天足彦国忍人命、武振熊、和邇氏

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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天足彦国忍人命、武振熊は、和珥臣など多くの著名な氏族の祖でありながら、記紀に系譜、事跡が記載されていない。 『…

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  • 『勘注系図』に一八世孫、丹波国造建振熊禰(たんばのくにのみやつこたけふるくまのすくね)という名前と共に次のような事績を記す。
    『息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(かこ・船頭)と為(な)って以って仕奉(つかえたてまつ)るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后(のち)勳功により、若狭木津に高向宮(たかむくのみや)を定め海部直(あまべあたい)の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。
    品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。』
  • 勘注系図

    川上眞稚命(妹が大彦命妃)ーー 大矢田彦 ー大倉岐命 ー 明国彦命 ー建振熊宿禰 ー 都比 ー 縣 ー 阿知
  • 『古事記』では忍熊王を近江で入水に追い込んだのはタケフルクマその人とされているが、『日本書紀』ではその役を武内宿禰が果たしたことになっている。


    『日本書紀』は仁徳天皇六五年、和珥臣の祖・タケフルクマが飛騨国の怪人・宿儺を退治した話を伝える。
    「六十五年、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を一にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ」
     原文ではわずか八四文字、この話は『日本書紀』にのみあって『古事記』にはない。タケフルクマは仲哀記に「難波根子建振熊命」、神功紀に「和珥臣の祖武振熊」とあり、神功・応神と争う忍熊王を攻めた将軍と伝えられる。タケフルクマの事績として伝えられているのは、忍熊王追討と宿儺退治の二つのみである。
  • 『新撰姓氏録』の大和皇別の布留宿祢の条に、「大鷦鷯天皇御世。達倭賀布都努斯神社於石上御布瑠村高庭之地」とあるが、布留宿祢は物部氏ではなく天足彦国押人命七世孫米餅搗大使主命之後で春日臣や小野氏・大和和邇氏と同族とされ、天足彦国押人命は古事記によれば孝安天皇とともに孝昭天皇と尾張連の祖奥津余曾の妹余曾多本毘賣の間に生まれた子で、布留宿祢も物部氏より尾張氏・海部氏・和邇氏に近い氏族である。経津主は物部氏というよりは尾張氏・海部氏・和邇氏と関係する神とすべきかもしれないのである。葦原中国の平定にタケミカヅチとフツヌシが活躍しているが、タケミカヅチは藤原氏が後から割り込ませたもので、もともと経津主一人だったともいわれ、そうすると高倉下に剣を授けたのも経津主だったということにもなるが、経津主が尾張氏・海部氏と関係するなら、尾張氏・海部氏の祖の一人である高倉下が経津主によりフツノミタマの剣を授けられ、その剣を尾張氏・海部氏と関係の深い春日臣の市河がフツヌシ神社即ち石上神宮で祀るということで、話が一貫することになるわけである。丹後の籠神社の海部氏の伝承では、大和における最初の大王家とでもいえるのは尾張・海部氏の祖先であり、それから物部氏さらに神武へと移っていったという。フツノミタマはこの尾張・海部氏、物部氏、神武を繋ぐ役割を果たしているのかもしれない
  •  ワニ氏からの妃は、九代開化帝への意祁都比売(おけつひめ 記。紀は妣津媛)に始まり、十五代応神帝へは宮主矢河枝比売(記。紀は宮主宅媛)が送り込まれる。十八代反正帝には丸邇の許碁登(こごと)臣の娘・都怒(つの)郎女とその妹が妃となる。この妃を紀は大宅臣の祖・木事の娘・津野媛と書くから、大宅氏もワニ氏から出ている。私見では、大宅は意富(おほ)域の宅(やか)地区との地名、宅は前記の宮主宅媛の名が負うワニ氏の地だ。
     廿一代雄略帝は丸邇の佐都紀臣の娘・袁杼(おど)比売を求めに春日へ出でます(記)。となると、春日と小戸(おど)はワニ氏の支配圏であったことがわかり、遡って第二代綏靖帝の一書云の妃、春日県主大日諸の娘糸織媛、七代孝霊帝の一云の春日千乳早山香媛もワニ氏一族からの妃だ(紀)。
  • 2014/11/11 11:49:59
    蘇我日向と物部日向

    蘇我日向と物部日向は、壬申の乱の時に、天武朝につかまったという。
    時代が同じです。

    蘇我日向は、蘇我山田石川麻呂の、4人いる兄弟の一人です。
    日向以外の、石川麻呂・連子・赤兄・果安はすべて、跡が追えます。

    石川麻呂→自害。孫に持統天皇。
    連子→斉明・天武朝で右大臣で死亡。子孫は栄える。
    赤兄→壬申の乱で、敗北、流刑。
    果安→本人死亡。天武朝に、子は配流。

    「日向王」として、文武三年(699年)まで生き延びました。没した時の位階は浄広参(じょうこうさん)(「大宝令」の正五位下相当)

    天武朝以後は重臣としてより、下級皇族の官吏として使われていたことが窺えます
    石川麻呂の長女を奪ったのも日向です。
    天武朝では、日向は、何回も賜姓されています。

    日向は武蔵大臣とよばれており、その父蝦夷も、武蔵大臣と呼ばれていたようなのです。
    (紀氏家牒では、日向の父が蝦夷になっています)


    一方、物部日向、改姓後の布留宿禰は
    Wikipediaによれば
    物部 日向(もののべ の ひむか、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏姓は物部首のち物部連・布留連・布留宿禰。物部額田の子で、子に活目・牛甘がいたとする系図がある。

