銅鏡、三角縁神獣鏡、内行花文鏡

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image銅鏡、三角縁神獣鏡、内行花文鏡

三角縁神獣鏡の同範鏡をもつ古墳 三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳1…

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コメント

  • 銚子塚古墳:東日本最大級の前方後円墳

    長さ169メートル、高さ15メートルの古墳
    甲府盆地を見渡せる
    1928(昭和3)年に偶然石室が発見され、鏡・勾玉(まがたま)・管玉・鉄剣など副葬品が出土しました。鏡のうち「三角縁神人車馬鏡」は、備前車塚古墳・群馬県三本木古墳および福岡県藤崎遺跡出土鏡
    と同じ鋳型から作られていました
  • 三角縁神獣鏡の同じ鋳型で作った鏡(同型鏡)は、関東に達しているものは、また、吉備にも多いという。

    岡山県の備前車塚古墳で発見された13枚の鏡の中に、各地で出土したものと同型の三角縁神獣鏡が8種9枚ある。

    そのうち4枚が、次のような東国の遺跡から出土した鏡と同型であった。
    群馬県の北山茶臼山古墳
    群馬県の三本木古墳
    山梨県の銚子塚古墳
    神奈川県の真土大塚山古墳
    しかも、これらの同型鏡は、日本武の尊の東征経路に沿って分布している
  • 甲斐銚子塚古墳(かい ちょうしづか こふん)は、山梨県甲府市下曽根町(旧東八代郡中道町)にある古墳。県内最古期の前方後円墳で、国指定史跡「銚子塚古墳附丸山塚古墳」。

    副葬品としては、鏡5が出土。岡山県岡山市の備前車塚古墳や群馬県三本木古墳と同笵関係にある三角縁神人車馬鏡1、内行花文鏡1、だ龍鏡1、三角縁神獣鏡1、文帯神獣鏡1。ほか、水晶製勾玉4、碧玉製管玉、車輪石6、鉄刀4、鉄剣3、鉄鏃片、貝製腕輪1、杵形木製品、特殊器台系譜の初期円筒埴輪などが出土
    築造年代は古墳時代前期の4世紀後半
  • 平塚市
    真土大塚山古墳跡

    三角縁四神二獣鏡、変形四獣鏡、巴形銅器、銅鏃、鉄剣、鉄斧、鉄刀、鑓鉋、玉類、土器、人骨などが出土しました
    、「三角縁四神二獣鏡」は非常に貴重な出土品であり、日本国内でも、一部の地域しか出土が確認されていません。 (平塚で出土したものは、上野 東京国立博物館に保管されています

    最近の研究では4世紀後半に築造され、サガミの国の中にあっては最古の古墳と考えられています。
    三角縁四神四獣鏡(径22.1cm)には「陳是作鏡甚大好、上有王父母、左倉龍右白虎、宜遠道相保」と24文字の吉祥句の言葉が刻まれています。
    平塚にきた最初の文字??
    これと同じ鏡が京都府の椿井大塚山古墳から1面、岡山県の備前車塚古墳から2面、兵庫県の権現山51号墳から1面の4枚が確認されています


    椿井大塚山古墳ーー備前車塚古墳ーー兵庫県の権現山51号墳との共通点は

    この鏡と同じ鋳型でつくった鏡は、京都府椿井大塚山墳、岡山県備前東塚古墳、兵庫県権現山51号古墳からも出土しています。なかでも椿井大塚山古墳は、大和朝廷の中枢に近い人物の墓とみられ、32面もの同種の鏡が出土しています
  • 三上神社に銅鏡が伝わっている。百済の武寧王の墓から出土したものと同型であり、何故近江にこの銅鏡があるのかが疑問であった。林ノ腰古墳の造営年代が6世紀始めと判断されたことで、当時の近江の有力者で継体天皇の盟友でもあったろう近江毛野の古墳だろうとの判断である。毛野はまさに百済に派遣され、武寧王とも親交があったはずで、これで銅鏡の疑問は氷解したと言える。
  • 陳是作鏡の銘の入った鏡は、次の出土がありますが、景初3年銘の入った鏡は、次の二枚(面)のみです。

