三河、穂国造、宮道氏

January 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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一宮 砥鹿神社(里宮)  祭神 大己貴命  当神社は、太古より本宮山に お祀りされていたが、今から約 千三百年…

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  • 砥鹿神社
    『式内社調査報告』
    古來より一貫して大己貴命へと帰すべきであるとしているが、『三河國一宮砥鹿神社誌』では「保食神」「大木食神」「火産霊神」「朝廷別王」がある。
    『日本の神々10』では、「社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。」としている。


    「朝廷別王」を祭神とする神社は三河宝飯(小坂井町)の多美河津神社

    「朝廷別王命」を祭神とする神社は三河宝飯(形原町)の形原神社
  • 「沙本毘古」の反乱伝承

    「沙本毘賣」は、自分の後を継ぐ皇后として、「旦波比古多多須美智宇斯」の娘「兄比賣/弟比賣」を推挙する
    ところが、「多多須美智宇斯」の弟である「神大根王」にも「兄比賣/弟比賣」という娘がいた。
    この2人の娘を娶ったのは、「小碓」の兄である「大碓」である。「大碓」は、
    景行天皇に差し出すべきこの姉妹を自分で娶り、”他し女人”を天皇に差し出した。

    古事記は、垂仁天皇の婚姻記事において、「多多須美智宇斯」の娘を3人挙げる。
    「氷羽州比賣」「沼羽田之入毘賣」「阿邪美能伊理毘賣」の3人である。
    この3人はすべて垂仁天皇との間に子供を設けている。
  • 〔古事記 中開化〕
    其美知能宇志王、娶二丹波之河上之摩須女一生子、〈◯中略〉次朝廷別王、〈四柱〉此朝廷別王者、〈三川之穗別○○○○○之祖)

    〔古事記傳 二十二〕
    三川之穗別、三川は參河國なり、〈◯中略〉穗は、和名抄に參河國寶飫〈穗〉郡とある是なり、〈飫字誤て飯と作り、今も然り、〉舊事紀五に、三川穗國造美己止直と云人あり、〈美己止、美加度よく似たれば、若くは此は此朝廷別王のことには非るか、さて國造本紀には、穗國造、泊瀬朝倉朝以二生江臣祖葛城襲津彦命四世孫莵上足禰一定二賜國造一とあり、此の傳と異なり、〉

  • 吉備津彦命  (同母姉妹=倭迹迹日百襲媛命) (異母兄弟=稚武吉備津彦、彦狭島命)

    大彦命(妻 欝色謎命)−−大彦命ーー御間城姫(夫 崇神天皇)−−垂仁天皇(妻 日葉酢媛命)ーー景行天皇ーー日本武尊

    日本武尊は、日葉酢媛命の孫になる。
  • 開化天皇(妻 姥津媛)--彦坐王(妻 息長水依比売娘)--丹波道主命(妻 丹波之河上之摩須郎女)--日葉酢媛命(垂仁天皇皇后)、渟葉田瓊入媛(同妃)、真砥野媛(同妃)薊瓊入媛(同妃)、竹野媛、朝廷別王(三川穂別の祖)
  • 大碓命:大碓命は守君・大田君・島田君の祖である。

    『日本書紀』は小碓命の双子の兄としており、お産の際、景行天皇がこれをいぶかって碓に向かって叫んだ為、「大碓・小碓」の名がつけられたとしている
    難産の時、夫が碓を背負って家をまわる風習が、当時あったという。景行天皇もそれに倣ったが、一人が生まれたのになかなか二人目が生まれないので、碓の重みに耐える為に叫んだということらしい
  • 彦坐王は開化天皇の王子、神大根王は彦坐王の王子にて、母は息長水依媛也。この王は本巣國造及び長幡部連の祖也之。然して景行天皇の即位四年、神大根の皇女、 兄比賣、弟比賣の祭り賜いしものと傳う。
    この兄比賣、弟比賣は、神大根王の皇女、兄遠子、弟遠子にあたる方なるは、古事記にしるされたるが如。然して兄遠子は、大唯命の妃となりたまいて、當國宇泥須和気之祖となりたまいし、押黒之兄日子王を生みたまいし妃也。弟遠子も同じく同命の妃となりたまいて、當國牟宜都君等之祖となりたまいし、押黒弟日子王を生みたまいし妃也