    壬申の乱(672年)で大友皇子(弘文天皇)のために兵を集める使者になったが、捕虜となり大海人皇子(天武天皇)に従った。
  • 『新撰姓氏録』大和皇別、布留宿禰の項には、物部首の「男正五位上日向が、天武天皇のときに社地の名によって布留宿禰姓に改めた」とある。書紀はこれについて触れないが、天武天皇13年(684年)12月2日に布留連が宿禰の姓を与えられたことを記す。つなぎ合わせると、物部首、物部連、布留連、布留宿禰という変遷で、物部から布留に改めた時期が1年間の幅で不明となる。なお、天武天皇12年の連姓を賜与された際、同時に氏を物部から布留に改めたとする説もある。Wikipedia
  • 蘇我日向

    644年(皇極天皇3年)中大兄皇子(後の天智天皇)と日向の異母兄蘇我倉山田石川麻呂の娘が婚約した夜にその娘と密通した。649年(大化5年)日向は「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しようとした」と讒言、軍を率いて石川麻呂を追討し、石川麻呂は自害して果てた。その後石川麻呂の無実が明らかとなり、中大兄皇子は日向を筑紫国の筑紫宰としたが、世間ではこれを隠流し(かくしながし、あるいはしのびながし)と評したという。

    つまり、表向き栄転の形で実際には左遷という意味だが、左遷か栄転かでこの事件の評価は変わってくる。当時の半島情勢からみて筑紫宰は外交上重要な職であること、古人大兄皇子や有間皇子の事件と経過が酷似していることからみて、事件の首謀者が中大兄皇子で日向はその功で栄転したとする見方は多い。
  • 蘇我日向の讒言

    649年(大化5年)、蘇我日向(そがのひむか)が中大兄皇子に讒言します。
    「私の異母兄の蘇我倉山田石川麻呂は、
    皇太子殿下が海岸で遊んでいらっしゃるところを斬りかかって、
    殺害しようとしておりますぞ。遠からず謀反を起こすでしょう」
    乙巳の変の時、上表文を読む役を担当した
    あの蘇我倉山田石川麻呂です。中大兄は「まさか」と思います。
  • 米餅搗大使主を小野氏(小野妹子や小野篁など)の祖神として祀る滋賀県大津市の小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされる。(餅の起源の伝承として、その製造などに関わる者の信仰も篤い。
  • 小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が同一人物であるとする。

    和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。

    一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰と米餅搗大使主とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主とは別人(甥と叔父)となる。
  •  新羅鎮守将軍、大矢田宿禰
    http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/7-6-ooyatanosukune.html

    和邇氏の大矢田宿禰は、『新撰姓氏録』に真野臣(まのおみ)の先祖として次のように記される人物である。
    「真野臣、 天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)三世孫彦国葺命(ひこくにふくのみこと)の後なり。 男(こ)大口納命(おおくたみ)。男難波宿祢(なにわのすくね)。男大矢田宿祢(おおやたのすくね)。気長足姫皇尊(おきながたらしひめのすめらみこと)[いみな神功。]の新羅征伐に従い。凱旋の日鎮守将軍と為りて留まる。この時、彼の国王猶榻(ゆうたふ)の女を娶(めと)り、二男を生む。二男兄、佐久命(さくのみこと)。次、武義命(むげのみこと)。佐久命九世孫和珥部臣(わにべおみ)鳥務大肆忍勝(とりのつかさおおつおしかつ)等。近江国志賀郡(おうみのくにしがのこおり)真野村に居住。庚寅(こういん)の年、真野臣姓を負うなり」とする。
    新羅鎮守将軍として新羅に留まった人物である。

    『勘注系図』

    十四世孫川上眞稚命のあたりに小さな字で次のような系譜を記す。
    「又一本云、彦国忍人五世孫大難波命、児大矢田彦命、児大使主命、伝伝、往古よりつたえるところ当氏子細有り、伝伝」

    天足彦国押人 = 彦国忍人五世孫大難波命

    この彦国忍人(ひこくにおしひと)は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)で和邇氏(わにし)の祖とされる人である。その五世孫が大難波命。その子供が大矢田彦命、そしてもう一人が日触大使主命(ひふれおおみのみこと)である。これはまぎれもなく和邇氏の系譜でる。


    丹波大矢田彦命の近くにも、一本云、大難波根子、児大矢田宿禰として大矢田宿禰が登場する。
    和邇氏系譜に登場する大矢田宿禰が武振熊宿禰と考える。だからこそ『勘注系図』は「往古よりつたえるところ当氏子細有り」として和邇氏の系譜を一部記すのである。

    『勘注系図』で十五世孫とする丹波大矢田彦命と、大矢田ノ宿禰は別人である。
    『勘注系図』は前者を川上麻須の子とする。後者は大難波根子といわれる和邇氏の建振熊命の子である。


    京丹後市弥栄町溝谷の溝谷神社

    由緒記に、似たような伝承を伝える「丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞嗚尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」
    ここでは大矢田宿禰を丹波道主の子とするが、大矢田宿禰が鎮守将軍として彼の地に留まったという伝承は、『新撰姓氏録』と同じであ
  • 『勘注系図』の 注記は、成務の時代、大倉岐命が楯と鉾を賜って、丹波国造となったとする。その干支を「癸丑(みずのとうし)年夏五月」とする。
    古事記の没年干支を信じれば、成務の没したのは355年である。「癸丑年」を353年とすれば、この年次は以外と事実を伝えているかもしれない