    景初三年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 1面、(239年):神原神社古墳出土。
    景初三年陳是作銘画文帯同向式神獣鏡 1面、(239年):和泉市黄金塚古墳出土。
    景初四年陳是作銘斜縁盤龍鏡 同型2面、(240年ですが、239年12月に改歴し、翌年は、正始となり、事実は、景初4年はない)
    正始元年陳是作銘三角縁同向式神獣鏡 同型3面 、(240年)
  • 昭和62年、京都府福知山市の広峰15墳から、景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土した。同年兵庫県西宮市の辰馬考古資料館は、広峰一五墳と同笵の景初4年銘の斜縁盤龍鏡を所蔵していることを公表した。この鏡は宮崎県の持田古墳群から出土したものであるそうだ。景初4年は240年で、この鏡は卑弥呼が魏から貰ったものかもしれない?
  • 三角縁神獣鏡の円筒埴輪0式(円筒埴輪なし)にある4基の古墳は、小札革綴冑で述べた奈良の黒塚古墳、京都の椿井大塚山古墳、兵庫の西求女塚古墳、福岡の石塚山古墳である。三角縁神獣鏡は円筒埴輪Ⅲ式の時代で消滅している。
  • 「免田式土器(重孤文土器)」は熊本県を中心に中南九州に分布する。大正期、人吉盆地の免田の畑から大量に出土したためその名を得た。人吉盆地は球磨(くま)の中枢、のちの熊襲の地であることで免田式土器は「熊襲の土器」とも呼ばれた。
     胴部はそろばん玉の形、やや開き気味に上にのびた長頸をもち、胴部の上半に重弧文や鋸歯紋などが描かれる。弥生後期から古墳初期のものとされ、その優美なシルエットは気品に溢れ、最も秀逸な弥生土器と呼ばれた。
     蛮夷たる「熊襲」に纏わる民が、何故、このような上質で繊細な土器を造り得たのであろうか。また、その洗練された技術は金属器を模倣したものともされ、その起源は大陸にあるともいわれる。免田式土器は南西諸島でも出土している。

    免田に6世紀の「才園古墳」が在る。
    この古墳の石室から舶載の流金鏡が出土した。43文字の銘文が刻まれた神獣鏡であった。「流金」とは金メッキが施されたもの。流金鏡の出土例は僅か3例、他は福岡と岐阜。が、精緻な画文帯神獣鏡はこの鏡のみであった。そしてこの鏡が、3世紀の頃の江南で鋳造された逸品であるとされた。
  • 御上神社(滋賀県野洲郡野洲町)
    祭神&祖神 天之御影命
    社家 三上氏
    ■原初は三上山の山頂にあったと伝えられる。
    ■三上直(三上祝)祖は、天之御影命の玄孫で、川枯彦命あるが、丹波道主命の実弟、水穂之真若王は、近江の安直(やすのあたい)の先祖で、この御上神社の野洲郡一帯を領地としていた。三上氏の直接の祖はこの人ではないか?
    ■この野洲町には、出雲の加茂岩倉遺跡(島根県大原郡加茂町)から39個の銅鐸が発見されるまで、同一の場所での出土数で最多の24個の銅鐸が出土した、大岩山古墳群がある。一号鐸は高さが134.7cmあり、現在も日本最大を誇る。他にも、朝鮮半島との交流が窺える鉄製の馬甲(馬の鎧)の断片や、日本最古の金糸も出土している。青銅器と鉄器と金糸、いかにも作金者らしいラインナップだし、朝鮮半島・出雲とも交流があったことが分かる。
  • 会津大塚山古墳

    仿製(日本産)とみられる一面の三角縁神獣鏡(直径21.4センチ、縁の厚さ1.0センチ、重さ17.5グラム)であった。この鏡が注目された理由は、仿製鏡としては関東はもとより東北地方の出土であったからである。と同時に、この鏡と同じ鋳型から作られた同笵鏡が岡山県和気郡備前町の鶴山丸山古墳の出土品にも認められた。両鏡は傷跡まで一致するという。また鏡の唐草文にも特徴があり、同様の文様を有する鏡の存在が、畿内から西日本に分布していることから、会津大塚山古墳出土の鏡の製作地は畿内であるとする見方が支配的である。

    次に注目されたのが素環頭大刀で、長さ1.2メートル、やや内反りの鉄刀である。これも東日本からは初出土とされ、こうした大刀は西日本に集中的にみられる。この大刀は、三角縁神獣鏡の上に重ねておかれていた。こうしたことから、この大刀と鏡とが、この古墳の被葬者にとって、極めて重要な意味をもつ副葬品、というより埋葬者生存中からの重要品であった、とみなすことができる。

