任那、5-6世紀、倭5王 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

任那、5-6世紀、倭5王 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。太祖の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。 宋書

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  • 金官伽耶国王系図 
    首露王42-199
    居登王199-259
    麻品王259-291
    居叱弥王291-346
    伊尸品王346-407
    坐知王407-421
    吹希王421-451
    銍知王451-492
    鉗知王492-521
    仇衡王521-532 
  • 継体天皇の死亡年の3年のズレと関連する諸説

    継体-安閑-宣化-欽明の4朝についての日本書紀の紀年には多くの矛盾があり、これを解釈するために、二朝併立論をはじめ様々な説が出されている。その主なものをあげると、
    (1)平子鐸嶺説(継体朝末期を安閑・宣化朝と見る)
    (2)喜田貞吉説(欽明朝初期を安閑・宣化朝との二朝併立と見る)
    (3)林屋辰三郎説(喜田の二朝併立論を推し進め、継体は暗殺されたとする)
    (4)水野祐説(宣化を架空と見る)
    (5)白崎昭一郎説(欽明朝初期と宣化朝を二朝併立と見る)
    (6)黒岩重吾説(安閑暗殺、宣化軟禁と見る)
     これらの説には、春日山田皇后が中継ぎ的に一時期登極したとする説はないけれど、いずれにもせよ複雑怪奇な皇位継承状況は、その間に臨時的に女帝を立てると云う事態があってもおかしくないと思うのである。ー
  • 書紀にある「オホカラの王子ツヌガアラシト」

    その名は「大加羅の王子ツヌガ」であり、「アラシト」とは加羅の一邑・安羅の人の意である(「アル」=「卵」とも考えられるが。後述)。秦氏も多く居住した敦賀には気比(けひ)社がある。八幡神とされる応神天皇(ホムタワケ)には、この気比の神(イザサワケ)と名を交換し合ったという、紀記に載る意味深長な伝承もある。
  • 崇神紀65年7月条
     任那(みまな)国が朝貢してきた。任那は新羅(しらき)の西南にある。

    垂仁紀2年是歳条
     崇神(すうじん)天皇の65年に朝貢してきた任那の使いが国へ帰るというので、絹織物を持たせたら途中で新羅に奪われた。
     別の伝承では(崇神天皇の御世に、大加羅〈おおから〉国の王子・都怒我阿羅斯等〈つぬがあらしと〉が来朝した。垂仁〈すいにん〉天皇の御世になって国へ帰るというので、天皇は「大加羅国は崇神天皇の名〈みまき〉をとって任那〈みまな〉とせよ。」とおっしゃられて絹織物を持たせた。新羅人がそれを奪った。)という。

    垂仁紀3年3月条
     新羅の王子・天日槍(あめのひほこ)が来朝した。(宝物を持ってきたが朝貢ではない。)

    垂仁紀88年7月条
     昔、新羅の王子・天日槍が来朝時持参した宝が、今、但馬(たじま)にあるという。天皇は「この宝を見たい。」とおっしゃられた。

    仲哀紀8年9月条
     天皇が熊襲(くまそ)征伐を計画されると、神が皇后にのりうつって「熊襲を討つな、新羅を討て。」との啓示があった。

    仲哀天皇9年是歳条
     天皇が崩御されたが、新羅と戦争になったので葬り申し上げることができなかった。

    神功皇后摂政前紀
     神功(じんぐう)皇后は、軍船を率いて新羅に進んだ。新羅王は降伏し、(王子の)微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質に差し出した。それを聞いて高麗(こま=高句麗)と百済(くだら)も服従した。神功皇后は三韓(新羅、百済、高句麗)を従属させ、新羅からお戻りになった。

    神功皇后摂政紀5年3月条
     新羅王の朝貢の使いがきた。本当は、以前に人質として差し出した(王子の)微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を取り返すのが目的であった。皇后を騙して王子を新羅に逃れさせた。新羅の使いは殺された。

    神功皇后摂政紀46年3月条
     (伽耶諸国の一国)卓淳(とくじゅん)国に使いを出した。この国の王(こきし)は百済から「日本(やまと)の使いが来たら知らせてくれ。」と言われていたので、日本の使いと卓淳国の家臣は一緒に百済に行った。百済王は非常に喜んで日本の使いに贈物をした。

