姫を娶り、垂仁期大臣として権力を振るった。
    イカガシコメは、単なる物部の姫ではなく、物部尾張連合の象徴であった。
    孝元妃として、建内宿禰の祖父にあたる皇子を生んだイカガシコメを、次の開化天皇は正后とした。
    イカガシコメは、開化天皇との間に、崇神天皇を生んだ。
    開化天皇は、ワニ氏の祖天足彦(春日大君)に与えられていた
    春日の地に、率川宮を作って乗り込んだ。
    物主家のミケヌシ(アタカタスの弟)は、イカガシコメ立后は庶母を娶ることになると反対したが、河内に蟄居させられた。
    ワニ氏は、開化天皇妃としてヒコオケツ姫を送り込み、ヒコイマス王が生まれた。
    次の皇位は、従来ならワニ氏を母とするヒコイマス王が即位するところが、物部氏を母とする崇神天皇が即位する。

    狭穂彦狭穂姫の反乱事件へ
  • 伊豆志彌神社
    京都府京丹後市久美浜町大字出角字宮ノ谷。
    祭神:出石心大臣命
      

    元箱森大明神と唱え、延喜式内社である。
    不詳なれど、丹後旧事記等には丹後之河上麻須の創建と伝える。
    神饌幣帛科供進神社の指定を受ける。
  • 滋賀県甲賀市 八坂神社
    水口駅

    『滋賀県神社誌』には、 境内社が三社記されており、天神社・熊野神社・川枯社とあるが
    『平成祭データ』には、天神社と熊野神社の二社のみが記され熊野神社祭神の中に川枯姫命の名がある。
    ということは、本殿左手の境内社は、正式には熊野神社であり川枯社が合祀されているのだろう。

    『式内社調査報告』によると、
    天神社と熊野神社は、明治七年、千光寺境内から移されたとあり、熊野神社に本殿の川枯姫命を分祀したのかもしれない。ということで、式内社・川枯神社の後継社は、本殿左の境内社なのだろう。

    川枯姫命とは、饒速日命の孫・彦湯支命の妃で、出石心命の母神。
    出石心命の子は大水口宿禰で、水口町開拓の祖。
  • 甲賀市の水口神社

    祭神 大水口宿禰 配 大己貴命、素盞嗚尊、稻田姫命
    摂社 玉津米神社「玉留産靈命」、武雄神社「武甕槌神」、日枝神社「大山咋命 配 徳川家康」、他
    由緒 大水口宿禰は饒速日命の3世の孫、出石心大臣の御子で、郷土開拓の祖神とされている。系譜を記すと、饒速日命-宇麻志麻治命-出雲色多利姫-出石心大臣命-大水口宿禰とつながる。 また、別の異説があり、『姓氏録』では穂積朝臣の祖と言われ、伊香色雄命の子とされる。この伊香色雄命は近江伊香郡を本拠とするとの見方がある。 伊香郡には物部の地名がのこり、大新河、建新河、大水口、安毛建彦など近江の地名を負った物部系豪族が出ている。 物部氏の匂いのする近江である。

     水口神社の創始は平安時代初期と見られている。 しかし、一つの社伝によれば、垂仁天皇の時稲田姫命が天照大神を奉じて近江国に到り、族長の矢田部宿禰蔵田麿に神鏡の鎮座すべき地を問うと、蔵田麿は甲可日雲宮地が最もふさわしい旨を伝えた。そこで甲可川(野洲川)を遡って現社地に到り、四年間の奉斉の後、大己貴命を神鏡守護神として祀ったのが草創であるという。 これは『倭姫命世記』(鎌倉時代の創作)を本にしたもので、とるに足らないし、水口神社も主張はしていない。

    近江国甲賀郡の延喜式神名帳に記載の社である。
    平成10年12月に本殿上部が焼失、現在、摂社武雄神社に仮鎮座中であり、本殿は修復中である。

  • 『丹後旧事記』
    川上摩須郎。当国熊野郡川上の庄須郎の庄に館を造る開化天皇より崇神、垂仁の朝に至る。古事記に曰く旦波道主命娶川上摩須郎の女生御子比婆須姫渟葉田入瓊媛真 野媛薊瓊入媛朝廷別王以下五柱。川上摩須郎は将軍道主の命と共に当国に有て熊野郡川上の庄に伊豆志禰の神社、丸田の神社、矢田の神社、三島田の神社を祭る。

