継体天皇崩御年、3年のズレ。磐井と毛野臣

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
image継体天皇崩御年、3年のズレ。磐井と毛野臣

『日本書紀』継体紀の末尾である。 「(継体二十五年、五三一)二十五年の春二月に、天皇病甚(おも)し。丁未に、天…

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  • 今城塚古墳

    今回も石棺の破片と思われる3種類の凝灰岩(二上山の白石、阿蘇のピンク石、高砂の竜山石)が出土したと聞いた。つまり、「石室基盤工」の上に構築されていた横穴式石室には、それぞれ異なる地域から調達した3つの石棺が納められ、3人の遺体が埋葬されていたことになる。

    この事実をどう読み解くかである。徳島文理大学の石野博信教授は、継体天皇の亡骸を納めた棺は、阿蘇のピンク石のものだろうと推測しておられる。では、残りの2つの石棺は誰を埋葬したものなのか。少なくとも、皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)ではない。彼女の墓は、天理市中山町にある西殿塚古墳、通称衾田陵(ふすまだ りょう )に治定されている。

    『日本書紀』の継体紀は、その末尾に奇妙な文章を載せている。書紀の編者は、継体天皇の死亡時期に関して複数の説がある中で、治世25年目(531年)を崩御年としたが、その理由は『百済本記』の記述に依ったためであると断っている。そして、『百済本記』には「聞くところによると、日本の天皇および太子、皇子が共に亡くなった」と記述されていたという。3種類の石棺とこの『百済本記』の記事との関わりは?

    今城塚古墳は、6世紀前半に築造された全長約190mの前方後円墳である。墳丘の形状や出土した埴輪の製作時期などから、上に述べたように専門家は継体天皇の御陵であることは99.9%間違いないと指摘するが、今ひとつ確たる証拠に乏しかった。大王陵と呼ぶには、墳丘が2段築成で低く、肝心の埋葬設備が破壊されて見つかっていないためだ。 

    今城塚古墳に石室があったことは、文献上では確かめられている。鎌倉時代の貴族の日記「公衡公記」(きんひらこうき)には、正応元年(1288)、古墳から鏡などが盗掘され、犯人が捕まったと記録されているという。その時期までは石室が存在したことは間違いない。だが、この古墳が「今城塚」と呼ばれてきたように、戦国時代、古墳の上に出城が築かれたため、墳丘の頂きが平らに均(なら)され、石室は解体されてしまったようだ。

    平成21年1月 石棺復元
    平成18年度から市民とともに今城塚古墳出土石棺の復元を行っています。1基目は兵庫県産の「竜山石(たつやまいし)」を使い、長さ2.6メートル、高さ1.8メートル、重さ約9tの石棺を、2基目は大阪府・奈良県境の二上山(にじょうさん)産の「二上山白石」を使い、長さ2.3メートル、高さ1.1メートル、重さ約5tの石棺を造り上げました。 3基目にあたる今回は、遥か約1000キロメートルの熊本県宇土市産の「阿蘇ピンク石」を使った石棺の復元体験を行います。工具は現代のものですが、古代にならって人力だけで仕上げていきます。
  • 天皇陵級に横穴式石室、高槻・今城塚古墳で基礎確認
    [2007年3月2日 読売新聞]

     真の継体天皇陵とされる大阪府高槻市の前方後円墳、今城塚(いましろづか)古墳(6世紀前半)で、横穴式石室の基礎となるコの字形の大規模な石組み遺構(基盤工)が見つかり、1日、市教委が発表した。石室自体は解体されて失われていたが、その存在が裏付けられた。天皇陵(大王墓)級の古墳で横穴式石室の基礎部分が確認されたのは初めて。宮内庁が陵墓指定し、原則として調査を認めていない天皇陵級古墳の構造や築造方法の解明にもつながる画期的な成果となりそうだ。
     遺構は後円部中央北側の上部で出土し、東西17.7メートル、南北は11.2メートル。石材の平面をそろえて石垣のように高さ約80センチまで積み上げ、内側に20?40センチ大の石が敷き詰められていた。石を積むたびに土を盛って固めており、石室の基礎部分を強化して盛り土の沈下や崩壊を防ぐ地盤改良工事が施されたとみられる。
     遺構のゆがんだ形状などから、大阪北部付近が震源とされる1596年(文禄5年)の伏見地震によって元の位置から4メートル程度下に滑落したと考えられる。横穴式石室の石材は出土しなかったが、材質が異なる3種類の家形石棺の破片や金銅装馬具など副葬品の小片約620点が見つかった。
     これらの結果から、市教委は、3段構造の墳丘の最上段に三つの石棺を収めた横穴式石室が存在していたと判断した。鎌倉時代の文献などから、13世紀後半の盗掘後、同地震までの間に解体されたとみられる。