    『勘注系図』は大倉岐命を加佐郡志楽郷長谷山(かさのこおりしらくのさとはせやま)に葬ったとする。『丹後風土記残欠』でも「長谷山の墓大倉木」とする。加佐郡志楽郷は現在の舞鶴市である。
    長谷山とされるのは舞鶴市溝尻長谷山である。ここには溝尻古墳群という古墳群が存在する。
  • 神功朝の貢献者 建振熊宿禰

    『勘注系図』の十八世建振熊宿禰の注記に次のように記す。

    『息長足姫(神功皇后)、新羅国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為って以って奉仕るなり。凱施(凱旋)の后(のち)勳功により、若狭木津に高向宮を定め海部直の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。

    品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。』

    建振熊が丹波、但馬、若狭の海人三百人を率いて渡海した新羅侵攻の翌年、大和に帰還しようとする神功側(太子側)と、これを阻もうとする仲哀の遺児、忍熊(おしくま)王が戦う。この戦いで建振熊が活躍する。忍熊王を琵琶湖のほとりで滅ぼし神功の時代が始まる。
    建振熊は神功、応神朝成立の最大の功労者の一人である。

    神功の新羅出兵に関する具体的な内容である。

    『勘注系図』の別の個所に注記を記す。

    そこでは武振熊命と建振熊宿禰とを明確に書き分ける。また武振熊宿禰の前に「男(こ)」を付ける。「男」とは息子の意味である。したがって神功朝成立の前年、海人三百人を率いて新羅侵攻に出陣したのは、父親の建振熊命。応神朝に海部の姓を賜ったのは息子の建振熊宿禰なのである。ただしこの建振熊宿禰も父親武振熊命と共に新羅の戦に従っている。

    支配の拠点は、若狭木津高向宮(わかさきずたかむくのみや)とされる。
    現在の福井県大飯郡高浜町か

    建振熊宿禰の時代から丹波の一族は海部(あまべ)と称するようになる。
  • 和邇氏系図には武振熊宿禰という名がない。

    父武振熊命に従って新羅に出陣し、彼の地にとどまった大矢田の宿禰という人物があるので大矢田の宿禰が建振熊宿禰か

    建振熊命も建振熊宿禰も和邇氏の人物である。丹波、但馬、若狭が彼の支配地域である

    建振熊宿禰はこ国造を支配下に置いた、丹波、但馬、若狭にまたがる支配者ゆえに丹波直であり、但馬直なのである。
  • 菟道稚郎子
    皇太子菟道は王仁を師として諸々の典籍を学び、すべてによく通達していたと日本書紀は記す。応神には皇位継承の有力候補として大山守命、大鷦鷯命(後の仁徳)菟道稚郎子がいたが、応神はいちばん下の菟道を皇太子に立てた。菟道の母は宮主宅媛で、その父は和邇日触使主 である。
  • 山背大国魂命は山背根子


    山背根子は神功皇后凱旋にあたっては、皇后とともに忍熊王と戦って勝利し、
    自分の娘の葉山姫には天照大神の荒魂を廣田神社に、
    その妹の長姫には事代主を長田神社を祀らせました。

  • 淳名城入姫(ぬなきいり)が、大国魂命を倭と山背の二国に祭ったとされます。
    倭は大和神社、山背は水主神社のことです。

    倭では、衰弱しきった渟名城入姫(ぬなきいり)に変わって長尾市が祭祀を行いました。

  • 湖西線の「おごと温泉」駅と「堅田」駅の中間辺りに位置します。「堅田」駅から湖西線を近江今津方面に向かうと、「小野」駅、「和邇」駅と駅名が続きます。

    小野は、小野妹子、小野道風の出所として知られていますし、和邇は和邇部(あるいは和邇部臣)に関係深い地名と言われています。湖西線の西側の丘陵地一体、和邇から真野、衣川にかけては多くの遺跡や古墳、古墳群が存在しますが、中でも春日山古墳群はその墳墓の数が210基を超えており、墳長60m級のE12号墳(前方後円墳)は4世紀中葉~後葉の構築、同じく墳長60m級のE1号墳(前方後円墳)は4世紀末~5世紀初頭の構築と推定されています。

    和邇氏、小野氏

    「和邇」
    「岩波文庫/古事記(倉野憲司校注。以下、古事記)」では、兎に騙されたことを怒って兎を丸裸にしたのは鮫ですが、何気なく原文を見て驚いたのは実は「和邇」と書かれている
    割注には「此二字依音」とあるので、漢字の意味はなく、単に「わに」という音を漢字表記したものであるというのが割注を書いた人物の見解です。
    古事記原文に「和邇」は三か所出てきます。

    その一はこの稲羽の素兎の話。
    その二は海幸彦・山幸彦の話で、山幸彦を綿津見神(ワタツミノカミ)の宮から地上に送り返した一尋和邇(ひとひろわに)。
    その三は山幸彦の妻となって天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズノミコト)を生んだ綿津見神(ワタツミノカミ)の娘、豐玉毘賣命の正体が八尋和邇(やひろわに)であったという記述。

    天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命は、神武天皇の父ですから、八尋和邇は神武天皇の祖母ということになります。
    更に、神武天皇の母はその八尋和邇である豐玉毘賣命の妹、玉依毘賣なのです。従って和邇(族)は紛いも無く初代天皇の母方の祖であるというわけです。




