甕棺、ガラス製勾玉

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image甕棺、ガラス製勾玉

日本では縄文時代以降、甕棺墓が見られる。縄文後期・晩期の遺跡からは、日本各地(東北~近畿~九州)で甕棺墓の風習…

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コメント

  • 四世紀代の前期古墳に、緑色で透明な硬玉翡翠の勾玉が多く出土しています。

    大阪府の和泉黄金古墳の中央棺から大小二九個の勾玉が遺体の周囲に副葬され、九個が翡翠の勾玉で首飾りに使われていました。ほかの東西の棺をあわせると二六個の翡翠の玉が使われていました。日本の翡翠産地は糸魚川市の姫川支流の小滝川と、その隣の青海川の二カ所です。これらの翡翠は上流の巨大な岩塊を砕いて採取するのではなく、川原や海岸に丸玉状に石塊になったものを加工したといいます。青梅町には大角地遺跡(縄文前期)・寺地遺跡(縄文中期)、糸魚川市の細池遺跡(縄文晩期)・後生山遺跡(弥生後期)・笛吹田遺跡(古墳前期)・田伏遺跡(古墳中期から後期)、富山県の最東端の朝日町の海岸にある浜山には古墳時代中期の玉作り遺跡があります。海岸に当たるところで翡翠の製作を行っています。

    古墳後期には衰退し、六世紀ごろから八世紀ころに跡を絶ちます。
  • 八坂璁曲玉は奈良時代には後宮の蔵司が保管し、平安時代からは剣と共に櫃に入れて天皇の身辺に置かれました。壇ノ浦の戦いで平時子(二位の尼)が安徳天皇を抱きかかえ、三種神器とともに入水しました。『愚管抄』には平時子が安徳帝を抱き、さらに天叢雲剣と三種の神器のもう一つである神璽を具して入水したとあります。『平家物語』によりますと神璽を脇に挟み宝剣を腰に差して沈んだとあります。しかし、玉は箱に入っていたため、箱ごと浮かび上がり源氏に回収されます。源頼朝の命を受けた漁師の岩松与三が、網で鏡と玉を引き揚げたともいいます。『日本書紀』の原文では「神璽剣鏡」とあり、神璽・剣・鏡と分けて読みますと神璽は玉のことをさしていることになります

    皇居に実物がある

    昭和六四年の践祚の後、今上天皇の継承した神器として皇居吹上御殿の剣璽の間に、剣(レプリカ)とともに保管されています。三種の神器の中で唯一、皇居に実物があります

  • 古今和歌集巻第七 賀哥
     題しらず    読人しらず
    わがきみは千世にやちよにさゞれいしのいはほとなりてこけのむすまで

     「君が代」の元歌であるなら、君が代も亦、賀歌(祝歌)である。挽歌説は当たらない。
    君が代はさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで千代にましませ
     このような平叙文の解釈が成立し得るなら、元歌の下三句は「千代(万歳)」の直喩と考えられる。


    「さゞれいし」は、
    信濃なる千曲の河の細石も君し踏みてば玉と拾はむ
    (信濃奈留 知具麻能河伯能 左射礼思母 伎弥之布美弖波 多麻等比呂波牟)の「さざれし」である。

    「さざれ石」はごく普通の「河原(或いは海岸)に転がる波に洗われて丸くなった小石(細石)」のことであり、魂や神が宿ると「玉」となる。

     大昔、人々は我が子の安産と長寿を祈った。安産については、子安石信仰が伝わる。神功皇后が手にした「鎮懐石」も実は子安石である。しかも二個の石であった。
     子安神は、木花開耶姫一柱となっているが、古事記に著名の姉がいる。「石長比売」である。
    本来「石長苔生す比売」「木花開耶姫」の姉妹が子安神であったと推測される。
    君が代の下三句には、子の安産と長寿、子孫繁栄が詠われていることになる。
  • 南九州では二十世紀まで、大歳神に扮した若者が幼子のいる家を回り、お年玉(白い丸餅)を配る風習があったそうだ。雑煮には丸餅が由緒正しい。