    伊豆志彌神社。出角村。祭神=出石心大臣命 延喜式竝小社。垂仁天皇の朝川上麻須郎勧請。

    『丹後史料叢書』「丹後国式内神社取調書」
    伊豆志彌神社
     ○【旧事記】物部氏三世孫出石心大臣命
    【覈】出角村【明細】同祭日九月六日【道】出石郡ハ只山ヲ隔テタルノミナレバ伊豆志ミト云ナリ何レノ神ナラン不知【豊】出角村字宮地九月三日)(志は丹波志・豊は豊岡県式内神社取調書・考案記は豊岡県式社未定考案記・道は丹後但馬神社道志留倍・式考は丹後国式内神社考・田志は丹後田辺志)

    『京都府熊野郡誌』
    伊豆志彌神社 村社 川上村大字出角小字白石鎮座
    祭神=出石心大臣命。
    由緒=式内社にして其の創立最も古く、丹後旧事記丹後一覧記等に依るに、垂仁天皇の朝河上摩須勧請といひ伝ふ。往古民間箱森大明神と唱へしが、其の由緒明ならず。大正四年御大典記念として拝殿を建設し、爾来財産の増殖に努め、諸般の施設完成しければ大正九年神饌幣帛料供進神社として指定せらる。氏子戸数=二十八戸。
    境内神社。天満神社。祭神=菅原大神。
         稲荷神社。祭神=保食廼命。

  • 川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)は、往古、丹波の国王として君臨していた丹波道主命の妻です。丹波国の豪族・川上摩須の娘として生まれ道主命の妻となり、一男三女をもうけ、その息女日葉酢比売(ひばすひめ)は垂仁天皇の后となり、景行天皇をはじめ倭比売(やまとひめ)などをもうけたといわれています。 この一大勢力の遺跡が久美浜町須田伯耆谷(ほうきだに)に無数に存在しています。丹波道主命と川上摩須郎女の孫娘が皇后になったことを喜び、兜山の山頂に建立したと伝えられるのが熊野神社です。

    丹波道主命と川上摩須郎女の間には「日本書記」によれば五人の娘がいた。順に日葉酢媛(ひばすひめ)・渟葉田瓊入媛(たかのひめ)・真砥野媛(まとのひめ)・薊瓊入媛(あざみにいりびめ)・竹野媛(たかのひめ)である。このうち長女にあたる日葉酢媛が11代垂仁天皇の皇后となって三男二女を生んだ。次男大足彦(おおたらしひこ)が12代景行天皇になる。また、四女薊瓊入媛と垂仁天皇の間に生まれた五十日足彦命(いかがたるひこのみこと)が13代成務天皇となっている。この景行天皇の息子が伝説上の英雄日本武尊(やまとたけるのみこと)である。日本武尊は、「記紀」をはじめとして各地の「風土記」にも登場するほど著名であった。なお、丹波道主命と川上摩須郎女の間に生まれた朝廷別命(みかどわけのみこと)は、父道主命とともに比治の真名井原にいて、丹後・但馬に勢力を張った日下部氏の祖をなったと言われている。
  • 額田毘道男命の子の新河小楯姫が生んだ子の穂積臣祖大水口宿祢の同族に額田臣(同、山城神別では伊香我色雄命の後裔)がある。
  • 村屋坐彌冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ)

    大神神社別宮、森屋の宮、縁結びの神、延喜式内大社。
    奈良県磯城郡田原本町蔵堂(くらどう)426  電0744-32-3308
      駐車場はないが、拝殿右横(東側)に車を停められる。
    祭神 三穂津姫命(彌冨都比売命)、 配祀 大物主命 (夫婦神)
    創建 10代崇神天皇の時代(300年頃)に伊香色雄命が三穂津姫命を祀る。
        11代垂仁天皇の時代(320年頃)に伊香色雄命の子・物部十市根命が
        大物主命を併せ祀る。
    初瀬川(大和川)の西に鎮座
  • 村屋坐彌冨都比売神社

    高皇産霊尊の娘・三穂津姫命は大物主命の妃となり、当地に住んだと考えられる。島根県松江市の美保神社に三穂津姫命が祀られているが、出雲風土記に三穂津姫命の名はなく、大穴持命(大国主神)と奴奈川姫命の子・御穂須須美命が美保郷に坐すと記されているので、中世に美保神社の祭神が入れ替わったのかもしれない。

