阿刀氏、跡部、舵取 、水戸 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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『新撰姓氏録』
左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。
山城国 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
山城国 神別 天神 阿刀連 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
摂津国 神別 天神 阿刀連 – 神饒速日命の後。
和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。

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  • 跡部伊賀守信秋
    跡部祐慶、祖慶ともいう。
    跡部信長の長男。跡部氏は、小笠原長秀の次男跡部駿河守政家(跡部入道明海)が跡部清家を嗣ぎ、甲斐守護代に君臨。寛正6年(1465年)6月に、跡部政家の長男跡部上野介景家(跡部守隆)が武田信守の死をきっかけに謀反し、武田氏は諏訪氏の力をかりてなんとか跡部氏を鎮圧している。その後跡部氏は、小笠原持長の五男跡部左馬宗長(跡部政豊)が嗣ぎ、甲斐跡部氏の祖となる。 跡部宗長、跡部上野介宗勝、跡部上野介信長、跡部信秋へとつづく。 跡部信秋には、長男跡部信業、次男跡部大炊助勝資(跡部尾張守)がいる。 跡部勝資は武田晴信、武田勝頼に仕える。武田家朱印状の奉者をつとめたほどの重臣。武田勝頼の近侍をつとめていたこともあり、佞臣と評される。織田信長の信濃侵攻戦では、300騎持の譜代家老として織田軍、徳川軍を相手に奮戦。武田氏滅亡の際は武田勝頼に殉じ、諏訪で討死した。『甲陽軍鑑』では悪人に描かれているが、忠臣であった。 跡部信業には長男跡部業保がいる。 跡部信業は和田業繁が武田家に仕えたときに養子に入ったとされ、和田業繁を嗣ぎ和田信業と称した。 跡部勝資には長男跡部又七郎昌勝(跡部昌出)、次男跡部信濃守源昌がいる。 跡部信長には次男跡部越中守行忠(跡部泰忠)がおり、跡部行忠には長男跡部九郎右衛門勝忠(跡部美作守)、次男跡部行次(跡部幸次)がいる。 跡部勝忠には長男跡部藤五郎昌忠、次男跡部藤次郎昌秀(跡部民部)、三男跡部又次郎昌長(跡部雅楽)がいる。 跡部宗長には次男跡部次郎右衛門長与がおり、跡部長与には長男跡部次郎右衛門昌副、次男跡部越中守昌之(跡部正之)がいる。 跡部宗長の三男跡部惣左衛門利勝には長男跡部管次郎昌虎がおり、武田信虎の重臣として仕えた。 跡部昌虎には長男跡部昌直、次男跡部昌辰がいる。
  •  阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子(実子だという説もある)で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足(おおたり)や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主(あとのすくねかさぬし)や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)や、大学助(だいがくのすけ、大学寮の教授)をつとめた阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)らがいる。
     また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳(あとのむらじちとこ)と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)らが名を残している。
  • 安斗 智徳(あと の ちとこ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は阿刀とも書く。姓は連、後に宿禰。阿刀石楯の子で、子に夕張・大足があったとする系図がある。位階は従五位下。

    672年の壬申の乱のとき大海人皇子(天武天皇)に従い、戦後『安斗智徳日記』を記した。

    天武天皇元年6月24日、吉野宮に隠棲していた大海人皇子は、近江の朝廷に対する戦いを決意し、兵を集めさせた東国に向かって出発した。このとき従う者は妻子と舎人二十数人、女官十数人であった。安斗連智徳はその舎人の中にいたが、その後の乱の中で果たした役割については記録がない。

    天武天皇13年(684年)12月2日、阿刀連など50氏が宿禰の姓を与えられた。

    和銅元年(708年)1月11日に、正六位上から従五位下に昇叙された。以降六国史等に記載がなく、晩年の動静は不明。
  • 阿刀氏

    物部氏系の史書である『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝える。

    また平安時代初期、弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では以下の氏族が記載されている。

    左京 神別 天神 阿刀宿禰 - 石上同祖。
    山城国 神別 天神 阿刀宿禰 - 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    山城国 神別 天神 阿刀連 - 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    摂津国 神別 天神 阿刀連 - 神饒速日命の後。
    和泉国 神別 天神 阿刀連 - 釆女臣同祖。
    なお『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという
  •  新丸太町通の南、細い参道を入った住宅地の中に、小社の阿刀(あと、あとの)神社はある。その南には、有栖川(ありすがわ)の流れがあり、甲塚橋(安堵橋)が架かる。
     社は、物部(もののべ)氏の支族・阿刀氏の祖神を祀るといわれている。

