天武天皇、長皇子、百済王 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 舒明ー聖武
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高市皇子(母は尼子娘)、
十市皇女(母は額田姫王)、
長皇子・弓削皇子(母は大江皇女)
舎人皇子(母は新田部皇女)
新田部皇子(母は五百重娘)、
穂積皇子・紀皇女・田形皇女(母は蘇我赤兄の娘)、
忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女(母は宍人大麿の娘)、
但馬皇女(母は氷上娘)などがいる。 

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コメント

  • 皇極天皇で、皇極元年は日照りの続く干旱であった。さまざまな雨乞がなされたが効き目がなかった。蘇我蝦夷が寺々で力を入れさせた仏教の 請雨祈祷も、小雨を見ただけだった。ところが、皇極天皇が自ら跪(ひざまづ)いて天を仰いで四方礼拝したところ、たちまち大雨となり五日間天下を雨で潤し た。多くの農民は「至徳天皇」と称讃した。皇極天皇、降雨祈祷で仏教の祈祷に勝ったのだ。跪いて四方礼拝する祈祷は道教四神に向かって行う。玄武・青龍・ 朱雀・白虎である。玄武は北 ・青龍は東・朱雀は南・白虎が西である。天武・持統天皇陵,牽牛子塚(けんごしづか)古墳(斉明天皇陵ともいわれる)、天智天皇陵(京都山科)、束明神古 墳(草壁皇子陵とされる)、中尾山古墳(文武天皇陵)などは他の古墳には見られない八角形の形をしている。これらは四神崇拝の道教の宇宙観の表れと見るべ きだろう。
  • 大海人は、胸形君徳善の女、尼子娘を納して高市皇子をもうけていた(白雉五年 654年)。兄弟の中では最年長である。高市皇子は壬申の乱では総大将となり、大海人を勝利に導くことになる。尼子娘は寝所にはべる女官とされる。大海人は、なぜ身分の低い女を最初に納さねばならなかったのか? 皇弟にしては不釣り合いである。この頃、朝堂での大海人の身分は低いものであったとしたい。白雉五年には第三次遣唐使が派遣されている。遣唐使の派遣に胸形氏の海人が動員され、その関係で、大海人は胸形君と好誼を結んだのであろう。なお、天武朝から文武朝で再開される(天宝二年702年)まで、遣唐使は中断する。
  • 『旧唐書』(くとうしょ)

    五代時代の後晋国の政治家であった劉句(リュウク=887~948)が編纂した正史。
    倭国に関しては巻199上の「東夷」条に記載されている。
     『旧唐書』は倭人国について「倭国」と「日本国」の二つを記している。その違いは「日本国」条の最初にやや詳しく記述するが、かなり曖昧な説明になっており、古来より史学の論争点となっている。
      < 倭国 >

     倭国は古の「倭奴国」なり。京師を去ること一萬四千里、新羅国の東南の大海の中にある。(略)東西は五ヶ月かかる広さで、南北は三ヶ月かかる広さがある。(略)四面小島にして50余国、皆付属せり。
     その王の姓はアマ(阿毎)氏。一大率を置き、諸国を検察す。(略)官を設くるに12等あり。(略)衣服の制、すこぶる新羅に類せり。
     貞観5(631)年、使いを遣わし、方物を献ぜり。太宗その道の遠きをあわれみ、所司に勅して歳貢を無くさしむ。また、新州刺史・高表仁を遣わし、節を持たせ、往きてこれを撫せり。表仁綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還れり。
     (貞観)22年に至り、また新羅に付して表を奉じ、以って起居を通ず。

  • 余豊と福信・・・扶余豊(フヨ・ホウ)のこと。百済31代義慈王の子で扶余隆(フヨ・リュウ)の弟。

     倭国に人質となって滞在していたが、故国の危機のため、帰国していた。日本書紀の「舒明天皇紀」によれば、その3年(631)3月条に「百済義慈王、王子・豊章を入質せしむ」と見える。また、同じく書紀の「天智天皇紀」の元年(663)に「正月、百済の佐平・鬼室福信に矢を十万隻、糸五百斤、綿一千斤・・・(略)、を賜う。(略)この月、唐人・新羅人ら高麗を撃つ。高麗救いを国家に乞う」とあり、さらに「五月、大将軍大錦中・阿曇比羅夫連ら、船師170艘を率いて豊章らを百済国に送る」とある。
     631年から663年まで30年余りを倭国で人質として過ごしていた余豊であったが、660年に滅ぼされた百済王室最後の血統ということで、百済再興のため倭の水軍とともに半島へ渡った。しかし佐平という最高の臣・福信を疑って殺害し、結局は祖国を捨てて逃亡してしまう(後述)

