埼玉の稲荷山鉄剣の謎

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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「埼玉稲荷山古墳」出土鉄剣について (表文) 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意冨比[土危]其児多加利足尼其児名弖…

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  • 日本書紀
    また一に云うとして、
    五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上に坐(いま)して、河上という名の鍛(冶)を呼び太刀一千口を作らしむ。後略・・・。

     また『古事記』は次のように記す。、
    印色入日子命(いにしきいりひこのみこと)・・・中略・・・鳥取の河上の宮に坐て、横刀一千口を作るを令す。是を石上神宮に奉納。即ちその宮に坐して川上の部(とも)を定めるなり。

     そして『勘注系図』は古本系云うとして次のような伝承を記す。
    一に云う。倭宿禰、またの名大熊野命、またの名大振熊、またの名川上眞若命、またの名倭得玉彦命(やまとえたまのみこと)、五十瓊敷入彦の御子、大足彦 (おおたらしひこ)天皇(十二代景行)の御宇、茅淳菟砥川上宮に坐して、宝剣を作るを令す。是を石上神宮に献じ、以って奉仕いたす。川上部の祖なり伝伝。
    ここで登場する、川上眞若命は川上麻須で、久美浜湾の傍にそびえる甲山に熊野神社を祭った人物である。したがって大熊野、大振熊とも呼ばれたのであろう。その川上眞若(稚)が宝剣を作ったという伝承である。

     『記紀』と『勘注系図』の記述は若干異なる。前者が垂仁の時代で、後者は景行の時代とする。
    若干の違いはあるが、後に川上部と呼ばれる者たちが、垂仁の皇子、五十瓊敷命の命を受けて剣を作ったという伝承は一致する。

     書記の本文は裸伴(あかはだがとも)を、剣の名とするが、鉄を加工するために灼熱の中、裸で作業する事から生まれた、剣を作った集団の名と推測する。
    一千口の剣とは少ない数ではない。『記紀』と『勘注系図』の記述から、丹後の豪族が大和王権の鉄の入手や加工に深く関わっていた事が読み取れる。

     一方近年の発掘によって丹後が弥生中後期を通じ、有数の鉄保有地であった事が知られるようになった。
    京丹後市弥栄町奈具丘遺跡からは、鉄の交易品となる水晶玉を作る玉造工房跡や、鉄製品を作った際の切れ端が出土している。
    奈具丘遺跡は弥生中期後半の遺跡で、この地域が早くから鉄素材の入手と加工に関わっていた事を物語る。
    また京都府与謝郡岩滝町、大風呂南1号墳墓は11本の鉄刀を副葬していた。墳墓の築造はおおよそ西暦200年前後で、同時代の鉄器の副葬量としては最大数を誇る。
     これらの発掘事例は、丹後の豪族が大和王権の鉄資源の入手と加工を担っていた、という私の説を裏付ける。
  • 江田舟山古墳太刀銘文

    「治天下獲■■■鹵大王世、奉■典曹人名无■弖。八月中、用大錡釜并
     四尺廷刀、八十練六十■三寸上好■。服此刀者長寿子孫注々得三恩也。不
     失其所統。作刀者名伊太■、書者張安也。」


    銘文は、熊本県玉名郡菊水町にて発掘調査された江田船山古墳より出土した太刀に刻まれており、約75文字からなる銀象嵌の銘を持つ。

    1、船山古墳は全長50mに満たない小形の前方後円墳
    2、墳丘に埋葬された横口式家石棺内から、鏡6面をはじめとして、冠帽、沓、耳飾り、玉、馬具、武器、甲冑などの豪華な金銅製品が、一度に出土した
    3、前述の銘文が刻まれた
     太刀の出土

    『獲■■■鹵大王』とはいったい誰であろうか。
    これだけの資料では、今ひとつはっきり見えてこないのであるが、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘文により、大きな手がかりが与えられた。