    衣川にある衣川廃寺跡は、7世紀末に廃寺となった未完成の寺院の遺跡です。瓦を焼いた窯跡が発掘されていますし、6種類にのぼる軒丸瓦が出土しています。それらの瓦の様式の変遷から、620年~680年頃にかけて、長期間にわたり寺が建立されたものと考えられています。620年~680年は、推古天皇、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、天武天皇の時代ですが、天智天皇(大津京)時代に寺院建立の政策が変わり、和邇氏族の氏寺であった衣川廃寺が重視されなくなったか、多くの職工が他の寺院建設に取られたために廃寺となった可能性が指摘されています。

    1. 丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)の妹、意祁都比賣命(オケツヒメノミコト)が開化天皇(カイカテンノウ)の妃となり、日子坐王(ヒコイマスノミコ)を生んだ。

    2. 崇神天皇(スジンテンノウ)は、山代國(やましろのくに)に居た庶兄、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)が反逆心を起こしたとして、その伯父、大毘古命(オホビコノミコト)に軍を起こさせ、丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副(そ)えて遣わした。この時、大毘古命(オホビコノミコト)は丸邇坂(わにさか)に忌瓮(いはいべ)(神を祭る清浄な瓶)を居(す)ゑて、出陣した。

    3. 仲哀天皇(チュウアイテンノウ)亡き後、忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)が、神功皇后(ジングウコウゴウ)とその御子、大鞆和氣命(オホトモワケノミコト)(後、応神天皇(オウジンテンノウ))が倭に還り上るのを迎え討とうとした時、丸邇臣(わにのおみ)の祖、難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)が神功皇后(ジングウコウゴウ)と大鞆和氣命(オホトモワケノミコト)の味方となり、忍熊王(オシクマノミコ)と伊佐比宿禰(イサヒノスクネ)を琵琶湖にまで追い詰めて討った。

    4. 応神天皇(オウジンテンノウ)が近つ淡海國(あふみのくに)(近江、滋賀県)に行幸して木幡村(こはたのむら)(京都府宇治郡)に到った時、丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)に出会った。応神天皇(オウジンテンノウ)は明日帰る時に宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)の家に寄ろうと言ったので、それを聞いた父、丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)は応神天皇(オウジンテンノウ)を饗応した。その時、応神天皇(オウジンテンノウ)は次の歌を詠んだ。

    この蟹(かに)や 何處(いづく)の蟹 百傳(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去(よこさ)らふ 何處(いづく)に到る 伊知遲島(いちぢしま) 美島に著(と)き 鳰鳥(みほどり)の 潜(かづ)き息(いき)づき しなだゆふ 佐佐那美路(ささなみぢ)を すくすくと 我が行(い)ませばや 木幡(こはた)の道に 遇(あ)はしし 嬢子(をとめ) 後姿(うしろで)は 小楯(をだて)ろかも gaiji043.gif並(はなみ)は 椎菱(しいひし)如(な)す 櫟(いちひ)井(ゐ)の 丸邇坂(わにさ)の土(に)を 初土(はつに)は 膚(はだ)赤らけみ 底土(しはに)は 丹gaiji003.gif(にぐろ)き故(ゆゑ) 三(み)つ栗(ぐり)の その中つ土(に)を かぶつく 眞火(まひ)には當(あ)てず 眉畫(まよが)き 濃(こ)に畫(か)き垂(た)れ 遇はしし女(をみな) かもがと 我(わ)が見し子ら かくもがと 我(あ)が見し子に うただけだに 對(むか)ひ居(を)るかも い添(そ)ひ居(を)るかも (歌番号四十三)

    5. 丸邇(わに)の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)が応神天皇(オウジンテンノウ)の妃となり、宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ)、女鳥王(メドリノミコ)を生んだ。また、宮主矢河枝比賣(ミヤヌシヤカハエヒメ)の妹、袁那辨郎女(ヲナベノイラツメ)も妃となり宇遲之若郎女(ウヂノワキイラツメ)を生んだ。 宇遲能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は応神天皇(オウジンテンノウ)から次の天皇として選ばれたが、早く崩御したため、仁徳天皇(ニントクテンノウ)が次の天皇となった。 妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ)と宇遲之若郎女(ウヂノワキイラツメ)は共に仁徳天皇(ニントクテンノウ)の妃となった。

    6. 仁徳天皇(ニントクテンノウ)が、秦人(はたびと)(中国からの帰化人)を使役して茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅(まむだのみやけ)(大阪府北河内郡)を作り、また丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を掘って海に通わせ、また小椅江(をばしのえ)(大阪市東成区)を掘り、また墨江(すみのえ)の津(大阪市住吉区)を定めた。

    7. 仁徳天皇(ニントクテンノウ)の大后、石之日賣(イハノヒメ)は、自分の留守中に仁徳天皇(ニントクテンノウ)が妹八田若郎女(イモヤタノワキイラツメ))と婚(まぐは)いしたことを知り、嫉妬して難波から淀川、木津川を遡り、山代からgaiji003.gif城(かづらき)の高宮(たかみや)へ行こうとして、一時、筒木(つつき)で奴理能美(ヌリノミ)の家に入った。その時、仁徳天皇(ニントクテンノウ)が石之日賣(イハノヒメ)をなだめるために歌を送ろうと、丸邇臣(わにのおみ)口子(クチコ)を遣わした。