  • 劉仁軌・・・仁軌の地位は分かっていないし、生年・没年も不明であるが、同僚の孫仁師が「右威衛将軍」という大和朝廷での「右兵衛督(うひょうえのかみ)」クラスであったことを考えると、「左兵衛督」ほどの高位の武官であったと思われる。


     扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆大潰せり。
     余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

    (注)
    白江・・・白村江のこと。百済の首都である熊津(扶余)を流れる錦江の下流の河口一帯を指している。陸軍と会同したという「周留(ツル、スル)城」はそこに最も近い城塞であった。

    舟400艘・・・倭国側の被害数をここでは400艘とするが、上述の「天智天皇紀」五月条では「船師170艘を率いて」とあるように170艘であった。
  • tokyoblogは言いました:


    劉仁軌・・・仁軌の地位は分かっていないし、生年・没年も不明であるが、同僚の孫仁師が「右威衛将軍」という大和朝廷での「右兵衛督(うひょうえのかみ)」クラスであったことを考えると、「左兵衛督」ほどの高位の武官であったと思われる。


     扶余隆、水軍および糧船を率い、熊津江より白江に往き、陸軍と会し、同じく周留城に趣く趣けり。仁軌、白江の口において倭兵に遇い、四戦にかち、その舟400艘を焚けり。煙焔は天に漲り、海水みな赤く、賊衆大潰せり。
     余豊、身を脱して走れば、その宝剣を獲たり。偽りて王子・扶余忠勝・忠志ら士女および倭衆ならびに耽羅国を率いて使いし、一時に並びて降りれり。百済の諸城はみな帰順すれど、賊師・遅受信、任存城に拠りて降りざりき。

    (注)
    白江・・・白村江のこと。百済の首都である熊津(扶余)を流れる錦江の下流の河口一帯を指している。陸軍と会同したという「周留(ツル、スル)城」はそこに最も近い城塞であった。

    舟400艘・・・倭国側の被害数をここでは400艘とするが、上述の「天智天皇紀」五月条では「船師170艘を率いて」とあるように170艘であった。

    倭衆・耽羅国の投降・・・倭国によって百済王に就任したと思われた余豊が逃亡したあと、百済王家の忠勝・忠志はじめ臣(士)や官女たちとともに投降したのが、倭衆と耽羅国であった。
     倭衆とは阿曇比羅夫に率いられて行った兵士だけではなく、五島の白水郎のように船運に長じているが故に徴発されて戦地に赴いた人々も含めての「倭衆」であろう。「倭兵」と言っていないことに注意する必要がある。
  • 8日、熊津道行軍総管・右威衛将軍の孫仁師らが白村江にて百済の余衆及び倭兵を破った。
    その周留城を抜く。その経緯は、以下の通り。
      大唐軍の劉仁願、劉仁軌が真峴城に勝った後、高宗皇帝は孫仁師へ、艦隊を率い海上からこれを助けるよう 詔した。百済王・豊璋は倭人を味方に引き込んで唐軍を拒んだが、孫仁師は劉仁願、劉仁軌と合流して、 その威勢は大いに振るった。諸将は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めるよう欲したが、 劉仁軌は言った。

      「加林は険固だ。急攻したら士卒を傷つけ、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。 周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つこと。まずこれを攻めよう。 周留に勝てば、諸城は自ら下る。」