    この二つの銘文を対比させると、船山古墳の『獲■■■鹵大王』の部分は、どうやら『獲加多支鹵大王』と刻まれていたことが判ってきた。

    船山古墳出土の太刀銘文を書き下すと次のようになる。

    「『獲加多支鹵大王』の統治する御世、大王に典曹人の職を以て事えていた『无利弖』は、八月に四尺の刀を大錡釜并を用いて、六十■三寸の良い刀に鍛造した。この刀を所有する者は長寿にて子孫次々に三恩を得る。自治できる土地を失うことはない。刀の製造者は『伊太加』と言い、銘文を刻んだ者は『張安』である。」


    六十■三寸の部分は、長さの単位と判断していただいて間違いない。

    稲荷山古墳より出土の鉄剣銘文。

    これは115文字からなる銘文であり、冒頭の辛亥年は471年と比定されている。
    またその前半部分は、この鉄剣の持ち主であろう「乎獲居臣」(おわけのおみ、以下オワケ)の上祖はオホヒコであり、オホヒコから8代数えた者がオワケであると説明しているものなので省略している。

    「辛亥年七月中記・・・世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」

    「我が家系は、代々、杖刀人の首として今まで大王に仕えてきた。そして、獲加多支鹵大王の寺が斯鬼宮にあったときに、私は天下をたすけ治めた。以下略」


      江田船山古墳・稲荷山古墳の古墳から出土した銘文から判ることは、斯鬼宮に「獲加多支鹵大王」が在位中には、少なくとも熊本から埼玉地方までの豪族らは、積極的に「獲加多支鹵大王」に従う形がつくられていた、ということであろう。その年代は辛亥年であり471年頃のことである。

    斯鬼宮とは磯城宮であり、「獲加多支鹵大王」はワカタケル大王と読まれている。
    通説では、ワカタケル大王を「大泊瀬幼武天皇」(おおはつせわかたけ天皇)、すなわち雄略天皇に比定している。但し、雄略は泊瀬の朝倉宮で即位しており磯城宮ではない。

    このことがすぐに、ワカタケル大王=雄略を否定するものではないだろう。

    泊瀬(初瀬)も磯城も現在の奈良県桜井市であり、当時は広く磯城地方であった可能性は大きい。

    また『日本書紀』には、雄略が葛城山に狩りに行き、「葛城一言主神」に出会った折り、「私は、幼武尊(わかたけのみこと)である」と名乗っていることを記述しており、本名は「幼武」であったことがわかる。
    さらに、『古事記』における雄略の干支崩御年から比定できる年代は、489年であり、『日本書紀』からみても479年である。これらにより稲荷山古墳の鉄剣銘文にある471年は、在位中と考えることに何ら無理はない。

      ワカタケル大王=雄略説である。
  • 倭の五王

      413年 倭王「讃」、「東晋」に遣使
      421年 倭王「讃」、「宋」に遣使
      425年 倭王「讃」、「宋」に遣使
      430年 倭王「?」、「宋」に遣使
      438年 倭王「弥(珍)」、「宋」に遣使
      443年 倭王「済」、「宋」に遣使
      451年 倭王「済」、「宋」に遣使
      460年 倭国、 「宋」に遣使
      462年 倭王世子「興」、「宋」に遣使
      477年 倭国、「宋」に遣使
      478年 倭王「武」、「宋」に遣使


      上記は、前章で掲載した『宋書』等に記載された、「倭の五王」の朝貢
     の記録である。

      このうち、「478年 倭王『武』、『宋』に遣使」が問題なのである
     が、『宋書倭国伝』に記載されているこの部分の全文を掲げてみると、


    「興死弟武立自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大将軍倭国王順帝昇明二年遣使上表」


    現代語訳


    「興が死んで弟の武が立ち、みずから使持節都督倭・百済・新羅・任那加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称した。順帝の昇明年(478)、使を遣わして上表文をたてまつった。」
  • 干支は60年周期