    8. 丸邇(わに)の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女(ツノノイラツメ)が反正天皇(ハンゼイテンノウ)の妃となり、甲斐郎女(カヒノイラツメ)、都夫良郎女(ツブラノイラツメ)を生んだ。また都怒郎女(ツノノイラツメ)の妹、弟比賣(オトヒメ)も妃となり、財王(タカラノミコ)、多訶辨郎女(タカベノイラツメ)を生んだ。

    9. 雄略天皇(ユウリャクテンノウ)は、丸邇(わに)の佐都紀臣(サツキノオミ)の女(むすめ)、袁杼比賣(オドヒメ)を婚(よば)ひに、春日(奈良県の東部)に幸行した時、媛女(をとめ)に道で逢った。

    10. 丸邇(わに)の日爪臣(ヒツマノオミ)の女(むすめ)、糖若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)が仁賢天皇(ニンケンテンノウ)の妃となり、春日の山田郎女(ヤマダノイラツメ)を生んだ。

    まず丸邇臣の祖とされている人物は、開化天皇治世の日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)、崇神天皇治世の日子國夫玖命(ヒコクニブクノミコト)、神功皇后治世の難波根子建振熊命(ナニハネコタケフルクマノミコト)の3人です。この内、日子國意祁都命は娘を天皇の妃として指し出しています。

    次に丸邇臣または丸邇系とされている人物は、応神天皇治世の比布禮能意富美(ヒフレノオホミ)、仁徳天皇治世の口子(クチコ)、反正天皇治世の許碁登臣(コゴトノオミ)、雄略天皇治世の佐都紀臣(サツキノオミ)、仁賢天皇治世の日爪臣(ヒツマノオミ)の5人です。この内、比布禮能意富美、許碁登臣、佐都紀臣、日爪臣は各々娘を天皇の妃またはそれに準じる地位に指し出しています。

    つまり、丸邇系氏族は開化天皇(9代天皇)から仁賢天皇(24代天皇)に至る16人の天皇の内、5人の天皇に妃またはそれに準じる地位に娘を指し出している有力氏族であると言えます。

    開化紀<元年十月>、開化紀<六年正月>
    開化天皇が春日に宮殿を移しています。天皇の子、日子坐王(彦坐王)を生んだ妃が丸邇(和珥)氏の女性であったことが記紀に共通していますが、名前が異なり伝承があいまいであったことがうかがえます。
    崇神記、崇神紀<十年九月>
    日子國夫玖命(彦国葺)が丸邇(和珥)氏の祖であること、丸邇坂(和珥の武gaiji027.gif坂)に忌瓮(いはいべ)を置いて出陣したことが記載されています。これより丸邇(和珥)氏の祖、日子國夫玖命(彦国葺)が現在の和爾町近辺に居住していたことが推察できます。
    和爾・光台寺池周辺

    垂仁紀<二十五年二月>
    ここでも紀は、彦国葺を和珥臣の遠祖としています。さらに彦国葺を大夫(おほまえつきみ)としているので、有力氏族であったことが推察されます。
    垂仁記、垂仁紀<三十四年三月>
    垂仁天皇の子、五十日帯日子王(五十日足彦命)を春日の山君、春日部の君の祖とする記に対して、紀は石田君の祖としていて、伝承が曖昧であったことがうかがえます。
    神功紀<仲哀九年>
    記には記載がありませんが、和珥津(対馬上県郡鰐浦)より新羅に出兵したとあり、日本海に和珥氏の拠点があったことを裏付けています。

    神功記、神功紀<摂政元年>
    難波根子建振熊命(武振熊)が丸邇(和珥)氏の祖であることが、記紀で一致しています。
    応神記、応神紀<二年三月>
    比布禮能意富美(日触使主)に関して記紀で微妙な違いがあります。記では丸邇氏族として記述していますが、紀では和珥臣の祖としており必ずしも氏族として位置付けていないように理解されます。また、記ではその娘、宮主矢河枝比賣(宮主宅媛)が京都府宇治郡に居住していたように記述されていて、比布禮能意富美(日触使主)がそこで応神天皇を饗応したことから、比布禮能意富美(日触使主)は京都府宇治郡に居住していたことが推察されます。つまり、丸邇(和珥)氏は奈良の和爾町近辺と宇治近辺にも居たことが推察されます。この件についてはちょっと空想的ですがすでに私の見解を述べています。
    仁徳記、仁徳紀<十三年九月>
    丸邇(和珥)池を造ったという記述は記紀で一致しています。丸邇(和珥)池は推古紀<二十一年十一月>にも記述されていて、こちらは現在の和爾町の北西にある光台寺池とされています

    仁徳記、仁徳紀<三十年十月>
    皇后のもとに遣わされた口子(口持臣)について、記は丸邇臣としていますが、紀では和珥臣の祖としていている
    仁徳紀<六十五年>
    神功紀<摂政元年>に記述された難波根子建振熊命(武振熊)がここでも登城します。


