阿多、吾田、阿多津比売、阿部氏 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
阿多、吾田、阿多津比売、阿部氏 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

笠沙の岬は、何処か
<古事記>
此地は空国に向ひ、笠沙の岬に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国ぞ、かれ、此地はいと吉き地
<日本書紀>
吾田の長屋の笠沙の碕に至ります

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  • 阿倍氏の「あべ」とは、饗(あへ=阿閉=もてなし)を意味し、高橋氏は、同族の阿曇(あづみ)氏と同じく、律令制下、代々、内膳司(うちのかしわでのつかさ=天皇の料理を司る役所)の長官を勤めた。長官は二人で奉膳といい、阿曇氏と高橋氏の両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正(ないぜんのしよう)と区別された。
    阿曇とは、アマツミ(海人津見)の転訛で、海神(わたつみ)を意味しており、白村江の戦いには、阿倍比羅夫と阿曇比羅夫の二人の将軍が参加しており、記紀では底津小童命、中津小童命、表津小童命は、阿曇連らが祀っている神であると記しており、阿倍氏の源流が海人系であることは明白である。

    古代は戦場に女軍(めいくさ)と呼ばれる女性部隊が最前線に立った。武器で戦う訳ではない。巫女の部隊である。呪術を用いて敵を呪い殺し、武神から勝利のご託宣を受けて味方を鼓舞する役目を負っていた。いわば戦場に舞うシャーマンである。
     阿倍氏(阿部・安倍・安部)の饗(あへ)には物部氏の物と同様に不可視の力を意味しており、後世には陰陽師の安倍清明が登場するが、巫術者の家系だと思われる。
    同族である高橋氏の名前の由来は、神が降臨する神奈備に高い柱を立てて、神の目印としたが、その「たかはしら」が転化したもので、神事に関与した一族であることを表している。
  • ○高千穂峯に天孫降臨した天津彦彦火瓊々杵尊が、吾田の長屋の笠狭碕で、最初に出合った人物が、事勝國勝長狭である。日本書紀一書(第四)によると、事勝國勝長狭は、伊弉諾尊の子で、別名は塩土老翁であるという。

    ○その國に美人がいた。鹿葦津姫(別名神吾田津姫:木花開耶姫)である。鹿葦津姫は天神と大山祇神との間の子であるという。日本書紀一書(第三)によると、鹿葦津姫には、磐長姫と言う姉がいた。大山祇神は、姉妹とも天津彦彦火瓊々杵尊に献上したが、天津彦彦火瓊々杵尊は妹だけをもらい、姉を帰した。それで人の寿命は短いのだと言う。日本書紀本文では、大山祇神は女神になっているが、ここでは男神であるようだ。ちなみに、大山祇神は、伊弉諾尊が軻遇突智(かぐつち)を切った時に二番目に生成した神である。

    ○鹿葦津姫が生んだ子が、火闌降命・彦火火出見尊・火明命である。火闌降命を海幸彦、彦火火出見尊を山幸彦と言う。山幸彦が海神宮に出掛ける時、出合ったのが塩土老翁である。山幸彦は海神宮で豊玉姫と結ばれる。海神の名は豊玉彦。豊玉姫の妹が玉依姫。山幸彦と豊玉姫の子が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊である。

    ○彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と玉依姫の間に、生まれたのが彦五瀬命・稲飯命・三毛入野命・神日本磐余彦尊である。

  •  其の事勝國勝神は、是伊奘諾(いざなぎ)尊の子なり。亦の名は塩土老翁(しほつつのをぢ)』(紀上 156頁)


    「日本書紀」のこの「かたり」からは、『吾田の長屋の笠狹の御碕』には、

     『伊奘諾尊(伊邪那岐命)』の「子」だという『事勝國勝神、亦の名は塩土老翁』が居たとあり、

     しかも、この直前の日本書紀「第九段 一書第2」には、

     『膂宍の胸副國(むなそふくに)を、頓丘から國覓ぎ行去りて、浮渚在平地(うきじまりたひら)に立たして、乃(すなは)ち國主事勝國勝長狹を召して訪(と)ひたまふ。

     對(こた)へて曰(まう)さく、「是に國有り。取捨(ともかくも)勅(おほみこと)の随(まま)に」とまうす』(紀上 154頁)