    辛亥年は411年や531年にも比定できる
     が、雄略の御代ではなくなってしまう。

    『獲加多支鹵大王』=雄略=倭王「武」の図式を支持している歴史学者は多くいるが、辛亥年の説明はうまくされていない。

    これをどのように説明するか
    キーマンは世子「興」こと安康天皇である。
    『日本書紀』によれば、安康が即位して「眉輪王」に殺されるまでの在位は、わずかに三年である。ここにきて『日本書紀』の在位年を信じるのもどうかと思うが、世子「興」の遣使した462年を、「興」の即位した年であったとしたら、三年後の465年あるいは466年には安康は殺され、雄略が立つことが数字の上では可能になる。

    従って、鉄剣銘文にある471年の『獲加多支鹵大王』は、雄略であり倭王「武」であったことに矛盾はなくなる

    ちょっと苦しい!
  • 天平勝宝2年(750)  田辺史から上毛野公と改姓した。

    「田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖、思須美(しすみ)、和徳(わとく)の両人、大鷦鷯天皇(おおさざき-、仁徳天皇)御宇の年、百済国より化来す。

    しかして言うに、おのれらの祖、これ貴国将軍上野公竹合(たかはせ)なりといえり。天皇、矜憐して彼の族に混ず。しかして、この書に諸蕃人(= 渡来人)というなり。」
    ※田辺史→上毛野公
    ※池原朝臣→住吉朝臣

    タカハセ???
    鉄剣のタカハセワケとの関連は、
    大彦の四世は
  • 赤丸城ケ平山の古墳群出土の「頭椎の太刀」は兵庫県村岡町(兵庫県北部の但馬地方 )の出土品と形状が同じである。
    「頭椎の太刀 カブツチノタチ」については兵庫県村岡町教育委員会の調査に拠る。
    →三方郡村岡町文堂古墳出土 (七世紀前半: 場所は鳥取市の南東部)、村岡町はその昔、黒野村と呼び、橘氏の一族の黒野氏が領したとされ、域内に延喜式内社黒野神社が在る。黒野神は「天津彦火能邇邇芸命」を祀る。 ⇒ www.eonet.ne.jp/~mizui/tati.htm に説明文が在る。

    この太刀は西暦100年頃のものと推定され、 頭椎の太刀は、「天忍日命・天津久米命」の二人が天孫降臨の時に腰につけて仕えたと記されている。「天忍日命」は「大伴氏の祖」で、「天津久米命」は「久米氏の祖」で、両者は大和朝廷の軍事を担当した。「続日本紀」では、「天忍日命」は「大伴氏の祖先神」で、ニニギノミコトを先導したとされる。『古語拾遺』では、「高皇産霊神の娘・栲幡千千姫の子で、大伴宿禰の祖。また、太玉命、瓊瓊杵尊と同母兄弟」とある。p「赤丸村浅井神社の祭神」は「高皇産霊神 タカミウブスナノカミ」 であり、その創建の由緒に出てくる元正天皇の二宮「石川朝臣広成」は大伴家持と共に恭仁京で内舎人として聖武天皇に仕えていた事から、赤丸城ケ平古墳群の被葬者は大伴氏の一人であろうか? 大伴氏は大和朝廷で軍事を統轄した氏族であり、北陸を始め、東北の蝦夷対策の責任者で在った。この「頭椎の太刀」は豪華な金・銀の装飾があり、軍事の指揮者か、地域の統治に当たった「指揮者の刀」と推定できる。
    又、この「頭椎の太刀」が高貴な人の指揮者の軍刀であるとすれば、赤丸城ケ平古墳近くに「親王塚」とされる史跡が在り、城ケ平横穴古墳群に大和朝廷の指揮者が埋葬されていた可能性が高まる。しかし、この場所は横穴古墳のある傾斜地の下にあり、その場所には現在、大杉が植えられて、鎌倉、室町期に多く造られた小さい五輪塔が祀られている。この五輪塔は小矢部市の義経が宿泊したと伝わる「五位堂」に多く祀られていたものとソックリである。
    この古い塚は由緒がはっきりせず、古来、「親王塚」と言い伝えて保存されてきた。「肯搆泉達録」に拠れば、赤丸浅井神社を創建され、浅井城に居城されたと伝わる「元正天皇二宮=石川朝臣広成」は、後に「高円朝臣広世」と賜姓され、この後も生存している。この塚はその「元正天皇の二宮」の墓ではないかとする意見もある。
    しかし、この「親王塚」は地元では「赤丸浅井城に在城された後醍醐天皇皇子の宗良親王の塚」と言い伝えられてきた。この五輪塔が造られた時代から推測されたものだろう。