     大歳神は白鶴に化身し、稲穂を銜え、各地に稲穂を落とし、稲作の始まりとなった神(穂落としの神)でもある。対馬の伊奈久比神社の同様の伝承から白鶴が古代クヒ(鵠)と呼ばれたこともわかった。福岡県小竹町の亀山神社(大歳社)や宮田町の天照宮のご神紋は、クヒ(白鶴)があしらわれている。『白鳥伝説』と関わる。

     鶴の丸とも呼ばれるが、「玉の鶴」であろう。大歳神の化身である鶴が、玉のように描いてあるからめでたいと考えられる。JALの旧マークもこの伝統を継承する。
    http://blogs.yahoo.co.jp/nqqyx393/27574500.html
  • 。韓 半島の硬玉製勾玉は国内で産地が確認されない点や、 硬玉の出現が日本列島のほうが数百年以上早い点、慶 州市味雛王陵地区古墳群、梁山市夫婦塚、完州郡上雲 里古墳群などの出土品が糸魚川産との自然科学分析の 結果などから、日本列島産と把握する。このことは、 韓半島の硬玉製勾玉が、 3 ・ 4 世紀には日本列島に 近い金海・釜山の金官加耶で出現し、 5 世紀には新羅 地域に集中移入し、 6 世紀を前後して本格的に百済 地域に出現したように、各時期の倭との交易が活発で あった地域に移入されたことからも裏付けられる


    新羅・加耶古墳から出土した硬玉製勾玉は、発掘調 査で確認されたもので現在のところ780点に達する。 特に注目されるのは、新羅古墳における出土量である。 王陵の皇南大塚では161点、王族級墓の金冠塚・天馬 塚・瑞鳳塚ではそれぞれ115点・75点・46点が出土し た。このことから、大陵苑古墳群の硬玉製勾玉の副葬 量を推定すると、401年に没した奈勿王から513年没 した智証王までの王陵が 6 基造営されており、皇南大 塚の例からみて王陵と王妃陵にはそれぞれ100点前後 が副葬されたと推定すれば、約1000点に換算される。 それ以外に王族級墓は約50基とみて、それぞれ50点 前後が副葬されたとして、合計3500点と推算できる。 これにより、新羅に移入された硬玉製勾玉の数は大陵 苑以外の慶州地域と、新羅の地方の副葬品を加えれば 約5000点前後とみても過言ではない。これは日本の 古墳時代出土の硬玉製勾玉の数に匹敵するであろう。 さらに121点の糸魚川産硬玉製勾玉が出土した皇南大 塚北墳では、111点の琉球列島産イモガイ製馬具が出 土しており、このような事例は日本列島でも確認でき ない。特に王陵級の皇南大塚北墳、金冠塚、天馬塚出 土の 6 点の夜光貝製容器はこれを象徴する。 硬玉製勾玉が韓半島産という説は根強いが妥当な論 拠を見出せない。硬玉産地の有無、硬玉製勾玉の出現 時期や変化様相などから、日本列島産であることは明 らかで、むしろこの点に大きな歴史的意義を見出した い。すなわち、新羅に移入されたと推定される数千点 もの最上級の硬玉製勾玉こそが、新羅と日本の友好的 な関係を象徴するものであり、これは倭王権が積極的 に新羅との交流を願ったことを雄弁に語る

    出典
    古 代 韓 半 島 に お ける 硬 玉 製 勾 玉 の 移入 と その歴史的背景
    韓国慶北大学校教授 朴 天秀
  • May 2018 編集されました
    鬼虎川遺跡の「姫川産のヒスイ(翡翠)勾玉」

    「獣形勾玉」あるいは「櫛形勾玉」という。
    1999年に見つかったようである。
      東大阪市鬼虎川遺跡出土(1999年)・獣形勾玉 弥生時代中期 
      長さ4.1cm、厚さ1cm、重さ19.2g

     「ヒスイ勾玉の誕生」(『考古学研究』47-3、2000河村好光)によると、「櫛形勾玉」の出土は17遺跡、18個、その中でヒスイ製は11遺跡、12個があげられている。その後、四条畷市城遺跡(ヒスイ製)など数個が発見されている。