    その他、33個の銅鏃も分布の濃い西日本からもたらされたといわれ、この会津大塚山古墳の出土品の性格は、総じて古墳文化の中心地である畿内との関連が強いことが判明した。そして出土品や内部構造など古墳のもつ諸要素から考えて、この古墳の造営された年代は四世紀後半代と推定されている。
  • 会津大塚山古墳と桜井茶臼山古墳
    ここで、注目すべきなのは、会津若松市の会津大塚山古墳(全長90メートル)と、奈良県桜井市外山(とみやま)にある全国で第31位の大きさを誇る桜井茶臼山古墳(207メートル)とが、ほぼ相似形であることである。
    桜井茶臼山古墳については、大塚初重他編『日本古墳大辞典』に、およそ、つぎのように記されている。
    「丘陵端部に立地し、前方部を南に向けている。墳丘は三段築成で、典型的な丘尾切断形を呈し、周堀を有している。1949年~1950年に発掘調査が行なわれた。主軸全長207メートル、後円部径110メートル、前方部幅61メートルを測り、後円部は前方部より約5メートル高い。
    葺石があり、後円部中央に墳丘主軸に平行して、扁平な割石を小口積みにした竪穴式石室が存在する。石室は内法長6.75メートル、幅1.1メートル前後、高さ1.6メートル前後の大きさで、床面は板石敷きの特異なものである。石室内からは内行花文鏡・神獣鏡・半円方格帯鏡などの鏡片若干、碧玉製の玉杖・玉葉3・五輪塔形石製品1・鍬形石片1・石釧(くしろ)片1・車輪石片2・異形石製品1組・用途不明石製品5・管玉6・硬玉製勾玉1・ガラス製管玉1・同玉類若干・鉄剣片3・鉄杖身5・鉄杖片1・刀子1・鉇(やりがんな)2・鐓(いしづき)形鉄製品1・鉄製利器1・用途不明鉄器1・同棒状品1・銅鏃2・鉄鏃多数などが出土した。神獣鏡片は、豊前赤塚古墳出土の天王日月四神四獣鏡と同笵鏡と考えられるものである。奈良盆地東南部の代表的な前期古墳の一つで、四世紀中葉ごろの 築造と考えられる。」

    会津大塚山古墳も、桜井茶臼山古墳も、ともに、「柄鏡(えかがみ)式前方後円墳」である。柄鏡に形が似ているので、「柄鏡式」という。柄鏡は、室町以後江戸時代に普及した柄のついた円形の銅鏡である。
  •  鏡が魔除けになることに関しては、三角縁神獣鏡の銘文に「辟邪」の文字が見られましたし、常陸国風土記、久慈郡に次のような言葉があります。「昔、魑魅あり。集りて、鏡をもてあそび見て、すなわち自ずから去る。俗に言う。疾き鬼も鏡に向かえば、自ずから滅ぶ。」
  • 中国の唐代に「天照」という鏡があります。昭宗天複二(九〇二)年に、帰耕子が序を付した『神仙煉丹点鋳三元宝照法』に、大型鏡の鏡背の文様を指定した鏡に「天照」と名づけられた鏡です。「背上内象紫微星君所居、外列二十八宿。鋳成、若遭五星失度、慧孛(はい)出天、霜雹霖早、開此照、齋潔虔誠、助威揚徳、其災自殄(てん)」とあります。この天照鏡の大きさは直径一一二・三㌢です。

    このような巨大な鏡は中国では極めて稀ですが、日本製にはこれと似た鏡が、中国歴史博物館に直径七六・五㌢の大型鏡が所蔵されています。日本神道の「八咫鏡」は、天照太神を象徴しており、中国の神鏡が「天照」と名づけられているところに、なんらかの関連性が窺われるといいます。(小林正美編『道教の斎法儀礼の思想史的研究』二一五頁)。

    伊勢神宮の神体である八咫鏡は、平面鏡と考えられています。しかし、飯田武郷氏(一八二八~一九〇〇年)は、四八年を費やして執筆した明治六年に、『日本書紀』の注釈書『日本書紀通釈』七〇巻を完成させます。そのなかに、神体は「つぼ」であったと実見記録を発表しています。飯田氏は明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見たといっています。神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸といいます。八咫の鏡は舟形の入れ物に二重の缶を置き、その中に安置されていたといいます。最奥の黄金の缶の中には円筒系の酒壺があり、それが八咫の鏡であり神体であるとのべます。(西野儀一郞著『古代日本と伊勢神宮』二一五頁)。
  • 天理市柳本町の三世紀末頃の前方後円墳である黒塚古墳より、平成九年に三三面の三角縁神獣鏡が出土しました。

