応神天皇、山守、屯田、屯倉

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image応神天皇、山守、屯田、屯倉

神功皇后の三韓征伐の帰途に宇瀰(うみ、福岡県糟屋郡宇美町)で生まれたとされる。神功4年(204年)に立太子。応…

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コメント

  • 応神皇子の中で 大山守・大鷦鷯・宇治がそれぞれ、山海之政・食国之政・天津日継を 応神から命ぜられており、この三人が皇子の中で別格であったことが わかるが、大山守(これも諱ではなく、山海之政を掌ったことによる 尊称であることは明らかである)が誅滅されて後は、額田がその位置 を占めることになったのであろう。大鷦鷯や大山守とともに「大」字 を付され、額田大中彦と称されたことが、それを示していよう。例え ば単なる二男、住吉仲皇子などとは異なるのである。
  • 王仁が仕えた応神・仁徳王朝は、河内国が中心であった。必然的に、王仁の子孫も河内国を本拠地とした。子孫は「河内の文氏」(かわちのふみうじ、「西文氏」とも書く)として、文書・外交・軍事・交通など多くの分野で活躍した。

     現在、大阪市枚方市に「伝王仁墓」があり、大阪市の史跡になっている。そこでは、毎年、「王仁祭」が行われている。
  • May 2016 編集されました
    大山守皇子(おおやまもり の みこ、生年不明 - 応神天皇41年(310年?))は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。応神天皇の皇子で、母は高城入姫命(品陀真若王の女)

    仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。因みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。

    五百城入彦皇子(いおきいりびこのみこ、『日本書紀』に因る)[1]は、古墳時代の皇族。景行天皇の子で、母は八坂入媛命。同母兄に成務天皇などがいるほか同母弟が5人、同母妹が5人、異母兄弟に日本武尊など68人いるといわれる(うち名が伝わっているのは46人)。父景行天皇は、それらの皇子たちをそれぞれの国や郡に封じたが、彼と成務・日本武尊の3人だけは封じなかったと、日本書紀に書かれている

    神社誌で当社の創建氏族とされる榛原公とは、新撰姓氏禄(815)に
      「摂津国皇別 榛原公 大山守命之後也」
    とある氏族だが、その本拠地など詳細は不明。神社誌は、その祖先・大山守命が山守部を統率したことから、山の神・オオヤマツミを奉斎したというが、その一族が当地に居住したことを含めて確証はない(式内社調査報告・1977)。
  • 伊佐爾波神社

    道後公園の向かいの山、 松山市桜谷

    伊佐爾波神社は、湯月八幡宮とも言われた神社でした。この神社が、この湯月城が築城される前に、この地にあったのです。
    神功皇后にまつわる、古い伝説があります。

    仲哀天皇、神功皇后とともに道後温泉に行幸のとき沙庭を立てて天神の勅を請奉りました。
    それが、起源となり、沙庭神社、即ち伊佐爾波の神社と称しました。

    神功皇后はこの地に行宮を建て、そこに湯殿を設け、温泉を汲んで浴されました。
    すると、この温泉のご利益で、御懐妊になり、後の 「応神天皇」 の御誕生があったといいます。応神天皇が誕生したのは、 この地の温泉に入ったから、この地で天神の勅を請奉ったことが、皇子誕生の起源だというのです。
  • June 2016 編集されました

    開化天皇ー日子坐王━━大筒木真若王━迦邇米雷王ー息長宿禰王
                     ┏━多遅摩比多訶━葛城高額
    但馬諸助━━但馬日楢杵━━━━清彦┫
                     ┗━多遅摩毛理(太道間守)
  • こんな説もあります。
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/tori2dai/kosihakutyo.htm
    ホムチワケ伝承の主人公品遅別命とは、実際には垂仁天皇の皇子ではない。この者こそ後年の応神天皇であり、続柄上は垂仁天皇の関係者(外孫)でも、仲哀天皇の諸皇子を滅し旧来の天皇家(大王家)から天皇位を纂奪して、新しく王朝を開いた英雄であった。関連する白鳥捕獲の時期も、伝承に登場する人物の活躍時期からいって、四世紀中葉の成務天皇朝ごろかと考えられる。ここでは、ホムチワケ関連の白鳥伝承は史実であり、白鳥を追って越中に到った鳥取部の一族が、婦負郡を中心とする越中の開拓者であったことを略述したいと考えている。仲哀朝の白鳥献上も、これにつながるものである。
  • 日本書紀の研究によると、応神天皇の出生地、宇美と蚊田について、神功皇后摂政の巻では宇瀰としていますが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれました。」となっています。この記述に従い、北九州各地に誕生伝承が生まれました。