    古い時代に赤丸浅井神社前で小矢部川と庄川が合流して、その合流地点には「阿古ケ淵」と言う広大な淵となり、赤丸浅井神社にはびわ湖に祀られている「河の江の神、八河江比売神」が祀られて、この淵は「阿古ケ淵」と呼ばれて水神の龍が住むと恐れられたらしく、この地には「龍神伝説」も残る。又、「赤丸浅井神社」の神霊はこの「阿古ケ淵」から上がったと伝えられ、創建以来1700年余りの間、奥の院に秘匿され、神官も開ける事は赦されないと云う。この「阿古ケ淵」に因んで、この辺りには現在も「阿古下」と言う一族が残っている。

    「赤丸浅井神社」が「大伴氏の祖先神」の祭神「高皇産霊神」を祀っている所から、大伴氏との何等かの繋がりが推測できる。
    「石川朝臣広成」は「内舎人」として「恭仁京」に赴任した時に歌った歌が「万葉集」に掲載されており、この時に大伴家持も「内舎人」として「恭仁京」にいたらしい。
    「高皇産霊神」は皇室の守神として重要な神でも在った事から、この時の二人の関係から、「大伴家持」が「国司」として越中国国府(高岡市伏木)に赴任していた時に、石川朝臣広成は「赤丸浅井神社」を再建して、古来、祀られていた「八河江比売神」と併せて「高皇産霊神」を祭神とした可能性が高い。大伴家持の後にも石川一族が越中国司として着任しており、位置的にも赤丸村は越中国府の少し小矢部川上流に当たり、国府と赤丸村は密接だったと考えられる。赤丸浅井神社の神域の「國吉名」には「須加山」があり、大伴家持はこの「須加山」を越えて可愛がっていた鷹が飛び去った事を歌っている。
    又、「二上射水神社」の祭神は男神の「ニニギノミコト」である。赤丸浅井神社には「八河江比売神」、「高皇産霊神」の二神を主神として、この妻の「コノハナサクヤヒメ」も祀られている。すぐ近くの延喜式内社のこの二社に、夫婦の神が祀られている事はこの二社の関係性を推測させる。
  • 1968年に埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の表裏に記された金象嵌(シリアのダマスカスで生まれ、シルクロード経由で飛鳥時代に日本に伝わった技法で、表面を専用の鏨で布目模様の溝を彫り、薄く延ばし型取りした純金や青金、純銀の板・線をそのくぼみに金槌を使いながら埋め込む。そして、表面の微細な段差をなくし、滑らかに加工するために、漆を塗り、焼きをいれた後に研ぐ。)の115字の銘文からも知ることができます。 表面の銘文 辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比 「辛亥の年 7月に記す 私はヲワケの臣 いちばんの祖先の名はオホヒコ その子はタカリノスクネ その子の名はテヨカリワケ その子の名はタカヒシワケ その子の名はタサキワケ その子の名はハテヒ」 裏面の銘文 其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也 「その子の名はカサヒヨ その子の名はヲワケの臣 先祖代々杖刀人首(大王の親衛隊長)として大王に仕え今に至っている ワカタケル大王(雄略天皇)の役所がシキの宮にある時 私は大王が天下を治めるのを補佐した この何回も鍛えたよく切れる刀を作らせ 私が大王に仕えてきた由来をしるしておくものである」 辛亥年を西暦にすると定説では471年になり、ヲワケの臣とは多氏のことで、オホヒコは『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人で北陸に派遣された大彦命のこと。その子孫が雄略天皇に従えたことになる。多氏の中で、関東で活躍した人達はその後、大彦命を祖とする阿倍氏になっていって、「蝦夷征伐」の征夷大将軍や「白村江の戦い」の征新羅将軍の阿倍比羅夫もその一人かも知れない。