    穴石室は真北を向き被葬者の頭も真北に向けられていました。このことからヤマト王権には被葬者の頭を真北に向けて埋葬する風習があったことがうかがえます。棺内の被葬者の頭のところには画文帯神獣鏡と、その頭の両側に刀と剣をおき、棺外の東壁側一五面、西壁側一七面の三角縁神獣鏡を内側に向けて、木棺と壁の間に立てられていました。三角縁神獣鏡は葬儀・埋葬のために作成されたことがわかります。古代において、鏡・玉・剣の三種の組み合わせは皇室特有のものではなく、支配者一般の象徴であったと考えられています
  • 青龍三年鏡(高槻市・安満御所)


    青龍三年は中国の三国時代・魏の年号で
    西暦235年に当たります。
    魏志倭人伝には、
    239年に卑弥呼の使者が中国から「魏の鏡」を百枚持ちかえったと記録され、青龍三年はその四年前の年号です。

    その年号を刻んだ鏡が青龍三年鏡と呼ばれ、
    日本が中国からもらった最古の鏡で
    たった3枚しか出土していません。


    青龍三年の他に玄武・青龍・朱雀・白虎と
    十二支銘も刻まれており、
    卑弥呼の鏡の一部ではないかと騒がれました。
  • 安満宮山古墳(あまみやま)は大阪平野と淀川を
    一望する安満山(あまやま)の中腹にある三島最古の古墳です。

    3世紀中旬の邪馬台国の時代に造られた古墳で
    この直後から巨大な前方後円墳が多数造られ
    弥生時代から古墳時代へと日本国家創設が始まります。
    古墳案内板
    小さな長方形墳(推測:21m×18m)ですが、
    中から出土した銅鏡5枚は卑弥呼が魏から頂いた銅鏡100枚の内の
    一部ではないかと推測されています。

  • 鏡作坐天照御魂神社 奈良県磯城郡
    磯城郡田原本町八尾816
    祭神
    中央 天照国照日子火明命
    (旧事本紀では天照国照彦火明櫛玉饒速日命とする)
    右  鏡作伊多神・石凝姥命
    左  鏡作麻気神・大糠戸命(石凝姥命の父命)
    摂社 鏡作坐若宮神社「天八百日命」
    由緒
     この地に居住した鏡の鋳造を業とした鏡作部の氏神である。記紀によると、崇神6年、皇居内の天照大御神を畏れ多いとして笠縫の地に遷座せしめたとある。八咫鏡を皇居から出したと言う事である。その代わりの神鏡を鋳造した際の試鋳の像鏡を御祭神とした。

    本物は現在の皇居の内待所に祀られているのであろう。 この神社の御神体は確かに三角縁神獣鏡であるが、これは土が付いており、古墳から掘り出されたものと思われる。同笵鏡が愛知県犬山市白山平の愛知県最古の東の山古墳から出土しており、この地は、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊の12世建稲種命の子尻綱根命を祖とする尾張氏の系譜につながる丹羽県主の支配地である。

    よく似た話であるが、和歌山市の日前国懸神宮も天岩戸の前で使った鏡の前に作った鏡を御祭神としていると伝えられている。「磯城郡誌」等からの推測すれば、この試作鏡は紀の国の日前国縣神宮に持って行かれたとも理解できる。

    中央の祭神は天照御魂神であり、天照国照日子火明命とされる。尾張氏の遠祖である。

    さらに右座の石凝姥命は伊多神と言われる。穴師神社の御神体にもこの神社の鏡を祀った伝承がある

    隣接する唐古・鍵遺跡からは石製の銅鐸鋳型の破片やフイゴなどが出土している。銅鐸作成の技術者が住んでいたが、これらの技術者は銅鐸の需要がなくなって後には銅鏡の製作に従事したものと思われる。 大和への外部勢力の侵入の物語は神武、崇神、応神天皇などが代表的であるが、銅鐸から銅鏡へ、また倭鍛冶から韓鍛冶への技術や製品の推移に対応して行っている。

     唐古遺跡からは、河内、吉備、北摂、近江、伊勢湾などの土器が出土している。弥生時代から連綿と途切れる事がない遺物が出ている。政治的思惑よりは技術の伝承を優先した古来からの日本人的技術者のありようを彷彿とさせる。

