日本、継体天皇、百済 武寧王

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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日本の初見 継体三年(509年)「久羅麻致支彌、日本より来る。」の一文は、日本書紀に見られる日本国号最古の使用…

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コメント

  • 穂積氏
    物部氏と同族の饒速日命後裔で大和国山辺郡穂積邑 発祥と伝えられています。 伊香賀色雄命の子大水口宿禰の子孫が穂積臣、穂積朝臣を賜姓 されるに始まり、 後裔の紀州熊野系の穂積氏からは、熊野神社が全国に勧請されて 大いに穂積姓鈴木氏が栄えました。
    全国に鈴木が多くなった理由の一つに彼ら穂積氏が東国の太平洋沿岸の交易を支配しており、彼らにかかわる武家たちに、鈴木姓を名乗らせたことがあるといわれています。つまり、この穂積氏は熊野灘から東国にいたる海の交易をつかさどる氏族であったとも考えられるのです。また父の名「穂積氏忍山宿禰」にはもう一つの謎があり、日本書紀「継体紀」6年(513)4月条に「穂積臣押山」を使者として百済に派遣したとあります。

    入海神社
    御祭神:弟橘比売命、応神天皇
    所在地:愛知県知多郡東浦町大字緒川字屋敷一区46
    由緒:日本武尊が東征のときに、この地にいた穂積忍山の娘、弟橘姫を連れて行ったそうです。途中、荒天にあい全軍の安泰を祈り、彼女は海に身を投げたそうです。そして彼女の櫛がこの地の紅葉川の辺りに流れ着き、その櫛を祀ったことがこの神社の始まりだそうです。

    穂積忍山を祀る神社は三重県亀山市に忍山神社があるのですが、そう考えると穂積氏が三重と尾張の東端のこの地を結ぶ古代の海路の支配者か?

    倭姫姫が鈴鹿の小山宮に至ったとき、土地の豪族で川俣県造の遠祖、大比古命が召しだされた。そして
      『汝の国の名を何と云うのか?』
    答えていわく
      『ここは鈴鹿郡、神戸郷の忍山です』
    そして彼は直ちに神田と神戸を倭姫命に献上し協力を誓いました。

    この地が神山であり、これから亀山の地名が生まれたという説があります。

    倭姫命の兄、景行天皇は我が子のヤマトタケルにむかい『東国の賊を討って平定させよ。』
    と命を下します。

    草薙の剣を倭姫命からいただいて東国に向かう。

     その時、ヤマトタケルは忍山神社の祀官だった忍山宿祢(オシヤマノスクネ)の娘、弟橘姫(オトタチバナヒメ)を娶って東へ出発します。
     父もこの娘とヤマトタケルの一行に加わり、尾張、東国へ旅をしていきました。

    伝説では忍山宿祢命は伊勢国物部氏であり、朝廷から伊勢を経て知多半島に派遣されていたと思われます。

    また忍山神社は古くは白髪大明神とも呼ばれる。
  • 香川県善通寺市大麻町の大麻神社では
    弟橘姫に兄がいて、その名前は、穂積忍山彦根と言うその一族が代々祭主という。

    ヤマトタケルとの間にできた子供、若建王。
    九州の五島列島の小値賀島と、その東の島、野崎島の神嶋神社に祀られている。
    若建王ですが、三韓遠征で大いに軍功があり、
    その後小値賀島に住み、三韓の押さえになったという。

    忍山神社の裏を流れる鈴鹿川を下った所で加佐登町があり、ヤマトタケルが亡くなったと言われている所です。
    加佐登神社、白鳥塚古墳はヤマトタケルの
    墓ともいう。
    弟橘姫は三重県の亀山市の生まれといわれる。
  • 大水口宿禰おおみなぐちのすくね(弟橘媛の祖父)

    系譜に関して『日本書紀』『古事記』に記載はない。『新撰姓氏録』では、伊香賀色雄の子とも、神饒速日命の六世孫ともいう。

    日本書紀、垂仁天皇25年3月条では「一云」の中で、倭大神が大水口宿禰に神憑り、倭大神を祀ることを告げたことが記されている。

    左京神別 天神 穂積臣 - 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
    右京神別 天神 采女朝臣 - 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。

    末羅国造 - 志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に穂積臣同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉を国造に定める。のちの肥前国松浦郡周辺にあたる。

    矢田稲吉と弟橘媛の祖父が、大水口宿禰である。
  • 近江と伊賀の穂積氏

    大水口宿禰は饒速日命の3世の孫、出石心大臣の御子で、郷土開拓の祖神とされている。系譜を記すと、饒速日命-宇麻志麻治命-出雲色多利姫-出石心大臣命-大水口宿禰とつながる。 また、別の異説があり、『姓氏録』では穂積朝臣の祖と言われ、伊香色雄命の子とされる。この伊香色雄命は近江伊香郡を本拠とするとの見方がある。 伊香郡には物部の地名がのこり、大新河、建新河、大水口、安毛建彦など近江の地名を負った物部系豪族が出ている。 物部氏の匂いのする近江である。

    水口神社
    滋賀県甲賀市水口町宮の前3-14
    祭神 大水口宿禰 
    配 大己貴命、素盞嗚尊、稻田姫命
    摂社 玉津米神社「玉留産靈命」、武雄神社「武甕槌神」、日枝神社「大山咋命 配 徳川家康」、他

