高照姫、下照姫、高木神、 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

高照姫、下照姫、高木神、 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

出雲大社攝壮 大六持御子神社によれば、
祭神 事代主神 高比売神 御年神であり、
事代主神、高比売神は大國主大神の御子神で國土経営に大神を輔けて力を尽くした。
後世大年神の御子御年神を合祀して 三歳社という。
高比売と御歳神は、別神

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  • 686年秦石勝が天皇の病気平癒を土佐大神に祈願。764年高賀茂田守が同族の円興と共にご祭神を高鴨味鋤高彦根神社に土佐から復した上で和魂を土佐神社に改めて鎮座せしめた。とされている。

    出雲国造神賀詞:己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ
    とある。


    高天原から葦原中国に最初に天菩比神を派遣したが3年経っても帰って来ない。次ぎに天若日子が派遣される。この神は味鋤高彦根の妹である下照姫と結婚し8年経っても帰国しなかった。ここで高天原は雉鳴女に様子をうかがわせる。色々事件が起こって味鋤高彦根が死んだ天若日子に間違われ怒って「間違えるな」といい剣で喪屋を倒したという

  • 味鋤高彦根(あじすきたかひこね)

    父:大国主命 母:多紀理毘売<素戔嗚尊
    子供:天八現津彦(都佐国造・長国造祖)  同母兄弟:下照姫
    別名:阿遅志貴高日子根・阿治志貴高日子根・阿遅須枳高日子・味耜高彦根など

    自分は、高日子なのに、何故か 妹は、下照姫
  • 阿遅鋤高日子のまたの名を迦毛大神。
    迦毛は鴨・賀茂であり、『姓氏録』に「賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也」。

    『続日本紀』に、「高鴨神」が大和の葛城山で、大泊瀬天皇(雄略天皇)と獲物を争い、 怒った天皇は、高鴨神を土佐に流したとある。 高鴨神は、はじめ、幡多郡の賀茂社へ流され、次いで土佐神社へ移り祀られた。 天平宝字八年(764)、高鴨神は、加茂朝臣田守を遣わして、大和国葛城へ復祀した。
    この高鴨神を阿遅鋤高日子根神とする説がある。

    『出雲国造神賀詞』に、大穴持命の子・阿遅須伎高孫根命を「葛城」に、 事代主命を宇奈堤に、賀夜奈流美命を飛鳥へと、 それぞれの神奈備において天皇の守護神としたとある。
  • 多伎神社(たきじんじゃ)は、愛媛県今治市古谷に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。「瀧の宮(多伎宮)」とも呼ばれ、伊予国内神名帳には「正一位 多伎不断大願大菩薩」とある

    創建年代は不詳。社伝によれば、崇神天皇の御代、饒速日命六代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代斎宮になったという(社頭掲示板による)。

    社殿は頓田川の支流・多伎川の畔にあり、周囲には30基余りの古墳が群集する(県指定史跡「多伎神社古墳群」)。多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられる。

    『三代実録』貞観2年(860年)に「伊豫国従五位上瀧神に従四位下を授ける」とあるのが文献上の初出である。以後累進して同12年(870年)には正四位上を授った。
  • 多伎神社
    参道の案内板によると、当社の創祀は、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神朝に饒速日命六代の孫・伊香武雄命が瀧の宮の社号を奉り、初代の斎宮となったとしています。
    高い神階や、名神大社であったことから、当地の最有力豪族の物部氏族・小市国造(越智直)との関係を考える説が多いようです。
    鎮座地「古谷」は隣接する「新谷」に対応し、古谷で祭祀を行っていた越智氏の一族が政庁を新谷に移し、当社を祭祀の場として残したものと見たり、大山祇神社が海上の大三島にあるため、陸地部にあって祭政を掌る越智氏が、かわりに多伎神社を祀ったのではないか、などとするものです。
  •  神武に敗れた後、長髄彦や建御名方命の後裔は大和を離れ、阿波や三河・遠江を経て信濃に遷住しました。信濃の諏訪国造、阿波の長国造、土佐の都佐国造等がその後裔になります。諏訪は当然として、阿波に存在する事代主命や建御名方命を祀る神社は、この長国造一族が祀ったものです。
  • 産霊神社(英彦山山頂付近) 
     往古高皇産霊尊鎮座の旧知であるという伝承があって、文武天皇時代に再建されたという。