    日本武尊が東征のとき、美濃の国の善く弓を射る弟彦公が召されて参加している
    「押黒之兄日子王」ではという説もある
  • 神大根王は三野(美濃)・本巣の国造でまた、常陸国久慈郡の長幡部連の祖、とされる。

    天皇は美濃国の国造の祖先、神大根王の娘、兄媛と弟媛の二人の乙女が、容姿端麗であるとお聞き定めになって、御子息の大碓命を遣わして召し上げさせた。

    そうして遣わされた大碓命は、(天皇のもとへ)召し上げないで、つまり自分のほうがその二人の乙女と結婚して、更には別の女性を求めて、偽ってその乙女(兄媛弟媛)であると言って(天皇に)献上した。

    ここに天皇は、それが他の女性であることをお知りになって、いつもお眺めになるだけで、しかも結婚もなさらず、(その女性を)お悩ませになった。

    そして、その大碓命が兄媛を娶ってなした子は、押黒兄日子王〔この王は美濃国のウネクス別の祖先である〕。また弟媛を娶ってなした子は、押黒ノ弟日子王〔この王は武芸ツ君の祖先である〕。この(大碓命が主権者であった)時代に、田部を設け、また東の安房の海峡を海路として定め、膳夫として大伴部を定め、また大和国の屯倉を定めた。また、坂手の池を造り、その堤に竹を植えた。
  • 垂仁天皇
    治世15年春2月10日、丹波の五人の女を召して後宮に入れた。一番上から日葉酢媛(ひばすひめ)、渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりびめ)、真砥野媛(まとのひめ)、薊瓊入媛(あざみにいりびめ)、竹野媛(たけのひめ)といった。
    秋8月1日、日葉酢媛を立てて皇后とし、さらに妹の三人を妃としたが竹野媛だけは不器量であった為里に帰した。竹野媛はそれを恥じて葛野で自ら輿から飛び降りて死んだ。それでその地を名付けて堕国(おちくに)という。いま弟国(おとくに)(乙訓)というのはなまったものである。
    皇后の日葉酢媛は三男二女を生んだ。一番目の子を五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)、二番目の子を大足彦尊(おおたらしひこのみこと)(景行天皇)、三番目の子を大中姫命(おおなかつひめのみこと)、四番目の子を倭姫命(やまとひめのみこと)、五番目の子を稚城瓊入彦命(わかきにいりびこのみこと)という。
    妃の渟葉田瓊入媛は鐸石別命(ぬてしわけのみこと)と胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)を生んだ。次の妃の薊瓊入媛は池速別命(いけはやわけのみこと)と稚麻津媛命(わかあさつひめのみこと)を生んだ