     と、『吾田の長屋の笠狹の御碕』の『長狹』には、尊号『国主』が冠されて『國主事勝國勝長狹』と記されているのである。
  •  『天皇家』は『自家の系譜』に関して「日本書紀 日向神話」には、

    天孫・初代について、『天津彦彦火瓊瓊杵尊崩(かむあが)りましぬ。因りて筑紫(つくし)日向(ひむかの)可愛(え)之(の)山陵(みささぎ)に葬(はぶ)りまつる』(紀上 142頁) 

    2代目・『彦火火出見尊崩(かむあが)りましぬ。日向の高屋(たかやの)山上(やまのうえの)(みささぎ)陵に葬(はぶ)りまつる』(紀上 168頁)

    3代目・『彦波瀲(ひこなぎさ)武(たけ)鵜草不合(うがやふきあへず)尊、西洲(にしのくに)の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平(あひら)の山上陵に葬りまつる』(紀上 168頁)

     と、「3代」の墓所について『日向西洲(にしのくに)』で生涯を終え、

     「天孫から4代目」の「鵜草不合尊の息子・神武」が「大和」へ出て『初代人皇』になったと載せてある。
  • 『神代の笠沙の御崎』には『事勝国勝長狭、亦の名、塩土老翁』なる人物が「国主」として居て、『瓊瓊杵尊』に土地を提供し、

     『瓊瓊杵尊』は土地の娘『吾田鹿葦津姫』と結婚して、『天皇家や隼人族』の始祖となった

  •  『天照大御神の左のみづらに纏(ま)かせる八尺(やさか)の勾〈tama〉の五百津(いほつ)のみすまるの珠を乞ひ度(わた)して、ぬなとももゆらに天の真名井に振り滌きて、さがみにかみて、吹き棄つる氣吹の狹霧に成れる神の御名は、正勝吾勝々速日天之忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)』(記 77頁)とあるのである。

     つまり、「日本神話」では、『伊邪那岐命・伊邪那美命』という『陰陽の夫婦神』が「国を生み、神々を生む」話が、より具体的な『日本史』の始まりに関係するようにかたられているが、

     この『夫婦神』は『火の神・迦具土(かぐつち)』の出産で「火傷」が原因で『伊邪那美命』が死に、

     その後は、夫の『伊邪那岐命』の『筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原』での『禊祓』で最後に『3貴子』が誕生したのであった。

     その『3貴子』のうちの「須佐之男命」と「天照大御神」が『誓約(うけひ)』によって「次世代」が誕生するが、その第一子『長男』が『正勝吾勝々速日天之忍穗耳命』で、


  • 吉備の総社駅の西に三輪山がある。
    三輪山といえば大和国にある大神神社(おおみわ)の神体山が有名である
    ここの三輪山は標高96mとさほど高くなく、丘陵といってもいいくらいの山だ。



    今から二千年ほど前に、人がこの丘陵に住み着いた痕跡が天理教三輪山教会裏山遺跡や殿山遺跡などの小集落跡として残り、弥生時代後期には宮山を中心とした一帯をムラの墓地として利用していたことがわかっている。

    その後4世紀後半頃からは首長墳として天望台古墳や三笠山古墳などのように前方後円墳が造られた。その三輪山の西麓に百射山神社(ももいやま)があった。

    祭神は、
    百射山神社  大山祇命  (おおやまつみ)
    御崎神社 吉備武彦命 (きびたけひこ)
    三輪神社  猿田彦命  大物主命 


    社伝によれば

    大山祇命は、瓊瓊杵尊(ににぎ)の后妃、木花開耶姫命(このはなさくやひめ)の父神で、南海道の伊予国大三島に鎮座している。

     後に神裔、五田守國勝長狹命(くにかつなぎさ)と宇津命(うつ)は水軍を率いて吉備の島の賊どもを平らげた。

      その途中、吉備国「百射の山島(福山)」に滞在した時に、御祖神「大山祇命」を奉祀したのが神社の始めと伝えられている。


    その後、戦災等で隣山の幸山へ奉移再建されたが、宮山の地に再び奉移遷宮され現在に至る。
  • 吉備の三輪にある宮山古墳からは、西暦200年前後あたりに造られた宮山型特殊器台と飛禽鏡(ひきん)が出土している。
    うこの特殊器台は、大和の箸墓古墳からも出土していることから、吉備で造られ大和に伝わったか?
  • 多賀大社の事勝国勝長狭命と瓊瓊杵尊

