天智天皇、天武天皇の時代の倭京とは

July 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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日本書紀の600年代に、白雉、天智、天武期に、倭京の記述が出る。太宰府説まであり、倭京とは何か。遠の朝廷か、朝…

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コメント

  • 天武持統から称徳に至る王朝は、光仁以後忌避されている。

    桓武は王朝の始祖を光仁として、平安朝を新たな王朝であると認識している。 光仁は天智天皇の孫である。平安時代には、王朝の始祖を天智ともしている。

    壬申の乱で皇統が天武系に移って以後、称徳帝が没するまで皇統は天武系で占められた。50代、桓武以降は天武系の復活はない。他戸親王は粛清されて暗殺された。
    ここに天武系の血統は絶えている。

    関係年表
    645  乙巳の変。蘇我入鹿暗殺。孝徳天皇即位。中大兄立太子。
     古人大兄殺害。
     難波遷都。
    646  改新の詔。
    647  皇太子宮焼ける。
    649  蘇我倉山田石川麻呂、謀反を疑われ自殺。
    650  白雉改元。
    651  天皇、難波宮へ移る。
    この年、新羅の使者を放逐する。
    652  難波宮完成。
    653 この年、中大兄、皇祖母、皇后らを連れ飛鳥河辺行宮へ移る。
    654  孝徳天皇難波宮に没。
    655  斉明天皇即位。
    この冬、飛鳥板蓋宮焼け、飛鳥川原宮へ移る。
    656 この年、後飛鳥岡本宮へ移る。両槻宮・吉野宮造営。狂心の渠。
    657  有間皇子、狂人を装う。
    658  天皇、紀伊の湯へいく。有間皇子暗殺。
    660  百済の使い、唐・新羅連合により百済が滅亡したと伝える。
     百済、日本の応援と王子の返還を要請。
     天皇、難波宮へ移り戦争の準備をする。
    661  天皇、瀬戸内海を西へ向かう。
     朝倉橘広庭宮へ移る。
     斉明天皇朝倉宮に没。中大兄称制。
     天皇の殯を飛鳥の川原で行なう。
    662  百済王子を即位させる。
    663  白村江の敗戦。
     日本軍、百済遺民と共に帰国。
    664  唐使、筑紫へ上陸。入京を許さず。
    この年、対馬、壱岐、筑紫に防人。筑紫に水城を築く。
    665  筑紫、長門に築城。
    666 この冬、百済人二千人を東国へ移す。
    667  近江遷都。
     大和、讃岐、対馬に築城。
    668  天智天皇即位。
     新羅使来朝。
    669  藤原鎌足没。
    670  庚午年籍。
     斑鳩寺炎上。
    671  大友皇子太上大臣に。
     大海人皇子、出家して吉野へ。
     二年前に来日していた唐使の意が対馬から大宰府へ伝わる。
     天智天皇近江宮で没。
    672  大海人、吉野から東国へ。壬申の乱。
     大海人、伊勢で天照を遥拝。
     大海人、美濃から近江、大和へ侵攻。大友皇子自殺。
     大海人、伊勢を経て飛鳥の岡本宮へ入る。
    この冬、飛鳥浄御原宮に移る。
    673  天武天皇即位。菟野皇女立后。
    674  対馬から銀産出。
     刑部皇子に石上神宮の神宝を磨かせる。神宮の宝物を諸氏に返還。
    675 この後、様々な改革を断行する。