  • 大日本の救将廬原君(いほはらのきみ)
    天智二年(663)秋八月の十三日。新羅、百済王の己が良将を斬れるを以て、直に國に入りて先ず州 柔(つぬ)を取らむことを謀れり。是に、百済、賊の計る所を知りて、諸将に謂りて曰はく、「今聞く、大 日本の救将廬原君(いほはらのきみ)臣、健兒萬余を率て、正に海を越えて至らむ。願はくば、諸の 将軍等は、預め圖(はか)るべし。我自ら往きて、白村に待ち饗へむ」といふ。十七日に、賊将、州柔 に至りて、其の王城を繞(かく)む。大唐の将軍、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈(つらな)れ り。二十七日に、日本の船師の初づ至る者と、大唐の船師と合い戦ふ。日本不利けて退く。大唐陣を 堅めて守る。二十八日に、日本の諸将と百済の王と、気象を観ずして、相謂りて曰く、「我等先を争は ば、彼自づから退くべし」といふ。更に日本の伍(つら)乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の陣を 堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右より船を挟みて繞み戦う。須臾之際(ときのまに)に、官軍敗續(や ぶ)れぬ。
    百済王は八月、「大日本の救将廬原君(いほはらのきみ)臣、健兒萬余を率て、正に海を越えて至らむ。」 と諸将に伝える。そして自ら白村に迎えて労をねぎらうと言います。救援軍は「大日本」というように日本國から の軍隊であった。司令官は「大日本の救将、廬原君(いほはらのきみ)臣」である。日本國将軍・廬原君とは誰 か不明であるが万葉集に「廬原」という地名が歌われている。
    田口益人大夫、上野國の司に任さす時に、駿河の浄見崎に至りて作る歌二首 万葉296番歌
    廬原の 清見の崎の 三保の浦の 寛けき見つつ もの思ひもなし 万葉297番歌
    晝見れど 飽かぬ田兒の浦 大君の 命恐み 夜見つるかも
    「廬原」とは静岡県庵原郡であろう。「白村江」の戦いに救援に駆けつけた軍は静岡県の軍で、日本國の最も 東の國から長駆百済に向かったと思わる。ここが日本國統治の東の境界だったであろう。
    8月27日、「白村江」に到着した日本軍はすでに堅陣を構えていた唐の郎将・劉仁軌、新羅の金文武王の軍 へ正面攻撃を挑む。だが、「白村江」に不案内な日本國軍は気象が読めず、満潮から干潮へ変わる潮時に突 入し、舳先を回旋することが出来ず左右から火攻めにあって束の間に敗れる。
    「白村江」で唐軍・新羅軍と戦い壊滅に近い敗北を喫したのは日本國の軍であった。中国側の唐の劉仁軌 将軍の記録書には「倭の酋長」を唐の都に送ったと記録している。この「倭」とは古代天皇家ではなく日本國で ある。「白村江」で敗れた日本國は国土防衛のため城を築いている。
    敗戦後の国土防衛
  • 東三河

    山背の大兄皇子の東国壬生関連:千郷村の稲置壬生公

     成務天皇5年、県・邑を定め、国造を置いた。麻野県主は、土居氏で紀の国の人で、稲置壬生公である。垂仁天皇の皇子・鐸石別(ぬてしわけ)命の孫が稲置壬生公であり、日本武尊の従兄弟ということになる。壬生は、聖徳太子の子・山背の大兄皇子が、蘇我いるかに攻められたとき、生駒山に逃れて、挽回するならとの、家臣の三輪公との会話で、「もし東国壬生の国に戻り、兵を集めて戦えばきっと勝つだろう。しかし、自分の保身のために、殺生を起こしたくない。」といって、斑鳩寺で自ら一族もろとも火の中で滅びていった。
  • 三河国宝飯郡の雀部郷は、一ノ宮(砥鹿神社のことで、愛知県宝飯郡一宮町大字一宮)近辺を篠目郷といいその遺称地とされる。篠目という地名は同国碧海郡にもあって、いま安城市域にある。
  • 現在、砥鹿神社(里宮)の末・守見殿神社に合祀されている倉稲魂神は、
    社宮神社の祭神。
    社宮神社の元の鎮座地は、宝飯郡一宮町大字一宮字野添です。
    出典:「砥鹿神社誌」
  • 豊田市は、1959年までは挙母市(ころもし)でした。トヨタ自動車の創業家の名前に変えたものです。では、挙母とはどこからきたのでしょうか? 『古事記』の垂仁天皇の項に、同天皇に落別王(おちわけのおう)という子どもがいて、「三川之衣君之祖也」とあります。

     三河の衣(ころも)君という豪族の祖先だというのです。挙母は、この「衣」からきているのでしょう。落別王が実在した証拠は何もありません。ヤマト政権は、大王・天皇の子を豪族の祖先であるかのようにして各地の豪族を支配していきました。『古事記』は、そうしたヤマト政権の正統性を示すものとしてつくられたものです。