    倭姫世紀に基づく社伝

    水口神社の創始は平安時代初期と見られている。 しかし、一つの社伝によれば、垂仁天皇の時稲田姫命が天照大神を奉じて近江国に到り、族長の矢田部宿禰蔵田麿に神鏡の鎮座すべき地を問うと、蔵田麿は甲可日雲宮地が最もふさわしい旨を伝えた。そこで甲可川(野洲川)を遡って現社地に到り、四年間の奉斉の後、大己貴命を神鏡守護神として祀ったのが草創であるという
  • 水口神社
    社伝によると、主祭神・大水口宿禰は饒速日命六世の孫である出石心大臣命の御子。出石心大臣命の母・淡海川枯姫は、
    川枯首阿目加伎袁四世の孫である阿自夷沙比止命の後で、川枯神社の祭神。

    水口神社
     当社は主祭神大水口宿禰命命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖 母淡海川枯姫の縁により当地に居住され たと思われる土地開拓の祖神である。配 祀は大己貴命、素盞嗚尊、稲田姫命で ある。
     当社は三代実録貞観元年(八五九)正 月甲申の条に「従五位下水口神に従五位 上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神 明帳にある近江国百五十五座、甲賀郡八 座の一つとされる。明治元年(一八六八)九月 明治天皇御東幸の砌、勅使を差遣せら れた。
    後略
    -境内石碑
  • 左京神別に、穂積臣の祖で、伊香賀色雄の子とあるが、『旧』天孫本紀では、饒速日命の四世の孫で、出石心の子であり、穂積臣、采女(ウネメ)臣の祖とある。

      

    ニギハヤヒ━ウマシマチ━ヒコユキーイヅシココロ┳オオヤクチ┳ウツシコヲ
                           ┃     ┣ウツシコメ
                           ┃     ┗ヘソキネ
                           ┃           
                           ┗オオミナクチ━ホツミ
  • 継体が樟葉・筒城・弟国で宮を営み、長らく盆地に入らなかったという点では、雄略が立つに際して、押木珠蔓の話の元になったような事件(例えば草香部皇子が討たれる)があり、草香部―東漢氏との間でのっぴきならない軋轢が生じていたということが想定される。そのために草香部氏が独自の王をかついだというのが継体であろう。その軋轢は、大伴金村大連が仲介し、継体にタシラカを入れることによって手打ちが行われたとみられる。

  • 阿部波延比売(あべのはえひめ)

    26代継体天皇の妃。紀には、和珥臣(わにのおみ)河内の娘、荑媛とある。

    継体天皇は越前の三国から召喚されたが、すぐに大和へは入れず、河内国交野郡葛葉の宮(大阪府枚方市樟葉)に暫らく居た。枚方は、淀川流域の星の街。古墳も散見される。何より、「葛葉」というのが面白い。晴明の母、「葛葉狐」は和泉の出身だ。阿倍野、四天王寺も近い。中世まで淀川上流には巨椋池があり、木津川を通って大和、宇治川を通って近江、桂川を通って丹波、鴨川を通って平安京にまで繋がる、水上交通の一大拠点であった。枚方あたりでは、遠洋航海の可能な大型船も発掘されているという。
    因みに、継体天皇の大和の皇居は「磐余玉穂宮」である。伝承地は奈良県桜井市池之内の辺であり、継体天皇は、この姫の実家である阿部氏から、皇居の土地を提供されていたのだろう。
    和珥(和邇)氏は阿倍氏と同族とする文書が散見されるのだが、系図上の接点はこの波延比売しかない。むしろ彦坐王との関係から、和珥氏は息長氏と同族とした方がいいくらいだ。しかし、問題はこの父の名、「河内」である。河内国古市郡に住む、古代の渡来系氏族に西文(かわちのふみ)氏という氏族がいるのだが、彼らは王仁(和邇)吉師(わにきし)の子孫だというのだ。王仁は漢の高祖の裔で、15代応神天皇の時に来朝し、「論語」10巻、「千字文」1巻をもたらしたという。和珥氏は、例によって闕史八代の内の5代孝昭天皇の末裔というが、この王仁吉師の子孫なのではないか? 王仁吉師はもちろん吉師(吉志・吉士)だ。「吉志舞」を奏したという、阿倍氏の祖というのは、この王仁吉師なのかもしれない。
  • 王仁吉師

    『続日本紀』によると、子孫である左大史・正六位上の文忌寸(ふみのいみき)最弟(もおと)らが先祖の王仁は漢の皇帝の末裔と桓武天皇に奏上したという記述がある

    韓国では王仁の記録書物は全く存在しないのですが、日本の記録を元にして「日本に先進文化を伝えてあげた韓国の偉人」として、王仁の記念碑を建てたり、何の手がかりも無いのに、王仁墓を作って自治体の史跡扱いとなってます。

    一方で韓国では、日本書紀の任那日本府の記録は出鱈目だとか言ってるので、自分に都合のいい王仁の記録は祀り上げて、都合の悪い話は一切認めないということらしいです(この辺はウィキペディアの王仁に詳しい)。