    反正記、反正紀<元年八月>
    妃となった都怒郎女(津野媛)の父、許碁登臣(木事)に関して記では丸邇氏族としていますが、紀は大宅臣の祖としています。

    雄略記、雄略紀<元年三月>
    春日に住む丸邇(和珥)氏族の娘を妃にした点では記紀は一致していますが、父娘とも記紀で名前が違い、伝承の曖昧さがうかがえます。
    しかし、雄略天皇の代で丸邇(和珥)氏は春日に居住していたと言えそうです。紀では初めて「和珥臣の祖」ではなく「和珥臣」という氏族名が用いられています。また、紀では天皇の子、春日大娘皇女の母を春日和珥臣深目の女、童女君としていますが、記には春日大郎女の母が誰であったかが記述されていません。
    仁賢記、仁賢紀<元年二月>
    丸邇の日爪臣(和珥臣日爪)の娘を妃として、春日の山田郎女(春日山田皇女)を子とするという部分は記紀で一致しています。ただしその妃の名前は記紀で違っています。子の名前から、妃は春日の丸邇(和珥)氏であることが推察されます。
    継体記、継体紀<元年三月>
    記では継体天皇の妃となった波延比賣(gaiji065.gif媛)を安倍氏の出としていますが、紀では父を和珥臣河内の娘としていて、伝承が曖昧であったことがうかがえます。紀に書かれた 和珥臣河内が春日の和珥氏であったかどうかは疑問が残ります。
    欽明記、欽明紀<二年三月>
    春日の日爪臣(春日日抓臣)の娘、糠子郎女(糠子)を妃としたことが記紀で一致しています。ただ、子の名前や、妃の父の名前が仁賢記(仁賢紀<元年二月>)と重複しているので、春日の日爪臣(春日日抓臣)は二人の娘を二人の天皇の妃として差出し、しかもその妃が同名の子を生んだのが事実であったのか、あるいは春日の日爪臣(春日日抓臣)は仁賢記(仁賢紀<元年二月>)とは別人であったのか、あるいは伝承が曖昧だったのか、すこし疑問が残ります。また、名前から丸邇(和珥)の名前が消えている点は注目されるところで、おそらく丸邇(和珥)と呼称される氏族はこの時代には消えていたことが推察されます。
    敏達記、敏達紀<四年正月>
    春日の中若子(春日臣仲君)の娘、老女子郎女(老女子夫人)を妃としたことが記紀で一致しています。
    推古紀<二十一年十一月>
    和珥池を作ったと書かれていますが、おそらく仁徳天皇の時に作られた和珥池を拡大・改修したのではないかと考えます。
    孝昭記、天武紀<十三年十一月>
    天武天皇より朝臣の姓を与えられた五十二氏の内、大春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、櫟井臣、柿本臣の祖は、孝昭記に孝昭天皇の長子、天押帯日子命(天足彦国押人命)であるとされています。
    以上長々と記紀の記事を個別に比較考察しました。で、これらから何が言えるのか。うーん、なかなか難しいですね。まあ、大胆に結論するとして、

    崇神天皇の頃には、丸邇(和珥)氏の祖が現在の和爾町近辺に居住していた。
    神功皇后の頃には、日本海側には沿岸航海を支える丸邇(和珥)氏の拠点があった。これは大和(奈良)の丸邇(和珥)氏とは別系統で、昔から日本海側には沿岸航海に長けた丸邇(和珥)族が存在したことが推察される。
    仁徳~反正天皇の頃まで、丸邇(和珥)氏またはその祖とされる氏族が現在の和爾町・池田町の近辺に居住していたと推察される。
    雄略天皇の頃には、丸邇(和珥)氏は春日に居住していた。
    欽明天皇の頃には、丸邇(和珥)氏の名前が消え、居住地の春日が氏族名になった。

    丸邇(和珥)氏と春日氏を結びつける記事は、孝昭記、孝昭紀<六十八年正月>以外には雄略記、雄略紀<元年三月>だけでした。崇神天皇の頃に和爾町近辺に居た丸邇(和珥)氏が雄略天皇の頃に春日に移り、欽明天皇の頃に春日氏に名前が変わったということになります。

    神功皇后・応神天皇の頃には宇治にも別の丸邇(和珥)系氏族が居り、日本海(対馬)にも別の丸邇(和珥)系氏族が居たと推察されます。加えて、神武天皇の母方の和邇族、琵琶湖西岸に居た和邇族などなど、大和(奈良)の丸邇(和珥)-春日氏とは系譜の異なる和邇族が居た

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  •  和邇氏は神武東征に加わったが、饒速日東征の大部隊の中に和邇氏の名前が見えない。和邇氏は同じ素戔嗚系の饒速日ではなく五十猛の配下にあったのかもしれない。
     天理市の和爾下神社は祭神として素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命を祀る。和邇氏の氏神であった。和爾下神社古墳の後円部の上に建つ神社で社家は櫟井氏。北東1kmほどに、和爾坐赤阪比古神社が鎮座する。
     和邇氏は29代欽明天皇時代から春日姓に改姓し、神武天皇時代から天皇家に妃を出す氏族であった。4世紀後半から6世紀後半までが最盛期である。神功皇后時代に活躍した難波根子建振熊が記紀に記されている。神功皇后新羅遠征(363年)の時に丹波・但馬・若狭の海人300人を率いて従軍した。建振熊は和邇氏であるが丹波・但馬・若狭の長となった。従って海部氏の系図にも組み込まれている。
  • 日本書紀に「豊玉姫が子を生む時に八尋鰐に変わっていた」とあり、彦波瀲武鸕鶿草葺不合を産む。豊玉姫は海人の鰐族である。彦波瀲武鸕鶿草葺不合の妃は豊玉姫の妹の玉依姫(鰐)で、神武天皇を産む。つまり神武天皇も鰐族である。神武が東遷するときの出発点は和邇氏の本拠地の岡水門である。
     日本書紀に「事代主神が八尋の熊鰐になって三島溝橛耳神(みしまみぞくいみみのかみ)の娘の玉櫛媛との間に媛蹈鞴五十鈴媛が生まれた。神武天皇は媛蹈鞴五十鈴媛を正妃とした。」とある。つまり事代主は熊鰐であり、その子の媛蹈鞴五十鈴媛も熊鰐である
  • 東大寺山古墳