    661年の九州遠征
    斉明女帝以下皇族全員が九州へ下向している。その筑紫朝倉宮に老齢の女帝は没する。

    女帝没後、軍隊を残して皇族は大和へ引き上げる。その間に決定的な敗戦を喫す。
    667年、近江遷都。翌年天智即位。669年、藤原鎌足没。

    大海人が政治の表舞台に立つのは天智の没する671年である
  • 天武天皇13年(684)に八色〔やくさ〕の姓〔かばね〕が制定されています。これは豪族がそれ以前に氏族ごとに名乗っていた臣〔おみ〕、連〔むらじ〕などの姓をいっせいに改姓させ、新しい氏族ごとの身分秩序に再編させるものでした。かつての臣、連などを称していた有力豪族よりも天皇の親族である皇族を第一位の序列とし、公の姓を名乗っていた王族のなかから抜擢〔ばってき〕した者に真人〔まひと〕の姓を与えたのです。このとき真人姓を与えられた13氏のなかに、猪名真人(威奈真人)、丹比真人がいます。かつての丹比公・偉那公です。継体天皇の男系子孫が、天武天皇の王統に準じた身分であることが公認されたのです。尼崎地域は6世紀に入る頃には、継体天皇の王権ゆかりの王族集住地として后妃一族が勢力を扶植し、あるいは王家の所領となっていったのです。摂津東部の淀川流域、現在の高槻市に今城塚〔いましろづか〕古墳(継体天皇の大王陵であることが有力視されている)が存在するのも、故なしとしないのです
  • 興福寺縁起によれば、「不比等の母は鏡王女で、天智に召されのち鎌足の正妻となる」とあります。また、尊卑分脈(南北朝時代に書かれた系譜)の不比等伝に、「公避くる所の事有り(出生の公開に憚られるところがあり)」とある。
  • たぶれごころのみぞ 狂心の渠

    彼女が理想とする王城の地は石敷きで荘厳された神仙郷だった。王宮の主要な建物の周囲は川原石で敷き詰められ、宮の周辺には亀石など様々な石像物が置かれた。飛鳥川のほとりにも石を使った広大な庭園を築かせ、池のほとりに須弥山や奇妙な石人の噴水施設を置いた。当時は吉野もすでに聖なる地-神仙郷とされ,斉明天皇はここに離宮を建てさせている。
    酒舟石がある岡の中腹の石垣遺構

    さらに、女帝は宮の東に位置する小山も二重の石垣で荘厳化を図ることを考えた。水工(みずのたくみ)を使って香具山の西から石上山(いそのかみやま)まで溝を掘らせると、舟二百隻に石上山の石を積んで運ばせた。当時の人々は、斉明天皇を「興事(おこしつくること)を好む女帝」と揶揄し、石材を運ぶために築かせた溝を「狂心の渠」(たぶれごころのみぞ)と呼んだ。溝の掘削に動員した人夫の数は三万余り、二重の石垣作りには延べ七万余りが動員されたと『日本書紀』は伝えている。明日香村の「酒船石遺跡」は“宮の東の山の石垣”の跡ではないかといわれている。
  • 「朝鮮式山城」の名称は、天智天皇2年(663年)8月の白村江の戦いでの倭軍敗北後に、これらの城が百済将軍の指導の下で築城されたことに基づく
    『日本書紀』では、天智天皇4年(665年)8月に百済将軍の答㶱春初が長門に城を、憶礼福留・四比福夫らが筑紫に大野城・椽城を築城したと見える[2]。近江大津宮遷都や水城築城と同様に、唐・新羅からの侵攻を意識した施設であった

    文献では高安城・茨城・常城・長門城・屋嶋城・大野城・基肄城(椽城)・鞠智城・金田城・三野城・稲積城の計11ヶ所が記され、これらが狭義の朝鮮式山城とされているが、うち長門・茨・常・三野・稲積の5ヶ所は所在地が明らかでない[所在地が明らかな城では、遺構として石塁・土塁・建物跡などが見られる

    神籠石式山城
    山城説と霊域説が対立したままであったが、古代の重要な遺跡であるのは間違いないので、昭和20年までに雷山・石城山・鹿毛馬(がげのうま)の神籠石が、昭和20年代には御所ケ谷・高良山・女山(ぞやま)・帯隈山(おぶくやま)の神籠石が史跡に指定された。その後、おつぼ山・杷木(はき)が史跡に指定されている

