蘇我氏、蘇我大臣、歴代の大臣

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ) 千葉県千葉市中央区蘇我町1-88 式内社で、旧社格は郷社。 蘇我比咩大神と千…

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コメント

  • 竹内宿禰の後裔 子供たち

    子に関して、『日本書紀』[原 5]では平群木菟宿禰のみ親子関係が明示されている。一方『古事記』では、次の7男2女と後裔27氏を掲載する(括弧内は日本書紀の名称)

    羽田矢代宿禰(波多八代宿禰)  → [波多氏]

    許勢小柄宿禰(日本書紀なし)  → [巨勢氏]

    石川宿禰(蘇賀石河宿禰)  → [蘇我氏]

    平群木菟宿禰(平群都久宿禰)  → [平群氏]

    紀角宿禰(木角宿禰)  → [紀氏]

    久米能摩伊刀比売
    (日本書紀なし)

    怒能伊呂比売(日本書紀なし)

    葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)  → [葛城氏]

    若子宿禰(日本書紀なし)
  • 神部直(みわべのあたい)の系図には、伊佐那伎(イザナギ)・伊佐那美(イザナミ)の下に大日神、月神、素佐乃乎命、さらに素佐乃乎命の下に、蘇我の名をもつ蘇我能由夜麻奴斯。その4代後に大国主命。さらに10代後に大田田祢乎命の名が見えます。

    この「蘇我能由夜麻奴斬」を、出雲王朝の系図では、清湯山主・八島士奴美命とする。


    素佐乃乎命-蘇我能由夜麻奴斯-布波能母知汗那須奴-意禰都奴→-天布由伎奴-大国主命-久斯比賀多命-阿麻能比賀大命→-櫛?戸忍速栖浦浦稚日命-櫛?戸忍勝速日命・・略・・太田々禰古命

    建速須佐之男命が高天原から追放されて足名椎、手名椎と出会う。
    この足名椎は大山津見神の子であるが、
    建速須佐之男命により稲田宮主須賀之八耳神(いなだみやぬしすがのやつみみのかみ)
    と名付けられている。
    ここで須賀と八耳という言葉が出てくるが、
    この足名椎の子供の櫛名田比売命と建速須佐之男命の間の子である八島野命は
    清之湯山主三名狭漏彦八島野命=蘇我能由夜麻奴斯弥那佐牟留比古夜斯麻斯奴
    (すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬみこと)という。
    つまり須賀=清=蘇我(読みはsuga)となっていて建速須佐之男命が
    蘇我の養子となったように受け取られる
  • 古代の寺院には「飛鳥寺」「山田寺」「岡寺」のような和風の寺号と、「法興寺」「浄土寺」「龍蓋寺」のような漢風寺号(法号)とがあるが

    福山敏男は、法号の使用は天武天皇8年(679年)の「諸寺の名を定む」の命以降であるとしている

    「法興」とは「仏法興隆」の意であり、隋の文帝(楊堅)が「三宝興隆の詔」を出した591年を「法興元年」と称したこととの関連も指摘されている
  • 飛鳥寺

    天平19年(747年)成立の『元興寺縁起』には発願の年は「丁未年」(587年)とし、発願の年自体は『書紀』と同じ。

    内容の異なる記載がある。『元興寺縁起』によると丁未年、三尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)は百済に渡航して受戒せんと欲していたが、「百済の客」が言うには、この国(当時の日本)には尼寺のみがあって法師寺(僧寺)と僧がなかったので、法師寺を作り百済僧を招いて受戒させるべきであるという。そこで用明天皇が後の推古天皇と聖徳太子に命じて寺を建てるべき土地を検討させたという。
    当時の日本には、前述の三尼がおり、馬子が建てた「宅の東の仏殿」「石川の宅の仏殿」「大野丘の北の塔」などの仏教信仰施設はあったが、法師寺(僧寺)と僧はなかったとみられる。