     『古事記』がつくられたのは710年。2010年は、それから1300年になるとして、これまでにたくさんの解説本が出版されています。落別王という墓が、豊田市駅前の豊田市久保町の児ノ口社(ちごのくちしゃ)の境内にあります。

     「衣之君落別王命陵」と刻んだ石碑が建っています。児ノ口社の由緒には、前方後円墳があり、落別王を祀っていること、虫歯に悩んだら炒り豆を供えて祈願すると速やかに治ると書いています。昔から歯医者代わりだったのでしょう。


     豊田市猿投町の猿投神社の先に、宮内庁が兄の大碓命の陵墓としているのがあります。猿投神社は、大碓命を祀っています。神社の西の宮の奥に大碓命の墓があります。石塀で囲んだ中に丸い墳丘があります。中に立ち入りはできなくなっています。
  • 国造は、
    1. 遠淡海国造(敷智郡?=浜松あたり) 成務天皇の時
      物部連の祖先、伊香色雄命の孫、印岐美(いきみ)命
    2、久努国造(山名郡?=磐田.袋井あたり) 仲哀天皇の時 
      伊香色雄命の孫、印播足尼(いにはのすくね) 
    3.素賀国造(佐野郡?=掛川あたり?)  神武天皇の時
      美志印(みしいに)命
    です。
  • 三河国の猿投神についてですが、足助八幡宮縁起には、天智天皇の御宇三河国宝飯郡の
    大深山に猿形、鹿形、鬼体の3つが出現し、猿形は石舟に乗って西へ飛び猿投大明神となり、鹿形は
    そこにどどまり砥鹿大菩薩となった と言われ、猿投神と粟鹿神は同時に鎮座した事が伺えます。

    三河国には、大伴氏(中条氏)が祀っていた猿投神社(古屋家家譜に天押日命を祀る)がある。
    但馬国には、大伴氏の道臣命を祀ったと言われる(国司文書 但馬神社系譜伝)、但馬国朝来郡佐嚢神社(三代実録:左長神)が鎮座している。

    祭祀氏族である大伴氏は、富家の伝承では八代目大名持である八千矛神の末裔である神門臣の分家
    であり、猿投神を但馬から三河に移す以前は、出雲で祀られていたことが考えられます。

    式内社調査報告によると、但馬国朝来郡の佐嚢神(さなが)と、足鹿神(あしか)は出雲国飯石郡の同名社(狭長社と葦鹿社)との関係性があると指摘されています
  • 越智国造一族と遠江国造・駿河国造の一族とは、永年青の「橘」や変若水(「おちみず」と訓。若返り乃至不老の水)と深く結びつき、それら三国造の後裔一族に「橘朝臣」姓を称する氏を多く出した。地理的に考えて、駿河国造族の後ではないかとみられる物部が信濃国高井郡におり、同地で式内社の越智神社を奉斎した。
  • 愛知県豊田市猿投町大城は猿投神社。
    読み「さなげ」。三河国三宮。
    延喜式神名帳三河国賀茂郡の挟投神社に比定される。

    背後の猿投山は629mの山で、南麓の神郷下遺跡からは6千を超える土器や土器片が出土している。
    猿投山周辺の古墳や遺跡から創建は3世紀から5世紀頃と見られる。「さなげ」の語源について由緒書に山の形が鐸(さなぎ)に似ている、縁起にある猿を海に投げたことによるもの、
    鐸を枝につけた特殊な祭祀を行っていたなどが挙げられている。
  • May 2016 編集されました
    権現山古墳 豊橋市石巻本町別所北入田 3世紀後半に築造された前方後円墳


    境松・若宮遺跡は同市牟呂坂津地区にある、弥生時代中期から古墳時代前期の集落跡。内陸にある今と異なり当時は半島の先端に位置し、防御と区画のため「環濠」と呼ばれる大きな濠で集落を囲んでいる。昨年7月から続く市教委の調査で、3世紀後半の円墳(直径18・5メートル)が見つかり、周りを囲う溝から多くの土器が出土した。市教委によると、東海地方にある古墳時代初めの古墳は方形墳や前方後円墳がほとんどで、境松・若宮遺跡のような円墳は「異例の存在」だという。