     金錯銘鉄剣を所持していた人物は不明ですが、雄略天皇は存在していた人物で400年後半に生存していた人物で稲荷山古墳の埋没者なのでしょう。その人物の6代前が大彦命。

    大彦命は、第8代孝元天皇の子と記紀にはなっていて、同じように意富の臣を名乗ったとしたら、記紀に書かれている神八井耳命の子孫も意富の臣でしたから矛盾しています
  • 埼玉県行田の稲荷山古墳と埼玉県志木の南東縁にある宮戸神社

    この神社こそが、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)に刻まれた斯鬼宮(しき)が遠く離れた奈良盆地の磯城ではなく埼玉県の「志木」である
  • 稲荷山古墳の礫槨と粘土槨には舟形木棺が使用されていたが、「同様な木棺は、利根川を挟んだ位置の群馬県大泉町古海原前一号墳の棟槨と粘土槨にも使用されて」おり、「千葉県市原市山王山古墳の粘土槨にも使用されてい」る。 

    「したがって、舟形木棺に埋葬された稲荷山古墳の被葬者達は、東京湾東岸地域と深い関わりを持っていたと推定され」る。

    「埼玉古墳群が千葉県と深い関わりを持っていたことは、将軍山古墳の横穴式石室の石材に千葉県鋸南町周辺の房州石が使用されていることからも考えられ」る。
  • 「埼玉古墳群を特徴付ける長方形周溝」は、「奈良県と千葉県に何例かあるよう」だが、「千葉県市原市には、六孫王原古墳という七世紀代の前方後方墳があ」るが、「同じ古墳群に属する原一号墳が」、「地割から考えて長方形周溝となる」

    「原一号墳が長方形周溝とすれば、同じ古墳群には舟形木棺使用の山王山古墳も存在するので、千葉県でも」「姉ヶ崎古墳群が埼玉古墳群と密接な関係があったことを示す」
     
     「稲荷山古墳と時期の近い姉ヶ崎二子山古墳の墳丘を比較」すると、「姉ヶ崎二予山古墳は墳丘だけでなく、周溝形態も稲荷山古墳と似てい」て、「姉ヶ崎二子山古墳が七期、稲荷山古墳が八期に築造されたので、稲荷山古墳は姉ヶ崎二子山古墳をモデルにして築造されたと」考えられる。
     
     埼玉県内で「も規模が大きいのが」、「埴輪の特徴などから埼玉古墳群に埴輪を供給するために成立したと考えられてい」る、「鴻巣市生出塚埴輪窯址で」あるが、「そこで焼かれた人物埴輪と同じ作風、同じ粘土を使用したと考えられるものが、千葉県市原市山倉一号墳から出土してい」る。
    からです。
     
     「山倉一号墳と埼玉古墳群の関係は、山倉一号墳の墳形が奥の山古墳に類似することからも指摘でき」、「奥の山古墳の整備前の実測図と同縮尺の山倉一号墳の実測図を一・五倍したものを重ねると裾周りなどは多少違」う「が、墳丘の稜線などはかなり似ている」ので、「両者は、同じ設計図から造られたと考えてよい」
     
     坂本論文の指摘によれば、埼玉県の埼玉古墳群は千葉県の姉ヶ崎古墳群の古墳と関係が深く、姉ヶ崎古墳群の築造開始に遅れて埼玉古墳群の築造が開始するので、姉ヶ崎古墳群を築造した集団が分岐した集団が埼玉古墳群を築造したと考えられる。