    佐賀県武雄市橘町小野原 史跡(国指定)
    帯隈山神籠石 おぶくまやま 佐賀県佐賀市久保泉町川久保町・神埼町西郷 史跡(国指定)
    女山神籠石 ぞやま 福岡県みやま市瀬高町大草字女山 史跡(国指定)
    高良山神籠石 こうらさん 福岡県久留米市御井町高良山 史跡(国指定)
    雷山神籠石 らいざん 福岡県糸島市雷山 史跡(国指定)
    鹿毛馬神籠石 かけのうま 福岡県飯塚市鹿毛馬 史跡(国指定)
    御所ヶ谷神籠石 ごしょがたに 福岡県行橋市津積・みやこ町勝山大久保・犀川木山 史跡(国指定)
    杷木神籠石 はき 福岡県朝倉市林田・穂坂 史跡(国指定)
    石城山神籠石 いわきさん 山口県光市石城 史跡(国指定)
    鬼城山城(鬼ノ城) おにのき(きのじょう) 岡山県総社市奥坂・黒尾 史跡(国指定)
    大迴小迴山城 おおめぐり・こめぐりやまじょう 岡山県岡山市草ヶ部 史跡(国指定)
    永納山城 えいのうさんじょう 愛媛県西条市河原津 史跡(国指定)
    讃岐城山城 さぬききやまのき 香川県坂出市西庄町・府中町・川津町、飯山町 史跡(国指定)
    播磨城山城 はりまきやまのき 兵庫県たつの市新宮町馬立・揖西町中垣内
    唐原山城 とうばる(たうばる) 福岡県築上郡上毛町下唐原・土佐井 史跡(国指定)
    阿志岐城(旧名:宮地岳古代山城) あしき 福岡県筑紫野市阿志岐
  • 九州の神籠石 10 基と瀬戸内の神籠石 6 基は全部、『日本書紀』 『続日本紀』には載っていません。


    金田城、大野城、基肄城、屋島城、高安城、鞠智城の城には土留めの石がない。土留めかどうかわからないけ れども、神籠石の場合は、石が見えるように版築の土塁をつくっ た。要するに神籠石を見せているんですよ。だから「見せる」の が目的だったかもしれません。版築には土留めは要らないと思う。 垂直でももつわけですから。だから「示威」のためだったかも知 れません。
  • 村上水軍日本中世の瀬戸内海で活動した水軍というより、海賊衆です。その勢力は瀬戸内海を中心とした海で、大まかに能島(のしま)村上家、来島(くるしま)村上家、因島(いんのしま)村上家の三家へ分かれていました。船は790余騎といわれ、もっとも勢力が強大な『日本最大の海賊』でした。

    彼らを味方につけたのが毛利元就です。この前、お伝えした日本三大奇襲『厳島の戦い』で、毛利元就は彼らを味方につけ、大勝利を収めました。

    村上水軍は後に、織田信長にも多くの損害を与え(大阪:石山本願寺との戦い)、歴史舞台で名を上げるようになります。その後、信長が死んだ後、豊臣秀吉が日本を統一し、秀吉により『海賊禁止令』が出され彼らは毛利家の正式な家臣団となります。

    豊臣政権下で毛利家は『朝鮮出兵』へと彼らは繰り出されるようになります。九鬼良隆と共に朝鮮に出かけるのですが、李舜臣ひきいる水軍に大敗します。
  • November 2017 編集されました
    佐々木盛綱
      ┃
     信實 安元二年生
      ┃
     時秀 正治元年正月生
      ┃
    東郷胤時 嘉禎元年九月生
      ┃
    飽浦胤泰 

     飽浦高信  

    備前国児島郡飽浦を本拠とした豪族。細川定禅の家臣として足利尊氏に味方して活動。備中国征討や京都での戦い等で功を挙げる。

    お才の局を巡る私情から高師秋との確執を起こし、延元4年/暦応2年(1339年)頃、南朝方に寝返った。後に細川師氏の家臣となり、小豆島肥土荘を得た。正平17年/康安2年/貞治元年(1362年)の細川清氏と細川頼之の戦いである白峰合戦に参加した以降の消息は不明である。