    祭神は天照大御神という。



     平安時代、794年、平安京遷都にともない、阿刀氏は、河内国渋川郡跡部(あとべ、大阪府八尾市)の本拠から山城国に移り、その際に祖神・饒田命(うましにぎたのみこと)も遷座したという。阿刀氏は国家の祭祀を預かったという。
     また、804年、阿刀氏は、石上(いわがみ)氏と同祖であり、その祖神は大和国石上(いそのかみ)社にあり、器仗(武器、兵仗)を山城国葛野郡に遷座したという。社殿は、近代以前まであった新宮の社(現在地の西北、嵯峨新宮町)の地という。(『日本後記』、804年2月5日条)。この地には、「本宮の森」が存在していたという。(『山城国式社考証』)。
     866年、正六位上より従五位下に神階が進む。(『三代実録』、866年閏3月7日の条)。

    阿刀氏 阿刀氏は、794年の平安京遷都に際して河内国より移住した。
     奈良時代から平安時代の真言宗開祖・弘法大師空海(774-835)の母方の叔父に、奈良時代から平安時代初期の学者・阿刀大足(あとのおおたり、生没年不詳)がいる。空海は、大足を頼って上京し、論語、孝経、史伝、中国語、漢学なども大足に学んだ。空海の入唐の際にも、大足の援助があったという。
     上品蓮台寺(北区)には、空海の母の墓と伝えられる「阿刀氏(あとし)塔」がある
  • 仲国造は、

    「国造本紀」には成務天皇朝に伊予国造の同祖、建借間命を国造に定めると記され、『常陸国風土記』行方郡条にも建借間命が見えて那珂国造の初祖で行方郡の国栖の賊党を族滅したことが記されます。多臣の祖神八井耳命は常道仲国造の祖とされており(『古事記』神武段)、仲(那珂)国造が多臣の一族であったことは異伝がありません。

    仲国造一族の氏姓には壬生直・宇治部直・大舎人部などが史料に見えますが、のちに仲臣が本宗となっていたらしく、那珂郡を領域として、同郡式内社の大井神社・青山神社・吉田神社・藤内神社などを奉斎し、水戸市街地北部の愛宕山古墳(長径136Mの前方後円墳で、五世紀前葉の築造か)などを築造しました。その中心領域は、那珂川南岸の那珂郷・大井郷とみられます
    具体的には水戸市西北部から東茨城郡の常北町東部・桂村東部にかけての地域です。

    大井神社の祭神は建借間命とされ、その鎮座地である水戸市飯富町の「飯富」は、於保・飫冨(いずれもオホで、「多・太」と同じ)あるいは大部の転訛であり、「大井」は於保井とも書かれたと伝えます。青山神社は常北町東部の上青山に鎮座し、藤内神社は飯富町の北近隣の同市藤井町に鎮座します

  • 阿刀氏(あとうじ、安斗氏/安刀氏/安都氏/迹氏)は、「阿刀」を氏の名とする氏族。
    姓氏録では以下の氏族が記載されている。

    左京 神別 天神 阿刀宿禰 - 石上同祖。
    山城国 神別 天神 阿刀宿禰 - 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    山城国 神別 天神 阿刀連 - 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。
    摂津国 神別 天神 阿刀連 - 神饒速日命の後。
    和泉国 神別 天神 阿刀連 - 釆女臣同祖。
    なお『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、
    大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという。

    カバネは初め「連」であったが、のちに本宗氏は天武天皇13年(684年)の八色の姓制定にあたって「宿禰」を賜った。ただし、8世紀以後も「連」「造」のカバネを称する枝氏も存在した[1]。

    居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。

    安斗宿禰智徳 - 7世紀末の官人。壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)の吉野脱出に従事
    阿刀連酒主 - 8世紀中頃の下級官人。平城京の大溝遺構から、自筆と見られる木簡が出土した
    阿刀宿禰大足 - 8世紀後半の侍講。大学入学前の空海に諸学を教えた
    安都宿禰雄足 - 8世紀後半の下級官人。造東大寺司として活躍
  • September 2018 編集されました
    跡部神社(大阪府八尾市) - 河内国渋川郡の式内社。阿刀氏の氏名発祥地とみられる。
    阿刀神社(京都府京都市右京区) - 山城国葛野郡の式内社。阿刀氏の氏神社とされる

    人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある

    京都 阿刀神社
    国史では、貞観8年(866年)[原 1]に阿刀神を指すと見られる「降居神」に従五位下の神階が叙せられている

    大和川付替え以前の跡部は、その本流の長瀬川が流れる水陸交通の要衝でした。

    饒速日命の降臨に当たって船長、舵取りに、跡部・阿刀の名の記録があり、
    阿刀氏が大和川の舟運を支配していたものと思われます。

    *船長には跡部首等祖の天津羽原(あまつ・はばら)
    *梶取には阿刀造等祖の大麻良
  • 跡部氏の末裔と称する一族は武田遺臣となり旗本や藩士として続いており、幕末に「水戸の三田」と呼ばれ名の高かった水戸藩の武田耕雲斎も末裔のうちの一人である。耕雲斎ははじめ「跡部正生」という名であったが、『甲陽軍鑑』において「奸臣」とされていた祖の跡部勝資の所業を嫌い、藩主徳川斉昭に願い出て「武田」へと改称している。