  •  埼玉古墳群は古墳時代中期後半から築造を開始した古墳群であるので、その時点では、埼玉古墳群を築造した集団は父系継承が行われていたと考えられるが、そのことと、稲荷山古墳の鉄剣銘とは、直接関係はない。
     
     清家論文は、「鉄剣銘文に八代もの系譜を記しているということは、少なくとも乎獲居臣には強烈な系譜意識があった」というが、「八代」のうちの「五代は」中央豪族の多氏、またはそこから分岐した膳氏に係る「系譜」であった。

    そして、それらは乎獲居臣にとっては、自らの系譜というよりも、自分個人が中央豪族の系列の一員として認められたという点で意味があったのであり、そこに「強烈な系譜意識」などはうかがえない。
  • 5世紀前半に行われた河内平野の大規模開発が一段落した5世紀後半以降、大和朝廷、つまり葛城氏の指示の元、中央豪族たちは一斉に全国展開を行った。その中の一つが、志紀県主であり多臣であった。

    5世紀に、そうした全国展開を行った中央豪族は、多氏以外には見当たらない。
     
    これは、5世紀代の倭の5王の大和朝廷の記録や記憶が、6世紀の継体王統の大和朝廷に継承されていないことにもよる。志紀県主や多氏は、6世紀には勢力を低下させていたので、6世紀の大和朝廷での活躍が存在しないため、それらは記録されなかったのである。

    5世紀前半から半ばの倭の5王の大和朝廷を構成していた氏族として推定が可能なのは、上毛野氏や吉備氏、出雲氏、筑紫氏などの地方の大豪族を除けば、葛城氏をトップとして、紀氏や志紀県主、多氏、穂積氏、そして多くの渡来系氏族だけである。

    5世紀後半にようやく、紀氏から大伴氏が分岐しはじめ、穂積氏から物部氏が分岐しはじめる。そして、三輪氏が三輪山祭祀を行い始め、春日氏が勢力を拡大し始める。

    春日氏は、継体天皇の勢力圏をバックとして、6世紀には山城国の豪族とともに和爾氏を形成するので、継体天皇の支持勢力であったと考えられるし、物部氏も大伴氏も、継体天皇の抵抗した形跡はない。
     そうだとすると、継体天皇の大和国入りに反対した「抵抗勢力」とは、具体的にどの中央豪族なのか、よくわからないことになる。
  • 上総国や下総国の上海上国造、下海上国造は在地の豪族であったが、そのもとは、弥生時代に伊勢湾沿岸から移住していった海民集団であったのであり、海民の移住は古くから継続的に行われていたと考えられる。

    相模国餘綾郡を本拠地として相模国西部を支配した師長国造は、天津彦根命を祖とする同族集団に参加しているが、本来は、多氏の同族集団であったと考えられる。

    師長国造の勢力圏であったと考えられる相模国大住郡に波多野郷があり、相模国大住郡が現神奈川県秦野市であることからすると、師長国造の移住とともに、河内国にいた秦氏も相模国の移住してきたと考えられる。

     そして、河内国石川郡の磯長付近で馬の生産と飼育をしていた人たちも、師長国造とともに相模国に移住して、足柄山の山麓や伊勢原の丘陵地で、馬の放牧を行ったと考えられる。

     なお、伊勢原市の名称は伊勢原大神宮から来ているが、地名としての伊勢原が先行したと考えられ、相模国東部を支配した相武国造の祖が伊勢津彦とされていることから、伊勢国から相模国への移住が行われた結果、それらの地名や国造が生まれたと考えられる。

     そして、それらの人たちは、本来は、多氏の同族集団に組織されていた、と考えられる。
  • 板垣俊一「古代王権祭祀の食膳をめぐる膳氏の伝承」(以下「板垣論文」という)によれば、膳氏にかかわる伝承の成立経過は、おおむね以下のとおりである。