    飽浦 信胤(あくら のぶたね)は、南北朝時代の武将。別名 佐々木信胤、佐々木三郎左衛門、佐々木薩摩

    氏族 佐々木氏流飽浦氏
    父母 父:飽浦胤泰
    子 顕信?、竹成御前
  • 南北朝時代の貞和三年(1347)、それまで南朝方として小豆島を領有していた備前国児島の佐々木信胤が、北朝方である讃岐国守護の細川氏に攻められて降伏し、小豆島が細川領となったことが事の起こりのようである。しかし、細川領となってからも、やはり備前国小豆島と呼ばれていたらしい。豊臣時代や江戸時代前半は天領となったので、その所属は必ずしも明確ではなく、特に、江戸時代中期には備前国倉敷代官所の所管になっていた。宝永五年(1708)頃、幕府はこの天領を一時的に高松藩の預かりにする。小豆島が明らかに讃岐国小豆島と称されるようになったのは、この時のようである

    瀬戸内の海には、東半分に小豆島・直島諸島があり、西半分には塩飽諸島がある。この西半分の塩飽諸島の方は大部分が香川県である。しかし古代、ここは中世を通じて、芸予の海の村上水軍と並び称せられた塩飽水軍の根拠地で、政治的独立性が極めて強く、江戸時代には何藩にも属しない自治制度が行われていたほどである。しかし、平安時代末期には近衛家領の荘園として「讃岐国塩飽荘」と見えるので、少なくとも、この頃はすでに、讃岐国に属していたようである
  • 唐との関係は、665 年(唐・隣徳 2)8 月の熊津における唐勅使劉仁願の立会で取り交わされた熊津都督扶余隆(前 百済太子)と新羅文武王との和親の盟約(『三国史記』新羅本紀・文武王 5 年条。『冊府元亀』外臣部・盟誓の高宗 隣徳2年8月条、『旧唐書』卷199上・ 列伝149・百済伝)が行われ、唐による百済領保全が図られた。
    倭国は、天智のもとで、唐が新羅の百済領進出を防ぐために倭国との戦後処理による関係修復を図っているこ とを了解のうえで、新羅と唐との軍事的摩擦、唐・新羅・高句麗の紛争による軍事的危機の波及を想定して、築 城による防御体制構築を並行して進めていたと考えられる。
    『日本書紀』天智天皇 7 年(668)10 月条に、「大唐大将軍英公、打滅高麗」と高句麗滅亡の報が記されている。 しかし、その後も、高句麗遺民の来航は度々なされている。
    倭国は、辺遠の地であるが故に結果として唐の侵攻を受けることなく、唐は帝国秩序の回復のために倭国との 武力圧力を背景にした修好を進めたため、また新羅も唐と倭国との二正面作戦をとることを択ばず和親を求めて きたので、白村江の戦い以後の朝鮮半島の動乱にも、本土侵攻を受けることなく生き延びることができ、律令国 家の完成に突き進むことができた。白村江の戦いの直後から倭国との接触を求めていた唐、唐との対抗上、倭国 との関係修復を求めていた新羅にとっても、北九州から瀬戸内海に急速に設置された城塞群は、軍事行動による 倭国征服が容易なことではないことを示すことができたかも知れない。
  • 天皇号

    考古資料では野中寺弥勒 菩薩像銘文に「詣中宮天皇」及び「丙寅年(六六六年、天智五年)」、ま た船王後墓誌に「治天下天皇」及び「戊辰年(六六八年、天智七年)と ある。また、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から「丁丑年(六七七年、天 武五年)」と書かれた木簡と一緒に「天皇聚露」と書かれた木簡が発見 されている。それに先立って、唐の高宗の上元元年(六七四年)に、君 主の称号を「皇帝」から「天皇」に替えたことが『舊唐書』巻五高宗下 に書かれている。日本の天皇号は、この一連の史実の頃に成立したもの と思われる。
  •  日本の天皇号の成立年代については様々な説がある。