    ほとんどのものがE字形であり、本出土品のように股が3つあるものは珍しい。

     同遺跡からの展示品は他にもたくさんあるが、その中で大きくニュースに取り上げられていたのは、一昨年6月に出土した銅剣鋳型である。

    鬼虎川遺跡 近畿で2例目の銅剣鋳型が出土

     市教委は9日、鬼虎川遺跡で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の銅剣の鋳型が出土したと発表した。
     見つかったのは、剣身中央部に当たる一部分で、長さ8.8cm、幅8cm、高さ5.2cm。砂岩製で、砥石に転用されたため、凹凸部分は削れていたが、銅剣の形の焦げ跡が残っていた。復元すると、銅剣は長さ約40cmで、剣身のくびれ部上端の幅が広い独特の型式だった。
     弥生時代、祭祀用などに盛んに製造された銅剣は、主に九州北部や中国・四国地方に分布。近畿では、鋳型の出土例は田能遺跡(兵庫県尼崎市)に次ぐ2例目となる。畿内でも銅剣も作られていたことが裏付けられたとする。
    [参考:毎日新聞]

    弥生時代の拠点集落跡「鬼虎川(きとらがわ)遺跡」(東大阪市弥生町)で、弥生時代中期後半(紀元前1世紀ごろ)の銅剣の鋳型が出土した。9日発表した市教委によると、鋳型の出土はこれまで九州北部がほとんどで、近畿では2例目。市教委は「銅剣が畿内中心部でも生産されていたことが裏付けられた。当時の祭祀(さいし)を考えるうえで貴重な発見」としている。
    昨年6~11月、国道170号の拡幅に伴い約100平方メートルを調査。鋳型は、弥生時代中期後半の整地土から、土器や石器などの生活道具に交じって出土した。見つかったのは、剣身中央部に当たる一部分で、長さ8.8センチ、幅8センチ、高さ5.2センチ。砂岩製で、砥石(といし)に転用されたため、凹凸部分は削れていたが、銅剣の形の焦げ跡が残っていた。復元すると、銅剣は長さ約40センチで、
    剣身のくびれ部上端の幅が広い独特の型式だった。
    弥生時代、祭祀用などに盛んに製造された銅剣は、主に九州北部や中国・四国地方に分布。近畿では、鋳型の出土例は田能遺跡(兵庫県尼崎市)だけで、畿内中心部での生産の実態ははっきりしなかった。市教委は「畿内でも需要があったため作られたのだろう」としている。【中本泰代】

    鬼虎川遺跡
     現在の東大阪市弥生町・宝町・西石切町・新町一帯に位置し、生駒山の酉麓、標高4~8mの扇状地末端部から沖積平野にかけて広がる、旧石器時代から江戸時代にわたる複合遺跡。
     本遺跡は1966年に弥生土器や組合せ式木棺などが発見されてその存在が明らかとなった。1975年の第1次調査以降、数十回以上の調査が実施されて、縄文時代前期の海食崖(縄文土器、魚・貝類遺体など出土)なども検出されるが、弥生時代の資料が広範囲に見られ、弥生時代の環濠集落として知られる。
  • May 2018 編集されました
    鬼虎川遺跡出土鋳型
    淡路島の慶野出土の銅鐸に似ているので、慶野型と名付けられている。
    今回の復元では加茂岩倉の12号をモデルにしたということだが…

    鬼虎川遺跡から発掘された銅鐸鋳型の破片は、銅鐸の右辺底部です。しかし、この鋳型で鋳造された銅鐸が出土していないので全形を復元することができませんでした。
     その後、島根県加茂岩倉遺跡から39個の大量の銅鐸が発見されました。その中の1つ、12号銅鐸は鬼虎川の鋳型の推定品と大きさ、文様などが同じ特徴があることから、鬼虎川で製作され加茂岩倉に運ばれたと考えられています。
    今回の復元作業は、この加茂岩倉12号銅鐸を参考に全形を復元したそうです。

    弥生時代中期の銅鐸・銅釧・異形青銅器・銅剣・銅戈の鋳型や、鉄鑿・鉄鏃が出土した鬼虎川遺跡
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