      ここにおいて孫仁師、劉仁願と金法敏は陸軍を率いて進んだ。劉仁軌と杜爽、扶余隆は 大唐艦隊及び糧船を率いて熊津から白村江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かった。
      倭軍と白村江口にて遭遇。四戦して全勝し、その倭軍舟四百艘を焼く。 煙炎は天を焦がして海水は朱に染まる。
      百済王・豊璋は体一つで脱出し高句麗へ逃げた。王子・忠勝、忠志らは衆を率いて降伏する。 こうして百済は悉く平定したが、ただ別帥・遅受信だけは任存城へ據って降らなかった。
      さて、ここに百済西部の人、黒歯常之という名将がいる。彼は、身長七尺余、驍勇で謀略があった。 百済へ仕えて達率兼郎将となったが、これは中国で言う刺史のような職務だ。
      かつて蘇定方が百済を征服した時、黒歯常之は手勢を率いて降伏した。ところが蘇定方は王と王子を縛りあげ、 兵には掠奪をさせたので、壮者が大勢死んだ。 黒歯常之は懼れ、左右十余人と本部へ逃げ帰り、亡散者をかき集めて任存山を保ち、柵を結んで守備を固めた。 旬月の間に3万人が集まった。
      蘇定方は兵を遣ってこれを攻めたが、黒歯常之は拒戦し、戦況は膠着していた。
      黒歯常之らは、各々険に據り鬼室福信に応じたが、百済が敗北すると部下を率いて降伏した。
      劉仁軌は黒歯常之、相如とその部下達へ任存城を取らせようと、兵糧を与えてこれを助けた。 すると孫仁師が言った。

      「こいつらは獣心だ。何で信じられるか!」

      だが、劉仁軌は言った。

      「私の観るところ、この二人は忠勇で謀略もあり、信に厚く義を重んじる人間だ。 ただ、前回は託した者が悪人だっただけ。今、まさに感激して功績を建てる時だ。嫌疑は不用だ。」

      遂に糧杖を配給し、兵を分けてこれに従う。 大唐軍は任存城を抜き、百済の遺臣・遅受信は妻子を棄てて高句麗へ逃げた。
      劉仁軌は兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は還るよう詔が降りた。 百済は戦乱の後で、家などは焼け落ち、屍は野に満ちていた。 劉仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、官長を一時代行し、 道路を開通させ、橋梁を立て、堤防を補強し、陂塘を復旧し、耕桑を勧め、貧乏へ賑給し、 孤老を養い、大唐の社稷を立てて正朔と廟諱を頒布した。百済人は大いに悦び、皆、生業に安んじた。 劉仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、 士卒を訓練し、高句麗を図った。
      劉仁願が京師へ至ると、高宗皇帝はこれへ尋ねた。

      「卿が海東で前後して上奏した事は、皆、機宜に合っており文理も備わっている。 本は武人なのに、どうしてそんなにできたのだ?」

      劉仁願は言った。

      「これは皆、劉仁軌のやったことです。臣の及ぶところではありません。」

      高宗皇帝は悦び、劉仁軌へ六階を加え、帯方州の正式な刺史とし、長安へ弟を築き、 その妻子へ厚く賜った。また、使者を派遣して璽書を賜り、 これを慰労して励ました。
      上官儀が言った。

      「劉仁軌は白衣として従軍したのですが、よく忠義を尽くしました。 劉仁願は節制を持ち賢人を推挙しました。皆、君子と言うべきです!」
  •  旧唐書劉仁軌列伝

    全百二十行約四八〇〇字一二段落の長文である。内三段落が関係個所である。総三十二行。初段は六五九年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ六六〇年、六六一年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。六六一年の七月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、六六二年の二月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、二月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる三月でこの二段目は終わる。そして、第三段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。(この孫仁師の水軍の到着は新唐書の本紀では六六二年の七月と明記されているが、ここには時期の明記はない。)そこで、扶余隆も含めた、軍議を開き周留城への攻撃を決定、この攻撃の中で、白村江の海戦が起こる。この様に第二段は尋而、第三段は俄而とその間に時間の連続が示されていて、同年であることに疑いはない。六六二年である。
    三、新唐書本紀、百済伝、劉仁軌列伝(一〇六〇年)
     新唐書本紀第三高宗の、六六二年七月には「孫仁師以伐百済」の進軍到着の記事がある。これは、旧唐書の本紀では書かれていなかった。そして、六六三年九月には「孫仁師及百済戦於白江、敗之」となっている。これは、非常に重要な記述だ。本紀に書かれている事なのだから、確定である。六六三年が新唐書の立場だと言っても過言では無い。
     百済伝では旧唐書の伝と比べるとまず、五行に成っていて、旧唐書の伝の十二行から半分以下の量になっている。この文は旧文と同じく六六二年七月から始まっているので、この文の白村江を六六三年の九月に比定する為には、中間に、「この年も暮れ、翌年九月」とか、「しばらく混戦、明けて九月」とか、一年二ヶ月の時間の経過を読み込む必要があるが、文面上にはこの種の文字は無い。つまり、新規に漢字の四文字ぐらいの挿入が有れば、完全に六六二年と六六三年に分解できるのだが、そういう文字は無い。だから、百済伝は六六二年となる。
     劉仁軌列伝は、六六二年二月の高宗の勅に対して、彼は撤退せずに留まり、皇帝の高句麗討伐の礎となる有名な演説があり、その後、新羅の親征軍が到着して、新羅との兵站が繋がり、休息していると六六二年七月の孫仁師の水軍が到着、扶余隆の糧食の水軍も到着して軍議、陸軍と水軍が周留城を責める為に各々出発、白村江で合流、水軍はさらに賊扶余豊の水軍と白村江の口で遭遇したので、之を四度攻め皆勝つという内容になる。これも、六六二年である。
     このように本紀以外は六六二年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が六六三年なのか、その根拠が何かである。
     新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか? 全部である。神武天皇以来、五十八代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(八八五年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである
  • tokyoblogは言いました:

     旧唐書劉仁軌列伝

    全百二十行約四八〇〇字一二段落の長文である。内三段落が関係個所である。総三十二行。初段は六五九年の劉仁軌の青州刺史就任で直ぐ六六〇年、六六一年の夏までの記載で終わり、次の段は「尋而」で始まる。ほどなく、長時間の経過が無い事を示している。六六一年の七月の蘇定方の平壌討伐が失敗して、六六二年の二月に撤退するのだが、劉仁軌は熊津に留まり、二月中に新羅親征郡が到着して合流、新羅からの兵站が繋がることで唐軍が意気盛んになる三月でこの二段目は終わる。そして、第三段目は「俄而」で始まる。ほどなくの意味である。扶余豊が福信を殺して、高句麗と、倭国に援軍を要請する。(つづいて)孫仁師の水軍が到着するのである。(この孫仁師の水軍の到着は新唐書の本紀では六六二年の七月と明記されているが、ここには時期の明記はない。)そこで、扶余隆も含めた、軍議を開き周留城への攻撃を決定、この攻撃の中で、白村江の海戦が起こる。この様に第二段は尋而、第三段は俄而とその間に時間の連続が示されていて、同年であることに疑いはない。六六二年である。

    新唐書本紀、百済伝、劉仁軌列伝(一〇六〇年)
     新唐書本紀第三高宗の、六六二年七月には「孫仁師以伐百済」の進軍到着の記事がある。これは、旧唐書の本紀では書かれていなかった。そして、六六三年九月には「孫仁師及百済戦於白江、敗之」となっている。これは、非常に重要な記述だ。本紀に書かれている事なのだから、確定である。六六三年が新唐書の立場だと言っても過言では無い。
     百済伝では旧唐書の伝と比べるとまず、五行に成っていて、旧唐書の伝の十二行から半分以下の量になっている。この文は旧文と同じく六六二年七月から始まっているので、この文の白村江を六六三年の九月に比定する為には、中間に、「この年も暮れ、翌年九月」とか、「しばらく混戦、明けて九月」とか、一年二ヶ月の時間の経過を読み込む必要があるが、文面上にはこの種の文字は無い。つまり、新規に漢字の四文字ぐらいの挿入が有れば、完全に六六二年と六六三年に分解できるのだが、そういう文字は無い。だから、百済伝は六六二年となる。
     劉仁軌列伝は、六六二年二月の高宗の勅に対して、彼は撤退せずに留まり、皇帝の高句麗討伐の礎となる有名な演説があり、その後、新羅の親征軍が到着して、新羅との兵站が繋がり、休息していると六六二年七月の孫仁師の水軍が到着、扶余隆の糧食の水軍も到着して軍議、陸軍と水軍が周留城を責める為に各々出発、白村江で合流、水軍はさらに賊扶余豊の水軍と白村江の口で遭遇したので、之を四度攻め皆勝つという内容になる。これも、六六二年である。
     このように本紀以外は六六二年である。しかし、ここで、重要なことは、何故、本紀が六六三年なのか、その根拠が何かである。
     新唐書の日本伝に根拠がある。ここに原因がある。日本伝で、日本書紀を日本の正式の「史書」として認定したのである。これも、新唐書の史書としての役割である。旧唐書とここが違う。日本書紀のどの部分を認定したのか? 全部である。神武天皇以来、五十八代光孝天皇・唐朝僖宗光啓元年(八八五年)までの日本の歴史を認定したのである。この事は決定的に重要である。新唐書以後、日本書紀を、信頼できる第一次歴史資料として、日本史の基準文献として、「日本の史書」として認定したのである