    神功皇后摂政紀47年4月条
     百済と新羅が同時に朝貢してきた。新羅の貢物は多く、百済の貢物は少なかったのでわけを聞くと、日本に来る途中で百済の貢物を新羅が奪ったという。皇后と誉田別尊(ほんたわけのみこと=即位する前の応神天皇)は使いをお出しになって新羅を責めた。

    神功皇后摂政紀49年3月条
     軍勢を派遣して百済とともに新羅を討って、加羅の7国を回復した。忱彌多礼(とむたれ=済州島)を百済に与えた。百済王は毎年春秋に日本に朝貢することを約束した。

    神功皇后摂政紀50年5月条
     百済の使いが来朝した。皇后はお喜びになって(伽耶の)多沙城(たさのさし)をお与えになった。

    神功皇后摂政紀51年3月条
     百済が朝貢してきた。皇后は「私が親しくする百済は天の賜物である。恩恵を与えよ」とおっしゃられた。

    神功摂政紀51年即年条
     百済に使いをお出しになられ、「百済とは深く長い友好を続けたい。」と伝えた。百済王と王子は忠誠を誓った。

    神功皇后摂政紀52年9月条
     百済の使者が来朝し、七枝刀(ななつさやのたち=奈良県天理市の石上神宮に今につたわる七支刀)をはじめ、数々の宝を献上した。

    神功皇后摂政紀55年条
     百済の国内記事(百済の肖古王〈しょうこおう〉がお亡くなりになる。)

    神功皇后摂政紀56年条
     百済の国内記事(百済の王子・貴須〈くいす〉が王となる)

    神功皇后摂政紀62年即年条
     新羅が朝貢しないので将軍・襲津彦(そつびこ)を遣わして新羅を討たせた。
     百済記(百済の史書)によると(襲津彦が裏切って加羅を攻撃した。加羅の王たちは百済に逃げた。天皇はそれを聞いて非常にお怒りになられた。)
  • 倭の将軍「于道朱君」なる人物

    倭王の命を受けて新羅を攻め、于老を火あぶりの刑に処したと『三国史記』(以下、『史記』とも記す)に見える

    昔于老(せき・うろう)とは
     第10代とされる新羅王奈解尼師今の子であり、その子が第16代王の訖解尼師今(以下、新羅の王は「尼師今」も「王」と記す)であって、当時の新羅の兵馬を握る人物。

    西暦三七〇、八〇年代の仲哀朝において、武内宿祢・葛城襲津彦親子が韓地で活動するのは肯ける。従って、両者を「于道朱君・葛那古」に比定する見解は説得力が大きい
  • 奈解尼師今の14年(209年)に、浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶を指すと考えられる)が新羅に対して救援を求めてきた。このとき太子の位にあった昔于老が、弟である伊伐飡の昔利音とともに加羅の救援に駆けつけ、浦上八国の将軍を討って捕虜6千を得た。

    助賁尼師今の2年(231年)7月に伊飡(6等)の位で大将軍となり、甘文国(慶尚北道金泉市)の討伐を行う。233年5月及び7月には新羅は倭人の侵攻を受けたが、7月の侵攻の際には于老は沙道(慶尚北道浦項市)で迎え撃ち、兵船を焼き払って倭人を壊滅させる功があった。これらの功績があって、244年1月には舒弗邯(官位1等の伊伐飡の別名)に引き上げられ、軍事の統括を委任された。翌245年10月には高句麗の侵攻を受けて出撃したが、勝つことができず馬頭柵(京畿道抱川市)まで退却した。このとき寒さが厳しかったために、兵卒を労わるために自ら薪を燃やして暖をとらせ、人々からは慕われた。沾解尼師今(在位:247年 - 261年)の時代に新羅の支配下にあった沙梁伐国(慶尚北道尚州市)が反乱を起こして百済に帰順したときにも、于老が出撃して沙梁伐国を討滅したという。

    のちに倭国の使者葛那古を接待したときに、戯れに「汝の王を塩奴(潮汲み人夫)にして、王妃を炊事婦にしよう」と言ってしまったために、倭王は大いに怒り、将軍の于道朱君を派遣して新羅に攻めてきた。于老は倭軍の陣に赴いて失言をわびたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺されてしまった。于老の死後、味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき、于老の妻が味鄒尼師今に願い出て、私的に倭国の大臣を饗応した。大臣が泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、怨みを晴らした[3]。このことが原因で倭人は新羅の首都金城(慶州市)を攻撃してきたが、勝てずして引き揚げたという。

    『三国史記』の編者の金富軾は昔于老を評して「戦えば必ず勝ち、敗れることが無かった策謀の士」としながらも、「ただ一言の過ち(失言)で自らの命を失い新羅と倭国との開戦を招いたことで、功績が記されなくなった」としている。


    3世紀の昔于老の功績として記されているが、神功皇后の時代の話ではなかろうか?