    戦前は、津田左右吉氏の推古朝説が通説とされていた。現在では東野治之氏等の天武・持統朝説に支持が集まっているという。
     推古朝説は元興寺伽藍縁起并流紀資財帳の記す丈六仏光背銘(609)や塔露盤銘(656)、推古十五年(607)の作とする法隆寺薬師像光背銘、推古三十年(622)の作とする天寿国繍帳などに天皇という表記が見られることを根拠にする。

    天武・持統朝説は仏像様式の違いや、天寿国繍帳発見の経緯などから、その製作年代の信憑性に疑義をさしはさんだ。すべてを後世の作、潤飾とみる。唐の高宗は道教に傾斜し、上元元年(674)、称号を「天皇」に代えている。天武天皇の定めた八色の姓(684)の最高位が、道教で仙人を意味する真人であり、道師という第五位の姓もある。諡号は天渟中原瀛真人天皇で、真人が含まれているなど、天武天皇にも道教受容の形跡が濃い。その一環として天皇位も模倣されたと考えるのである。

    3、天武朝説に欠けた視点
    高宗は白村江の戦い(663)などで日本を圧迫した帝である。天智年間に二度、中国へ遣使しているが、それは敗戦処理交渉のためと思われる。
     天智天皇八年(669)に、「この年…大唐は郭務悰等二千余人を遣した。」という記述があり、十年(671)十一月十日には、「使者の郭務悰等六百人と送使、沙宅孫登等一千四百人、合わせて二千人が四十七隻の船で比知島まで来ているが、数が多く、驚かすといけないので、先に通知する。」という予告を受け取った。連絡役は、沙門道久、筑紫君薩野馬(白村江の戦い時の捕虜)等の四人で、唐から来たと記されているから、ほぼ二年近くをかけて日本の目前まで来たようである(天智紀)。
  •  天武紀には、新羅、高麗、耽羅との交流は盛んに記されているが、唐との交流の記述はない。
    高宗は新羅を保護し、百済を滅ぼした(660)。白村江の戦い(663)のあと、日本に使者を派遣するたびに様々な圧力を加えていたようである。668年には高句麗が滅ぼされ、最終的には唐がこちらへ向かってくるかもしれないという恐怖におびやかされていた。高宗の称号「天皇」をありがたがって模倣するような心理、環境ではなかったはずである。枕草子も「唐土の帝、この国の帝を、いかで謀りてこの国討ちとらんとて、つねにこころみごとをし云々」と記す。
  • 斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
    高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
    天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、豊璋を百済に送りました。
    百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
  • 斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
    3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
    5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。
  • tokyoblogは言いました:

    斉明7年1月14日。御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊まる。
    3月25日に御船、環りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居す。天皇、これを改めて名を長津とのたまう。(略…ここに東朝が出てくる)
    5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮に遷って居す。

    磐瀬宮
    、「磐瀬宮」は遠賀川流域の中間市磐瀬に伝承がありました。
    現地では史跡としての認識がなく、JRの線路のために削られたことが判明しました。

    遠賀水軍といえば熊鰐
    「推古天皇の御代、新羅国が任那に侵入したため、(略)神功皇后の故事に倣って洞(くき)の海より入港し軍団を整えていたが(略)」
    (拙著『神功皇后伝承を歩く 下巻 93豊山八幡神社』より)
    豊山八幡神社と中宿神社の宮司は兄弟で、熊鰐の末裔と聞きました。斉明天皇の少し前、推古天皇の時代にも、新羅と戦うための軍団を
    洞海湾で整えていたのです。



    長津宮
    長津宮に関しての記述は真鍋大覚の本にあります。
    昭和57年2月吉日の日付で那珂川町長の大久保福義氏が「発刊にあたって」で「那珂川には上古は神功皇后、下って皇極・斉明天皇、並びに
    後の天武天皇、持統天皇、そして安徳天皇の行宮がありました。」
    と書いています。
    文中の「皇極・斉明天皇、並びに後の天武天皇、持統天皇」の行宮が長津宮を指しています。
    著者の真鍋大覚自身もそれは那珂川町の「梶原」にあったと記述しています。