     当社の「村屋の森」(森屋の森、守屋の森)は奈良県天然記念物に指定されている。
    33代推古天皇の時代(600年頃)に物部忍勝連公が当社の神主となり、現在も宮司は子孫の守屋広尚氏が務めている。
     古代の当地は纏向の西2kmにあり、物部氏の領地であったと考えられる。
  • 延喜式内社 旧城下郡 蔵堂 村屋神社
    祭神 経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神
    経津主神、武甕槌二紳は春日四紳の内の二紳であることから、春日神社とも言う。大連二紳は壬申の乱(672)に、吉野軍の将として活躍し、功績が高かったため、天武五年に合祀される。
    この森屋郷は、古くは、室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。この神社は、元は大宮から二百メートルほど東、初瀬川の川べりに鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に合い、紳領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向かい合わせの型で遷された。明治の初めには、廃仏棄釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは、鐘楼跡と言われている。
     壬申の乱に功績のあった三紳の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊紳と二紳は紳名まで表記されているが、村屋紳は地名だけ紳名がない。あるいは、村屋神社の二紳ではないかとも思われる。本社彌冨津比売神は女神であり、戦にはしっくりこない。経津主神・武御雷神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。村屋坐彌冨津比売神社 守屋宏尚 宮司
  • 鴨都波神社の御祭神は積羽八重事代主命(つわやえ ことしろぬしのみこと)です。

    事代主と言えば、商売繁盛の恵比須様を思い出すのですが、事代主は大国主の御子に当たる神様としても知られます。当館の近くに鎮まる三輪坐神社にも事代主が祀られ、境内には大黒さん(大国主)を祀る祠があります。

    切っても切れない深い関係にある大国主と事代主。


    村屋神社
    東西に居並ぶ二社続きの銅板葺本殿には、向かって左側西殿に大物主命、右側東殿には三穂津姫命が祀られています。仲良く鎮座する二神は、縁結びを約束する村屋神社の心臓部でもあります
  • 美保神社
    現在の明細帳では、主祭神として右殿に事代主命、左殿に三穂津姫命を祀り、配祀神として中央装束の間に大后社(神屋楯比売命・沼河比売命)・姫子社(媛蹈鞴五十鈴媛命・五十鈴依媛命)・神使社(稲脊脛)の三社を祀るとなつている。

    天保四年(1833)の『出雲神社巡拝記』には 「三保関、三穂両大明紳、祭神一ノ宮みほつひめの命、ニノ宮ことしろぬしの命」 としており、享保二年(1717)の『雲陽誌』にも 「美保神社、三穂津姫・事代主命の鎮座なり」 としている。 さらに古く吉田兼倶の『神名帳頭註』にも 「島根郡美保、三穂津姫也。 一座事代主」 とあるので、主祭神は三穂津姫の方のみであつた。 地元のものとしても承応二年(1653)の『懐橘談』には 「高皇産霊尊子三保津姫は大己貴命娶り給ふ。 三保の明神是なりといへり」 と、ただ三保津姫命の御名をあげているのみである。


    根本的な問題
    それは事代主命・三穂津姫命といふ神名が出雲国風土記にはどこにも記されていないということである。 そして風土記の美保郷の條には 「所造天下大神命、娶高志国坐神意支都久辰爲命子俾都久辰爲命子奴奈宜波比売命而令産神御穂須須美命、是神坐矣。故云美保」 と記されているということである。
     すなはち、ここは所造天下大神大穴持命と奴奈宜波比売命とのあいだに生れませる御穂須須美命の鎮まりますところであつた、さればその美保郷の地名を負ふ美保の社の主祭紳がこの御穂須須美命と無縁であるはずはない
  • 岸崎左久次は天和三年(1683)の『出雲風土記鈔』で 「併祭神御穂須須美命与御祖大穴持命、及御母奴奈支智比売命而、言三社大明神是也」 としているが、その三社大明神という社号のことはともかく、風土記をもとにする『風土記鈔』がかく御穂須須美命を主祭紳と考へるのは当然のことといはねばならない。
     しかるに、これが前述のごとく、中世のいつごろからか三穂津姫命・事代主命の両神にとつて代わられるのである。
  • 丹波の出雲大神宮(京都府亀岡市)では大国主神とともに主祭神となっており、大国主神の后とされている。
    村屋坐弥冨都比売神社(奈良県磯城郡田原本町)では大物主神とともに主祭神となっており、大物主神の后とされている