    その中で、宇美=蚊田説をとって宇美八幡宮が最も有名ですね!通常、宇美を「産み」と解します。しかし、実は宇美町の最古の名前は魏志倭人伝から不彌(ふみ)国であった。また、宇美=蚊田説と別の場所説があるが、例えば北九州の奥地まで川の上流まで鎮懐石をお腹に抱いて我慢してワザワザ遡る必要があるだろうか
  • 06/13編集されました
    応神天皇の下関生誕説

    吉見の乳母屋社と黒井の杜屋神社は、元は吉母にあり応神天皇に授乳し、お守りした。山口県風土誌P438に以下のことが書いてあるとのこと。

    吉母の若宮神社由緒に「乳母屋、守屋二社之儀は本社御誕生之後、御乳を被上、御守を被仕候両社と申伝候。尤其後乳母屋社吉見下村に勧請仕、所之氏神と祝ひ、于今社御座候。守屋社は黒井下村氏神、同断之由と見ゆ」とある。
    下関市吉見、龍王神社、乳母屋神社
    大正年間に龍王神社に合祀された乳母屋神社が、「長門国第三鎮守」という。『下関市史―資料編V』所収の龍王神社文書の中に「長門国第三鎮守乳母屋社」(p.370暦応2(1339)年6月15日付「大宮司武真譲状」)、「当国第三鎮守乳母屋大明神」(p.370「乳母屋神社神殿造営貢録」)とある。また『長門国志』巻三に「一説云乳母屋 長門国第三鎮守也」(p.14)とある。

    下関市黒井、杜屋神社、式内社、長門国三宮
    延喜式には住吉坐荒御魂神社、忌宮神社、村屋神社が載っている。中世においては『長門国一宮住吉神社史料(上)』所収の杜屋神社文書に「長州一宮之末社黒井守屋大明神」(p.502年不詳3月19日付「毛利元就書状」)とあるように、一宮住吉神社の末社となっていった

    畳石、吉母の毘沙ノ鼻
    毘沙ノ鼻の近くには、下関市の不燃ゴミの埋没場があり、その先に「畳石」がある。この「畳石」は、神功皇后が韓半島から帰朝のとき、ここから上陸したと伝えられる。ここの地質は蓋井島まで連続し、途中、岩礁が舟から見られる。

    住吉神社の領地

    住吉神社文書に記録されているもので、永禄11年3月14日に、この御崎(毘沙ノ鼻)の北、室津と吉母の境に打ち寄せられた鯨の所有権をめぐって争いがあり、神社領と馬牧場の絵図で確認すると紛れも無く住吉神社の神領地である、という内容のものです。
  • 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれ、「穴戸」と書くこともあった。『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草壁醜経)が白雉を献上した。天智4年(665年)には長門国が初見される。この間に改められた。

    穴門とは海峡(関門海峡)を指しており、穴門国造の領域と、阿武国造の領域をあわせて穴戸国が設置された。ちなみに、穴門についても安那人(朝鮮半島由来)の居所という解釈があるらしい(参考)。

    665年(天智天皇4年)には、筑紫国の大野城や基肄城と並んで、長門国に場所不明の長門城が築かれた。675年(天武天皇4年)には、畿内と陸奥国と長門国を除いて、国司は大山位以下を任じることが定められた。陸奥国と長門国が特別扱いされたのは、辺境の要地にあるためで、同じく辺要の九州は、筑紫太宰を上に持っていた(wikiより)。
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