     奈良県天理市に所在する古墳時代前期中葉にあたる4世紀後半頃に築造された前方後円墳である。副葬品の中に、24文字を金象嵌で表し、「中平」の紀年銘を持つ長さ110cmの鉄刀があった。「中平」の年号は184年から190年であり倭国乱の時期に含まれる。後漢では184年に起きた黄巾の乱をきっかけに、魏・呉・蜀の三国時代に突入する直前である。「中平」の頃、楽浪郡を支配していたのは公孫氏であるから、この鉄刀は和邇氏が公孫氏に朝貢して下賜された刀であろう。東大寺山古墳は和邇氏の領域にあり、4世紀後半築造を考えると埋葬者は建振熊の可能性が高い。

  • 孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)より出づ。仲臣(なかのおみ)、家に千金を重ね、糟(かす)をつみて堵(かき)と為さしむ。時に大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)[謚は仁徳]、その家に臨幸(いでま)して、詔して、糟垣臣(かすがきのおみ)と号(なづ)けたまひき。後に改めて春日臣(かすがのおみ)と為る。桓武天皇の延暦二十年に、大春日朝臣の姓を賜ふ。
    小野朝臣(おののあそみ)。
     大春日朝臣と★◐★ 同じき祖。彦姥津命(ひこおけつのみこと)の五世孫、米餅搗大使主命(たがねつきのおほおみのみこと)の後なり。大徳小野妹子(おののいもこ)、近江国滋賀郡小野村に家れり。よりて以て氏と為す。日本紀に合へり。
  • May 2016 編集されました
    春日神社 海南市大野中1056
    http://saraswati.biz/onojinja-kusimachi.html

    春日大明神の御由緒に
    大野荘には大野中村の春日大明神(上社)の外に、兄弟神社として井田村の粟田大明神(下社)がありましたが、明治時代の神社併合で春日神社に併合されました。
    両 神社の性格は氏神で春日氏の祖先を祀り、
    祭神の春日大明神は天足彦国忍人を称しますが、『古事記』には天押帯彦とあります。
    粟田大明神はその「若宮」すなわち三世孫の彦国葺です。

    両部神道時代の奥ノ院は、春日明神が幡川村の禅林寺、粟田神社 が鳥居浦の観音寺、歳越明神は山田村の菩提寺でした。
  • May 2016 編集されました
    奈良の春日山の春日大社 の先住者は、天足彦国忍人で、粟田大明神が三世孫の彦国葺という。
    真相は、和銅三(七一〇)年、不比等が鹿島の神タケミカヅチを奈良の春日山麓に遷して藤原氏の氏神とし、地名を採って春日大社と称します。その後、神域を広めるために聖武天皇の詔勅をかざし、先住者の春日明神を春日山麓から紀州大野荘へ遷させたという。
    奈良から海南の大野荘へ移住してきた春日氏が、当地の三上山を春日山と呼んだ。春日氏が姓を大春日氏に改称し、神号を大春日明神と改め たのは、権勢盛んな藤原氏の氏神春日大社を意識したと推察されますが、それもいっとき一時のことで、やがて旧の春日神社に戻ってしまったようです。

    粟 田一族の出世頭は文武朝の中納言で、藤原不比等(六五九~七二〇)の右腕として知られる粟田真人朝臣(?~七一九)。留学僧として唐で学び、帰朝した 後に再び遣唐使として渡唐しました。粟田真人が紀州日高郡の海女から探してきた美女を不比等が養女とし、文武天皇夫人藤原宮子となって七〇一年に聖武天皇 を産みます。宮子姫は髪長姫伝説のヒロインです。
    不比等の意を受けた粟田真人から説得されて渋々承知した春日氏は、一族の十人が春日明神を奉じて 替地の紀州大野荘に移った。

    海南市の春日神社
    和歌山県海南市大野中
    主祭神を「正一位春日大神」天足彦国忍人命(天押帯彦命)に限り、社殿は三扉で、合殿の末社「若宮」は、粟田明神すなわち春日明神の三世の孫の彦国葺命を祀ります。
  • 上総国北東部 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に和邇臣の先祖の彦意祁都命(ひこおきつのみこと)の孫の彦忍人命を国造に定められた。
    武社国造(むさのくにのみやつこ・むさこくぞう)
    上総国北東部を支配した国造。牟邪国造とも。
    祖先
    日子国意祁都命。天足彦国押人命の子。姥津媛の兄。
    成務朝に孫の彦忍人命が武社国造になったという。
    氏族
    牟邪氏・・・・姓は直?。和珥氏・小野氏・丈部氏などと同系。
            渡来系の身狭(牟佐)氏(姓は村主)とは別系とされる。



    額田 13成務 和迩臣祖 彦訓服命孫 大直侶宇命
    (おおちろうのみこと) 所在地不詳
    美濃国池田郡額田郷。または近江国坂田郡。現在の岐阜県池田町。または滋賀県米原市。 志賀高穴穂の帝(成務天皇)の御世に和邇臣の先祖の彦訓服命(ひこくにふくのみこと)の孫の大直呂宇命を国造に定められた。
    額田国造(ぬかたのくにみやつこ・ぬかたこくぞう)
    美濃国西部(または近江国東部)を支配した国造。
    祖先
    彦国葺命の孫の大真侶古命が成務朝に額田国造に任じられたとある。
    氏族
    額田氏。姓は直。後には宿禰を与えられた者もいた。和珥氏・粟田氏・真野氏などと同系。
    後裔
    額田今足・・・・平安時代の法律家。明法博士。律令の注釈を公定することを請願し、『令義解』撰修の先駆けとなった。
  • 天香語山命は異母妹の穂屋姫命を妻とし、一男を生む。