    どちらが正しいの?
  • 磯城県主の女の真鳥姫は、物部氏の伊香色雄命と婚し、建新川命を生んだ。「天孫本紀」に、建新川命は、倭志貴県主等の祖とあるが、母系を継いで志紀県主となったということが分かる。ただ『新撰姓氏録』には、建新川命の弟である大売布命を志貴県主の祖としている。このほか、「天孫本紀」には、建新川命の兄である十千根の子の物部伊岐美連公も「志貴県主云々等の祖」とある。いずれも物部氏である。さきに述べたように磯城県主は婚姻によって物部氏とむすばれ、物部氏の系統に組み入れられた。
  • 伊賀国出身者として大仏殿の造営を担当した名工 猪名部百世(いなべのももよ)の存在が知られる。
     彼は東大寺造営のために設けられた大規模な建設部局(造東大寺司)に大工として所属していた。神護景雲元(七六七)年、称徳天皇の東大寺行幸に際して、地方豪族としては最高位に属する外従五位下という位をもらったのも、大仏建設の功績が認められたからだろう。その後トントン拍子に出世し、一説によれば伊勢国の国司(現在の県知事)にまでなったという。
     桑名市の西に員弁郡があり、大安町や東員町等多くの町が広がっている。員弁の文字は和銅六(七一三)年に全国の地名が「好字」二字に書き改められて以後のもので、本来は猪名部郡であったものと思われる。猪名部は木工技術に長けた人々の集団で、中央の猪名部氏に率いられていた。『日本書紀』などにも有能な大工として度々登場し、古くからその技術が知られていた。伊勢国員弁郡には猪名部姓の人々が多く資料に登場する。
     なぜ伊勢国や伊賀国に猪名部氏が多いのかについて定説はない。ヒントの一つは、員弁郡に広がる大安寺の領地である。大安寺は日本初の国営寺院・百済大寺(くだらおおでら)に起源を持つ寺院で、当時最も権威のあるお寺であった。員弁郡の土地が大安寺に収められたのは天武天皇の時であるが、その背景には員弁郡と中央政府との強い繋がりがある。
     大和から東国へ抜けるには二つの重要なルートがあった。後に関所が設けられる不破関の東山道と鈴鹿関の東海道である。員弁郡には二大関所間を南北につなぐ道路(現在の国道三〇六号線に相当か)が通過していた。この重要路を守るために大和王権の息のかかった人々が配置されていた。これこそ猪名部だと考えるのである。猪名部氏は隣接する桑名郡に所在する伊勢国最古の寺院・額田廃寺建立に中心的役割を果たしたに違いない。猪名部百世は伊賀国の人と伝えられるが、当地一体には有能な工人が多数居住し、その技術でもって国家に奉仕していたのである。
    役者
    伊香我・・・伊賀?
    伊香我色男命 ( いかがしこおのみこと ) を主神とするのが猪名 部神社で平安時代の偉大な学者・春澄善縄の一族も代々伊香我色男命を祭り、春澄の 姓を賜るまでは猪名部の姓を名乗っていた。
    藤原町沿革
    藤原町には土器などの遺跡が数多く、古代から人々が暮らしていたことがわかっている。
    学者として重要な地位を築いた春澄善縄はるずみのよしただゆかりの地でもある。
    鈴鹿山脈東のふもとにあるこの藤原の地からは、縄文時代の土器や遺跡が発見され、少なくとも1万年前には人々が生活を営んでいたことがわかっている。
    古代の藤原は、伊勢の名族・猪名部氏と関わりがあり、もともと「猪名部」であった地名が「員弁」となったのは、和銅6年(713年)元明天皇による「国・郡・郷名は2文字の好字を用いよ」という命がでたことから、員弁と改めたものであると伝えられている。猪名部氏は当時の大工集団で、各地を転々とするうちに一部が員弁郡付近に定住した。猪名部氏の氏神である伊香我色男命いかがしこおのみことを主神とするのが猪名部神社で平安時代の偉大な学者・春澄善縄の一族も代々伊香我色男命を祭り、春澄の姓を賜るまでは猪名部の姓を名乗っていた。
  • 伊香色雄命の母とされる高屋阿波良姫についても、太田亮博士は近江国神崎郡高屋郷かとみており、「伊香」が近江国伊香郡だとすると、これも妥当ででしょう。そうすると、系譜不明な高屋阿波良姫も、新河小楯姫と同様に三上祝一族であった可能性が高まります(異母妹か従姉妹くらいか)。
     伊香色雄が妻としたと記される山代県主は、後に山背国造となる山城南部の古豪族で、三上祝の同族です。物部
  • 淡路の鉄と阿波の水銀朱と百襲姫。

