墨書、漢字、七枝刀銘文 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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平成九年八月には嬉野町の貝蔵遺跡から出土の土器には墨で人の顔や文様、記号を記した古墳時代初期(三世紀前半)の土器が、同町の片部遺跡から出土の古墳時代前期(四世紀前半)の土器には墨で「田」の文字が墨書きされたものが発掘(平成十一年十二月)されている。

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  • 日本書紀 神功皇后 摂政52年 
    治世51年春3月、百済王はまた久氐氏を遣わして朝貢した。そして皇太后は皇太子と武内宿禰に語って言った。 「わが親交する百済国は天の賜り物です。人為によるものではない。見た事もない珍しい物などを、時をおかずに献上 してくれます。私はこの誠を見て常に喜んで用いている。私と同じように後々までも恩恵を加えるようにお願う。」 この年、千熊長彦を久氏らにつけて百済国に遣わし言った。 「私は神のお示しに従って往き来の道を開いてきた。海の西を平定して(定海西)百済に与えた。いま誼を結んで長く寵賞しよ う。」 これを聞いた百済王父子は共に額を地にすりつけて拝み言った。 「貴い国の大恩は天地より重く、いつの日までも忘れる事はないでしょう。聖王が上においでになり、日月のごとく明か です。今私は下に侍って堅固なことは山岳のようで西蕃となってどこまでも二心を持つ事はないでしょう。」

    治世52年秋9月10日、千熊長彦は久氐氏と伴だって百済にやって 来た。そして七支刀一口、七子鏡(ななつこのかがみ)一 面、及び種々の重宝を受け取った。 「我が国の西に河があり水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。その遠いことは七日間行っても行き着きません。 まさに、この河の水を飲み、この山の鉄を取り、ひたすら聖朝に奉ります。」 そして孫の枕流王に語って言った。 「今、我が通うところの海の東の貴い国は、天の啓かれた国である。だから天恩を垂れて海の西の地を賜った。これに よって国の基は固まった。お前もまた誼を修め、産物を集めて献上する事を絶やさなければ死んでも悔いはない。」 それ以降毎年相次いで朝貢した。

    ここに谷那の鉄を聖朝(倭国)に奉じると言っているのが、ことさら重要な点である。百済はなぜ谷那(クンナ)の鉄を倭国に供給する約束をしたのだろうか。鉄資源として、谷那(クンナ)の鉄が最良質であることは理由としては当然であるが、この鉄山が目支国(馬韓の辰王の一国)の領地にあったのを、百済・近消古王がが奪ったためであろう。
  • 七支刀は谷那(こくな)の鉄で造られている。
    孫の枕流王(チムニュアン375-385)に語ったとある、当の王は近肖古王(クンチョゴワン)である。第 13代王/近肖古王・第14代/近仇首王・第 15代王/枕流王(チムニュワン)であるので、枕流王の祖父は近肖古王だ。

    七支刀を送ってきたのは近肖古王(クンチョゴワン)で、受け取ったのは、書記では神功皇后となる。
  •  古代中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する「伊都国」の都だったとされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀)のものとみられる国内最古級のすずりの破片1個が出土した。同市教育委員会が1日、発表した。

    http://www.sankei.com/west/news/160301/wst1603010085-n1.html

     弥生時代のすずり発掘は国内2例目。市教委は「魏志倭人伝は伊都国で文書が取り扱われていたと記しており、裏付けにつながる」として、日本の文字文化が伊都国から始まった可能性を示す史料と位置付けている。

    市立博物館で一般公開

     破片は長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ6ミリ。実際に使用されたようなすり減りがあり、市教委は墨が使われた跡がないか詳しく調べる。当時のすずりは板状で、水と粉末や粒状の墨を乗せ、取っ手を付けた薄い正方形状の「研石」ですりつぶしていたという。

     昨年12月、弥生~古墳時代の人々が不要になった土器を捨てたとみられるくぼ地を調査して見つかった。ここでは中国・前漢が朝鮮半島支配のために設けた「楽浪郡」製の弥生後期とみられる土器が多数見つかっているため、市教委はすずりも同時期の1~2世紀ごろに楽浪郡で作られたとみている。

     市教委は「伊都国では、楽浪郡からの渡来人が外交を担っていたと考えられる。中国からの賜り品への返礼書などを作るため、半島から持ち込んだのでは」と推察する。

    2016.3.1
  • 『古事記』では、応神天皇の治世に百済王照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とされている。
    この照古王のことを『日本書紀』では肖古王としていて、年代や系譜関係からみて近肖古王に比定されている

    『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に献上し
  • 宮崎市定氏が指摘するとおり、百済が西晋にはじめて冊封された時期は、咸安二年(372年)です。

     朝貢国は、冊封される以前に、その西晋の年号を使用することは許されません。冊封された372年以降に、はじめて西晋の年号を使うことが許されます。また使わなければなりません。

     したがって、七支刀の年号は、372年以前である西晋の太和四年(369年)でないことは、明らかだと思います。
     これは、とても重要なポイントです。

     そもそも、七支刀を重要な贈物であるとするならば、重複になりますが、その刀に刻む年号は、正式な文字で表されるはずですから、「太和」を「泰和」に換えて陰刻したとする通説は無理があります。

     七支刀の年号の頭の文字は「泰」であり、それは正しい文字を使った年号ですので、当然、「泰」から始まる年号以外は該当しないでしょう。
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