    祭神は伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)を祀る。
    摂社の日向神社は瓊瓊杵尊(ににぎ)を、山田神社は猿田彦大神(さるたひこ)を、多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮神社(このみや)は、伊邪那岐命と伊邪那美命の他に事勝国勝長狭命(ことかつ くにかつ ながさ)を祀る。

    摂社の日向神社が瓊瓊杵尊だというのは、なるほど!とも思えるのだが、瓊瓊杵尊は聖神社として祀られることが多い。(ここの聖神社には少彦名命が祀ってある)



    淡路国一宮 伊弉諾神社

    土佐国一之宮と同じく「いっくさん」と呼ばれ、古くは淡路島神、多賀明神、津名明神と崇められた淡路国の一之宮である。

    祭神は、神話初期の主役である伊弉諾大神と伊弉冉大神(いざなみ)で、社殿の右手に境内社が並んでいる。

     ● 左右神社(天照大御神・月読尊)
     ● 根神社(須佐之男命)・竈神社(奥津日子神・奥津比売神)
     ● 鹿島神社(武甕槌神・経津主神)・住吉神社(住吉三神)
  • 『先代旧事本紀』国造本紀
    『上毛野国造』 豊城入彦(トヨキイリヒコ) 命の孫の彦狭島(ヒコサシマ) 命
    『那須国造』 建沼河 (タケヌマカワ) 命の孫の大臣命
    『筑波国造』 忍凝見(オシコリミ) 命の孫の阿閇色(アヘシコ) 命
    『高志国造』 阿閇臣(アヘノオミ)の先祖の屋主男心(ヤヌシオココロ)命。
    『高志深江国造』 道臣(ミチノオミ)と同祖の素都乃奈美留(ソツノナミル)命。
    『加宜国造』 能登国造と同祖の素都乃奈美留(ソツノナミル)命。
    『若狭国造』 膳臣(カシワデノオミ)の先祖の佐白米(サシロメ)命の子・荒礪 (アラト) 命。
    『能登国造』 垂仁天皇の皇子の大入来 (オオイリキ) 命の孫の彦狭島(ヒコサシマ) 命
    『針間国造』 稲背入彦(イナセイリヒコ)命の孫の伊許自別(イコジワケ)命
    『針間鴨国造』上毛野国造と同祖の御穂別(ミホワケ)命の子の市入別(イチイリワケ)命
    『筑志国造』 阿倍臣と同祖の大彦(オオヒコ)命の五世の孫の田道(タミチノ) 命
  •  塩土老翁という神

     塩土老翁については、塩椎神・塩筒老翁など多くの表記方法があり、記紀の神話伝承に世代(年代)を超えて登場する。具体的には、
    (1) 山幸彦と海幸彦の日向三代伝承のなかにあらわれ、山幸彦が兄海幸彦から借りた釣針を失って困っているとき、小船を作り海宮への行き方を教示した(記紀)、
    (2) 神武天皇の東征にあたり、九州の日向で、東方に美き地があり大業をはじめるにふさわしいことを教示した(神武即位前記)、
    (3) 天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊が降臨したとき、吾田の長屋笠狭之御碕にあって国土を奉献した事勝国勝長狭(コトカツクニカツナガサ)という神も、またの名を塩土老翁という(書紀の一書)、
  • 神話では、阿遅志貴託日子根神は大国主神と宗像の田心姫との間に生まれた御子神であり、この宗像大社には織物にまつわる伝承があります。
    一つは応神紀四一年、呉からの織工女を胸形大神の求めで奉献したとあります。