    十五年(404年)秋八月、壬戌朔の丁卯(6日)に、百済王は阿直岐を遣わして、良馬二匹を貢いだ。そこで、軽(現在の奈良県橿原市大軽町の辺り)の坂の上の厩で飼わせた。そうして阿直岐に任せて飼わせた。それゆえ、その馬を飼った所を名付けて厩坂という。阿直岐はまた、経典をよく読んだ。それで、太子菟道稚郎子は、阿直岐を師とされた。ここに、〔応神〕天皇は阿直岐に問うて言われた。「もしや、お前に勝る学者は他にいるのか」。答えて言った。「王仁という人がいます。すぐれた人です」。そこで上毛野君(かみつけのきみ)の先祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)を百済に遣わせ、王仁を召しださせた。その阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖である。
    十六年春二月、王仁は参った。そこで菟道稚郎子は王仁を師とされ、もろもろの典籍を王仁から習われ、精通していないものは何もないようになった。いわゆる王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖である。
  • August 2017 編集されました
    楽浪郡の王氏
    王仁の姓である「王」は、高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人の王氏系の学者とする説もある
    楽浪の時代を通じて強力な勢力をもった楽浪王氏は斉(中国山東省)の出自といわれ、紀元前170年代に斉の内乱を逃れて楽浪の山中に入植したものという。

    前漢が紀元前108年に朝鮮半島に置いた楽浪郡では官吏に王氏が多く、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼすと王氏は百済に亡命した
    日本が369年に新羅を征討すると、百済が日本へ政治的保護を求めた際に文化を日本に輸出し、こうした背景のなか王仁も訪日したともいわれる。
  • 韓国における王仁伝承地と廟の捏造

    朝鮮には王仁伝承は存在しなかった

    『三国史記』『三国遺事』などの書籍にも王仁、あるいは王仁に比定される人物の記述は存在しない。1970年代に韓国の農業運動家で民族史観を信奉する金昌洙[12]らの顕彰運動によって、知られるようになった。1968年に農協視察のために来日した金昌洙は王仁伝承を知り、1970年に再び来日し王仁の資料を収集した[
    金は民族史観のための王仁研究所を設立し、1972年(昭和47年)8月、中央日報に『百済賢人 博士王仁 日本に植え付けた韓国魂』を15回連載した。同年10月に霊岩郡の青年会議所会長の姜信遠から巫女の証言で当地に祈祷伝説があると情報を提供された。金昌洙は当地を王仁の生誕地と認定し、1973年(昭和48年)2月、「王仁出生地 霊岩郡」説を発表し、さらに社団法人王仁博士顯彰協会を創立した。1975年(昭和50年)6月、『博士王仁 日本に植えつけた韓国文化』を出版。1975年、全羅南道知事が博士王仁誕生地聖域化事業計画を発表し、金昌洙は全羅南道教育委員会で「王仁博士 遺跡学術セミナー」を開催した。1976年(昭和51年)には全羅南道が霊岩郡鳩林面聖基洞一帯を「王仁博士誕生地遺跡」として全羅南道地方文化財に指定し、遺跡公園として観光地にし]。1987年には王仁廟が竣工された。

    金英達は金昌洙の説は新羅末の僧道銑国師らの伝説や地元の遺跡を無理矢理にこじつけたもので、科学的実証性に全く欠けた歴史のねつ造であり、北朝鮮が1994年に建造した檀君陵と同様の歴史偽造と
  • July 2017 編集されました
    天皇の和風諡号は、41代持統天皇にあてたのが始まりとされ、この時、歴代の天皇にも追号されているが、諡号のヤマトに『記』では「倭」を当てているが、『紀』ではみな「日本」に置き換えられている。

    最初に国名として「日本」が登場するのは、垂仁紀で、意富加羅國の王子・都怒我阿羅斯等(垂仁2年、崇神65年の任那國・蘇那曷叱知と同じか)と、新羅国の王子・天日槍(垂仁3年)が、ともに「日本國に聖皇が有ると聞き」朝貢してきたという伝説的記事である。
    神武元年を西暦紀元前660年とおく紀年方式からは、垂仁紀年代を推測するのは困難であるが、新羅の建国は4世紀前半、任那は4世紀末頃の成立とみることから、4世紀頃にあったされる朝鮮半島の任那との関わりを、御間城入彦(ミマキイリヒコ=崇神天皇)の名の由来にかけて、崇神~垂仁紀に挿入したのではないだろうかとも云われている。

    次に登場するのは、神功摂政前紀の新羅征討譚にある。ここで新羅王が降伏を申し出る条に「日本國」と記している。また、神功摂政46年には、百済王が「東の方に日本の貴國有るを聞きて」朝貢してきたとある。続く応神28年には、高麗使が朝貢してきたが、その国書に「高麗の王、日本國に教る」とあるのを無礼として時の太子・莵道稚郎子が破り捨てている。
  • July 2017 編集されました
    孝徳紀には、大化元年(645)、高麗と百済の使者に「明神御宇日本天皇詔旨」と明記した詔書を与えたと記されている。詔書の冒頭語は、他に「明神御宇日本倭根子天皇」や「現為明神御八島国天皇」と記したものもあるが、こちらは国内向けに詔旨されたものである。
    これにより「日本」「天皇」の語の始まりを、孝徳紀、即ち大化の改新の時からとする説もあるが、「御宇」は大宝令によって定められたもので、それ以前は「治天下」が使われていたのだと疑問視する説もある。また「日本倭根子」と「ヤマト」を二つ重ねながら、「ヤマトネコ」と一つに訓ませるのも違和感がある。