    同時代に円墳が造られた大和(現在の奈良県)や播磨(兵庫県)など近畿地方の限られた地域と、東海地方の海岸部とのつながりを含めて「複雑な地域間交流のあり方を探ることができる重要な遺構」と市教委では見ている。


     豊川市八幡町上宿の船山古墳(ふなやまこふん)
    東三河最大級の前方後円墳で,全長94m,前方部幅約65m,後円部直径56m,高さ6.5m,後円部を東に向け周囲に堀は確認されていない。築造の時期は,石室の形態が竪穴式であることや出土した埴輪(はにわ)などから,古墳時代の中期と考えられる。発掘調査の結果,円筒埴輪(えんとうはにわ)が古墳の周りに40基,高さ3mのところには1列28基が確認されている。また1988年(昭和63)年の調査では円筒埴輪を利用した埴輪棺(はにわかん)が発見された。被葬者は大化改新以前にこの地方の支配を朝廷から任された豪族だと考えられている。 
     前方後円墳は,古墳時代の全盛期に日本独自の形態として発達した。船山古墳は県下でも3番目に大きな古墳であり,地方における古墳文化の広がりを理解させたい。 
    現在,船山古墳は前方部の一部と後円部の半分を削り取られてしまっている。発掘調査で発見された埴輪棺の復元模型がすぐ隣の豊川信用金庫の駐車場に展示してあり,見学できる。また,その他の遺物は豊川市地域文化広場に保存展示されている。
  • 石堂野B遺跡
    弥生時代末~古墳時代初頭の遺構は、今回の調査の中で他の検出できた時期と比較して、最も検討が 可能な材料がみられた。


    古墳時代では、調査地点から北東方向に約 800 mの位置には、中期の大入山1号墳(豊川市)がある。 同時期のものとして、さらに北東方向に約 1.8 kmの位置には、全長 96 mの前方後円墳である船山第1 号墳(豊川市)がある。後期のものとしては、調査地点から南東方向に約 700 mの位置に、全長 37 m の前方後円墳である船山古墳がある。調査地点から北西方向に約 500 mの位置には、全長 16 mの円墳 である穴観音古墳がある。
  • 山科神社は山城国・宇治郡に鎮座 月次新嘗と記される名神大社で、
    寛平9年(897年)、宇多天皇(867-931)の勅命により創建されたと伝えられます。

    以後この地の豪族宮道氏の祖神として、
    また山科一ノ宮とも呼ばれ産土神として信仰されてきました。
    祭神:日本武尊,稚武王
    山科神社は山城国・宇治郡に鎮座 月次新嘗と記される名神大社で、
    寛平9年(897年)、宇多天皇(867-931)の勅命により創建されたと伝えられます。

    以後この地の豪族宮道氏の祖神として、
    また山科一ノ宮とも呼ばれ産土神として信仰されてきました。

    祭神:日本武尊,稚武王

    山科神社2
    山科神社の鳥居

    宮道氏は、物部氏系譜とも日本武尊末裔とも伝えられる、
    山科栗栖野を本拠とした豪族です。

    平安時代には山城国宇治郡の郡司の宮道弥益(みやじ・いやます)が外戚として栄えました。
    宮道弥益の孫の藤原胤子(たねこ)が宇多天皇の妻(女御)になり、
    醍醐天皇を産み宮道は権力を増します。
  • August 2016 編集されました
    持統天皇は2度の「東海道」への行幸を行っています(伊勢と三河)。死を迎える年、体力を振り絞り最後の訪問先を決めます。それが「三河」でした。

    謎とされる東三河行幸については、東国の反朝廷勢力を制圧するためとか、朝廷にとって障害となる神を誅するためとか、壬申の乱の論功行賞を行ったとか、瀬織津姫を封印するためだとか、三河で殺戮した人々の鎮魂のためだとか、「信濃国の秦氏」で書いた天武天皇の信濃遷都計画地訪問とか、幾つかの見解が示されています。