    孫の天村雲命[亦の名は天五多底]この命は、阿偁良依姫を妻とし二男一女を生む。

    三世の孫の天忍人命。この命は、異母妹の角屋姫亦の名を葛木出石姫を妻とし、二男を生む
    次に天忍男命。この命は、葛木土神剣根命の娘の賀奈良知姫を妻とし二男一女を生む。
    妹 忍日姫命

    四世の孫の瀛津世襲命[亦は葛木彦命。尾張連等の先祖。天忍男命の子供]この命は、池心朝[孝昭天皇]の御世に大連と成って仕えた。
    次に建額赤命。この命は、葛木尾治置姫を妻とし、一男を生む。
    妹 世襲足姫命[亦の名を日置姫命]この命は、腋上池心宮にて統治された観松彦香殖稲天皇[孝昭天皇]が立てて皇后とし、二皇子を生む。即ち、天足彦国押人命と次に日本足彦国押人天皇[孝安天皇]である。

    孫の天戸目命[天忍人命の子供]この命は、葛木避姫を妻とし二男を生む。
    次に天忍男命。大蛤任部連等の先祖

    五世の孫の建筒草命[建額赤命の子供。多治比連・津守連・若倭部連・葛木厨値の先祖]

    孫の建斗米命[天戸目命の子供]この命は、紀伊国造知名曾の妹の中名草姫と妻とし、六男一女を生む。
    次に妙斗米命[六人部連等の先祖]

    六世の孫の建田背命[神服連・海部直・丹波国造・但馬国造等の先祖]
    次に建宇那比命。この命は磯城島連の先祖の草名草姫を妻とし、二男一女を生む
    次に建多乎利命[笛連・若犬甘連等の先祖]
    次に建彌阿久良命[高屋大分国造等の先祖]
    次に建麻利尼命[石作連・桑内連・山邊縣主等の先祖]
    次に建手和邇命[身人部連等の先祖]
    妹 宇那比姫命

    七世の孫の建諸隅命。この命は、腋上池心宮にて統治された天皇[孝昭天皇]の御世に大臣になり仕えた。葛木直の先祖の大諸見足尼の娘の諸見己姫を妻とし、一男を生む
    妹 大海姫命[亦の名は葛木高名姫命]この命は、磯城瑞籬宮にて統治された天皇[崇神天皇]が妃とされ、一男二女を生む。八坂入彦命、次に渟中城入姫命、次に十市瓊入姫命。
  • 小野神社の祭神は米餅搗大使臣の米餅搗は普通ならコメモチシマとでも訓んでしまい ますが、『新撰姓氏録』には同じ訓で鏨着大使主とありタガネツキオオオミと訓みます。 和邇氏の系図中、そこから別れた小野氏の直接の先祖にあたります。鏨とは正 に岩石を砕く鑿ノミのことであり、丹生をあつかったであろう和邇氏のなかにあ って、採石の一族が小野氏の役割であったとしても不都合はないのです。戸隠 と同じ天下春命が祀られた秩父は、和銅開珎で有名な産銅・産金の地でした。 大江山や伊吹山の鬼族もまた金属精錬の古譚であった。
  • May 2016 編集されました
    式内社 武蔵國多磨郡 小野神社
    武蔵國一宮


    御祭神 天下春命 瀬織津比咩命 伊弉諾尊
    素盞嗚尊 大己貴大神 瓊々杵尊 彦火火出見尊 倉稲魂命

    『神名帳考證』天押帯日子命

    東京都多摩市にある。京王線聖蹟桜ヶ丘駅から北西にあるいて500m程。多摩川の右岸に鎮座している。

    創祀年代は不詳。一説には安寧天皇十八年の創建と伝えられる古社。
    式内社・小野神社の論社の一つ。

    多摩川の左岸、府中市にも小野神社があり、同じく、式内社・小野神社の論社である。
    両社とも多摩川に近く、古代において多摩川の氾濫によって、遷座・分祀された結果、どちらがオリジナルであったか
    わからない状態になったのだろう。

    当社は、武蔵国の一宮として、「一宮大明神」と呼ばれていた。が、旧社格は郷社である。どうして府社とならなかったのか不思議だ。

    主祭神は現在、天下春命であり、知々夫国造(当地方)の祖神である。また、一説には、孝昭天皇の皇子・天押帯日子命とされているが、
    これは、小野臣の祖神。つまり、小野神社の社名が、地名由来であるか、氏名由来であるかによって、その祀る神も違うことになる
  • 和邇下神社
    『新撰姓氏禄』に「櫟井臣、和邇部同祖、彦姥津命(孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後也。)。柿本朝臣、天足彦国押人命の後也。和邇部、天足彦国押人命三世孫彦国葦命の後也」とあるところから考えると、本来は前者の櫟本の社には柿本氏の租紳を、後者の横田の社には櫟井氏の租紳を祀る神社で、共にその租紳の本源は和邇氏一族の租紳天足彦国押人命でなかったろうかとみられるが、いつのころからか現祭神となり、牛頭天王とも呼ばれるようになった。
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