     昔の英彦山の神領域の境界に大行事社を作り、その大行事社が高木神社であるというのである。地図上にプロットしてみると福岡県側にしかなく、すべて英彦山の北西部一帯の英彦山を中心とする半径45kmの北西部半円内に収まっている。前述の春日神社、高良大社もこの領域にある。また、高木神社の首班と言われている嘉麻市小野谷の高木神社を中心とする半径30kmの円内にすべての高木神社及び春日神社、高良大社が収まっている。

     嘉麻市小野谷の高木神社はすべての高木神社の首班であると同時に神武天皇が創始している。神武天皇はわざわざこの地にやってきて、高皇産霊神を祀っている
  • アジスキタカヒコネ

    大国主命と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。別名は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。

    伝承

    『古事記』では、葦原中国平定において登場する。シタテルヒメの夫で、高天原に復命しなかったために死んでしまったアメノワカヒコの葬儀を訪れた。しかし、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。シタテルヒメはアヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。

    『出雲国風土記』によれば、幼い時、その泣き叫ぶ声が非常に大きかったので、静かになるまで船に乗せて八十島(日本)を巡ったり、高屋を作って梯子をかけそれを上り下りさせたりした。天御梶日女(あめのみかじひめ)との間に雨の神である多伎都比古(たきつひこ)をもうけたとしている。
  • 『出雲国風土記』の「神門郡」と「仁多郡」に不思議なことが書かれています。

    「神門郡」・・・『高岸の郷。天の下をお造りになった大神の御子、阿遅須枳高日子命が昼となく夜となく、ひどくお泣きになった。そこでそこに高床の建物を造って、御子をおすえした。そして高いはしごを建てて登り降りさせて養育申し上げた。』

    「仁多郡」・・・『三津の郷。大神大穴持の御子、阿遅須枳高日子命が、おひげが長くのびるほどになっても、まだ昼も夜も泣いておいでになるばかりで、ことばもしゃべれなかった。そのとき、御親の大神が、御子を船に乗せてたくさんの島々を連れてめぐって、心を楽しませようとしたが、それでも泣きやまなかった。大神が夢でのお告げを祈願なさって、「御子が泣くわけをお教えください」と夢見を祈願なさったところ、その夜の夢に御子が口をきくようになったとご覧になった。』
  • アジスキタカヒコネ

    タケミナカタは敗れて諏訪に逃げ、コトシロヌシは海に隠れ、オオクニヌシは幽界に去りますが、アジスキタカヒコネが国譲りの後どうなったのかは書かれていないのです。

    アジスキタカヒコネは『出雲国風土記』では、口が聞けない弱々しい神として登場するが、『古事記・日本書紀』では、さっそうとした神として登場するのです。


    古事記では、オオクニヌシと宗像の女神であるタギリヒメの間に生まれた神で、同じ父母神からは下照姫(シタテルヒメ)が生まれたとされています。阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神とも表記されています。

    また、この神は、出雲に遣わされながら高天原に反逆を企てた「天若(日子)彦(アメノワカヒコ)」と親しくなり、アメノワカヒコの葬儀にも出ています。

    『出雲国風土記』では、物のいえない不憫(ふびん)な御子神のように書かれていますが、『古事記』では、妹の下照姫(シタテルヒメ)が、兄を表現するのに、
    ・・・「見たまえや、ひとびと。かの天上にて、機(はた)織る乙女の、うなじに懸(か)けし珠(たま)かざり。その緒に貫いた珠かざりの、穴玉うつくしく照るように、谷二つかけわたして、照りはえる神のすがたは、これぞわが兄の神。」(石川淳 訳)と歌をうたったとされています。

    この神は、出雲大社の東4~5キロの阿式谷というところの、『阿須伎神社(あずきじんじゃ)』に祭られています。『出雲国風土記』に「阿受伎社」とある神社です。出雲大社の境外摂社とされています。妹神のシタテルヒメの『大穴持御子玉江神社(通称 乙見神社)』も、出雲大社の境外摂社とされています。
  • アジスキタカヒコネ
    大和では『迦毛大御神(かものおおみかみ)』とされ、葛城山(奈良県御所市)の「高鴨(たかかも)神社」に祀られ、ここは全国の賀茂神社の総本社ともされています。なぜ、出雲のアジスキタカヒコネが大和で祭られるようになり、さらに、「京都の上賀茂・下鴨両社ほか賀茂(鴨)と名の付く神社の本家」とされるようになったのでしょ
  • スサノヲその子供イソタケルらについての記載があります。
    「韓郷の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、船がなかったらよくないだろう」とスサノヲは言います。そこでひげを抜いて放つと杉の木になり、胸の毛を抜いて放つと桧(ひのき)になり、尻の毛は槙(まき)の木になり、眉の毛は樟(くすのき)になりました。