    斉明紀にでる「日本」は、高麗僧道顕の「日本世記」や「伊吉連博徳書」からの引用である。
    「日本世記」の著者・道顕は、高麗からの渡来僧で、百済滅亡と白村江敗戦までの事件について詳述している。書名の由来は不詳であるが、事件の後しばらく時間をおいてから書かれたものであるならば、文中に出てくる「日本國」は天智期にはすでに存在していたことになる。しかし同書の撰述は天武朝の末頃とする説が有力なようである。
    「伊吉連博徳書」は、伊吉連博徳が斉明5年(659)の第4次遣唐使に随行した記録で、その成立は天武12年(683)~持統9年(695)頃と見られている。彼はまた持統8年(694)に、小野毛野を大使とする遣新羅使一行に随行しており、帰国後は大宝律令の編纂に従事している。
  • 継体天皇はワニ臣河内の女葵媛と婚して一男二女を生んでいる。
    阿倍之波延比売ではないでしょう。
  • 井伊氏はどのような出自を有する武家なのだろうか。宝賀寿男氏が編纂された『古代氏族系譜集成』に収録された三国真人系図のなかに、井伊氏の祖にあたる共資・共保 父子の名がみえている。

    三国真人は継体天皇の子で三国に残った椀子王を祖とする氏族で、越前の坂井郡を本拠地として 勢力があった。一方、さきの『藩翰譜』に「井伊介は武智麿の後遠江権守為憲が末葉にて、工藤・伊藤などと同じ流にて、 南家の藤氏なり」とあり、『古代氏族系譜集成』に藤原為憲を祖とする「井伊氏略系」が紹介されている。
     いずれが真を伝えたものか、にわかには特定できないが、『保元物語』には「井八郎」という武士が後三年の役のとき 源義朝に従軍して出陣したことが記されている。「井八郎」は遠江国の武士で、井伊氏の祖と思われる。 「井伊」は「井」を「イー」と発音していたものが転じた結果と思われ、井伊氏が井伊谷を本拠とする武士として 平安時代には相当の勢力を有していたことは間違いない。さらに、井伊氏は鎌倉から南北朝時代「井伊介」あるいは 「井介」とよばれていたことが当時の記録から知られる。 「介」とは国司の次官であり、国衙の在庁官人の有力者が任命されることが多かった。在庁官人は地方の豪族から出仕するものが多かったが、中央から赴任してきた役人が土着=在庁官人化するケースも少なくなかった。井伊氏の共保伝説は、中央の役人が地方豪族と縁を結んだことを示したものだったのかも知れない。
     他方、安芸国賀茂郡高屋保に拠った国人領主平賀氏が、井伊氏と同じく藤原利世を祖とする系図を有している。 共保の子共宗から七代の孫松葉資宗が源頼朝に仕えて出羽国平賀郡を賜り、子孫は平賀を名乗り、元寇に際して安芸の 所領に下ったというのだ。『古代氏族系譜集成』の三国真人系図にも井伊氏と松葉氏とは同族としてみえ、 両家は三国真人の流れを引いた武家とすることの方が違和感がないように思われる。
     ところで、秋田城介、三浦介、千葉介、上総介、狩野介、富樫介、大内介、そして井伊介を「八介」とよびならわされていた。 秋田城介・上総介は正式職名だが、それ以外は武士が言い習わした通称であった。三浦・千葉・富樫など錚々たる 地方豪族であり、井伊介を称する井伊氏は出自のことはともかくとして遠江国における有力在地領主だったのである
  • 01/01編集されました
    ●藤原良門 ー●藤原高藤 ─ ●藤原胤子 ─ ●醍醐

    光源氏と明石の君との身分違いの恋は、『今昔物語集』に描かれている藤原高藤(ふじわらのたかふじ)と宮道列子(みやじのつらこ・たまこ・れっし)の恋がモデルになっているという説があるそうです。

     藤原高藤は、藤原北家の嫡流・藤原冬嗣の孫。
     宮道列子は、山城国宇治郡(ぐん)大領(たいりょう=長官)である宮道弥益(みやじのいやます)の娘でした。


     高藤と列子は身分の差が大きいものの山科で結ばれ、高藤が列子と会えない間に胤子(たねこ・いんし)という娘が誕生します。
     胤子は宇多天皇の妻となりのちの醍醐天皇をもうけます。

     宇多天皇と胤子の間には、のちの醍醐天皇をふくめた四人の皇子と一人の皇女に恵まれました。


    井伊家の家臣でありながら親今川家で、2度も井伊家に謀反を起こし、おとしいれたとされる小野家について調べてみました。

    まず、この「小野家」は京都の貴族につながる名門、小野小町を輩出した小野家の庶流と考えられています。
    遣隋使・小野妹子から数えますと、26代目が小野和泉守道高となり、家格としては主家・井伊家よりずっと名門で、遠江国赤狭郷小野村(静岡県浜松市浜北区尾野)を領していた模様です。

    小野政直(おの-まさなお)(小野道高、小野和泉守道高、小野和泉守政直)は井伊家で家老を務める重臣でしたが、当主・井伊直宗が1542年8月に、三河・田原城の戦いで野伏に襲撃されて討死したあと、井伊家惣領となった井伊直盛に対して反抗します。

