広瀬の大忌神と竜田の風神、天武天皇、持統天皇 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。

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コメント

  •  朱鳥元年(686年)に天武天皇が最後の病に伏した時に、「その原因を卜(うらな)ったところ草薙剣(くさなぎのつるぎ.)の祟(たた)りだった」と記されて、また「その剣は即日、尾張国の熱田社(熱田神宮)に送られた」と記されたことです。
     草薙剣はスサノオノミコトが、出雲で八岐大蛇(やまたのおろち。八俣大蛇)を成敗したときに尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名付けられた剣で、「この霊妙な剣は私が使うべき物ではない」と、アマテラスオオミカミに献上したものです。また後代には日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に用いて、その死後から熱田神宮の神体として祀(まつ)られていました。
  • 尾張 草香(おわり の くさか、生没年不詳)は古代の地方豪族・尾張氏の首長。姓は連。尾張岐閉(黄畔)の子とする系図がある

    継体天皇の最初の妃であったとされる目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父にあたる。断夫山古墳が彼の墓であるとの説がある。

    草香が登場する

    古事記
    又娶尾張連等之祖、凡連之妹、目子郎女

    日本書紀卷第十七 男大迹天皇 繼體天皇
    元妃、尾張連草香女曰目子媛

    先代舊事本紀卷第九 帝皇本紀
    元妃尾張連草香女、曰目子媛、生二子矣
  • 40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
    異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
    皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた
  • 丹波国を丹波と丹後に分けたのは、海部氏の力を削ぐためだったともいわれる。また、伴とし子氏によれば、『続日本紀』の丹波と丹後に分けられ二年前の和銅四年(711)十二月壬寅条に「大初位上丹波史千足等八人、偽造外印、仮与人位、流信濃国」とあり、流刑は死罪に次ぐ重刑で、信濃国はその中流に位置する流刑地で、千足が流罪になったことが分り、外印とは太政官印のことで、それを偽造し位を与えるという罪が史書に記されたことは、海部氏・丹波氏の上に加えられた圧力とも考えることができるという。
    持統・藤原朝による弾圧・弱体化政策
  • 第一回目の吉野詣で
     最初の吉野詣では、天武死後865日目です。
    なぜ、この日に最初の吉野詣でがなされたのか?それは1000日に近い数字です。とするならば、起算の原点は天武死去の日ではなく、その135日前であったのではないかとの疑問が浮かびます。それは、天武死去9月9日の135日前、4月22日となります。その近辺を日本書紀記事で見てみます:

    日本書紀巻二十九より
    朱鳥元年(六八六)四月四月戊子【十九日】新羅進調従筑紫貢上。(中略)別献皇后。皇太子。及諸親王等。之物。各有数。
    四月丙申【二十七日】遣多紀皇女。山背姫王。石川夫人於伊勢神宮。
    日本書紀引用終わり

    該当する4月22日に格別の記事はありません。
    4月22日の5日後に「紀皇女、山背姫王、石川夫人」の三人の女性を「伊勢神宮」に遣した
    岩波文庫校注者は「天武の病状回復祈願」と書きます。が、この時点では、依然として「伊勢神宮」の存在、宗教的性格は明らかではありません。

    天武紀十四年の記事
    天武天皇十四年(六八五)壬午【十日】遣軽部朝臣足瀬。高田首新家。荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮。蓋擬幸束間温湯歟。
    「軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂の三名を信濃に派遣し「行宮」(かりのみや)を造らせた」と。この記事の重大性を隠蔽するために
    藤原不比等は、上記記事に以下を書き加えるのです:

    「けだし、束の間、温泉にでも行って来ようと思ったのだろう」と。

    天武天皇死去の年の正月
    朱鳥元年(六八六)正月癸卯【二日】御大極殿、而賜宴於諸王卿。是日。詔曰。朕問王卿、以無端事。仍対言得実、必有賜。於是。高市皇子被問以実対。
    「正月、大極殿で臣下と宴を催す。その際、“臣下諸君が、本年も無事に過ごせるよう実を尽くすなら、それは報いられるだろう”と詔った。高市皇子が“実を尽くす”と応えた」と。
     
    「仍対言得実、必有賜。於是。高市皇子被問以実対」???
  • 持統天皇は幼児、河内国の百済系氏族・飛鳥戸造の下で養育されていましたし、藤原不比等もやはり百済系氏族田辺史大隅の下で養育を受けていました。不比等の母はなんと上毛野氏の同族・車持君国子の(むすめ)です。子麻呂がいたと推定されている都賀郡には北浦という地域があって、縄文時代から歴史時代にわたる長い歴史の遺跡を持つています。そこには国庁や寺院の瓦を焼いた瓦窯跡もあります。その地“北浦”は百済と云う語の転じたもの(日本の古代語を語る 西郷信綱)だったのです。
  • 広瀬神社由緒書では,若宇加能売命を主神とし, くしたまのみこと ほのいかづちのみこと
    相殿に櫛 玉 命と穂 雷 命を祭る。若宇加能売命 は,伊勢外宮の豊宇気比売大神と同神とされる。伊 勢外宮は三輪氏の祖により平定された丹波国(丹後・ 但馬)からの勧請とされる。伊勢での内宮外宮,諏 訪の上社下社と同様に,龍田と広瀬がおかれたこと も考えられる。
    また若宇加能売命は,稲荷社の宇加之御魂神とも同 うかのみたまのみこと神とされる。書紀では,風の神に続いて,倉 稲 魂 命,すなわち稲の神が生まれたとされる。風の神と稲の神は近縁であることも,龍田と広瀬が祭られることが考えられる。また,若宇加能売命の名は,水をわか,あかということから,稲作に必要な水を示す呼 にぎはやひのみこと称の可能性もある。相殿の櫛玉命は饒 速 日 命であ り,物部氏の祖とされる。穂雷命からは,雷が想定 され,龍田の風神に対して,広瀬は雷神でもある。
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