    日本書紀の景行紀では、膳臣の遠祖の磐鹿六雁は、景行天皇の東国順狩の際に、「淡水門」で得た白蛤を膾に調理して景行天皇に提供したので、景行天皇から膳大伴部を賜ったとされている。

    この「膳大伴部」とは、膳臣が統括する集団で、「オホキミの食膳に奉仕するトモ」という意味である。

    「高橋氏文」の一つの逸文によれば、日本書紀の磐鹿六雁の話は、もっと詳しく、

    磐鹿六雁は、武蔵国造の祖の大多毛比、秩父国造の祖の天上腹天下
    腹人等を呼んで、白蛤を調理して盛り付けをした。 

    景行天皇は、若湯坐連等の祖の物部の意富売布連の太刀を解かせて
    磐鹿六雁の配下とした。

    景行天皇は、諸国から集めた人々を大伴部に編成して磐鹿六雁に賜
    り、諸氏および東方諸国造一二氏の枕子を一人づつ上進させ、食膳に奉
    仕させた。

    景行天皇は、上総国の安房の大神を御食都神として奉斎し、若湯坐
    連等の祖の意富売布連の子の豊日連に忌火を鑚らせ、神嘗、大嘗に仕え
    させた。

    とされている。
  • 09/04編集されました
    「高橋氏文」のもう一つの逸文によれば、日本書紀の磐鹿六雁の話では、景行天皇は、磐鹿六雁の子孫等を、長世の膳職の長、上総国の長、安房国の長とするとともに、和加佐の国(若狭国)は、磐鹿六雁の子孫等に、遠世の国家として授けた、とされている。

    しかし、膳氏が、奉膳の職を独占し、志摩国の国守や若狭国の国守を専任するのは、かなり後の時代のことであると考えられる。

    「国司補任」によれば、平安時代の志摩国の国守はほとんど高橋氏の専任である。

    日本書紀の天武紀では、壬申の乱の功臣の膳臣摩漏の病に、天武天皇が草壁皇子と高市皇子を見舞いに遣わし、また、その死をひどく悲しんだ、とされている。
     
     ここから、高橋氏が志摩国守を選任したのは、早くても天武天皇の時代以降である、と考えられる。

     内膳司の長官を「奉膳」というが、天武天皇が崩御した際の殯宮で膳職のことを誅したのは、当時「奉膳」の職にあった紀朝臣真人であった。

     「奉膳」の職は、「続日本紀」によれば、AD768年(神護景雲2年)の勅によって、高橋氏と安曇氏に限られ、高橋氏と安曇氏の争いに勝利した高橋氏が、平安時代以降、「奉膳」の職を独占してゆく。

     高橋氏は膳氏の後裔氏族である。

     以上から、「高橋氏文」逸文の伝承は、それが作成された当時の高橋氏の職掌とそれに係る利権の現状を、遠い過去に投影して正当化しようとしたものであると考えられる。
  • 黛弘道の編著の「古代王権と祭儀(吉川弘文館)」の所収されている、前之園亮一の「淡水門と景行記食膳奉仕伝承と国造」(以下「前之園論文」という)では、膳臣の遠祖の磐鹿六雁の伝承について、おおむね以下のようにいう。

     「淡水門」の「淡」は「安房」であり、「淡水門」は、現千葉県館山市湊付近に比定できる。ここは、安房国府の外港的機能を持っており、畿内や伊勢国方面から海路で房総半島へ進出するときに、房総半島で最初の碇泊地、上陸地となる海上交通の要衝であった。
     さらに、「淡水門」は、安房大神を奉斎する神郡である安房国安房郡にあり、ここで大王への服属を誓う食膳奉仕の儀礼が執り行われた。

     「日本後紀」では、無邪志国造に係る出羽国の人物として、无邪志直膳大伴部広勝が登場している。
     
     知々夫国造の本拠地の武蔵国秩父郡には、大伴部が分布しているが、この大伴部は、膳大伴部であると考えられる。

     安房国安房郡を本拠としていた安房国造は、大伴直を称しているが、この大伴も膳大伴であると考えられる。
     日本書紀の安閑紀では、上総国の伊甚国造稚子直に真珠の献上を要求したのは、内膳卿膳臣大麻呂であった。