    ーーー
    逸見有直は足利持氏を通じて幕府へ守護補任を要請するが、鎌倉府と対立していた室町幕府は、在京していた信満の弟である武田信元を甲斐守護に任じ、信濃国守護の小笠原政康に命じて信元を甲斐へ帰還させた。この際に跡部明海・景家親子が信元補佐のため守護代に任じられたと考えられている。『鎌倉大草紙』では、跡部親子を「何事も信元の旨を背き横行しけり」と評している。

    信元はまもなく死去したと考えられており、甲斐では信満の子である武田信長が、信長実子の伊豆千代丸を擁立して跡部親子と敵対した。永享5年(1433年)4月29日には跡部親子は輪宝一揆の支援を得て、甲府の荒川で日一揆と結ぶ信長方を撃退した。信長はこれにより甲斐を離れ鎌倉へ出仕している。三宝院満済『満済准后日記』永享6年(1434年)11月2日条によれば、永享6年11月から永享7年3月にかけて、明海は在京していた信満の子・武田信重を甲斐守護として下向させる工作を行っている。永享7年(1435年)3月に明海は熊野詣を理由に上洛し、満済に信重下向を求めるが、幕府は鎌倉府への影響を懸念して判断を衆議は難航した。さらに、『満済准后日記』によれば明海は信重の信任を得られず、向背を疑われていたという。

    跡部氏は信長の不在時に勢力を伸張し、『鎌倉大草紙』に拠れば、伊豆千代丸の意に反し独自の活動をしていたと言われ、永享5年(1433年)には鎌倉を出奔した信長と争う。

    永享10年(1438年)、信重は関東公方の持氏と公方を補佐する関東管領の上杉憲実の対立から発生した永享の乱の際に憲実援護のために帰国し、持氏と結び再起を図った逸見氏などと戦っている。『鎌倉大草紙』によれば、跡部親子は信重に滅ぼされたと記されているが、これは誤りであると考えられている。『王代記』によれば、明海は寛正5年(1346年)に死去する。

    『鎌倉大草紙』によれば、跡部氏は武田信昌時代には専横を極めたとされ、信昌幼少時から政務に介入して対立していたという。信昌時代に跡部氏が専横を極めていたとする跡部景家が甲州市の塩山向嶽庵に都留郡田原郷を安堵した長禄2年(1458年)8月28日の安堵状や、景家の代官が甲州市上岩崎の氷川神社殿を再建した寛正2年(1461年)の新殿造営棟札に景家を褒め称える語句があり、これらは跡部氏の強盛を示すものであるともされるが、前者は幼少時の信昌に代わり守護代が文書を発給しているケースであり、評価には慎重論もある。また、『甲斐国志』に拠れば武田一族の岩崎氏が跡部氏の横暴により滅ぼされたと記されていることも挙げられるが、信昌と跡部氏の争いにおける岩崎氏の立場は不明瞭であり、岩崎氏が地頭を務めていた岩崎郷が後に跡部氏の所領となっていることから岩崎氏が跡部氏に帰属していたとする説(秋山敬による)もあり、信昌と跡部氏の対立の構図には再検討が求められている。

    跡部氏と信昌の争いは甲斐一国規模となり、長禄元年(1457年)には甲府の小河原合戦(甲府市)、馬場合戦(比定地不詳)において信昌方を圧倒したという(『一蓮寺過去帳』)。跡部明海が寛正5年(1464年)に死去すると、信昌は信濃諏訪氏の援護を受け夕狩沢合戦(山梨市)において景家勢を撃破し、西保の小田野城(旧牧丘町)において景家を自害させる。この頃には甲斐は幕府や鎌倉府の影響下から脱しつつあり、跡部氏を排斥した武田氏は国内における守護権威の確立に務める。
  • 「続紀」神護景雲三年七月に、左京の人・阿刀造 子老ら五人が阿刀宿祢の姓を賜ったことがみえる。
    本拠地は河内国渋川郡跡部郷で、延喜式神名帳にみえる同地の跡部神社もこの氏の奉斎によると見られる。

    「紀」にアトの名辞を含む記事は四ヶ所みられ、雄略七年是歳条の倭国吾砺広津邑、および用明二年四月条に物部守屋の別邸があったとされる阿都は上記の河内 国渋川郡の地名で、敏達十二年是歳条の阿斗桑市、推古十八年十月条の阿斗河辺館は大和国城下郡の地名阿刀による。これらが渡来人の掌握や外交に関係した記 事にみられる地名であり、大和川水系の要所に位置することは、阿刀氏から義淵、玄昉、善珠といった仏教界で活躍した人々や、空海の叔父で伊予親王の侍講を 務めた阿刀宿祢大足、撰日本紀所へ出仕した安都宿祢笠主、令集解が引く「跡記」の著者といった学者を輩出した背景を成す渡来系の知識の摂取に有利な地を、 この氏が拠点としていたといえ、また氏の性格の一端を示すものである。
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