  • 司馬光「資冶通鑑」の白江は六六三年である。

    結論を言うと、「唐書」の「劉仁軌列伝」を六六二年と六六三年に振り分けて、他の史実の記載の間に挿入したのである。「白江」の文字の有る文章は六六三年に、その前の文章は六六二年に挿入した。

     資冶通鑑の龍朔二年(六六二年)一一の条に「劉仁軌列伝」の六六二年二月、高宗の熊津撤退の勅書に対して劉仁軌の有名な残留宣言に当たる演説が挿入される。その後、六六二年七月に熊津の東の四城を攻略してさらに、新羅の親征軍が到着して兵站が繋がり、さらに、孫仁師の水軍援軍七千人が熊津に到着した所までが挿入される。その後の八月からは、全くの別の事件の記載である。
     そして、龍朔三年(六六三年)九月の条に「劉仁軌列伝」の続き、つまり、孫仁師も到着したので、唐軍も元気になり、ここで軍議を開き、加林城を攻めるか、周留城を攻めるか検討し、劉仁軌の提案で周留城を攻める事に決し、水軍は熊津江を出発、陸軍と白江で合流、一緒に周留城に向けて進軍、(ところが偶然)劉仁軌水軍が倭兵の水軍と遭遇して、白江口で戦うこと四度全て勝つ。が挿入される。
     二箇所に振り分ける事で、この時間差一年二ヶ月は一挙に解決される。六六三年の九月のこの条の前後は百済とは全く別の記事であり、六六二年二月の記事も表面的には前後の記事との矛盾はない。
     但し、さらに詳しく見ていくと、劉仁軌列伝の文章との違いが全く無い。実は旧唐書百済伝は劉仁軌の水軍の相手は扶余豊で、劉仁軌列伝では倭兵である。資冶通鑑の倭兵は日本書紀からの採用であるとは言い切れない。さらに、唐書は会戦場所は白江口で日本書紀は白江である。この点は資冶通鑑は唐書を採用している。海戦であり、淡水での戦闘ではない。又、日本書紀では扶余豊はこの壊滅した水軍から小船で脱出して高句麗に逃げ、周留城は十日後に降伏した事になっているが、資冶通鑑は劉仁軌列伝どおり周留城の陥落は殊更の記載なく、扶余豊は逃げ、王子は師卒ともに降伏したと成っている。又、倭船は四〇〇艘炎上するが日本書紀にはこの点は見当たらない。
  • 新羅本当に本記
    文武王の六七一年の回想である。回想とは六四〇年以来の、数十年の回想の中に、六六三年の記述がある。この記述は出物である。全体に、この回想は新羅の状況を赤裸々に描いている。その中の六六三年の一節である

    。「龍朔三年になると、総管の孫仁師が兵を率いて熊津府城を救援にきました。新羅軍もまたこれに同行して、出陣し、両軍が周留城にきたとき、倭国の兵船が百済を救援にきました。倭船は千艘もいて、白沙に停泊し、百済の精鋭な騎馬隊が、その岸辺で船団を守っていました。新羅の強力な騎馬隊が、唐軍の先鋒となって、まず、岸辺の陣地を撃破しました。これを聞いた周留城の百済軍は落胆して、ついに降伏しました。」(平凡社、三国史記、井上秀雄訳注)
  • 七世紀に限って言えば、大和天皇家と隋・唐との交流の事跡は正確に書く、倭国と隋・唐との交流は一切書かない。大和の国内での活動は真偽取り混ぜて国内向けに書く。此の書き方の峻別を行っている。唐と倭国の戦闘は、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題である。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理で密約を行っていたのである。となると、唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知である。
  • 劉仁軌の偉大さ

    かの六六二年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。


    「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
     今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが、それとは別に気になる部分があります。それについて述べたいと思います。
    (1) 「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金・子之入漢(二文字空け)(注二) 聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛[シ産]川府折沖都尉。」
    (2) 「于時日夲餘[口焦] 拠扶桑以逋誅 風谷遺[田亡] 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原[虫也]而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
    (3) 「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。
  • tokyoblogは言いました:

    劉仁軌の偉大さ

    かの六六二年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。


    「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
     今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。

    また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが

    (1) 「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金・子之入漢(二文字空け)(注二) 聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛[シ産]川府折沖都尉。」
    (2) 「于時日夲餘[口焦] 拠扶桑以逋誅 風谷遺[田亡] 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原[虫也]而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
    (3) 「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬。

  • 劉仁軌の偉大さ

    かの六六二年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。


    「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
     今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。

    また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが

    (1) 「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金・子之入漢(二文字空け)(注二) 聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛[シ産]川府折沖都尉。」
    (2) 「于時日夲餘[口焦] 拠扶桑以逋誅 風谷遺[田亡] 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原[虫也]而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
    (3) 「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬

    細かく見てみると、「餘[口焦]」といい「遺[田亡]」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
  • 海東諸国記によれば「六六一年」に「近江」へ遷都したこととなっています。
    しかし「書紀」によればそれは「六六八年」のことであったとされており、大きく食い違っています。
  • 劉仁軌の偉大さ

    六六二年の高宗の撤退命令にかかわらず、戦線を維持し、百済の残党掃討に成功し、以後も高句麗戦線で奮闘して、ついに、高句麗征伐の歴史的偉業を成し遂げた唐朝の勲臣である。諸侯に列せられ、死に当たり、歴代皇帝の陪臣墓を与えられ、墓守三百戸を与えられている。


    司馬禰軍の墓誌

    「文武王十二年」(六七二年)になり、「新羅」と「唐」が本格的に戦闘状態に入るなど「不和」が拡大し、「唐」から「罪」を問われることとなったため、「文武王」は「謝罪」のためもあり、「熊津都督府」の要人達を「唐」へ送還していますが、これらの中にこの「司馬禰軍」がいます。
     今回発見された「墓誌」については、その中に「日本」という国号が見られ、そのことについての議論が多く起きているようです。

    また「僭帝」という人物も見え、それらについても関心が持たれていますが

    (1) 「去顕慶五年 官軍平本藩日 見機/識変 杖剣知帰 似由余之出戎 如金・子之入漢(二文字空け)(注二) 聖上嘉嘆擢以榮班 授右/武衛[シ産]川府折沖都尉。」
    (2) 「于時日夲餘[口焦] 拠扶桑以逋誅 風谷遺[田亡] 負盤桃而阻/固 萬騎亘野 與蓋馬以驚塵 千艘横波 援原[虫也]而縦濔 以公格謨海左 亀鏡瀛/東 特在簡帝 往尸招慰」
    (3) 「公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳 飛汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋 僭帝一旦称臣 仍領大首望数十人将入朝謁/特蒙(二文字空け)恩 詔授左戎衛郎将 少選遷右領軍衛中郎将兼検校熊津都督府/司馬