    そして、「杉と樟、この二つの木は船を作るのに良い。桧は宮を作る木に良い。槙は現世の国民の寝棺を作るのに良い。そのためのたくさんの木の種子を皆播こう。」と言ったとされます。スサノヲの子のイソタケル・オオヤツヒメ・ツマツヒメが協力して種子を播き、日本は青山になったとあります。今もこのお子神たちは、材木の神・植林の神・造船・建築の神として祀られています。

    スサノヲはもとより、その子のイソタケル・オオヤツヒメ・ツマツヒメは皆出雲系の神です(今も、島根県大田市にそれぞれの神社があります)。なぜ、出雲系の神が、突然船のことを持ち出し、その材料になる木の種子を播いたのでしょうか。
  • たぎつひこのみこと

    『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后・天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。

    多伎は、お生まれになった地・多具(あるいは多久)のことらしい。

    多伎都比古の命の御霊代である石神は、日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられたといい、 瀧に通じるのかもしれない。

    多伎都比古命 を祀る神社

    田寸神社 徳島県三好郡東みよし町加茂字山根
    多伎神社 愛媛県今治市古谷乙47
    多久神社 島根県出雲市多久町274
    石部神社 兵庫県豊岡市出石町下谷62

    多伎神社(たきじんじゃ)は、愛媛県今治市古谷に鎮座する神社である。式内社(名神大)で、旧社格は県社。「瀧の宮(多伎宮)」とも呼ばれ、伊予国内神名帳には「正一位 多伎不断大願大菩薩」とある。
    祭神は多伎都比売命・多伎都比古命・須佐之男命である。
    創建年代は不詳。社伝によれば、崇神天皇の御代、饒速日命六代の孫である伊香武雄命が「瀧の宮」の社号を奉り、初代斎宮になったという(社頭掲示板による)。

    社殿は頓田川の支流・多伎川の畔にあり、周囲には30基余りの古墳が群集する(県指定史跡「多伎神社古墳群」)。多伎川を遡った山頂近くに川上巌(かわかみのいわお)と呼ばれる磐座があり、奥の院とされる。雨乞いに霊験があると伝えられ、もとはこの磐座信仰に始まると考えられる。『三代実録』貞観2年(860年)に「伊豫国従五位上瀧神に従四位下を授ける」とあるのが文献上の初出である。以後累進して同12年(870年)には正四位上を授った。

  • 多祁理比賣命は『下照比賣命』を木俣に挟んで出雲から宇佐に帰って来ましたが、『下照比賣命』はその後出雲にて天若日子命と結婚をしましたが、天若日子命は高木神の返し矢にて亡くなります。『下照比賣命』は大いに悲しみ泣き腫らしたと記されていますが、その後の彼女の行方は記されていません。如何なったのでしょうか?

  • 高良大社発行『高良玉垂宮神秘書同紙背』所収の大善寺玉垂宮の解説に次の通り記されていた。
    「神職の隈氏は旧玉垂宮大祝(大善寺玉垂宮の方。古賀注)。大友氏治下では高一揆衆であった。高良大菩薩の正統を継いで第一王子斯礼賀志命神の末孫であるという。」

    (以上要点のみ転写記入しました)
  • 『御井神』とは、『木俣神』とも呼ばれ『多祁理比賣命』と『大國主命』の間の子の『下照比賣命』とされる。
  • 久留米市の東部にある高良山の下を御井町と称し、朝妻に在ります『味水御井神社』へ高良玉垂宮より『行幸』行事が行なわれていました。『味水御井神社』の現在の祭神は水神の『水波能賣命』とされていますが、『御井神社』の本質は『御井神』と思われ『下照比賣命』を影にて祭って居たと考えられます。