    『平成祭礼データ』から 
     上代人が己ガ魂の宿るものとして最も崇啓尊重した鏡類を製作鋳造することを業としていた鏡作部がこの地一帯にわたって住居し御鏡(天照国照彦火明神)並びに遠祖(石凝姥命)を氏神として奉祀したのが当神社であって古来鏡鋳造鋳物元祖の神として尊崇信仰されている
     第十代崇神天皇のころ三種の神器の一なる八咫鏡を皇居におまつりすることは畏れ多いとして別の所におまつり致し(伊勢神宮の起源)更に別の御鏡をおつくりになった。その神鏡を八咫鏡をおつくりになった石凝姥命の子孫鏡作師がこの地に於いて崇神天皇六年九月三日に鋳造した。それを内侍所の神鏡と称するがその鋳造に当たって斌鋳せられた像鏡は之を天照国照彦火明命と称えておまつりした。これが当社の起源である。 中座は天照国照彦火明命であり右座は鏡作の遠祖石凝姥命,左座は天糠戸命を祀り申し上げている。
  • 須玖字岡本
     明治32年(1899)8月、福岡県筑紫郡春日村大字須玖字岡本のD地点で大石の下から発見された甕棺墓は奴国の王墓とされている。この墓には、青銅の武器8本以上、ガラス壁、ガラス勾玉、管玉と共に前漢鏡30面前後が埋葬されていた。そのうちの26面が形式の判別されている(草葉文鏡 3面、星雲文鏡 6面、 重圏銘帯鏡 6面、連弧文銘帯鏡 6面、単圏銘帯鏡(日光鏡)5面)。このうち、草葉文鏡3面は漢鏡2期、星雲文鏡と各種銘帯鏡の23面はすべて漢鏡3期に製造されたものとされている

    福岡県糸島市三雲にある三雲南小路遺跡から出土した2つの甕棺の棺内にはそれぞれ31面以上と22面以上の前漢鏡が埋葬されていた。そのうち、重圏彩画鏡1面と、四乳羽状地文(雷文)鏡1面は、漢鏡2期、その他の重圏銘帯鏡3面、連弧文銘帯鏡29面、星雲文鏡1面、単圏銘帯鏡18面は漢鏡3期に位置づけられる。

  • 三国時代に後漢の丞相だった曹操そうそうの子・曹丕そうひが、後漢最後の皇帝・献帝から禅譲を受け、魏王朝を開いたのは西暦220年のことである。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に遣使したのはそれから19年後に過ぎない。その頃魏の都洛陽で流通していたのは、まだ後漢鏡が主だったであろう。卑弥呼に下賜された銅鏡100枚が三角縁神獣鏡でなく後漢鏡だったとすれば??
  • 漢鏡2期 BC2世紀後半 前漢中期前半 三雲南小路遺跡から重圏彩画鏡1面、四乳羽状地文(雷文)鏡1面が出土。須玖岡本遺跡D地点墓から草葉文鏡3面が出土。

    漢鏡3期 BC1世紀前半~中頃 前漢中期後半~後期前半 三雲南小路遺跡から重圏銘帯鏡3面、連弧文銘帯鏡29面、星雲文鏡1面、単圏銘帯鏡18面が出土。須玖岡本遺跡D地点墓から星雲文鏡と各種銘帯鏡など23面が出土。

    漢鏡4期 BC1世紀後葉~AD1世紀初め 前漢末~王莽代 平原遺跡からき竜文鏡1面、方格規矩四神鏡31面が出土、

    漢鏡5期 AD1世紀中頃~後半 後漢前期 AD1世紀後半には日本列島でも漢鏡の出土数はピークに達する。平原遺跡からはこの時期の内向花文鏡1面、方格規矩四神鏡31面が出土