  • 『日本書紀』の欽明紀(540~571年)を読むと「任那」の文字がやたらに多いことに気付く。『日本書紀』を「任那」の文字で検索すると、最も多いのが29代の欽明天皇紀で133件、2番目が33代の推古天皇紀で29件、3番目が26代の継体天皇紀で16件である。ちなみに、「任那」の文字が最初に出てくるのが10代の崇神天皇紀で、最後に出てくるのが、36代の孝徳天皇紀(645~654年)である。

    『日本書紀』(720年編纂)以外で「任那」の文字が出てくるのは、中国の史書では『宋書』(~513年編)、『南斉書』(~537年編)、『梁書』(629年編)、『翰苑』(660年編)であり、金石文としては「好太王碑」(414年建立)、「新羅眞鏡大師塔碑」(924年建立)である。なお、朝鮮の正史『三国史記』(1145年編)では、「任那」の文字の表記は列伝に「臣はもと任那加良の人」と一例あるだけで、本紀には全く出て来ない
  • 国造本紀によると吉備津彦命の子、「三井根子命」は景行天皇の九州巡幸に吉備より随行、その功により葦北国造に任じられる。三井根子命は葦北君を賜り、継体期にはその子、「阿利斯等(ありしと)」が葦北国造になる。

    阿利斯等は、大連の「大伴金村」の命により、軍勢を率いて韓半島に渡る。
    そして阿利斯等は任那王を兼ねたといわれる。6世紀の初めのことである。
    阿利斯等の子、「日羅」は百済王に仕え、二位達率の高い官位を与えられている。「阿利斯等」の名も、朝鮮王から与えられた称号であったという。
    そして大伴金村の子の「大伴狭手彦」も筑紫に下り、任那に侵攻した新羅を誅している。
  • <三国史記 百済本紀 阿シン王朝>
    6年(397)夏5月に王が倭国との友好を結んで、太子支を人質に送った。秋7月に漢水之南から大閲した。
    (六年夏五月王與倭國結好以太子支爲質秋七月大閱於漢水之南)

    <三国史記 三国史記권제45(列伝第5)、朴堤上>
    先是実聖王元年壬寅(402)に倭国と興和したが、倭王が奈勿王の息子の未斯欣を人質にすることを求めた。王はかつて奈勿王が自分を高句麗に人質に送ったことを恨んでいたので、その息子で恨を解こうとして、拒絶しなかった。
    (先是實聖王元年壬寅與倭國講和倭王請以奈勿王之子未斯欣爲質
    王嘗恨奈勿王使己質於高句麗思有以釋憾於其子故不拒而遣之)


    上記の記録から見られるように、百済と新羅はそれぞれ倭に人質を送っている。
  • 安倍と安曇、高橋氏
    磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の御孫に当られる御方で、景行天皇が、御皇子日本武尊の御東征の戦跡を御巡視なされた際、膳臣としてお供をなされ当地まで来られたが、老令のためお許しを得てこの地にとどまり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。