    細かく見てみると、「餘[口焦]」といい「遺[田亡]」というような「用語」を使用していますから、これらはいずれも「主君」や「指導者」がいなくなった後の「残存勢力」、という捉え方であることが分かります。そして、その文章の中には「拠『扶桑』」といい「負『盤桃』」と言い方を使用していますが、いずれも「伝説」の地であり、「東の果て、日の出るところの地」であるとされている場所のことです。そこに「残存勢力」は隠れているというわけです。
    引き続き、「萬騎亘野,與蓋馬以驚塵 千艘横波,援原[虫也]而縦濔。」という文章が続きますが、この部分は、「萬騎」と「千艘」、「與」と「援」、「蓋馬」と「原[虫也]」、「驚塵」と「縦濔」というように全てが見事な対句構成の「四六駢儷文」となっています。
     ここでは「萬騎野に亘り」と「千の船が波に横たわり」とが対応していると考えられ、また「蓋馬」が「蓋馬山」や「蓋馬高原」という土地の名前に関連していると考えられものであり、これが「高句麗の地」(朝鮮半島北部の高原地帯)を指すものと考えられることから、その前の「萬騎」が「亘った」という「野」もまた「高句麗の地」を指すと考えられます。
     そして、下の句の「千艘」以下は「三国史記」に「倭船」が「千艘」いたと書かれた「白村江の戦い」を想起させるものであり、「百済」の地での出来事をさすと考えられるものです。
  • 「書紀」によれば「救援軍派遣」は「百済滅亡」の一年後である「六六一年八月」であり、また「倭国」に「人質」となっていた「扶余豊」を「百済国王」に据えるべく派遣したのが翌九月とされています。
     この記事自体がすでに「旧唐書」や「資治通鑑」とも食い違っている
    「資治通鑑」
    「龍朔元年(六六一年)(辛酉)三月初,蘇定方即平百濟,留郎將劉仁願鎭守百濟府城,又以左衞中郎將王文度爲熊津都督,撫其餘衆。文度濟海而卒,百濟僧道探、故將福信聚衆據周留城,迎故王子豐於倭國而立之,引兵圍仁願於府城。」
     これによれば「三月初」という区切りの書き方で旧「百済」の将である「鬼室福信」などが「扶余豊」を王に迎えて、百済に居残っていた唐の将軍「劉仁願」の城を包囲したと書かれています。
  • 百済を亡くした「百済禰軍」
    公[イ旬]臣節而投命 歌(二文字空け)皇華以載馳」という部分は「公」つまり「百済禰軍」が「臣」としての「節」を「命」を投げ出しても達成する、という事を「詩経」の「載馳」になぞらえて「皇華」(皇帝)に「歌」ったという事を意味す

    今後は「唐」皇帝の臣下として命を投げ出す覚悟を示した事を示すもの推察されます。
     そして、上の文章に以下の文章が続きます。

    「汎海之蒼鷹/[者/羽]凌山之赤雀 決河眦而天呉静 鑑風隧而雲路通 驚鳧失侶 済不終夕 遂能/説暢(二文字空け)天威 喩以禍福千秋」
         [者/羽]は、者の下に羽。第4水準ユニコード7FE5
  • この時の来倭記事とおぼしきものが「書紀」と「善隣国宝記」に引用する「海外国記」に出ています。

    「天智紀」の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務宗*」等が来倭したことが記されています。
    「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務宗*等進表函與獻物
    冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務宗*等敕是日 中臣・臣遣沙門智祥 賜物於郭務宗*。
    戊寅 饗賜郭務宗*等」
     この件に関しては「善隣国宝記」に引用された「海外国記」の情報の方が詳しいようであり、以下が記録されています。
    「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務宗*等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
     九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
     一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總管。使人朝散大夫郭務宗*等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」
     これによればこの時の「倭国」はこの使者を「唐皇帝」の使者ではない、として「門前払い」したとされています。そして、「書紀」にはその翌年「劉徳高」の来倭記事があります。
     記事をまとめて並べると以下のようになります。
    「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務宗*)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
    冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
    十一月己巳朔辛巳。十三饗賜劉徳高等。
    十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
    是月。劉徳高等罷歸。
    是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」
     これで見ると「劉徳高」の来倭に「郭務宗*」と「百済禰軍」が同行しているのが分かります。
  • 「百済禰軍」達はその後

    その後「劉仁軌」により「倭国」以下「百済王」「耽羅国」の酋長などを「船」で「泰山」の麓まで運んでいます。
    「旧唐書劉仁軌伝」
    麟徳*二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悦* 擢拜大司憲
         徳*の別字。JIS第3水準ユニコード5FB7
         悦*の別字。立心偏に兌。ユニコード6085
    「冊府元龜」
    「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」
     この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していました
  • 小林恵子氏は天武天皇=漢皇子(あやのみこ)ではないかと言うのです。

    漢皇子は、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に結婚していた(つまり舒明とは再婚)高向王との間にできた皇子で、天智・天武の異父兄とされています。

    しかし、母は後の天皇、父は用明天皇の皇子という高い身分の皇子であるにも関わらず、この漢皇子の詳細はわかっていません。

    また、天武天皇(大海人皇子)も664年の立太子の時にもその「大海人」という固有名詞は登場しません。つまりこの時点では「大海人」という人物は存在しなったのではないか、と考えられます。

    そして、上記の『一代要記』などに基づくと、天智・天武の享年はそれぞれ46歳、65歳となり、天智が亡くなった671年の時点で天武は50歳で、天智よりも4歳も年上となります。

    これらのことから小林氏は天武天皇=漢皇子なのではないかというのです。
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