    漢鏡6期 AD2世紀前半 後漢中期 2世紀前半になると漢鏡の出土数が激減する。これは後漢王朝の衰退や東夷全体の動乱など東アジア情勢を反映したもの

    漢鏡7期 AD2世紀後半~3世紀初め 後漢後期 第一段階には上方作系浮彫式獣帯鏡・飛禽鏡、画像鏡、き鳳鏡、獣首鏡などがあり、第二段階は画文帯神獣鏡、第三段階には斜縁神獣鏡がある。
  • June 2016 編集されました
    吉備の鶴山丸山古墳[傍の南の山には前方後円墳「長尾山古墳」がある] 神獣鏡が出土した
    奈良で即位された神武天皇のお妃に、媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタ ライスズヒメ)命を差し出した。媛蹈鞴五十鈴媛命は摂津国三島 に居た。三島は大阪府旧三島郡(現在の高槻市・茨木市)内だ。 三島郡は南北に分かれるが、島下郡の宿久郷(現茨木市)の丘 陵に「紫金山古墳」(前期古墳)がある。そこからも三角縁神獣 鏡が10面出土した。その中の1面に「鶴山丸山古墳」出土の 三角縁神獣鏡との同笵鏡があった。もう1面、前方後円墳の「花光寺山古墳」の三角縁神獣鏡との同笵鏡もあった。円墳の「鶴山丸山古墳」の被葬者が、前方後円墳の 「花光寺山古墳」の被葬者と同一グループであるで あることが理解できた。それだけではない。「紫金山古墳」から出土した3ケの貝輪には全て「直弧文」 が刻んであった。「千束古墳」の石障で、目に焼き付けられた模様だ。

    花光寺山古墳の築造されている場所は、今は瀬戸内市服部地区だが、備前市新庄に道一つで接している。鶴山丸山古墳の山を中心にして、西鶴山と東鶴山とに分かれている。東鶴山は備前市鶴見・佐山を囲むが、西鶴山には新庄・坂根・福田・畠田が含まれる。丸山古墳のある鶴山がその後のこの地区の中心地であったことはいがめない。

    その「鶴山丸山古墳」出土の三角縁神獣鏡の同笵鏡を出土する別の地区の古墳。
    大分県宇佐の前方後円墳の「赤塚古墳」と徳島市国府町の前方後円墳の「宮谷古墳」だ。
    大分の「赤塚古墳」からは、数多くの三角縁神獣鏡を出土した京都府南部・綺田(カバタ)にある「椿井(ツバイ)大塚山古墳」の三角縁神獣鏡との同笵鏡が出土している。「赤塚古墳」の周 辺の地名には畠田と字は違うが「 田(ハタケダ)」がある。
    紫金山古墳の貝輪の直弧文
  • October 2016 編集されました
    神原神社古墳から発見された『景初3年』の銘文の入った銅鏡こそが、正始元年に倭王、つまり邪馬臺国の大倭王に贈られた銅鏡だった

    という説がある。

    卑弥呼に授けられた陳氏鏡
    左回りか?

    陳氏の異例の個人的記述
    「私は故郷、楊州を離れた鏡造りで、今、魏都の洛陽に居て、倭人の為に海東に至る鏡を作っているのだ。」と伝えることで、倭人の方にも、「おお!そういう訳か。」とひざを打って喜ぶ何かがあったのではないか。  つまり、邪馬壱国の倭人の何代か前の祖先と、陳氏の何代か前には接点があったのではないか。
    http://www.eonet.ne.jp/~temb/1/wajinden_4.htm
  • 17.4 青龍三年 顔氏作鏡成文章 左龍右乕辟不詳 朱爵玄武順陰陽 八子九孫治中央 壽如金石冝侯王 (右回り)
    同笵鏡
    京都府竹野郡弥栄町 大田南5号墳

    1 ○ 17.4
    景初三年
    (239年)
    陳是作鏡
    三角縁同向式神獣鏡
    島根県大原郡加茂町 神原神社古墳
    1 ● 23.0 景初三年 陳是作鏡 自有經述 本是京[阝市] 杜地□(命)出 吏人□□(銘之) 位至三公 母人銘之 保子冝孫 壽如金石兮 (左回り)

    景初三年
    (239年)
    陳是作銘
    半円方形帯神獣鏡(画文帯同向式神獣鏡)

    大阪府和泉市上代町 黄金塚
    1 ○ 22.7 景□(初)三年 陳是作銘 銘之 保子冝孫 (左回り)
    景初四年・・・
    (240年)
    陳是作鏡
    斜縁盤龍鏡
    京都府福知山市東羽合 広峯15号墳

    1 ○ 17.7 景初四年五月丙午之日 陳是作鏡 吏人銘之 位至三公 母人銘之 保子冝孫 壽如金石兮 (左回り)
    同笵鏡
    兵庫県西宮市松下町 辰馬考古資料館収蔵

    1 ○ 17.7
    正始元年
    (240年)
    陳是作鏡
    三角縁同向式神獣鏡
    群馬県高崎市柴崎町蟹沢 柴崎古墳(蟹沢古墳)
    1 ● 22.73 正始元年 陳是作鏡 自有經述 本自[くさかんむりに州][阝市](京師) 杜地命出 壽如金石 保子冝孫 (右回り)
    同笵鏡
    兵庫県豊岡市森尾 森尾古墳
    1 ● 22.73
    山口県新南陽市富田 竹島御家老屋敷古墳(竹島古墳)