    三井郡北野町大城(現在は久留米市北野町大城)に在ります赤司八幡宮(
    は、以前は『止誉比JIS+7957神社』(豊比JIS+7957神社)と呼ばれ、『水沼の君』(三潴郡の大善寺玉垂宮を指すものと考えられます)が祀り守って居たとされ、『景行天皇』の九州遠征の折、「道主の貴(ちぬしのむち)」として祀るよう当時の『水沼の君』(師木の県主)であった『猿大海』に命じて『止誉比JIS+7957命』(豊比JIS+7957命)の御魂を祀ったとされています。
  • 葛城氏にとって、大王家の三輪山の神(大物主神ではない)に当たるのは、アジ スキタカヒコネ命神と事代主命神である。

    シタテルヒメとは、アジスキタカヒコと同腹の妹神で、国譲り交渉のために降臨してきたアメノワカヒコの妻。
     アメノワカヒコが返し矢によって死んだとき(下記)、その死を嘆くシタテルヒメの泣き声が高天原まで届いた。
     その葬儀の場に弔問にやってきたアジスキタカヒコネが、死んだアメノワカヒコと間違われたことを怒って喪屋を切り払って飛び去ったとき(上記)、兄神の名を顕す歌をうたった(古事記)、とある
     シタテルヒメの事蹟は、この場面以外には見えないが、何故か、子授け・子育ての神として各地で崇敬されている

    アメノワカヒコとは天津国玉命(アマツクニタマ)の御子。国譲り交渉の使者として高天原から葦原中国に派遣されたが、シタテルヒメを娶って8年経っても復命せず、あげくに、その真意を問うために派遣された使者(雉の鳴女)を天神から授けられた弓矢で射殺してしまう。
     その矢が天まで届き、タカミムスヒが“邪心があればこの矢に当たって死ぬであろう”との呪文をかけて投げかえした矢(返し矢)に当たって死んだという。
  •   葦原中国に遣はせる天菩比神、久しく復奏さず。また何れの神を使はさばよけむ」と問ひたまひき。ここに思金神答へて白さく、「天津国玉神の子、天若日子を遣はすべし」とまをしき。故ここに天のまかこ弓、天のはは矢を天若日子に賜ひて遣はしたまひき。
     ここに天若日子、その国に降り到る即ち、大国主神の女、下照比売を娶し、またその国を獲むと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。

      ここに登場の下照比売神は難波の女神である。摂津国式内大社の比売許曾神社の祭神は延喜式で下照比売神と明記されている。
     『古事記』には、「難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神」とあり、『日本書紀』には、神名はないが、都怒我阿羅斯等が手に入れた白い石から変じたきれいな娘が難波と豊国の比売語曽社の神となったとあり、記紀ともに下照比売神とは記されていない。
  • 富家の伝承(出雲と大和のあけぼの 大元出版)では、スサノオは、大名持であった八千矛命の娘である高照光姫を娶って、高照光姫はイソタケル(天香語山命)を産んだという。
  • 筑紫申真『アマテラスの誕生』に
    古事記で阿治志貴高日子根命を同母妹の高比売命がその御名を顕そうとして歌った「天なるや、弟棚機(おとたなばた)のうながせる、玉のみすまる、みすまるの、あな玉はや、三谷二渡らす、阿治志貴高日子根の神ぞ。」で折口信夫氏は「三谷二渡らす」とは、蛇の姿となって訪れてくる神のそのかたちが、谷をこえて長大であることを形容したものだと説いているという。日本書紀の一書では、天稚彦の喪に集まった人が詠んだとも、下照姫が集まった人達に、岡や谷を照り渡るものは、味耜高彦根神であることを知らせようとして詠んだともされている
  • 海部氏の伝承では、大己貴神が多岐津姫命を娶って高光日女命を生んだとされる。
    『古事記』では、大国主神が多紀理毘売命との間に、アジスキタカヒコネ神と高比売命が生まれたことになっている。このことから、高光日女命と高比売命は同じ神と考えられる。

    古事記では高比売命はまたの名下光(したてる)比売とされ、下照比売ともある。すなわち、高光日女命、高比売命、下光比売命、下照比売命は同神で、高光日女命は高照ヒメということになる。
    下照ヒメが高照ヒメでもあるということは、もともとは高照下照ヒメということだったのではないだろうか。天照国照神と高照下照ヒメとの間に天香語山が生まれたというのが原型か?
  • 下照姫の謎

    斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、下照姫は大国主命と多紀理毘売命の娘ではなくて、因幡の白兎の八上姫との娘である。妻問婚の時代一般的にこどもは母方の一族で育てられるゆえ母方の一族が住む因幡の国のすぐ隣のここが、富家伝承の方が理にはかなっておるように思う。

    しかし、「木俣神」として、斐川町の御井神社に取り残され、大国主命の一族に育てられたのかもわからないが・・・。ちなみに富家伝承では、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命は下照姫ではなく、多岐津姫であり、出雲風土記における阿陀加夜奴志多吉比賣命は所造天下大神(大国主命)の「御子」とは間違いで「御妃」であるようだ。
  • 葛城地方とは、古代の感覚では現葛城山と金剛山周辺のことですが、この葛城山地は、奈良盆地を挟んで大和の三輪山とは、おおよそ東西に位置します。

    コトシロヌシを祀る神社は葛城地方にあり、それは鴨族により神祀りがされていたのですから、鴨族の神に違いありません。
      すると、国譲りのあった「出雲」というのは、島根県の狭義の「出雲」ではなく、「出雲国」が畿内までもを、勢力下に置いていた頃の「出雲」であり、それは葛城地方であったことになります。

    『延喜式』神名帳に記されている「大和国」名神大社二十六社のうち、葛城の五社は、次の三つのグループに別けることができます。
      1.葛城坐火雷神社

      2.鴨都味波八重事代主命神社
         葛木御歳神社
        高鴨阿治須岐託彦根命神社

      3.高天彦神社

    このうち、1.の葛城坐火雷神社は、尾張族の神社であり、祭神は火雷神です。2.の三社は、既出ですが、コトシロヌシを祀った鴨族の神社、3.の高天彦神社の祭神は、タカミムスビなのですが、どの氏族によって祀られたものなのか、はっきりしません。
  • 磯城を本拠とした神武王朝は、葛城の姫を迎え、大和の地を平定して行ったのであろう。
    大和の鴨氏、摂津の三島氏との同族化を進めた。
  • 高天彦神社
    ここはタカミムスビを祀っていますが、「高天彦」は「建田勢命」の亦名として、『勘注系図』は記しています。そして「建田勢命」の妃に「葛木高田姫」を記しています
  •  古代日本で活躍した賀茂氏であるが、伝承を検討すると三系統あるらしい。
    第一の系統が味鋤高彦根命を始祖とする
      味鋤高彦根命-天八現津彦命→都佐・長国造
    第二の系統が事代主命を始祖とする
      事代主-天日方奇日方命→賀茂・三輪君
    第三の系統が賀茂建角身命を始祖とする
     賀茂建角身命-玉依彦-生玉兄日子命→賀茂・鴨県主
    である。この三系統の共通点はいずれも葛城山麓に住んでいたということである。

     この中で味鋤高彦根命=賀茂建角身命であることが判明しており、事代主は賀茂建角身命の娘玉依姫の夫である。よって、三系統の賀茂氏は一つにまとまる。
  • 英彦山でも高木神から天忍穂耳へ聖地を譲り渡した話が伝わっています。
    高木神とは、火明・饒速日の母親、「栲幡千千姫」
  • December 2017 編集されました
    楮幡千千姫。 タクハタチヂヒメ。

    高皇産霊神((高木神)の娘(孫との説も有)で天孫ニニギの母親です。別名、玉依姫とも呼ばれます。

    父である高木神は、高来郡の名の由来になった、弥生時代の豪族です。

    雲仙の田代原(高城原)を拠点に壱岐・対馬の海洋族の天族と二部族連合を結んでいました。
    海族と山族の連合は当時の多くの部族の形態です。

    高木族と天族の連合の集落を『高天原』と呼び、天皇家の初期の神話になります。

    日本で千千の地名は島原半島の千々石町、野母半島の千々町の2ヶ所。この長崎の二つの地名が挟む海。明治期に橘湾に変名するも、古代から千々石湾と呼ばれていました。
  • 大伴連狭手彦 おおとものむらじさでひこ

    生没年 未詳

    系譜など 金村の子。新撰姓氏録には大伴連・榎本連の祖とある。万葉には大伴佐提比古郎子とある。

    略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉05/0868~0875)。欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し、百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討った、という(日本三代実録)
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