韓伝、月支国、辰王 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
韓伝、月支国、辰王 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

「魏志韓伝」は約2000字で、倭人伝より20%ほど少ないが、三つの韓(馬韓・弁韓・辰韓)の歴史・風俗がよく分かり、紀元前から3世紀半ばまでの史料である。

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コメント

  • 月支国
    「桓檀古記~北夫餘紀、上」太子、慕漱離立つ(二世)。番朝鮮王箕準、賊の衛満に敗れ海に入る。諸加の衆は上将の卓を奉じて、生郷に月支国を立てる。中馬韓という。弁辰二韓もまた国を立てる。
  • 後漢書韓伝は、魏志韓伝の後に完成した。

    目支国
    范曄は、三韓の馬韓が強大で、すべて「古の辰国」であったとする。
    馬韓は馬韓人を立て辰王とし、目支国を都とし、三韓の地をことごとく支配した。(三韓)諸国の王の先祖は、すべて馬韓種の人であった。
    箕準は衛満に破れたので、海上に逃れ、馬韓を攻撃して降伏させ、自立して韓王となった。・・・(これが、現在の天安市です)
    準の子孫が亡びると、馬韓の人が来て、また辰王となった。

    月支国
    陳寿は、魏略を引いて辰王は月支国に居て統治しているとする。
    箕準の件は魏略を引用。
    衛満と戦った箕準は対抗できず、海に出て韓族の地に住みつき、自ら韓王と称した。準は海を渡って朝鮮とは二度と往来しなかった。

    范曄は、東漢観記(25年~220の後漢王朝記)を参考にして、後漢時は、馬韓を目支国とし、目支国を馬韓の辰王とするが、箕準を辰王と書いてはいない。韓王と明紀した

    後9年、準の子孫の馬韓が滅んだ。(三国史記百済本記の温ソの言)
    準の子孫が亡びると、馬韓人が来て復(復帰)して辰王となった。
    (後9年以降は、都慕大王の時代だから、目支国は都慕大王の系統です。
  • 韓国の学者で、箕子朝鮮は無かったというが、箕準は韓王に仮冒したとある、
    箕子朝鮮を韓氏朝鮮とした。間違って

    箕準は衛満に破れたので、海上に逃れ、馬韓を攻撃して降伏させ、自立して韓王となった。

    偉大なる辰王ではない
  • 韓侯の子孫(姫姓)が何処に居たか、です。

    新撰姓氏録
    諸番の摂津国・史戸は、漢城人韓氏・徳之後也と明紀され、漢城が韓徳の居たところか
  • 『播磨国風土記』の、「餝磨の郡・巨智の里(こち)」の条に、草上の村・大立の丘、右は巨智らが、始めてこの村に居住した。 だからこれによって名とした。
     草上というわけは、韓人の山村たちの上祖・柞巨智賀那がこの地を請いうけて田を開墾したとき、一つの草叢があってひどく臭かった。だから草上とよぶ。
  • 「桓帝の末と霊帝の末には韓、濊が強勢になり、郡や県は制御することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の帝、献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫模や張敞等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓を伐ったので、元の楽浪郡民が少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。」

     「桓霊の末」は桓帝の末と霊帝の末を合わせた表現で
     公孫氏は領土を拡張したわけではなく、楽浪郡を分割して新たに帯方郡を設けただけなので、二郡は近接しています。おそらく辺境の治安強化策でしょう。それが奏功し、倭や韓が朝貢に訪れるようになったのだと思われます。
     魏、明帝の景初二年(238)六月、卑弥呼の使者、難升米が帯方郡を訪れ、当時の日本のようすが明らかにされました。しかし、難升米の日本出発時には、魏が帯方を占拠したことは知られておらず、公孫氏に朝貢するつもりだったのに、魏へ朝貢する形になったわけです。晋が建国された泰始元年に朝貢していますが、この時も出発時には魏の滅亡は知られていなかった。王朝の交代にあわせたすばやい遣使と考える人がいますが、情報が伝わる時間、洛陽まで移動する時間が頭に入っていない。どちらも偶然なのです。
  • January 2017 編集されました
     辰国が知られた当時は、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては穢族の集団、西南に馬韓となる。馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓とした。辰王は月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。
     紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕氏最後の準侯は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(辰)王となったが、一代で終わり、再び韓人が復位した。
     北西部には箕氏のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置された。
     紀元前二世紀末、扶余族は満州平原に進み、そこでツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。
     四世紀前半、高句麗や鮮卑の圧迫を受けて扶余国は滅亡するが、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てる。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れた後に、朝鮮半島に侵入し、馬韓に攻め、制圧してしまう。これが百済の建国である。このとき辰国は解体する。