    軍事行動説の主な根拠となるのは、行幸関連記事に騎士の調を免除とある点です。でも、兵士が同行しているからと言って軍事行動になるのでしょうか?上皇が行幸に出る以上、護衛の兵士が同行するのは至極当然のことです。例えば、軍事行動とは思えない持統天皇の6年(692年)における伊勢行幸で、天皇は近江・美濃・尾張・三河・遠江など供奉した騎士の当年の調役を免除しています。
  • 大嘗祭に使われる神服は、三河国服部郷の神服部が作る調糸(赤引の糸)を用いて、三河国の工人が織り作ります。

    伊勢神宮の神衣祭においても、三河国服部郷で産する赤引の糸を使って神衣が織られます。蚕と機織りもご存知のように死と再生の象徴です。死と再生を司る秦氏は、養蚕と機織りを職掌の一つとしており、東三河には彼らの存在が認められます。伊勢と東三河は運命の赤い糸(赤引の糸)と中央構造線で結ばれています。死と再生を象徴する水銀の原料辰砂は中央構造線に沿った地域に分布し、旧伊勢国飯高郡丹生郷(現三重県多気郡勢和村)などから多く産出されました。
  • 草壁皇子伝承
    文献では三河の江戸時代に著された「二葉松」に記されているのですが、白鳳年間に草壁皇子がこの地に住んだという伝承があって、昔は草壁皇子が宮路山上に祀ったとされる祠が残されていました。ここに、のちに村民らが三神を合祀して鎮守としたのが宮道天神社だといわれています。また、宮路山の南山麓には白山神社という神社があり、そこにある小さな石塔が草壁皇子のお墓という伝承となっています

    草壁皇子が仮に壬申の乱の時代にこの赤坂の宮道天神社にいたとするのであれば、10歳の幼少の頃であり、本人がそこで軍勢を整えたというのはほとんど考えられないと思われます。しかし、仮に軍勢を借りるために後の天武天皇が自分の子供を人質に差し出したとあれば話は別です。もともと、東三河には日下部氏(穂別命の末裔と言われる草鹿砥氏)が存在し、おそらく草壁皇子のパトロンともなっていたと考えられます。実際記紀では三河から軍勢の派遣の記録は残ってはいないのですが、、、、
  • 氷上川継は不破内親王(草壁皇子の曾孫)と塩焼王(草壁皇子の甥)とにできた子供であり、まさに天武血統の再現をした人でした。しかし父、塩焼王は藤原仲麻呂の乱で天皇に擁立されようとして殺害され、本人も天応2年(782年)に謀反をおこした罪により、大和国葛下郡にて捕縛され、伊豆国に配流されたそうです。その後赦免され晩年伊豆守に任じられたのですが、その後の消息は不明なのです。実は伊豆の国造は初めは伊豆氏なのですが、後に日下部氏となるのです。また奈良時代には伊豆に日下部益人という豪族がおり、おそらく彼らが氷上川継をかくまったのではないかと考えています
    出典
    http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11156751811.html
  • 御津神社に関連して

    伝承によると、祭神(大国主命=大己貴命)は、御舳玉・磯宮楫取・船津各大神を従えて船津へ着いたとのことです。船津の所在地は広石交差点の南となります。御舳玉大神は豊川市御津町豊沢石堂野15番地に鎮座する御舳玉(おへたまじんじゃ)神社に祀られています。祭神は住吉大神とのことで、伊勢より船にてお供した神だそうです。…中略…

    一方砥鹿神社の由緒には次のような内容が書かれています。

    「但馬続風土記」によれば、神代大己貴命は国土を開拓し、諸国を巡幸されて 但馬国朝来郡赤淵宮にお移りになって、更に東方三河国に向かわれたとあり、社伝にはその後命は「本茂山(ほのしげやま)」(本宮山)に留まって、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされたとある。