    三つの宮
    『日本書紀』に書かれている行宮名の変更の理由が不明である事、中間市の「磐瀬」(磐瀬宮)と那珂川町の「梶原」(長津宮)。


    これに加えて「朝倉」に「橘広庭宮」を建てた

    筑紫入りした斉明天皇一行は神功皇后の故事に倣い、遠賀川流域で熊鰐の末裔、岡の県主の率いる遠賀水軍の軍備の謁見と祭祀をした。
    その時の行宮が中間市磐瀬である。

    那珂川町の長津宮の代わりに、朝倉にあった安曇族の聖地に行宮に仕立てられた。

    朝倉で安曇族は倭王朝の副都的な施設があったのを再編し、東朝の百官百僚の受け入れ態勢を整えるために、
    マテラ山の木を切って天皇の住居建設が行った。
    (東朝とは『日本書紀』によると、斉明天皇の朝廷を指す。)
    建設が終わると斉明天皇は朝倉入りをする。
    そして、天皇は唐・新羅軍と戦うために神功皇后の旧跡を回って戦勝祈願をするが、そのうちに病になってしまった。
  • 比定地

    朝倉橘広庭宮の所在地

    現在の福岡県朝倉市とされるが、具体的な場所は特定されていない。朝倉市大字須川には奈良時代の寺院跡である長安寺廃寺跡が残っており「橘廣庭宮之蹟」の碑が建てられている。山田の恵蘇八幡宮にも「木の丸御所の地」の碑文がある。

    高知県高知市朝倉丙にある朝倉神社の社伝では、朝倉橘広庭宮は同社にあたるとしている。また同社では、社殿背後に立つ「赤鬼山」が『日本書紀』に記述のある「鬼が天皇の喪の儀式を覗いていた山」であると伝えられる。
  • 五月の乙未朔癸卯(九日)に、(斉明)天皇、 朝倉橘広庭宮 に遷りて 居 ます。
    是の時に、朝 倉 社の木を断り除いて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊てり。亦、宮の中に鬼火見れぬ。
    是に由りて、大舎人及び諸の近く侍、病みて死れる者衆し。秋七月の甲午の朔丁巳(二十四日)に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。

    八月(はつき)甲子(きのえね)朔(ついたちのひ) 皇太子(ひつぎのみこ)奉徙(ゐまつる)天皇喪(みも) 還至磐瀨宮(いはせのみや) 是夕(よひ)於朝倉山(あさくらのやま)上 有鬼 着(きる)大笠(おほかさ) 臨視喪儀(よそほひ) 衆(ひとびと)皆嗟怪(あやしぶ) 

    ここで疑問なのが、斉明天皇が崩御した年齢が当時としてはかなりの長寿の68歳ということなので亡くなったとしても驚きはしないのですが、なぜ態々死因に鬼や祟りの存在を絡ませたのか
  • 06/13編集されました
    唐と結んだ新羅が百済を攻めた。百済が日本に救援を求め、日本は援兵を朝鮮半島へ送ったが惨敗、日本兵は敗れた百済人を亡命者として連れ帰国した。その後、唐・新羅連合軍の侵攻に備え、九州と長門に城を築いたという。下関の調査では、鬼ケ城山及び狩音山の3.5kmの範囲に石塁があり、鬼ヶ城の頂上は削平の跡が見られ、最高所に岩を集め埋もれているという。

    長門城の具体的な場所が日本書紀に書かれていない理由は、当然ですが防衛機密であるためです。

    日本書紀に6世紀に新羅の国使を「穴門館」に立ち寄らせたが、これ以外、博多の筑紫館、鴻臚館を使用している。7世紀、白村江に敗れ北九州などに防人軍団を作ったが、9世紀中頃、唐の国力低下に合わせて最後の防人軍団の豊浦団を長府に置き日本西門鎮守八幡宮を赤間関に建立したと言う