      高橋朝臣の本拠地は摂津国(大阪府北部)だが、若狭国と安房国の長にとどまらず、上野(コウヅケ)国に移住した壬生古志の一族らとともに栃木県に定住した一族もいたものと思われる。
    阿倍氏の「あべ」とは、饗(あへ=阿閉=もてなし)を意味し、高橋氏は、同族の阿曇(あづみ)氏と同じく、律令制下、代々、内膳司(うちのかしわでのつかさ=天皇の料理を司る役所)の長官を勤めた。長官は二人で奉膳といい、阿曇氏と高橋氏の両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正(ないぜんのしよう)と区別された。
    阿曇とは、アマツミ(海人津見)の転訛で、海神(わたつみ)を意味しており、白村江の戦いには、阿倍比羅夫と阿曇比羅夫の二人の将軍が参加しており、記紀では底津小童命、中津小童命、表津小童命は、阿曇連らが祀っている神であると記しており、阿倍氏の源流が海人系であることは明白である。
  • 舟津神社は式内社として北陸最古の歴史を持つ古社だが、鯖江市の観光紹介では「崇神天皇の頃、北陸平定のために遣わされた大彦命を祀り、その折、賊に向って放った矢が「さばの尾」に似ていたことから鯖矢、そこから鯖江の地名が生まれたといわれています」と記している。
    『日本書紀』雄略紀に「高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)、吉備臣小梨(ヲナシ)、難波吉士(キシ)赤目子を勧めて、行きて新羅を救はしむ」とあるが、膳臣斑鳩の墓と想定されるのが福井県の5世紀末の前方後円墳「西塚古墳」である。
    副葬品は、位の高さを象徴する中国製の鏡、武将であることを示す甲冑(カッチュウ)、馬具、そして朝鮮半島製の金の耳飾り。墳丘には吉備(岡山)で作られた埴輪(ハニワ)が出土しており、副葬品から将軍として半島と関係を持ったこと、埴輪から吉備氏族と僚友関係があったことを示している。
  • 難波忌寸(なにわきし)
    『吉志部神社』大阪府吹田市岸部
    当地は仁安二年(1167年)の『兵範記』に「摂津国垂水東牧吉志部村云々」とあり。古くから吉志部(きしべ)と呼ばれていたようである。
    大彦命が蝦夷の征伐に派遣され、兎田の墨坂(奈
    良県宇陀町)を通りかかると、嬰児の泣き声が聞こえたので付近を探してみると、一人の嬰児が棄てられていた。そこで大彦命は兎田の弟原媛を乳母として養育され、この児は立派に成長し、大彦命のもとに送り届けられた。大彦命は自分の子として愛育し、得彦宿禰と名付けた。
    これが難波忌寸の祖である。
  • 吉志は吉士・吉師・岸にも作り、高麗系の渡来氏族である。新羅の官位十七等の第十四位に吉士があることから新羅系とも解されるが、高麗をはじめ安倍氏とともに吉志一族が吉志舞を奉したと『北山抄』にある。
    『記紀』は天之日矛を新羅の皇子、彼と同一人物とされる都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)命については大加羅国の王子としているが、『筑前国風土記逸文』に、伊都県主の五十迹手(イトテ)は「高麗の国の意呂山(オロヤマ=尉山(ウルサン))に天から降ってきた日桙の末裔」と名乗ったと記載されており、安倍氏族は高麗(高句麗???)からの渡来だと思われる。

  • 佐々貴山公(阿倍朝臣同祖)
    『沙沙貴(ささき)神社』滋賀県蒲生郡安土町
                  『佐々神社』三重県伊賀市
    際神は、少彦名命、大彦命、仁徳天皇、敦実親王、宇多天皇が祀られている。蒲生野の大領「沙沙貴山君」が崇敬した延喜式内社で、中世以降は近江守護佐佐木氏の氏神。佐佐木源氏発祥之地。少彦名神がササゲの豆の鞘に乗って、海を渡って来た伝説から「ササキ神社」が始まったと伝えられています。
    祭神の仁徳天皇を『古事記』は大雀命、『日本書紀』は大鷦鷯尊と記しており、鷦鷯と沙沙貴山君の関係がきにかかるが、『日本書紀』に、大己貴神が出雲の五十狭狭の小汀にいると、海上から白斂(ヤマカガミ)の皮で作った舟に乗り鷦鷯(ミソサザイ)の羽を以て衣とした小男の神が到来したとあり、それが少彦名命だとされる。
    同様に、658年に創建された安倍氏の伊賀国一の宮『敢国神社』も祭神は大彦命、少彦名命としており、少彦名命とは沙沙貴山君の祖ではないかとの感じを受ける。
  • 佐々貴山君の祖である韓袋宿祢は、大泊瀬王子(雄略天皇)の意を受けて、市辺押磐皇子の謀殺に加わったが、『日本書紀』には、市辺押磐皇子の子の顕宗天皇が即位すると、韓袋宿祢の子孫は処罰を受けて陵戸とされたと記している。
    このことから、近江の佐々木氏について「市辺押磐皇子の陵守だったことから、佐々木とは陵(ササキ)に因る名称だ」とする説もあるが、享保19年(1734年)、膳所藩士寒川辰清が編纂した近江の地誌『近江輿地志略』には、「佐々木とは鷦鷯(サザキ)の御名によるもので、沙々貴、娑々岐にも作り、篠笥にも通ず」とあり、陵とは無関係だと思われる。
    後世の武家の佐々木氏は宇多源氏である源成頼が近江に下向し、佐々木庄に土着した孫の経方が佐々木氏を名乗った事から始まり、古代からのその地の豪族で沙沙貴神社を氏神とした沙沙貴山君の子孫と同化していったと思われる。宇多源氏でも佐々木氏は近江源氏と呼ばれ、各地に支族を広げたが、その後、南近江と北近江に分立し、六角と京極の両氏が残り、両氏は複雑な争いを繰り返し、六角氏は1567年に六角氏式目を制定するなど活躍したが、1568年に織田信長に攻められ事実上滅ぶ。一方京極氏は信長、豊臣秀吉、徳川家康と仕え、丸亀藩など4家の主として幕末を迎えている。
  •  第8代順帝の昇明2(478)年、次のような上表文をもたらした。