    井伊直盛には男子がいなかったため、その跡継ぎに、井伊直満の子である井伊亀之丞(井伊直親)を据えようとして、娘・次郎法師(井伊直虎)の婿養子として迎えようとしました。

    小野政直(小野道高、小野和泉守政直)はこの事を快く思わなかったようで、その井伊直満と、弟・井伊直義が武田信虎との内通していると、今川義元にウソの密告をします。
    そのため、今川義元から謀反の疑いを掛けられた井伊直満と井伊直義の2人は、1544年12月23日に自刃しました。

    また、小野政直(小野道高)は、10歳である井伊亀之丞(井伊直親)の命をも狙ったため、家老・今村正実(今村藤七郎正実)が亀之丞を連れて、信州伊那郡市田村の松源寺へと逃れました。


  • 龍潭寺は、天平5年(733年)、行基によって開かれた八幡山地蔵寺の後身寺である。行基の生誕地には諸説あるが、地元・引佐では「引佐の四方浄の生まれ」とされ、周辺には行基開創の寺院が多い。

    八幡山地蔵寺のご本尊は行基作の地蔵菩薩で、前回取り上げた「井伊共保出生の井」の横にあった。が、井伊共保が寛治7年(1093年)に亡くなると、その法名「自浄院殿行輝寂明大居士」により、「自浄院」と改称されて、遠江井伊氏の菩提寺となる。

    南北朝時代は、井伊谷八幡宮が薬師山麓の渭伊神社に合祀され、跡地は「龍潭寺砦」「八幡山砦」として、井伊谷城(城山城)と坂田砦の間にある繋ぎの砦とされた。

    自浄院に後醍醐天皇の御子・宗良親王(法名「冷湛寺殿」)が葬られると、親王の法名から一時は「冷湛(れいたん)寺」と改称。それが戦国時代になって臨済宗(妙心寺派)に改宗し、現在地に(たぶん自浄院主となられた文寂和尚がおられた「凌苔(りょうたい)庵」の名から)「龍泰(りょうたい)寺」とし て建てられた。造営したのは井伊直虎の曽祖父・井伊直平である。

    そして「桶狭間の戦い」で亡くなられた井伊直盛(直虎の父)が葬られると、彼の戒名「龍潭寺殿天運道 鑑大居士」により、「龍潭(りょうたん)寺」と改称され、井伊直盛、そして井伊家の菩提寺となる。
  • 6世紀に入り、越(福井)出身の継体天皇が即位すると、状況は一変。このころ、半島では、南下する百済と加羅が衝突していました。双方共に日本へ味方になるよう要請します。そして、継体天皇は加羅から、より中国化が進んでいた百済へと外交方針を大転換したのです。
     これに驚いたのが、加羅であり、さらに驚愕したのが加羅との窓口利権を握っていた北九州の雄、筑紫君磐井でした。そして、古代最大の内戦、磐井の乱が勃発するのです。
  • tokyoblogは言いました:


    こんな説がある。

    6世紀に入り、越(福井)出身の継体天皇が即位すると、状況は一変。このころ、半島では、南下する百済と加羅が衝突していました。双方共に日本へ味方になるよう要請します。そして、継体天皇は加羅から、より中国化が進んでいた百済へと外交方針を大転換したのです。
     これに驚いたのが、加羅であり、さらに驚愕したのが加羅との窓口利権を握っていた北九州の雄、筑紫君磐井でした。そして、古代最大の内戦、磐井の乱が勃発するのです。

  • 天武朝の族姓改革の対象は一般的には畿内居住豪族に限られていたようである。「真人」姓をおくられた「公」姓者も、すでに畿内に居住していた者たちであろう。事実、三国公麻呂は大化五年(六四九)三月に蘇我倉山田麻呂を勘問する使者としてみえ、また白雉元年(六五〇)正月には白雉の献上儀式でその輿を執っている。しかし、三国真人は、越前国荘園の史料が残っていることにもよるが、越前国坂井郡を本拠とする人びとも多数みえる。また、坂井郡大領になっている者も二名みえるように、地方豪族として勢力を有していた。
     このように天武八姓の最高のカバネを有する三国真人氏は、一方で中央官人、一方で地方豪族として、中央・地方の両方に足場をもつ点でユニークな存在である。三国真人国継が本貫地は右京にありながら、坂井郡に墾田を所有していたことは(寺四四)、そのような三国真人氏の特徴をよく表わしている。

    このような特徴はここで問題にしている三国真人のほか、坂田(酒人)真人、息長真人などにもみられる。すなわちこれらは他の真人賜姓氏族と異なり、一方で中央官人を出しつつも、中央官界での勢力は微々たるもので、むしろ近江・越前の地方で郡司などの地方豪族としての活躍が顕著である。そしてこれらが共通して継体天皇の皇子または継体の祖のオホホド王あるいはワカヌケフタマタ王の後裔と称しているように、継体と密接に結びついた氏族であるという共通点があることも見逃せない
  • 彦人大兄は敏達天皇と皇后の第一子で太子とされていたのに敏達天皇や用明天皇の崩御後、なぜ即位しなかったのか。

    彦人大兄の后は糠手姫皇女、大俣王、桜井弓張皇女、小墾田皇女の4人であるがこの内、糠手姫皇女、桜井弓張皇女、小墾田皇女は敏達天皇の娘である。従って彦人大兄が自分の妹を3人も后にしているのは何とも異常である。
    この時代、自分の妹を娶った例はいくつかあるがそれは皇后、正后の一人に限られている。3人も后にした例はなくその理由も説明がつかない。