       淡路島に近畿弥生後期(西暦100年~220年)最大の鍛冶工房がある。垣内遺跡と言う。  淡路島の北部。淡路島には鉄鉱山はない。原料の鉄の入手は、水銀朱との交換ではなかろうかと思われる。弥生後期の西暦100年頃から始まって古墳時代初期までは、阿波の若杉山が水銀朱の大きい産地であり、ここの水銀朱とで鉄原料を交換していたのだろう。徳島平野は局地的に鍛冶遺構の分布密度は高い。鉄器出土も他地域を遙かに凌駕しており、若杉山さまさまだった。

    http://plaza.rakuten.co.jp/KUMA050422/diary/200901280000/
    淡路市黒谷の垣内(かいと)遺跡の発掘で、鍛冶(かじ)工房跡計十カ所が確認され、弥生時代後期(一〇〇-二三〇年)で国内最大規模の鉄器製造群落だったことが分かった。同市教委が二年間の調査結果として発表した。弥生時代の鍛冶工房跡は九州など西日本各地で見つかっているが、建物が密集した製造専門集落は全国的に珍しく、当時のいわば工業団地。専門家によると、大和政権成立以前の有力者の一大武器供給源だった可能性もあるという。

     鉄は弥生時代中期初頭、中国、朝鮮半島から九州へ伝わった。その後、山陰、近畿へ伝わった日本海ルートと、四国までの瀬戸内海ルートがあるとみられている。今回見つかった鉄器の特徴などからは、徳島から淡路島へ渡ってきた可能性もあるとみられる。

     東アジア考古学・冶金(やきん)考古学を研究する愛媛大学法文学部の村上恭通教授は「農耕民の生活臭がない工房空間で、例がない密集度は安定的な生産を裏付けている」と指摘。市教委は「淡路島が鉄器生産で重要な鍵を握っていたことになる」としている
  • 徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。

     大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。
     不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である。

    『阿波風土記』の逸文は手持ちの書物に採録されていないが、『麻植郡郷土史』に下記のような引用があると言う。「大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし~」。これは、「崇神天皇の母は伊香色謎命なり。伊香色謎命は大麻綜杵命と高屋阿波良姫の女であるから、両親に「麻」、「阿波」の文字がある所から、伊香色謎命は阿波忌部の血を受けている。」との理解でいい。

     阿波国麻殖郡に式内社の伊加加志神社が鎮座している。

     伊香色謎命に阿波忌部氏の血が半分、そうすると、崇神天皇の1/4は阿波忌部の血、半分は全天皇の血、残りの1/4は物部と言える。
  • 04/24編集されました
    稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長>氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖ですが、讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。

    稲背入彦命については、『古事記』垂仁段に皇女阿邪美都比売命について、稲瀬毘古王に嫁したとありますが、稲瀬毘古王にせよ稲背入彦命にせよ、同書には景行天皇の皇子としては記されません(『旧事本紀』天皇本紀にも垂仁の皇子としてあげられていません)。一方、『書紀』垂仁段には、薊瓊入媛(あざみにいりひめ)は池速別命・稚浅津姫命を生むとあり、後者が阿邪美都比売に当たりそうですが、嫁ぎ先は見えません。また、景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません。
    これらも含めて、垂仁天皇及び景行天皇周辺の人物は、記・紀や『旧事本紀』で一致しないことが多く、その皇子・皇女について多くの矛盾する所伝が記載されています。この矛盾がなぜ生じたのかというと、結論的にいえば、本来別系であった応神天皇とその祖先の系譜を両天皇の周辺人物に取り込んだからだと推されます。
    稲背入彦命(稲瀬毘古命)については、記と紀とでは、記のほうが古伝であって、原型ではないかと考えられるところです。すなわち、稲瀬毘古命は本来王族ではなく、垂仁皇女との婚姻(垂仁女婿となること)により皇子として皇室系譜に取り込まれたと考えるものです
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