        <倭王・武の上表文>(原文をかな交じりにし、割注を入れてある)

     <封国は偏遠にして、外に藩を作す。昔より祖禰(ソデイ)みずから甲冑を貫き、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東は毛人の55国を征し、西は衆夷の66国を服し、渡りて海北95国を平げり。
     王道は融泰(安泰)にして、土(国土)ははるかに畿内(都=宋王朝)を廓(へだ)て、累葉(何世代も)、朝宗(朝貢)して歳をたがへず。臣(わたくし)は下愚といえども、かたじけなくも先緒(先祖)を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率(なんとか率いて)せり。天極(宋朝)に帰祟し(あがめ)奉れり。
     しかるに句麗(高句麗)は無道にして、見呑を図らんと欲し、邊隷(ヘンレイ=百済のこと)を掠抄(侵略)せんとして虔劉(ケンリュウ=掠奪・殺害)することやまず。毎(つね)に、稽滞(ケイタイ=押し留める)を致し、以って良風を失へり。路を進ましめんと曰うといえども、或は通じ、或は通ぜず。
     臣が亡考(亡父)「済」は実に寇讎(コウシュウ=仇敵)の天路(宋王朝への朝貢の道筋)を擁塞せるを忿(いきどお)り、控弦(コウゲン=兵士)百万(を揃え)、義声(仇敵をやっつけようという声)は感激し(ふるいたち)ていた。
     しかし方(まさ)に大挙せんと欲したれど、奄(にわか)に父兄を喪ひ、垂成の功をして一箕をも獲ざらしめたり。居るところ、諒闇に在りて、兵甲を動かされず。是を以って、堰息(ため息)してやまざりし。
     今に至りて甲を練り、兵を治め、父兄の志を申(かさね)んとす。義士(高句麗をやっつけようとする兵士)・虎賁(勇士)、文武に功を(効)あらわし、白刃の前に交わすをもまた顧みざる所となせり。
     若し、帝徳を以って覆戴(フクタイ=後ろ盾)せば、此の強敵を摧(くじ)き、よく方難を靖んぜしかば、前功に替える無けん。
     ひそかに自ら開府儀同三司(カイフギドウサンシ=将軍府を開くことのできる三司と同じ地位)を假し、其の余もすべてそれぞれ假授せしめ、以って忠節を勤めんとす>
  • 神籠石のことは教科書には、新しい教科書も含めて一切載っていない。何故かと言えば、それまで書いてきたことの説明がつかなくなるからである。神籠石が造られた時期は白村江の戦い(六六三年)以前であることは間違いない。何故なら白村江のあと、唐の軍隊が駐留していたのだから、その前でこんなものを造れるはずがない。現在の考古学では六世紀から七世紀に造られたとしているが、年輪年代測定法によると七、八割は年代が一世紀ほど遡るらしいとされれているから、神籠石は五世紀ごろから造られ始め、白村江の前まで造られ続けたものと考えざるを得ない。そうすると、好太王碑文に出てくる倭の中心地勢力は、大和政権ではなく、大宰府・筑後川流域に中枢をおいた政権だと言うことになり、倭の五王も五世紀の王であるから、同じ大宰府・筑後川流域の王者だと言わざるを得ない。