    皇統譜上、彦人大兄は極めて重要な人物でありながら没年についての記載がない。一方天智天皇の祖母の薨去についての記載は存在する。

    大化2年(646)3月の詔に「皇祖大兄」とあり、それに「彦人大兄をいう」の註が付けられている。
    彦人大兄は「皇祖大兄」とも呼ばれていた。父が天皇なのになぜ彼は皇祖と呼ばれていたのか。

    、『延喜式』には彦人大兄の墓についての記載があるがその墓域の広さは東西15町、南北20町と尋常ではない大きさである。
    これは『延喜式』では最大の大きさである。父の敏達天皇が東西3町、南北3町、天皇としては最も大きい天智天皇でも東西14町、南北14町にすぎない。即位したわけでもないのになぜこのように大きいのか。

  • 彦人大兄の墓(成相墓)が広陵町にある牧野古墳である可能性はかなり高いとされている。なぜなら成相墓があったとされる大和国広瀬郡(現在の河合町や広陵町)には牧野古墳以外、飛鳥時代の墓はほとんどないからである。牧野古墳の石室は明日香村の石舞台古墳とほぼ匹敵する大きさである。蘇我馬子と物部守屋の戦い以降の蘇我氏の全盛期になぜこのような巨大な墓が即位したわけでもない彦人大兄のために造られたのか。

    牧野古墳
    本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃から7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円墳祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[1]ではなくなった。
    三段構築の円墳で、直径約50メートル、高さ13メートル。
    埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1メートルの横穴式石室である。 この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模である。
    玄室内には凝灰岩製家形石棺2基が納められている。奥壁の方に安置された石棺は長さ2.1メートルの刳抜式、その手前の方に置かれていた石棺は形が崩れていたが破片や痕跡から長さ2.6メートルほどの組合式であったと推定されている。
    この古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に近い支配者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されている。

    くちなし玉(左)・ガラス玉(右)
    奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
    玄室内を中心に玉類、金銅製山梔(くちなし)玉、金環等の装飾品、銀装大刀、矛、鉄鏃等の武器、金銅装の馬具二組、木芯金銅椀、須恵器等などが検出された
  • 馬見丘陵地帯は粘土の山で、「豆山3里小石一つ無し」と言われているほど自然石の少ないところ。ちなみに、豆山とは馬見丘陵のこと。

    それにもかかわらず、最大の石は60トン近い大きさで、奈良県では石舞台古墳の天井石についで二番目の大きさ。
    武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃が見つかり、羨道に集中していた容器類の中には、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があったと云う。

    須恵器の形式その他から6世紀後半から末葉にかけて築造された墓であることが分かった。

    全長100mから200mの前方後円墳が数多くある馬見古墳群の中では、直径50m余りの円墳は決して目立つ存在ではないが、注目しなければならないのは、巨大な前方後円墳が築かれなくなった、6世紀後半から末葉に造られている点。

    大和地方の最後の前方後円墳は、明日香の欽明天皇陵であると言われており、その後は一辺50m程度の方墳が王陵の墓になる。

    したがって、円墳と方墳との差はあるが、牧野古墳は築造当時としては最大級の墓だったと云える
  • 牧野古墳の石室は、桜井市の“赤坂天皇山古墳”のものと非常に似ており、同じ設計構想から、同じ技術集団によって築かれたと考えられるらしい。赤坂天皇山古墳は方墳だが、被葬者として崇峻天皇が想定されている。

    崇峻天皇は、西暦592年、蘇我馬子が放った刺客・東漢駒(やまとのあたいこま)によって殺された。方墳と円墳の違いが、天皇の墓と天皇より少し身分の低い人の墓の差であると仮定した場合、牧野古墳の被葬者は、崇峻天皇が死亡した頃の皇族ではないかと考えられる。

    延喜時代(927年)に編まれた『延喜式』には、敏逹天皇の皇子で舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)の墓は、大和国広瀬郡にある成相墓(ならいのはか)であると記されている。

    広瀬郡は、現在の河合町や広陵町にまたがる地域で、その大半は馬見丘陵が占めている。驚くべきは、『延喜式』に記された成相墓の墓域の広さである。

    東西15町・南北20町で、『延喜式』に記された墓域では最大の広さを誇る。古くは、この付近が牧場としてしか利用できない不毛の丘陵であったことから、広大な墓域を設定できたものと推定される。
  • 大和名所記 和州旧跡幽考 第七巻には…。

    ★牧野の墓
    広瀬村より三十町ばかり西にあり。俗に莫耶が墓と言いて莫耶の釼(つるぎ)の
    ふること共かたりつたう。いとおぼつかなし。おもうに牧野は牧野のよみ侍れば
    片言にして莫耶と言いつたうるならし。かたち円丘なり。
    牧野の墓(亦牧岡ともいう)大皇大后の先和氏、大和の国広瀬郡牧野の墓なり(延喜式)

    ★成相の墓
    牧野の墓の十町ばかり東にありて、墓のかたち陵(みさゝぎ)におなじ。おもう
    に牧野の墓の後、東西にならべつきけるによりて、成相の名あるか。
    成相の墓は押坂彦人大兄皇子大和の国広瀬郡にあり(延喜式)。人王卅一代敏達天皇の
    皇子。舒明天皇の御父なり。