     和田晴吾・立命館大教授(考古学)の話 「驚くべき発見だ。横穴式石室をいち早く取り入れ、最高級の土木技術を使って施工したことがわかる。今城塚古墳の全体像が見えてきた」
  • 屯倉の献上としては、継体の時に磐井の反乱では、筑紫君葛子が父の罪に連座して殺されることを恐れて糟谷の屯倉を献上したとあるが、出雲神族の伝承では、継体・安閑・宣化は出雲神族の天皇で、継体は渡来人に殺され、その報にせっした各地の出雲神族は決起し、それにヒポコ族も合流し、その最大のものが九州の磐井の反乱であり、この混乱の中で安閑・宣化も殺されてしまったという
  • 百濟本記『太歳辛亥[531]三月、軍進至于安羅、營乞[宅-ウ]城。是月、高麗弑其王安。又聞、日本天皇及太子皇子、倶崩薨。』
    《太歳辛亥[531]の三月、軍進み安羅に至り、乞[宅-ウ]城を營す。是月、高麗、其王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子の皇子、倶に崩薨す。》

    (a)『廿三年春三月、百濟王、謂下[口多][口利]國守穂積押山臣曰「夫朝貢使者、恆避嶋曲【謂、海中嶋曲崎岸也。俗云、美佐祁。】毎苦風波。因茲、濕所齎、全壊无色。請、以加羅多沙津、爲臣朝貢津路。」是以、押山臣爲請聞奏。』
    《廿三年春三月、百濟王、下[口多][口利]國守穂積押山臣に謂いて曰く「それ朝貢する使者、恆に嶋曲【海中の嶋の曲の崎岸を謂うなり。俗に美佐祁と云う。】を避ける毎に風波に苦しむ。茲に因り、所齎を濕し、全に壊い色无し。加羅の多沙津を以て、臣の朝貢の津路と爲すを請う。是を以て押山臣、請を爲し聞奏す。》

    (b)『是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津賜百濟王。於是、加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改賜隣國。違元所封限地。」勅使父根等、因斯、難以面賜、却還大嶋。別遣録史、果賜扶余。由是、加羅結儻新羅、生怨日本。』
    《是の月、物部伊勢連父根・吉士老等を遣し、津を以て百濟王に賜う。是に加羅王、勅使に謂いて云う「此の津は官家を置いて從り以來、臣の朝貢の津渉と爲す。安んぞ輙く改めて賜隣國に賜い、元の封ずる所の限の地に違うを得る。」勅使父根等、斯に因り、面に賜うを以て難く、大嶋に却り還る。別に録史を遣わし、果して扶余に賜う。是に由り加羅、新羅と儻を結び、日本に怨を生ず。》

    (c)『加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅初送女時、并遣百人、爲女從。受而散置諸縣、令着新羅衣冠。』
    《加羅王、新羅の王女を娶り、遂に兒息あり。新羅初て女を送る時、并せて百人を遣わし、女の從と爲す。受けて諸縣に散置し、新羅の衣冠を着せしむ。》

    (d)『阿利斯等、嗔其變服、遣使徴還。新羅大羞、飜欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽【未詳。】報云「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」』
    《阿利斯等、其の服を變ずるを嗔り、使を遣わし徴し還す。新羅、大いに羞じ、飜りて女を還さんと欲し曰く「前に汝の聘を承け、吾れ便ち婚を許す。今既に若斯の若し。王女を還えさんと請う。」加羅の己富利知伽【未だ詳かならず。】報えて云う「夫婦に配り合せ、安んぞ更に離れるを得る。亦た息兒あり、之を棄てて何にか往かん。」》

    (e)『遂於所經、抜刀伽・古跛・布那牟羅、三城。亦抜北境五城。』
    《遂に經る所に、刀伽・古跛・布那牟羅、三城を抜く。亦た北境の五城を抜く。》

     (a)は百濟本記によったとされる継体七年夏六月条と同じ事実に関する所伝でり、513年のことであることは明らかです。
     (b)はやはり百濟本記によったとされる継体九年春二月条以降と同じ事実に関する所伝であり、515年のことです。
     (c)は三国史記新羅本紀法興王九年春三月条と同じ事実に関する所伝であり、522年のことです。
     (e)は継体二十五年条所引百濟本記にみえる辛亥年三月条の軍事行動に伴うものであることが、(d)にもみえる「阿利斯等」が登場する継体紀二十四年秋九月条から推定でき、531年頃のことと考えられます。
     つまり、(a)(b)(c)(e)は国外文献から年代が確認できるわけです。そして、この記事には二十年近い期間にわたる事実が書込まれています。この記事は、継体天皇の御代のこととして伝承されていたのではありましょう