     更にこれよりは、より神話的なお話があります。『肥前国風土記』基肄郡の姫社神社の創祀譚です。

     昔、姫社郡を流れる山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合。「筑前の宗像の郡の珂是古に祭らせよ。さすれば凶暴な心はおこすまい」との託宣があった。珂是古は幡を高くあげて風のまにまに放した。その幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機類が出てきたので、女神であることを知った。社を建てて神を祭ったところ、災いがおさまった。」と云うお話。 」」7.28

    難波の比売碁曾神社

     珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。 http://www3.osk.3web.ne.jp/~fpress/kaze/kaze003.html
     タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。
     タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。
     もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。

     こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。
  • 宗像家
    クナト大神-八島篠-布葉之文字巧為-⑥八束水臣津野-吾田片隅-田心姫・多岐津姫・市杵島姫(宗像3女神。)
  • 田心姫は、向家の天之冬衣の后(八重波津身=事代主神の母神。)で、多岐津姫は、八千矛(大穴持・大国主神)の后
  • 記紀は、難波の吉師氏の祖は、仲哀天皇の長男忍熊王(おしくまのみこ)の腹心の部下で、応神&神功の軍に攻められて一緒に入水自殺した、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)としている。この人は、天穂日命→天夷鳥命の子孫で、出雲国造(出雲大社社家、祭神:大国主命)・土師連(菅原氏・大江氏)、武蔵国造(氷川神社社家、祭神:素戔嗚尊)と同族だ。しかしながら、この阿倍氏の系図によると、大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。

    阿倍氏と吉師の関係を結ぶのは「難波」の地だ。難波の住吉のすぐ側に、何故に阿倍野の地名があるのか? 古事記は五十狭茅宿禰を「難波の吉師部の祖」とハッキリ書いている。子孫には、三宅吉師の祖となった、三宅入石もいる。五十狭茅宿禰が吉師部の祖で、それを統率したのが阿倍氏なのだろうか? 阿倍氏の部民としてしまうには、出雲国造と同祖の五十狭茅宿禰は名族の出過ぎる。それに、この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。とすると、吉師氏の五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命は同一人物なのだろうか? そうでないとしても、かなり近い間柄だと言えるのではないだろうか。
  • 刑部神社、佐波良神社★
     岡山県真庭市大字社1272
    ・延喜式内社、美作國大庭郡、形部神社、論社。
    ・舊社格は縣社。
    ・祭神は形部神(神阿多津比賣命)。
    ・延喜式内社、美作國大庭郡、佐波良神社、論社。
    ・舊社格は鄕社。
    ・祭神は佐波良神。
    ・二社が同一境内に相殿にて鎭座する。
    ・當社境内に古墳が存在したことを古老は傳える。
    ・社に延喜式内社大庭郡八座が鎭座し、現在はその八座が三箇所、字谷口大社に刑部神社、佐波良神社二座が鎭座、字於和佐に二宮の五座(壹粟神社二座、久刀神社、菟上神社、長田神社)が鎭座、字加佐見山に橫見神社が鎭座する。このように、式内社が大庭郡布勢鄕社の三箇所にまとめられた經緯は不明であるが、大庭郡は大庭、美和、河内、久世、田原、布勢の六鄕よりなったとされており、これら八座は各鄕の氏神を祀ったものであったことが推測される。
    ・社に統合された式内社の祭神のうち、佐波良神社は佐波良命、菟上神社は弟彥王命と岐神と和氣氏に關係のある神が祀られており、統合に關與しているという說もある。弟彥王は和氣氏祖、佐波良は麻呂の祖父に當たる。和氣氏は美作に莊園を保有したとされる
  • December 2018 編集されました
    形部神社の相殿として佐波良神社は祀られ、通称四宮。
    形部神社は通称五宮。

    祭神 形部神(神阿多津比売命)、佐波良神

    本社は社にある久刀神社、兔上神社、壱粟神社、大笹神社、長田神社、横見神社と共に、
    八社宮と言われ、美作にある式内社十一社の内八社がここ社に祀られている。

    「玄松子」氏は 形部神を(神阿多津比売命)とされており、それが正しければ、確かに神阿多津比売命とは木花咲耶姫であるはずで、大山祇命の娘となり、横見神社との関係が考えられそうです。