    『書紀』によれば翌崇峻天皇元年(588年)、百済から日本へ僧と技術者(寺工2名、鑢盤博士1名、瓦博士4名、画工1名)が派遣された。
    このうち、鑢盤博士とは、仏塔の屋根上の相輪などの金属製部分を担当する工人とみられる。同じ崇峻天皇元年、飛鳥の真神原(まかみのはら)の地にあった飛鳥衣縫造祖樹葉(あすかきぬぬいのみやつこ の おや このは)の邸宅を壊して法興寺の造営が始められた。

    『書紀』の崇峻天皇3年(590年)10月条には「山に入りて(法興)寺の材を取る」とあり、同5年(592年)10月条には「大法興寺の仏堂と歩廊とを起(た)つ」とある。この「起つ」の語義については、かつては「(金堂と回廊が)完成した」の意に解釈されていたが、後述のような発掘調査や研究の進展に伴い、「起つ」は起工の意で、この年に整地工事や木材の調達が終わって本格的な造営が始まったと解釈されている。

    『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建つ」とある。

    『書紀』の推古天皇4年(596年)11月条に「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」との記事がある。
    『書紀』は続けて、馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたとある。『元興寺』縁起に引く「露盤銘」にも「丙辰年十一月既(な)る」との文言があり、この丙辰年は596年にあたる。

    しかし、飛鳥寺本尊の釈迦三尊像(鞍作止利作)の造立が発願されたのはそれから9年後の推古天皇13年(605年)、像の完成はさらに後のことで、その間、寺はあるが本尊は存在しなかったということになる
  • 05/08編集されました
    『二中歴』「都督歴」に見える次の記事

    「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)

    鎌倉時代初期に成立した『二中歴』に収録されている「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されていますが、それ以前の「都督」の最初を孝徳期の「大宰帥」蘇我臣日向としているのです。
    九州王朝が評制を施行した7世紀中頃、筑紫本宮で大宰帥に任じていたのが蘇我臣日向ということですから、蘇我氏は九州王朝の臣下ナンバーワンであったことになります。
     蘇我臣日向は『日本書紀』にも登場しますが、『二中歴』の「筑紫本宮」という表記は、筑紫本宮以外の地に「別宮」があったことが前提となる表記ですから、その「別宮」とは前期難波宮(難波別宮)ではないかと考えています。また、

    『日本書紀』皇極紀によれば、中大兄皇子との婚約が進められていた蘇我倉山田麻呂の長女を身狭臣(蘇我日向のこととされる)が盗んだとありますが、これも『日本書紀』編纂時に大義名分を入れ替えた記事の可能性があります。

    九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。
    出典:http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/wi-empire-kyushu-dynasty/第1579話%E3%80%802018-01-18/
  • 05/08編集されました
    初代の大宰帥(長官)は、飛鳥朝蘇我氏の蘇我日向(そがのひむか)であった。日向は蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子で、異母兄に右大臣蘇我倉山田石川麻呂がいた。
     大化改新後の大化5年(649)、日向は当時孝徳天皇の皇太子だった中大兄皇子(後の天智天皇)に「あなたを石川麻呂が殺そうとした」と讒言したため、孝徳は兵を向けた。石川麻呂は逃亡したものの翌日自害し、妻子ら8人もともに自害に及んだ。
     ところが、孝徳天皇が真相究明のために石川麻呂の自宅を捜索するとその無実がわかった。中大兄皇子は石川麻呂の死を悔み、後日初代太宰帥にする方法で日向を筑紫に左遷した。当時はまだ「那ノ津」の那津官家の時代であった。これを現在の地に移したのが日向だった。

    観世音寺復元模型
     観世音寺は、百済支援の目的でこの大宰府まで来て没してしまった斉明天皇の菩提のために天智天皇が発願し、天平18年(746)に完成した勅願寺で、南都の官大寺に匹敵する大伽藍を誇る西国一の寺であった。
     その周囲には、大宰帥蘇我日向が造ったという般若寺や、大宰府の鎮護のために建立された竈門神社(かまどじんじゃ)や、その神宮寺である竈門山寺(かまどさんじ)、さらには筑前の国分寺、後にここに流された菅原道真が約2年間を暮らしたとされる榎寺(えのきでら)などがあったといわれている。

    http://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-life/cat35/post-136.html
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