  • 継体天皇23年条の加羅王阿利斯(ありし)等(と)のように加羅の王族を指す名称のようであるから、扶余族とは別種である。しかし葦北の国造阿利斯登は任那の支配にも関与していたことが言われているので、『太白逸史』の「任那に移った」という記事と符合する。もっとも『太白逸史』の成立は『日本書紀』より新しいのであるから、こういうことを勘案すると、新旧の記事が交錯しているものと考えられる。つまり朝鮮半島南西部にあった安羅国はもとは加羅の人の土地であり、百済系扶余族により乗っ取られたのであり、その支配に参加した勢力はなんと九州から戻った扶余族なのであった
  • October 2018 編集されました
    大伽耶は、百済の進出に対抗するために、新羅と婚姻関係を結んでいる。『三国史記』には、法興王九年(522)春三月、伽耶国王が使者を派遣して結婚を要請してきた。法興王は、伊サン・比助夫(ひじょふ)の妹を送った、と記す。しかし、524年には新羅が金官国へ侵攻し、また529年に異脳王(高霊伽耶9代目)は新羅従者の変服問題で大伽耶国が従者を放還するという事件が起きた。これにより新羅との婚姻同盟が破綻した。

    大伽耶(高霊)異脳王の年代は522年頃。正妃は新羅法興王の部下・伊サンの娘・比助夫の妹。この二人の間にできたのが月光太子。新羅との交流があったので史書に名が残ったか?

    514年に高霊の紀大磐が百済&物部軍と交戦していた頃の高霊の王は、異脳王だった可能性あり。高霊は百済に押され522年、多沙津を失う。それを機に、新羅に近づき婚姻同盟を結ぶ

    出来事
    雄略天皇9年5月

    紀大磐宿禰は父が病死したことを聞くと新羅に行き、小鹿火宿禰が掌っていた兵馬・船官と諸々の小官を執って自分勝手に振る舞った。
    小鹿火宿禰は深く大磐宿禰を憎んだ。
    そこで詐って韓子宿禰に言うには「大磐宿禰が私に『私が韓子宿禰の掌る官を執るのはそう遠くない』と言いました。どうか気を付けて下さい」と。
    これによって韓子宿禰と大磐宿禰に隔たりができた。

    百済王は日本の諸将の小事をもとにした不仲を聞き、人を遣わして韓子宿禰らに「国の境を見せたいので、どうかおいで下さい」と言った。
    韓子宿禰らは轡を並べて向った。

    河に着いて大磐宿禰は馬に河の水を飲ませた。
    この時に韓子宿禰は後ろから大磐宿禰の馬の鞍を射た。
    大磐宿禰は驚いて振り返り、韓子宿禰を射落とした。すると河に飲まれて死んだ。

    この三人の臣は以前から先を競い合って行く道を乱して、百済王の宮にたどり着かずに引き返した。

    小鹿火宿禰は紀小弓宿禰の喪のために帰国して、独り 角国つののくに に留まった。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年五月条】
    雄略天皇9年3月

    父の紀小弓宿禰が新羅で病死する。

    【日本書紀 巻第十四 雄略天皇九年三月条】

    顕宗天皇3年

    紀生磐宿禰は 任那を越えて 高麗に通った。
    西方で三韓の王になろうとして宮府を整え、 神聖かみ を自称した。

    任那の左魯・那奇他甲背らが謀って、百済の適莫爾解を 爾林にで殺した。爾林は高麗の地である。
    帯山城を築いて 東道 を守った。
    糧食を運ぶ津を断ち、兵士は飢えに苦しんだ。

    百済王は激怒し、 領軍 古爾解・ 内頭ないとう 莫古解らを遣わして、兵を率いて帯山を攻めさせた。
    生磐宿禰は進軍して迎え撃った。勢い盛んで向うところ全て破った。
    一を以って百に当たったが、俄に兵は力尽き、失敗を知って任那から帰った。

    これにより百済国は佐魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。

    【日本書紀 巻第十五 顕宗天皇三年是歳条】
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