     相武国造の勢力範囲の相模国鎌倉郡に大伴部首、大伴部が、師長国造の勢力範囲の足柄下郡に伴部郷が、それぞれ分布、存在する。
     
     これらから、「高橋氏文」逸文の、「東方諸国造一二氏」とは、武蔵国の無邪志国造、知々夫国造、上総国の須恵国造、馬来田国造、上海上国造、菊麻国造、伊甚国造、武社国造、安房国の安房国造、長狭国造、相模国の相武国造、師長国造の一二国造であったと考えられる。

     安房国には、畿内勢力とつながりがある郡や郷の名が多い。

     平群郡には、平群臣の勢力が広く及んでいた。
     朝夷郡の満禄郷は、丸子連の分布から丸子部に係り、同健田郷は、推古天皇が領有した私部の分布から、推古天皇の子の竹田皇子に係る。

     長狭郡の壬生郷、日置郷、伴部郷、賀茂郷、丈部郷は、中央豪族の部民が設定されたことを示しており、それらの結果、長狭国造は、「先代旧事本紀」「国造本紀」には載らず、没落したと考えられる。
     
     このように、安房国は大和朝廷の直轄地的な性格を持つ国であり、欽明朝のころには、毎年の新嘗祭の日に東国の国造たちが淡水門に参集して、膳臣の指揮のもとで大王への服属を誓う儀式を行っていた、と考えられる。

     前之園論文では以上のようにいうが、上総国の伊甚国造稚子直に真珠の献上を要求したのは、「内膳卿」膳臣大麻呂であったとされており、この伝承は、板垣論文がいうように、高橋氏が奉膳となって以降の職掌を過去に反映させたものである、と考えられる。
     
     また、淡水門で、欽明朝のころに、東国の国造を集めて服属儀礼が行われたという確かな根拠も存在しない
  • 「高橋氏文」逸文に登場する、若湯坐連等の祖の物部の意富売布連については、摂津国河辺郡の式内社売布神社の祭神の大咩布命は、「先代旧事本紀」の「天孫本紀」では、物部氏とされ、宇摩志麻治命の七世孫、十市根命らの末弟で、若湯坐連などの祖とされている。

    しかし、「新撰姓氏録」の和泉国神別の志貴県主条に「大売布」、同山城国神別の真髪部造条に大売大布乃命がみえるので、「意富売布連」は、本来は、多氏に係る名であったと考えられる。

     ここから、膳大伴部の東国への広範な分布は、膳氏が饗氏から分岐して以降、独自に組織したものも多かったと考えられるが、その基礎には、多氏の東国進出と在地豪族の組織化があったと考えられる。
  • 東国各地の多氏の分布上の特徴」
    「まず、多氏の拠点をみると木曽川中流域、浜名湖、天竜川河口、大井川河口、富士川上流・河口、東京湾東岸、印旛沼、霞ヶ浦、那珂川流域などほとんどが河口や河川の合流点、沼・湖・海岸の沼沢地であり、これらのすべての地域に条里地割が認められるため、最大の目的は地域の水田開拓にあったと考えられる」が、「時期的にはほとんどが条里制以前の開拓であったと思われる」
    b 水運
    「さらに、河口部や海津・水門・河津の確保や、水陸交通の結節点確保と支配、水運権や交通路を支配することにより、多氏の支配地域とその周辺の秩序維持を意図していたと考えられる」
     加藤論文が指摘する東国での多氏の分布の特徴は、水田開拓と水運の拠点であるが、そうした水田開拓と水運の拠点が形成されたのは、6世紀半ば以降の屯倉と部民の設定によるものである。
    ここからも、多氏の東国進出が本格化したのは、6世紀半ば以降であったと考えられる。
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