    大社  佐波良サワラ・形部カタベ(合祀)神社
    二宮  菟上神社 壹粟・大笹神社 久刀神社 長田神社
    横見  横見神社

    一方、HP「新しい日本の歴史」氏もこれについては悩まれており、

    佐波良神はどのような神か判りません。そこで、探ることになります。佐波良神を祀った他の神社に当たってみます。
    (イ) 佐良神社 
       鎮座地    津山市一方636-1
       氏子地域   津山市(福田、高尾、皿、平福、中島、一方津 山口、井ノ口)
    由緒  (岡山神社庁ホームページ)
    本社の創立年代は不詳であるが、口碑によれば備前美作の両国造となった。和気氏の祖が、この地に居住し、地名を美作国佐良の荘(旧久米の佐良山)と云えられる。和気氏祖神を当地に勧請したのが佐良神社である。
     大正2年2月15日に福田村 村社八幡神社、元高尾村 村社高尾神社、元皿 村 村社佐良神社、元平福村 村社八幡神社、元中島 村社福井神社、元一方 村 村社長岡神社、元北村 村社八坂神社、元井口村 村社八坂神社以上の各 部落の神社を佐良神社に合祀する。
     大正2年10月に現在の地に遷座した。
    祭神 佐波良神 素盞嗚命 天日鷲命 大國主命 譽田別命 大山祇命  奥津彦神 奥津姫命 猿田彦命 火産靈命 清麻呂命 平麿神 和多都美神  天穗日命 經津主命 倉稻魂命 彌都波能賣神 宿奈命 伎波豆命
     (由緒にあるとおり、合祀をしたので、祭神は多いが、元からの祭神は佐波良神である)

    (ロ) 和氣神社(ワケジンジャ)
       鎮座地   和気郡和気町藤野1385
       氏子地域  和気町藤野
     由緒  (岡山神社庁ホームページ)
    当社の御祭神は、鐸石別命、弟彦王命、和気清麻呂、和気広虫姫命など和気氏一族9祭神である。
     鐸石別命は垂仁天皇の皇子で、命の曽孫弟彦王が軍功によりこの地に土着し、一族は備前及び美作に栄えた。
     弟彦王の12代の孫が和気清麻呂、広虫姉弟であり、ともに朝廷に仕えた。清麻呂公は、奈良時代から平安時代の転換期に大きな役割をはたした人物で、なかでも道鏡事件、平安遷都などでの活躍は有名である。
     広虫姫は戦乱による多くの孤児を養育し、その仁愛慈育の生涯は女性の鏡と称えられた。
    祭神 鐸石別命 弟彦王命 佐波良神 伎波豆命
        宿奈命 乎麻呂命 清麻呂命 広虫姫命
    祭神は鐸石別命・弟彦王・和気清麻呂としている。鐸石別命は垂仁天皇の子, 弟 彦王はその三世孫で備前・播磨の国境エリアで活躍, その功で藤原(後に藤野に改める)の県主になったという。何世かの後,佐波良-波伎豆-宿奈-乎麻呂 -清麻呂となる。(日本後紀の「清麻呂薨伝」による) 一書によれば鐸石別命は河内国大県郡高尾山に葬られ, 鐸彦神社が創始され たという。 鐸彦神社は金属技術集団の斎祭した神ト言われています。和気氏は精錬に優れていたようです。
    佐波良神社の近くに、八畳石と呼ばれる岩があります。湯原町のたたらの遺跡ではないかと言われています。
    佐波良神は、製鉄を担当した神ではないでしょうか?

    佐波良神社[サハラ]
    形部神社[かたべ]・佐波良神社[さわら]「神阿多都姫命、佐波良神」大杉が千年の昔を偲ぶ。境内には後期古墳が分布していた。鉄の生産地域であり、これに支えられたものであろう。岡山県真庭郡湯原町大字社字谷口大社1272 玄松子の記憶