    1 ● 22.73
    赤烏元年
    (238年) 半円方形帯神獣鏡 山梨県西八代郡三珠町鳥居原 狐塚古墳
    1 ○ 12.42 赤烏元年五月廿五日丙午 □□□□(造作明竟) □□□□(百湅清銅) □□(服者)君侯 冝□(子)孫□(壽) 萬年 (右回り)

    呉年号
    赤烏七年
    (244年) 半円方形(格)帯神獣鏡 兵庫県宝塚市安倉南 安倉高塚古墳
    1 ○ 16.97 □(赤)烏七年□□(太歳)在丙午 昭如日中 造□(作)明□(竟) 百□(幽)漳 服者富貴 長樂未央 子孫□□(番昌) □□□(可以昭)明 (右回り)

    呉年号
    王氏作竟・・・同出徐州
    三角縁四神四獣鏡
    滋賀県野洲郡野洲町富波 コトバ山古墳

    1 ● 21.9 王氏作竟甚大明 同出徐州刻鏤成 [阝市]子辟邪嬈其嬰 仙人執節坐中庭 取者大吉樂未央 (左回り) 同笵鏡
    福岡県福岡市南区老司 老司古墳

    1 ● 22.4
    フリーア美術館蔵
    1 ● 22.1
    奈良県天理市柳本町 黒塚古墳
    1 ● ?
  • 景初2年に女王卑弥呼が魏王より授けられた賜物の品は、親魏倭王金印と、絳地交龍錦(赤地に龍の錦布)5匹(10反)、絳地縐栗罽(赤地に縮みの毛織物)10張、蒨絳(茜染めの布)50匹、紺青(濃紺の布)50匹である。また特別に、卑弥呼に対して紺地句紋錦3匹、細班華罽5張、白絹50匹、金8両(111g)、五尺刀2口、鏡100枚、真珠・鉛丹(赤橙の顔料)各50斤(11Kg)であった。

    卑弥呼の貢物は、男子奴婢4人、女子奴婢6人、班布5反(23m)であった。これだけの貢物にしては、卑弥呼は破格のお返しを貰っている。魏の真意は何であったのであろうかと、疑問が湧く。

    正始元年(240年)に帯方大守弓遵は使いを倭国に遣わして、倭王に詔書を奉じ、印綬・錦・罽・帛(白絹)・金・刀・鏡・采物を与えている。景初三年と正始元年とを比較すると、蒨絳・紺青・真珠・鉛丹が抜けて、采物が加わっている。中央公論社「倭人の登場」では、采物の解説に「身分を示すための彩色や模様を施した旗や衣服」としている。これらからすると、采物は身分を示す茜色の蒨絳と、濃紺色の紺青の布に相当すると考えられる。これらより、真珠と鉛丹は、卑弥呼は貰ってないことになる。
  • 三角縁神獣鏡の年代

    岡村秀典氏は『三角縁神獣鏡の時代』のなかで、三角縁神獣鏡をはじめから「三世紀の中国鏡」と決めてかかり、三角縁神獣鏡がどのような年代の古墳あるいは遺跡から出土したかは、ほとんど無視して話を進める。
    しかし、三角縁神獣鏡は前方後円墳から多量に出土していて、三角縁神獣鏡と土器との「確実な 共伴関係」は多い。

    方格規矩鏡や内行花文鏡をはじめとする中国北方系の鏡こそ、庄内式土器や庄内式以前とみられる土器とこれまでしばしば共伴関係が見られるものである。

    ■ 三角縁神獣鏡の製作者

    三角縁神獣鏡が国産鏡とすると、この鏡は誰が作ったのであろうか。

    『古語拾遺』神武天皇の段に次のような記述がある。

    「また、天(あま)の富の命(高皇産霊の命の子で、忌部氏の祖神)をして、もろもろの齊部(いんべ)氏をひきいて、種々の神宝、鏡、玉、矛、盾、木綿(ゆう)、麻(お)などを作らせた。」

    また、崇神天皇の段には、「崇神天皇の時代にいたって、宮中にまつられていた天璽(あまつしるし)の鏡と剣とから天皇は威圧を感ずるようになられ、同じ宮殿に住むことに不安をおぼえられた。そこで、齊部氏をして、石凝姥(いしこりどめ)の神の子孫と、天の目一箇(まひとつ)の神の子孫との二神をひきいて、さらに鏡を鋳造し、剣を作らせて(レプリカを作らせて)、天皇の護身用のものとした。これがいま践祚する日にたてまつる神璽の鏡と剣である。」と記される。