  • 狭義の任那説
    狭義の任那は、任那地域に在った金官国(現代の慶尚南道金海市)を指す。
    中国及び朝鮮史料の解釈ではこちらの用法が多いが、『日本書紀』では532年に金官国が新羅に征服されてからも、それ以外の地域が相変わらず任那とよばれているから『日本書紀』の用法は後述の「広義の任那」である。
    広義の任那
    広義の任那は、任那諸国の汎称である。後述の諸史料のうち日本史料では任那と加羅は区別して用いられ、任那を任那諸国の汎称として用いている。中国及び朝鮮史料の解釈でも、広義では任那諸国全域の総称とする説がある。百済にも新羅にも属さなかった領域=広義の任那の具体的な範囲は、例えば478年の倭王武の上表文にみられる「任那・加羅・秦韓・慕韓」にて推測できる。ここにでてくる四者のうち、任那は上記の「狭義の任那」=金官国(及び金官国を中心とする諸国)。同じく加羅は上記の「狭義の加羅」=大加羅(及び大加羅を中心とする諸国)。秦韓はかつての辰韓12国のうちいまだ新羅に併合されず残存していた諸国、例えば卓淳国や非自本国、啄国など[6]。慕韓はかつての馬韓52国のうちいまだ百済に併合されず残存していた諸国、例えば百済に割譲された任那四県など、にそれぞれ該当する。『日本書紀』ではこれらの総称として任那という地名を使っているが、これらはこの後、徐々に新羅と百済に侵食されていったため、時期によって任那の範囲は段階的に狭まっており、領域が一定しているわけではないので注意が必要である。
    朝鮮史学者の田中俊明は、朝鮮・中国の史料では任那を加羅諸国の汎称として用いることはなく金官国を指すものと結論し、『日本書紀』においても特定国を指す用法があるとともに、総称としての用法が認められるがそれは『日本書紀』に独自の特殊な用法だと主張した。
    朝鮮史学者の権珠賢は日本、朝鮮、中国の金石文を含む23種類の史料における任那と加羅の全用例を精査し、任那は特定の小国の呼称ではなく、百済にも新羅にも属さなかった諸小国の総称であること、任那の範囲と加羅の範囲は一致しないこと、任那という呼称は倭国と高句麗による他称であると主張している。日本史学者の吉田孝は、『日本書紀』が加羅諸国を総称して任那と呼んだとする田中説が一般化したことを批判し、『日本書紀』の任那の用法は、「ヤマト」が大和国を指すと同時に倭国全体を指すのと同様に、任那加羅(金官国)を指すと同時に任那加羅を中心とする政治的領域の全体を指したものであると主張している。
  • December 2017 編集されました
    鶏足寺
    兵庫県姫路市西北部の峰相山にかつて存在した寺院である。この寺院については、貞和4年(1348年)頃に成立した『峯相記』という書物に記載された寺伝以外に根拠となる史料がない。『峯相記』は筆者は不明であるが、貞和4年(1348年)頃、鶏足寺に参詣した一人の旅の僧が、寺の老僧から聞いた話を書き記したという設定になっており、播磨地方の寺社の縁起などが記されていて、当地方の歴史を知る上で貴重な資料である。