    形部神社[カタヘ]
    形部神社・佐波良神社 前掲 形部神は神阿多都姫命。

    壹粟神社2座[イチアハ]
    壹粟神社[いちあわ]「神大市姫命」岡山県真庭郡湯原町大字社字於和佐654 玄松子の記憶

    横見神社[ヨコミ]
    横見神社「大山津見命」岡山県真庭郡湯原町大字社字加佐美山758 玄松子の記憶

    久刀神社[イサハ]
    久刀神社[くど]「久那止神」岡山県真庭郡湯原町大字社字於和佐654 玄松子の記憶

    上神社[ウカム]
    莵上神社[とかみ]「岐神」岡山県真庭郡湯原町大字社字於和佐654 玄松子の記憶

    長田神社[ナカタ]
    長田神社[ながた]「事代主神」岡山県真庭郡湯原町大字社字於和佐654 玄松子の記憶
  • December 2018 編集されました
    佐波良神社は旧郷社で、旧県社の形部神社の相殿として祀られている、式内二社。

    なお、両社とも和気清麻呂の祖や類族を祀ったとも伝わる。
    延喜式内美作国十一社の中、八社がこの真庭市社の地にある。また、荒魂神社と名づけられた幾つかの境内社が並んでいる。
    所在地 (〒717-0404)岡山県真庭市社1272

    佐波良神社
    この社というところは不思議なところである。鎭座地が廢村になったり、神社そのものが廢絕、また、明治の神佛判然令などのためによる合祀などの形ではなく、その經緯は不明ながらもかなり早い段階で、三箇所に倂せ祀られることになっているところであり、その中でも主たる神社のひとつにあたるのが當社であるようである。ただ、他の二箇所と同じく、その歷史はあまり詳らかではない。惡いところではないが、この地が元より刑部神社、佐波良神社のいずれかが鎭座していたのかどうかもわからず、もしかしたら古墳があっただけの地かもしれない。謎につきる。ただ、古くより人がいた地域であるので、兩社の遙拜所があったのかもしれない。
  • 神代の『膳夫・阿多の鵜飼』が『贄』を供献するときの神歌は次のようにある。

     『是の我が燧(き)れる火は 高天原には
      神産巣日(かみむすび)の御祖命(みおやのみこと)の
      とだる天の新巣(にひす)の凝烟(すす)の
      八拳(やつか)垂(た)るまで焼(た)き挙げ

      地(つち)の下は 底つ石根に焼き凝(こ)らして
      栲縄(たくなは)の 千尋(ちひろ)縄打ち延(は)へ

      釣為(す)る海人の 口大(くちおほ)の尾翼鱸(おはたすずき)
      さわさわに 控(ひ)き依(よ)せ騰(あ)げて

      打竹(さきたけ)の とををとををに
      天の真魚咋(まなぐひ)献る』(記 125頁)

     よくは分からないが、『海の幸』を神に献じるときの「神楽の祭文」の類であることは分かる。

     『天之眞魚咋』に「山口佳紀、神野志隆光」は『魚の料理』と注している(新編日本古典文学全集Ⅰ 古事記 113頁)。間違いない、が、

     ジブンテキには、ここの『咋』は『玉』を表す『隼人の神学』に基づく表記と考える。

     『真魚(まな)』も、『真食・まき』同様そうで、今、「まな板」に伝わる。

     実のところ、ここに至って始めて『膂宍の空国』の解釈に確信が持てた。つまり、「古事記」にあって、
    「萩原浅男・鴻巣隼雄」は「葦原中国のことむけ」、
    「山口佳紀、神野志隆光」は「忍穂耳命と邇々芸命」、
    「倉野憲司」は「葦原中国の平定」と題した、

     いわゆる、「日向神話」の前章、『美濃』の舞台では、

      『天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の
       項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統に 穴玉はや
       み谷 二(ふた)渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ』

    と歌い終われば、本来、『幣帛』にかかわる「かたりもの」が中心の舞台
  • 和名抄「阿多郡」『笠沙路の大伴・久米の靱負』
  • 門部と言えば門号十二氏のことと思いきや、門号十二氏の前に「門部氏」という氏族がいたようである。門号十二氏は、