    成相」は『延喜式』(国史大系本)には「ナラヒ」とフリガナが付いています。
    『和州旧跡幽考』が書かれた時代(著者)は「牧野墓の十町ばかり東」にあると
    考えられていました(現在、どの墓のことかは不明)。「成相」の名称は「おもふに
    牧野墓の後、東西にならべつきけるによりて成相(なりあひ)の名あるか
    (東西に並んでいるので、成相という名称だろうかと思う)」と、書かれた時代の推測か
    著者の推測を示しているだけで、本当の名称の由来ではありません。
    「十町(一町=約109m、十町=約1090m)」も離れているのに「並んでいる」と
    考えた理由も今となってはわかりません。

     「牧野古墳」=「成相墓」説につきましては下記のとおりです。

     広陵町は、河合町とともに昔の地名では「大和国広瀬郡」に属していました。
    『延喜式』には、大和国広瀬郡にある皇族の墓として3ヶ所の記載があります。
    「成相墓」、「三立岡墓」、「牧野墓」です。

     「成相墓」は「押坂彦人大兄皇子。在大和国広瀬郡。兆域東西十五町。南北廿町。守戸五烟」
    とあります。
     押坂彦人大兄皇子は、敏達天皇(第30代)の皇子、舒明天皇(第34代)の父です。
    生没年は不詳ですが、『日本書紀』「敏達天皇四年(575)春正月九日」条に、
    「息長真手王の女広姫を建てて皇后と為したまふ。是れ一男二女を生ませり。
    其の一を押坂彦人大兄の皇子と曰ふ。またの名は麻呂子皇子」
    とあります。また、子の舒明天皇の生年は593年頃と考えられています(出典:Wikipedia)。
    このため、押坂彦人大兄皇子の没年は6世紀末~7世紀初めと考えられます。
    つまり、成相墓は6世紀末~7世紀初めの墓と考えられます。

     「三立岡墓」は「高市皇子。在大和国広瀬郡。兆域東西六町。南北四町。無守戸」とあります。
     高市皇子は天武天皇(第40代)の皇子、長屋王の父です。生没年は白雉5(654)~持統10(696)年
    ですので、三立岡墓は7世紀末の墓と考えられます。

     「牧野墓」(牧野古墳ではない)は「太皇大后之先和氏。在大和国広瀬郡。兆域東西三町。
    南北五町。守戸一烟」とあります。
     「太皇太后之先和氏」は「高野新笠(桓武天皇の生母)」の先(先祖、親)の
    「和乙継(やまとのおとつぐ)」のことと考えられています。高野新笠の生没年が
    720頃?~790年(出典:Wikipedia)なので、父親の和乙継の没年は8世紀頃と考えられます。
    つまり、牧野墓(牧野古墳ではない)は8世紀の墓と考えられます。

     牧野古墳は発掘調査の結果から6世紀末頃の築造と考えられ、古墳・横穴式石室の規模、
    出土遺物の内容から被葬者は身分の高い人と考えられています。『延喜式』に記載されている
    3基の墓のうちでは、当てはまるのは「成相墓」だけです。

     つまり、現在では古墳の名称(牧野古墳)や地名(広陵町三吉字バクヤ)からの推測ではなく、
    発掘調査結果(6世紀末の築造、身分の高い人の墓)と『延喜式』の内容から、
    牧野古墳は「押坂彦人大兄皇子の成相墓の可能性がある」と考えられているのです
  • 若沼毛二俣王(???-???)
    ①父;15応神天皇 母;息長真若中比売(倭建曾孫)
    ②妻;弟日売真若比売命(百師木伊呂弁;母の妹)
    子供;大郎子(意富富杼王)
    忍坂大中津比売命
    (忍坂大中姫、19恭允天皇后、20安康天皇母、21雄略母)
     別名;稚淳毛二俣王、若野毛二俣王。  兄弟;16仁徳天皇、八田皇女ら
     
    意富富杼王(???-???)
    ①父;若沼毛二俣王 母;弟日売真若比売命
    ②妻;中斯知命     呼称:オオオド 別名:大郎子
     子供;乎非王
     兄弟;忍坂大中姫、田中之中比売、田宮之中比売、沙祢王
    ③息長氏祖と言われている。
    ④三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫米多君、布勢君らの祖
     
    忍坂大中姫(???-???)
    ①父;若沼毛二俣王 母;弟日売麻若比売
    ②夫;19允恭天皇
     子供;20安康天皇、21雄略天皇、橘大郎女、衣通郎女、木梨軽皇子、など
    ③押坂部(刑部)は、押坂宮を主体に領有され、息長氏の管理のもと、大中姫から押坂彦人大兄皇子、やがては天智天皇へと伝領されていったと考えられる。
    この系統には、蘇我氏の血が殆ど入り込んでないことから、この系統を反蘇我の皇統と見なし、蘇我氏を倒した天智天皇の財力の基盤となったのが、この坂部ではないかとされ、また蘇我氏の血を入れないために皇統を純化する役割をも息長氏が担っていたのではないかとも推論されている。
    皇室内部の「皇族氏族」
  • 倭建命の妻で名前の残っていない方の子供が息長田別王(おきながたわけのみこ)、その田別王の曾孫にあたる息長真若中比売(おきながまわかなかつひめ)は応神天皇の后の一人。
    日本武尊(ヤマトタケル)の子・息長田別王を「祖」とする『河内ライン』です。そして応神の妻の一人が田別王の子・杭俣長日子王(くまたナガひこ)の娘・息長真若中比売なのです