    これでみると、宮廷の祭祀をつかさどる氏族である忌部氏が、石凝姥の神の子孫(鏡作り氏)などをひきいて鏡を鋳造したという。鏡作り氏は職業集団をひきいる伝統のあるリーダー氏族である。

    鏡作り氏は各地の部民を指揮して鏡を作り、それを大和朝廷に貢納していたとみられる。大和の国、伊豆の国田方郡にある鏡作り郷に加えて、各地にある香美(土佐)、各務(美濃)などの郡名や、覚美(摂津)、香美(美作、安芸、阿波)各務(美濃)などの郷名が部民の存在を示している。

    鏡作り氏の首長は鏡作造(かがみつくりのみやつこ)であり、天武天皇の時代に連(むらじ)姓になっている。

    鏡作り氏を中央で掌握していたのは、忌部氏であった可能性が高い。忌部氏は祭祀具の製造に従事した氏族で、持統天皇の即位式では神璽の剣と鏡を奉った記録がある。
  • November 2018 編集されました
    甲府市南部、旧中道町の曽根丘陵にある中道古墳群の前期古墳について、もう少し触れておく。
     玉諸神社の南西方近隣七・五キロほどの笛吹川南岸、旧東八代郡中道町、現甲府市下曽根町に先に触れた甲斐銚子塚古墳がある。全長一六九Mの大古墳で、三角縁神獣鏡や内行花文鏡等鏡五面や石釧・車輪石、鉄製刀剣、円筒埴輪Ⅱ式などを出土した。特殊器台系譜をひく初期円筒埴輪は、静岡県磐田市の松林山古墳、群馬県太田市の朝子塚古墳とも共通する。甲斐銚子塚から出土の三角縁神獣鏡が、備前車塚や群馬県三本木古墳・神奈川県真土大塚山古墳・福岡県藤崎遺跡(六号周溝墓)等からの出土鏡と同笵関係にあり、東征経路上にある群馬県西部の三本木古墳ともども倭建遠征隊から同鏡の分与を受けたものか。備前車塚の被葬者は吉備武彦の近親女性関係者かとみられる。甲斐銚子塚の営造時期について、玉類に碧玉勾玉を含むことを重視して四世紀後葉とみられている(今西氏『円筒埴輪総論』など)。
     その南西方の米倉山中腹には、県内唯一の前方後方墳の小平沢古墳(全長四五M)があって、斜縁神獣鏡やS字状口縁付台(S字甕)を出した。近くには鏡三面ほどや鉄鏃・鉄斧・竪矧板革綴短甲等を出土した大丸山古墳(全長が九九M、ないし一二〇M)もあって、出土の三角縁神獣鏡は岐阜市坂尻一号墳や静岡県磐田市の寺谷銚子塚古墳と同范鏡関係にある。坂本美夫氏は、小平沢・大丸山が甲斐初現の古墳で、四世紀後半とみたが、もう少し時期が早いか。橋本博文氏は小平沢古墳を大丸山に先行するものと位置づけ、上の平遺跡(曽根丘陵公園の南側一帯に広がる遺跡で方形周溝墓群もある)の勢力基盤の上に立つ東海地方西部からの入植者集団の首長墓と位置づけた。
     大丸山は、組合式石棺の蓋石上に割石小口積みで竪穴式石室が構築される特異な形態で、京都府向日市向日の妙法山古墳との類似が指摘されている。妙見山の組合式石棺は、大阪府松岳山古墳の石棺とともに長持形石棺の祖型として重要な位置を占め、四世紀後葉の時代とみられている(ともに平良泰久氏の見方)。妙見山と大阪府紫金山古墳との間、紫金山と奈良県新山古墳との間には同笵鏡関係があるから、これら諸古墳の築造は時期を少し引き上げた四世紀中葉とみたほうがよい。

    前期大古墳の築造順については、大丸山→銚子塚→天神山という見方が多く、その場合、〔Aケース〕大丸山の被葬者が甲斐国造の初代塩海足尼(景行朝に定賜国造)とするならば、→第二代の速彦宿祢→第三代の百襲彦、に三古墳が各々対応するものか。あるいは、〔Bケース〕銚子塚の被葬者が初代塩海足尼ならば、大丸山がその先代の臣知津彦、天神山が第二代速彦宿祢という考え方もありうる。

    出典、http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/kaikokuso/kaikok1.htm
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