    丹比 山部 健部 的 壬生 大伴 若犬養 玉手 佐伯 伊福部 海犬養 猪養の十二氏で、ほとんどが前代の門守(大伴、佐伯)や屯倉の守衛(若犬養、海犬養、猪養は犬養の誤字か)、軍事氏族(丹比、山部、健部、的、玉手)で、あまり守衛と関係ないのは壬生と伊福部か。この二氏は現今で言う縁故採用された氏族か。犬養が多いのは『日本書紀』(巻第十八安閑天皇)「二年夏五月丙午朔甲寅 置筑紫穗波屯倉・鎌屯倉 豐國尖碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉・大拔屯倉・我鹿屯倉 火國春日部屯倉 播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉 備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉 婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉 阿波國春日部屯倉 紀國經湍屯倉・河邊屯倉 丹波國蘇斯岐屯倉 近江國葦浦屯倉 尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉 上毛野國綠野屯倉 駿河國稚贄屯倉 ◯秋八月乙亥朔 詔置國々犬養部」とあり、「現在では、犬養部は犬を用いて屯倉の守衛をしていたという説が有力になっている。」とする。この場合の犬は猟犬や食肉犬などではなく、言わば軍用犬で現在でも自衛隊には海上自衛隊の警備犬(けいびけん)、航空自衛隊の歩哨犬(ほしょうけん)がいるそうな。屯倉守衛犬が放し飼いで使役されていたものか、はたまた、リードにつながれて使役されていたものかは定かではないが、犬養氏・犬養部は長続きしなかったらしく、その後、軍事氏族へ転向したようである。但し、犬養部を統率した伴造(とものみやつこ)に、県犬養連、海犬養連、若犬養連、阿曇犬養連の4氏が存在したと言うが、県犬養連を除いては海人系氏族のようだ
  •  「筑紫日向」の地の特定に結びつく記述は、イザナキが黄泉から逃げかえりミソギする地名にある。記はそれを“到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐原而禊祓也”と書く。紀には“則往至筑紫日向小戸橘之檍原、而祓除焉。”(第6一書)とあり、さらに別の一書により詳しく“故、欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、而拂濯也。”(第10一書)と載る。
     ミソギの地、檍原は小戸の橘(立ち鼻=岬)の脇にあり、その小戸は潮(海流)の流れの強い粟門と速吸名門との二つの瀬戸を持つ海峡の近くにある、と読み取れる。
     後者の速吸名門については、神武紀に同地名が載る。東征に向かう神武天皇を珍彦が待つ部分、“天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乘艇而至。天皇招之、因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神。名珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子來、”である。
     この記述は、速吸之門と曲浦(文庫本・紀はワダのウラと振る)が近隣にあることを示す。ただし、記には吉備の高島宮を出た後に速吸之門へさしかかるとある。私見では、厳の高島宮とあった伝承が、厳しいと読まれて吉備に置き換えられている。
     曲浦とは、曲がりくねった水路・港の表現である。その形状を持つ海峡の一つが、関門海峡だ。地図上、鉤の手に曲がる同海峡は二つの瀬戸を持つ。響灘側の大瀬戸と周防灘側の早鞆瀬戸である。さらに、下関と彦島の間には小瀬戸があり、響灘から海峡へと通じている。しかも、周辺の人々はこの小瀬戸を今でも「オド」と呼んでいるという。
     関門海峡は、記紀が記述する形状に合致する最有力候補地なのだ。ただ、この最西端とはいえ本州の地が、「筑紫日向」に含まれてしまう点が問題となろう。