    「日本書紀」の安康天皇元年十月条によれば、太子であった木梨軽皇子が非行により臣下たちの信任を失い、皆が穴穂皇子の側に着いたため、
      ここに太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、また兵を興して戦わむとす。
      故、穴穂括箭(あなほや)、軽括箭(かるや)、始めてこの時に起こりぬ。
    と伝え、允恭記は「この時、穴穂王子が作った矢は、今時の矢であり、これを穴穂箭と謂う」とも解説していますが、ここで言う「軽(カル)」は「銅製」の鏃(やじり)を指しており「古事記」が「今時の矢」だとする「穴穂矢」は、明らかに「鉄」の鏃を用いた殺傷力の強い武器(を持った勢力)を意味しているのです。「銅鉾」「銅鏃」に象徴される古い技術集団に支えられた旧支配層と、「鉄剣」「鉄鏃」「鉄冑」などで武装した、より新しい権力者たちの生々しい戦いが、継体帝のわずか一世代前(西暦450年頃)に展開されたのでしょうか?当時(五世紀中頃、古墳時代中期)河内で武威を振るった人物の墓として知られる大阪堺市の黒姫山古墳(全長114m)の石室に、24領の鉄製鎧をはじめ、おびただしい鉄製武器、武具が納められていた事実は、この推測を補強する材料になるのかも知れません。(垂仁39年の条に、皇子の五十瓊敷入彦命が「大刀一千口」を造り、忍坂邑に蔵め、後に石上神宮に移した、という記述があるので、有力者たちが多くの武器を収蔵し、それが祭祀の対象にまで昇華したことは確かです。更に、武器庫が在ったとされる地名を冠した「忍坂大中姫」こそ、継体の祖父・大郎子の妹[大叔母]であり、木梨軽皇子の母親なのです
  • 平野君のオオド郷
    [応神天皇妃息長真若中姫命]
    大阪市平野区喜連6丁目1番38号 楯原神社内 息長真若中女命墓碑(石碑)
    大阪市平野区喜連4丁目1番5号(西町西口字上田) 広住塚古墳(方形)

    [応神天皇皇孫息長沙禰王]
    大阪市平野区喜連西4丁目7番 善法寺内 息長沙禰王霊碑(「息長沙禰王一統尊霊」銘石碑)
    大阪市平野区喜連 中筋塚古墳(詳細不明)

    [応神天皇皇孫女息長田井中女命]
    大阪市平野区喜連4丁目 喜連墓地内 息長田中姫塚(「息長田ヰ中女命之霊 南無妙法蓮華經 法界萬霊」銘石碑)
  • 喜連の息長氏伝承の系譜と他の古代氏族系譜とを合体したものなので、人名や続柄の記述に差異があります)

                 <浮山塚?・   +―――――――――弟女眞若女→
                  西金元地蔵堂> |<広住塚・楯原神社>  ∥
    日本武尊――息長田別王――★抗俣長日子王――+―★眞若中女命     ∥
                              ∥――――若沼毛二俣王→
                            応神天皇
    →若沼毛二俣王
        ∥―――大郎子(意富富杼王)―――彦主人王       <ツブレ池?>
        ∥    <善法寺・中筋塚?>  ∥―――継体天皇――都夫良郎姫
        ∥―――★息長沙弥王―――+―眞若郎女命
        ∥―――★忍坂大中女命  +―息長眞手王―+―息長眞戸王
        ∥     ∥<山王塚>         +―広姫
        ∥    允恭天皇               ∥
        ∥―――★田井中女命             敏達天皇
    →弟女眞若女   <伝息長田中姫塚?・喜連墓地>

  • 息長氏は近江国(現在の滋賀県にほぼ該当する)坂田郡(現在の米原市のほとんどと長浜市の一部)を本拠とした古代豪族であるとするのが一般的な見解である[1]。しかし、河内に息長氏末裔が近世まで存在しており、文献等には信頼性が欠ける部分も多いが、看過出来ない部分も有り河内が本拠であるという説も有る。また、播磨・吉備等にも息長を名に持つ関係者が古代資料には残っており播磨・吉備が本拠である可能性もある[1]。
    息長の名義発祥の由来は、上古から持つ製鉄・鍛治に関する技術からこの氏が生じたとみられる[2]。
    『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とするとされている[3]。また、山津照神社の伝によれば国常立命を祖神とする。皇室との関わりを語る説話が多い。姓(かばね)は公(または君、きみ)。同族に三国公(のち、三国真人)・坂田公(のち、坂田真人)・酒人公(のち、酒人真人)などがある。
    また岡田精司による『継体天皇=息長出自説が有力な継体王朝論』になっている[4]。古事記において継体天皇の出身地を近江とする記述については、『応神天皇の子孫である袁本杼命を近江から迎え入れる、』(竹田恒泰 現代語古事記 ポケット版 474ページ7-8行目より引用[5])に記載が有り、中村啓信の新版古事記現代語訳付きにも同様の記載が有る[6]。
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