    彦島八幡宮のある地は関門海峡と響灘の両方の守りに重要であり、仲哀天皇、神功皇后時代からの防衛基地であり、さらに真北の北浦海岸の最北端の島戸に東門鎮護、住吉八幡宮があった。

    豊浦町史編纂委員会が鬼ヶ城に長門城の調査団として現地調査を行い、小田富士雄先生(福岡大名誉教授)も踏査に登られたが、未だ結論は出ていない。委員会の一筆者は鬼ヶ城(標高六二〇メートル)から狩音山(五七七メートル)の間の西側(海側)の谷と尾根を全て歩き、中腹の谷筋の海抜三〇〇から四〇〇メートル付近に計十二基の石組を確認した。これは石垣ではなく、石塁である。従って、長門城ではなく、元寇、弘安の役後の第三次の元寇に備えた防塁で、山城になる、、と言う報告をしている。しかし、石垣である必要は無い。例えば、大野城は四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は石塁を築き、城内には倉庫などが建てられた。このような構造を持った山城は、百済の山城がモデルとなっているので朝鮮式山城と呼ばれている
  • 06/13編集されました
    長門城の候補の鬼ケ城

    下関駅から山陰線で吉見駅の次に梅ケ峠(ウメガトウ)駅があり、その東に鬼ケ城山(オニガジョウサン、620m)、西に二つ山を超えて吉母、蓋井島がある。 祖父から「あの山にゃあ、昔、鬼がおったほいね」と聞いた。7世紀頃、この鬼ケ城山の中腹に長門城(ナガトノキ)が築かれたのではないかと推定され、確かに現在も石塁が残っている。

    日本書紀には天智天皇4年(665)と天智天皇9年(670)、長門国に城を築いたという記録があり、城は2ケ所に築かれた。比定候補地は10カ所位あるが、私見としては関門海峡を見下ろす下関市の長府と壇之浦の間の唐櫃山(カラウトヤマ)141mと、響灘側の鬼ケ城山(隣りの狩音山を含む)が最もらしい。特に、鬼ケ城山は本州最西端地点の吉母に近く、西方の響灘に向かい蓋井島、沖ノ島、対馬があり、神功皇后の三韓征伐時の帰還ルートになっている


    蓋井島は新羅の塵輪に占領され仲哀天皇に追い払われ、また蓋井島、吉母、吉見には神功皇后の三韓征伐からの帰還が既にあり、室津、黒井には後々の元寇で元軍上陸が起こった。さらに鬼ケ城山頂は響灘の室津、黒井、川棚、吉母、吉見の側の監視が出来、周防灘側の四王司山頂、南の龍王山頂が見える。龍王山から響灘の吉母、吉見、安岡の側が監視出来、さらに狼煙通信により中継して火の見山、火の山、霊鷲山、唐櫃山、長府、赤間関の間で連絡が出来る。防人の軍団、豊浦団との連携が可能である。

    蓋井島の伝承
    島の名の由来

    (その1)

    神功皇后がこの島に立ち寄ったときに、この島の水をほめ、その後はふたでおおったため

    (その2)

    昔、島内に清水を湛えた池があり、住吉神社の神事に御神水として用いていたが、汲み終わった後は固くふたをしてだれも池の水を取ることができないようにしていたため

    神功皇后の伝説にちなむ地名

    神功皇后が宗像三女神に先勝祈願した後、帰りにこの島を見つけたことから~「見付の瀬」

    皇后が蹴鞠遊びをされたことから~「鞠の庭」

    その蹴鞠の最中に日が暮れたので、山で月を乞われたことから~「乞月山」

    皇后が宴を催されたことから~「幕の紋」、「酒の瀬」
  • 藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。

    7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。『日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。 しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述が有るのでどちらも使われていたと思われる(wikiより)。

    長門国の名称は665年が初見と言うが、以前、継体天皇が527年の筑紫君磐井の乱で長門国に言及している。
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