    小戸橘のアワキ原
     次に「檍原」(紀)、「阿波岐」原(記)について探索しよう。
     アワギ原の原名は「アワキ(泡岐。岐は別れ道)のイバル」だろう。九州には、檍をイキと読む姓があり、また「村」をバル(原)と云う例が多いから、イバルと読んだ。
     この二段地名は、記の“其所神避之伊邪那美神者、葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也”から類推した。おそらく、伝承にはイザナミの墓は「イツとアワキの堺のイバ」とあった。後世、イツに出雲、アワキに伯伎(ハハキ)を当てたとみる。ただ、伯伎は白日(ハクヒ)かもしれない。その地を紀は“故葬於紀伊國熊野之有馬村焉。”と書く。こちらは、熊野(ユヤ)の有馬(ユバ)へ葬ったと記す。ユバはイバの訛り、原称はイバルだろう。熊野は、素戔嗚尊の子、湯山主三名狭漏彦八嶋篠の名に残る湯山または湯山+八嶋の地であり、下関北部の古代地域名のひとつである。その呼称は現在、北方の油谷湾に残る。熊の曾の地は建日別と国生み記にある。熊も建日の地なのだ。
     イザナキが檍原でミソギしたのは、記紀がイザナミと書く女王(私見では、アワ出身だからアワを名に負う女王、沫那美こと青橿城根こと惶根尊である)の故郷、また葬られることになる地だったから。その地で前王の地位の継承を誓う儀式を行うために戻ったのだ。
     その檍原は、小瀬戸が岬(橘)で廻りこむ部分にあったと読む。現在の小瀬戸を曲げている彦島の山すそには「海士郷町」の地名が載る。また、その対岸には伊崎の地名がある。
     なら、下関を小戸で隔てる彦島に筑紫日向の小戸橘の檍原はあった、と仮比定ができる。
     だが、下関市の彦島へ「筑紫日向の」と形容がつくのはおかしい。そこは筑紫つまり九州ではなく、本州なのだから。筑紫は九州でなければならぬとする固定概念からは、仮比定が間違っていると見えよう。ただ、記紀を編纂した近畿王朝が九州方面の伝承として、筑紫日向をかぶせたとの逃げ方はできる。
     しかし、彦島の形状を記紀に探索すると、アワキの彦島仮説を成立させる記述が見つかる。
  • 01/07編集されました
    淡洲は彦島の地
     そのミソギをする檍原のある島、彦島には別名がある。それが淡洲または淡島・粟島だ。小戸の檍(アワキ)は「泡岐(泡の枝道)」であり、その泡が上品に淡に換えられた。淡(アワ)の地が、曲浦にあることを記すのが、神功皇后摂政前紀三月条である。
     皇后が神懸りして神名を尋ねると、その一柱が“幡萩穂出吾也、於尾田吾田節之淡郡所居神之有也。〔私訳:幡に似た萩の花穂の地が我を出だした。小戸のアタ(曲浦)の節(瘤・継ぎ目)の淡郡(アワのコオリ)にいる神だ〕”と答える。私見では、この神は沫那美、またはその子イザナキである。
     この小戸にある淡郡は、国生み記の“次生淡嶋。是亦不入子之例”、“生子、淡道之穂之狭別嶋”の淡の地である。子之例(タグイ)とは征服地を指す。だから前者は、出身地の淡島は征服地の数には入れないといっている。淡嶋が自地であることは、紀一書が“先以淡路洲・淡洲為胞”と書くからわかる。淡の地はおそらく沫那美が胞(エナ、胎児を包む膜)となって、イザナキを育てた地なのだ。


    彦島はスペード型
     では、この淡嶋・淡洲こと彦島の形状は、神代巻にどのように記述されているか。
     第一は、先の“淡道之穂之狭別嶋”である。穂先が狭く別れた形とある。
     第二はイザナキが目にして云ったという、神武紀の“昔伊奘諾尊目此國曰、日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國”の磯輪上(シワカミの)秀眞(ホツマ)国である。私訳すると、「リング状に取り巻く磯の上にある穂爪(ホツマ、穂先)の国」といっている。
     第三も前出“幡萩穂出吾也”の幡萩穂だ。幡のように垂れた萩の花穂と形容する。
     となると、どれも淡嶋はスペード型をしていることを伝えている。
     だったら、その島の形は、つくしんぼの頭(穂先)の形ともいえよう。
     つまり、本州にある檍原への「つくし」は、国名の筑紫あるいは九州内の意ではない。単に「ツクシ(土筆)あるいはチクシの」という島の形状の形容詞なのである。ネイティブな土筆の呼称に後世、上品に九州の国名に使われていた「筑紫」の漢字をあてたのだ。
     土筆の語源は、明らかではない。平安期に「ツクヅクシ」と載り、ツクシとして登場するのは明治期になってからとある(堀井令以知氏編『語源大辞典』東京堂出版刊)。しかし、それ以前、土筆がツクシと呼ばれていたことはありえないとの否定はしていない。土筆を地から突き出た串と見立て、大昔から「チ・クシ」と呼んでいた可能性の方が高い。

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