    『後漢書』弁辰伝。
     初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。準後滅絶、馬韓人復自立為辰王。
     初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。

     これは、燕国から千余の兵士を連れて朝鮮に逃亡してきた満(衛満)によって国家を簒奪された朝鮮王準の後事を記したもの。具体的な年は不明だが、紀元前195年に燕王が匈奴に亡命しており、同時期に衛満も燕国を脱出いるはず。そこから朝鮮の王権を奪取するまでに何年を要したかだが、10年前後のことではないかと想像する。
     いずれにせよ、紀元前二世紀には辰国が存在していたことだけは確実である。

    『京畿道の由来』
     京畿道は、漢江に沿って肥えた平野が発達して、先史時代から人々が定着した地である。 漣川郡田穀里の旧石器時代遺跡地、河南市ミサ洞の新石器時代遺跡、そして驪州フンアムリの青銅器時代遺跡などがそれを証明している。
     紀元前二世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定される。以後京畿地域は馬韓連盟体に属したが, 連盟五十四カ国のなかの十余の小国が京畿道地域に分布した。
     紀元前75年、辰国が三国に分離され、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼした馬韓と辰韓の地になった京畿道は、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあった。

     上記は、韓国京畿道の案内サイト(http://japanese.gg.go.kr/index.jsp)に掲載された文面(無断で筆者が日本文を修正したが)。

    地元の自治体も辰国の誕生年代について

    『三国志魏書』馬韓伝
     魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
     魏略には、初め、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国に移住した。朝鮮の属国とも往来をしなかった。

    衛氏朝鮮の重臣が、国王の右渠に叛いて辰国に亡命した記述の一節だが、衛氏朝鮮も半島南部(漢江流域)にまでは支配力が届いていなかったようだ。衛氏朝鮮が辰国の朝貢を妨げたことが朝鮮討伐の名目とされ、紀元前108年に衛氏朝鮮は滅ぼされるが、その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡のどこにも辰国は帰属していない。

    『後漢書』馬韓伝
     韓有三種:一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁辰。馬韓在西,有五十四國,其北與樂浪,南與倭接。辰韓在東,十有二國,其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南,亦十有二國,其南亦與倭接。凡七十八國,伯濟是其一國焉。大者萬餘戸,小者數千家,各在山海閒,地合方四千餘里,東西以海為限,皆古之辰國也。馬韓最大,共立其種為辰王,都目支國,盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。
     韓に三種あり、一に馬韓,二に辰韓,三に弁辰(弁韓)。馬韓は西に在り,五十四カ国。その北に楽浪,南に倭と接する。辰韓は東に在り,十二カ国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十二カ国、その南に倭と接する。およそ七十八カ国。伯済は、その一国なり。大領主は万余戸,小領主は数千家を支配する。各々に山海の間に在り、土地は合わせて方形四千余里、東西は海が限界をなしている。いずれも昔の辰国である。馬韓が最大で馬韓人から辰王を共立し、都は目支国(月支国),三韓の地の大王とする。その諸王の先祖は皆、馬韓の族人なり。

     漢王朝は楽浪郡と北に撤退した玄菟郡だけを管轄し、その他は旧来の有力部族の首長を県侯に任じて直接支配を廃止したことで、三国志魏書に「夷狄更相攻伐」と記されているように県侯の間に激しい領地の争奪戦が生じ、辰国はその影響で分裂したのだろう。
     その後も存続するが、四世紀に百済が馬韓を統一し、辰国は解体される。
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