    同書によれば、神功皇后が三韓征伐の際に連れてきた新羅の王子が草庵を建立したのが当寺の始まりで、その王子は3世紀ほど後の敏達天皇10年(581年)に没したという。伝承によれば、「皇后が新羅の王子を連れ帰ることにした。王子は皇后に渡海を無事に終えて日域(日本のこと)に着けば、伽藍を建てたいと願い出たが、仏法の是非のわからない皇后は明答しなかった。皇后は帰国後、西域の不安に備えて副将軍の男貴尊を播磨にとどめおき、王子を預けた。その後、王子は、峯相山に草庵をつくって、千手陀羅尼を唱えた」とある。

    (四世紀初頭頃)、「記」応 神天皇の条(四世紀頃末頃)に記載があるが、「紀」によれ ば「三年三月、新羅の王の子・天日槍が船に乗って播磨国の宍粟邑(しさわのむら)にきた。天皇から播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑(いでさのむら)を賜ったが、天日槍は宇治河(淀川)を遡って近江の北にある吾名村にしばらく住んだ。近江から、また若狭国を経て但馬国に至り、居を定め、但馬の太耳の娘麻多烏(またお)を娶り但馬諸助 を産んだ……」とある。当時の但馬は一面の泥海であったので、天日槍は台地を切り開き、水を日本海へ流し、豊岡や出石の盆地を造ったという。
  • December 2017 編集されました
    長浜の鶏足寺
    この地域はかつて、東にそびえる己高山(標高923m)を中心として繁栄した湖北の霊場・仏教文化圏に属していた。
    己高山縁起によると、「この山は近江国の鬼門にあたり、いにしえより修行場であった」といわれ、役玖小角(えんのおづね)・行基
    泰澄大師なども修行し後に最澄が再興したとある。
    つまり、このあたりは交通の要所にもあたることから、奈良時代には中央の仏教と北陸の白山信仰が混ざり合い、さらに平安期
    になると比叡山天台宗の影響を強く受け、これらの習合文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文化を構築したことが
    うかがわれる。
    この地域の寺院を中心とした仏教文化は湖北地方の仏教文化に大きな影響を与えたといわれ、「己高山仏教文化圏」とも表現されている。

    応永14年(1407年)の奥書のある『己高山縁起』によれば、近江国の鬼門(北東)に位置するこの山は奈良時代に行基および泰澄
    によって開かれた。
    鶏足寺は己高山の中心寺院であった観音寺の別院であったもので、伝承によれば天平7年(735年)、行基によって開基。
    いったん荒廃したものを延暦18年(799年)最澄が再興したといわれている。
    文永6年(1269年)下野国・薬師寺の慈猛が、それまで天台・真言宗、兼帯であったのを真言宗に改宗した。
    奈良・興福寺に属する寺院を書き上げた『興福寺官務牒疏』という資料(嘉吉元年・1441年)には、己高山の五箇寺として法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺の名があり、観音寺の別院として鶏足寺、飯福寺、円満寺が挙げられる。

    鶏足寺の所蔵として登録されている膨大な文化財はかつてこの地に極めて注目すべき仏教施設が存在していたことを物語る。古橋の集落は、南流する高時川が平野部に入ろうとする地点の左岸段丘に立地し、東側は南北に標高932mの己高山を主峰とする山並を望んでいる。
  • December 2017 編集されました
    己高山はかつて仏教文化が栄え、そこには己高山五箇寺とよばれたお寺があったそうです。

    法華寺、石道寺、観音寺、高尾寺、安楽寺
    の五箇寺で、観音寺には飯福寺、鶏足寺、円満寺などの別院もあったのだとか。

    これらのお寺は今の己高山には残っておらず、どんな本尊が祀られていたのか、いつ消滅したのかも未だわかっていません。
    五箇寺の存在を記したものも「興福寺官務牒疏」という書物にしか載っていないようです。
    (己高山は当初、奈良の興福寺の寺領だったそうです。)

    己高山観音寺は山頂付近にあったそうですし、別院も持っています。
    そして、室町時代には大寺院となっていた鶏足寺も元は観音寺の別院であったわけですから、観音寺はかなりの大寺だったのでしょう。

    長浜市高月町の保延寺地区のお隣に「雨森あめのもり」という地区があります。高時川を渡る橋に続く通りを挟んで保延寺地区と雨森地区に分かれるのですが、「己高山観音寺」は保延寺から雨森に入ってすぐのところにあります。
    通称「蔵座寺」または「雨森観音寺」と呼ばれています。

    近江国湖北四家の一つとして知られる雨森氏の菩提寺です。
    江戸時代の儒学者、雨森芳洲はこの末裔です。

    雨森観音寺は、延暦年中(782~806年)伝教大師 最澄の草創で、かつては七堂伽藍が建ち並び、栄えたこともあるそうです。
    それが現在は上のお堂のみとなっています。
    (お堂の周りを支えている柱は、雪よけのビニールシートをかけるためのものです^^)