    この記述から推定すると、大己貴命すなわち大国主命は但馬国から三河国に入り、御津神社に鎮まった後、本宮山に至ったことになります。

    以上から、御津神社の祭神・大国主命は伊勢から御舳玉大神(=住吉大神)のお供で御津に上陸し、東三河を移動した末に本宮山に留まったと理解されます。よって大国主命の御津町上陸後の動きを知るには、お伴をした住吉大神を探る必要があるのです。この住吉大神とは、当然のことながら住吉大神を奉斎する一族を意味しています。そのような視点から砥鹿神社を検討できないでしょうか?
  • 菟上足尼 うなかみのすくね

    別名 菟足神:うなたりのかみ

    同名神
    菟上王:うなかみのみこ 兎上命:うなかみのみこと
    ……
    生江臣の祖、孝元天皇の裔・葛城襲津彦命の四世孫。雄略天皇の頃、穂国の国造となった。

    菟上足尼と同じ「菟上」の名を持つ神々が存在するので、ここで紹介。

    菟上王は、彦坐王の子である大俣王の子で曙立王の弟。比売陀君の祖。
    物言わぬ品牟都和気命に付き添って出雲大神を拝し、神宮造築を奉行した。

    兎上命は、『常陸国風土記』によると、薩都里の土雲を討ち「よく殺さしめて福(さち)なるかも」といい、佐都(薩都)の地名となった。
  • 「古事記」の第9代開化天皇の条には「次に朝廷別王。四柱 この朝廷別王は、三川の穂別の祖」と記載あります。朝廷別王は第9代開化天皇のひ孫に当たることからも、東三河が持つ歴史の古さが窺われます。(注:朝廷別王は丹波道主王の子となります)

    開化天皇―彦坐王―丹波道主王―朝廷別王(三河の穂別の祖)
                ―狭穂彦王(日下部連、甲斐国造の祖)

    草鹿砥氏は穂別命の後裔氏族ともされているのです

    三川穂別の祖である朝廷別王は彦坐王の孫で、日下部連の祖である狭穂彦王は彦坐王の子となり、いずれも彦坐王の流れである。

    宮路山と本宮山のいずれにおいても天忍穂耳命が祀られている。草壁皇子の墓は宮路山の白山神社にありますが、本宮山の東側尾根は白山と称されています。これらの相似を考慮すると、宮路山における草壁皇子の存在は日下部氏(草鹿砥氏)の手配による可能性が高まり、両者の深い関係が想定されます。
  • 菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)は、孝元天皇の末裔、葛城襲津彦命(かつらぎそつひこのみこと)四世の玄孫にあたり、雄略天皇の治世に穂の国(現在の東三河)国造に任ぜられたという。葛城襲津彦命は、仁徳天皇の皇后磐之姫媛命の父にあたり、大和国葛城の豪族として大きな権力を持っていたとされる。

    菟上足尼命は、没後、顕著な殖産、治民の功によって、三河国平井の柏木浜に奉斎され、天武天皇の治世、白鳳15年(686年)4月11日に、秦石勝(はたのいしかつ)により、現在地に遷座されたという。

  • オオウスは晩年、愛知県豊田市の「猿投山」で亡くなっている。その場所に猿投神社があるが、社記には、

    「景行天皇の五十二年、猿投山中にて毒蛇のために薨ず。御年四十二歳、即ち山上劔葬し奉る。」

    とあり、現在猿投山の西峰に墓所がある。蛇足ながらオオウスは左利きだったそうだ。

    柿野神社の社記からわかることことは、兄弟の中が悪かったとする『記紀』の記述は、嘘ではなかったかということである。

    おそらく、オオウスは何らかの理由で、「大和」から逃げ出しだのだろう。『日本書紀』はその理由を、景行天皇により美濃国に遣わされたオオウスは、「美濃国」の美人姉妹と通じて復命しなかったと記すが、「美濃」と通じたことは案外本当なのかも知れない。
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