    戦国時代となる天正元年、織田信長 VS 浅井・朝倉の戦いの1つ雨森磧合戦で、このお寺は天台宗という理由で織田方に焼き放たれてしまいました。
    だから今となっては七堂伽藍があった頃の繁栄の跡もない
  • December 2017 編集されました
    伊勢の忍山神社
    猿田彦命
    この神は天孫邇々芸命が筑紫の日向の峯に降臨する時に先導役をする為、天の八街(道の分かれるところ)まで迎えに出た神であり、案内した後は、伊勢の狭長田の五十鈴の川上へ帰還したという。「紀」の神代の条の記述であるがこれを一応肯定すると、天照大神の孫邇々芸命を葦原の瑞穂の国で出迎えた猿田彦命なる神は、天孫族より以前に日本列島に渡来していた天孫族の同族であったことになる。いわゆる国津神と呼ばれる神の一人であった。 更に、忍山神社の社記によれば、神社は現在地の北東にある押田山(愛宕山)の麓にあり、この山は神山とも呼ばれて、亀山の語源にもなっているが、社記に文明年中(一四七〇年代)の兵火で白木山(新羅山)に逃れたという記述がある。白木山の麓に白木神社が存在する例は亀山市の白木町でも見られると共に、他県(例えば熊本県)でも見られる。加えて、神社の創建が饒速日命の孫であれば出雲に渡来してきた氏族の直系ということになり、白木、新羅とのつながりが一層強くなる。従って、忍山神社の白鬚大明神と布気神社の素盞鳴尊は新羅の神、新羅(白木)神であったと言えるであろう

    当神社の拝殿には牛頭天皇(ごずてんのう)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の額があり、毎年十月にある傘鉾(かさほこ)の祭(亀山市無形文化財)は、須佐之男命の荒魂をなぐさめるために古くから行われた神事の一つであるが、その由来は明確でないという。この祭は疫病を追い払い、健康を願うものである。猿田彦の像は平安時代の木像であるという。更に、この神社は元伊勢神社として倭比売が皇大神宮の宮地を求めて遍歴した十六社(奈良、宇陀、近江、岐阜、美濃、伊賀、伊勢等にある神社)で、神無山の会を設けているという。
  • 『三国史記』百済本紀に

    「王、倭国と好(よしみ)を結び、太子腆支(てんし)を以て質と為す。」
    (第三、阿[辛*]王六年<三九七>五月条)
    「腆支王。<或は直支と云う。>……阿の在位第三年の年に立ちて太子と為る。六年、出でて倭国に質す。」
           (第三、腆支王即位前紀)
         辛*は草冠編に辛です。

      『三国史記』のこの記事によれば、三九七年に百済の太子で後に百済王となった腆支が倭国へ人質となって来ていたのだ。この三九七年という年は、初代玉 垂命が没した三九〇年の後であることから、倭王讃の時代となろう。
  • 大化元年(645)壱岐対馬を異国に侵略された時、巨勢大連は勅命を受けて直ちに撃退し、尚もその後の守護をする為、当地に留まって荒野を開拓された
  • 「巨勢社由緒略記」

    肥前州巨勢荘鎮守宗廟巨勢大明神
    人王三十七代孝徳天皇御宇、異賊壱岐・対馬の二島を化すにより、巨勢大連征伐勅を蒙り下向せり、 御退治の後、猶西津守護の為、漫々たる広野を開き、此所に跡を垂レ給ふにより、巨勢の荘と号し、宗廟巨勢大明神と崇め奉る
    [中略]
    人々故郷の氏神老松大明神并当国一宮淀姫大明神・乙宮の三社を巨勢大明神の社に勧請し、四社明神と崇敬す、 本地不動明王・十一面観音・毘沙門天
  • 05/21編集されました
    554年に倭は百済を救援。562年には新羅の侵入により任那が滅亡。大和王権は6世紀以降、たびたび韓半島に出兵し、宗像の重要性と半島航路祭祀の権威が高まっている。
     そんな中、7世紀になってはじめて宗像氏族が登場する。645年に「胸形君」は、宗像神郡の大領と宗像大社の神主を任じられる。654年には、胸形君「徳善」の女(むすめ)が天武天皇の妃となり、後に太政大臣となる高市皇子を生んでいる。宗像氏の繁栄の時代である。
     のちの宗像氏となる「胸形君」の出自に関しては謎が多い。古く、胸に文身を入れて胸形氏、海人族といわれながらも海人としての側面が見られず、自身の氏神祭祀や摂末社も皆無。神宝類にも海人の匂いがしないのである。
     新撰姓氏録は「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也。」として、宗像氏を素盞鳴尊の嫡裔、大国主の流れの吾田片隅命の裔で、大神氏同族とする。
     大神氏が祭祀する大和の三輪山は、山頂の磐座に大物主神、中腹の磐座に大己貴神、麓の磐座には少彦名神を祀り、三所祭祀とされる。
     その大神氏が下向し、宗像、沖ノ島の航路祭祀に三所祭祀を持ち込み、沖津宮、中津宮、辺津宮の祭祀としたという説がある。

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