目弱王、眉輪王の変、葛城氏滅亡 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
目弱王、眉輪王の変、葛城氏滅亡 « 古代史&フォーラム by tokyoblog


安康3年(475?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である大泊瀬皇子(雄略)
は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者たちを攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の「市邊
押磐皇子」らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で自ら即位する。

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コメント

  • 巨勢氏の史料初見は、突然登場して継体天皇元年に大臣となった巨勢(許勢)男人臣であり、その娘の紗手媛・香々有媛はいずれも安閑天皇妃となったことが『書紀』に見える。男人臣は、継体天皇を迎えるという大伴金村大連の提案に賛意を表して、即位後は大臣となり、娘二人が安閑妃となっている事情から、継体の登場とともにその支持勢力の巨勢氏が力を伸ばした。いま高取町西部の市尾駅北方近隣にある市尾墓山古墳(全長六六Mで二段築成)は馬具などを含む豪華な副葬品、埴輪Ⅴ式、木製埴輪などを出して六世紀前半の古墳とされ、男人の墳墓とする見方(河上邦彦氏など)がある。近隣には、国際色豊かな副葬品をもつ宮塚古墳(全長約五〇M)もある。この辺りから、西南の巨勢寺塔跡のある御所市古瀬にかけての地域が巨勢氏の主要居住地とみられている。古瀬の宮ノ谷には巨勢山口神社もあり、巨勢寺の付近を巨勢川が流れる。
     欽明朝には欠名の許勢臣が任那日本府の卿となり、男人の孫くらいの世代に比良夫臣が用明二年(587)に物部守屋大連を滅ぼす際に活動し、その同世代の許勢臣猿が崇峻朝に任那再興の将軍となり、『上宮法王帝説』に見える巨勢三杖大夫などを経て、大化時の徳陀古につながっていくが、男人と徳陀古との間の現伝系譜には数代の欠落があって、その間の許勢本宗の歴代や動向は不明である。
  • 「武内宿禰大臣」の妻となって「葛城襲津比古」を生んだとされる「葛比売(カズヒメ)」

    推古三十二年冬十月、時の推古帝に対し、

      葛城縣は、元、臣が本居なり。故、その縣によりて姓名をなせり。これを以て、願わくは、常にその縣を得て、臣が封縣とせんと願う。

    と大臣蘇我馬子が要求したり、皇極元年に蘇我蝦夷が「己が祖廟を葛城の高宮に立て」たのも蘇我氏が葛城国造(少彦名命)を太祖と認識していた証と考えることが出来るかも知れません。そして「葛城氏」の祖となった襲津比古自身が、母方の「葛城」を名乗ることになったのも、その「姓」に天孫由来の重みが在ったからに違いないでしょう。娘の磐之姫は仁徳帝に輿入れして多くの子女を儲け葛城氏の興隆が始まりますが、帝の諱が「大雀(オオサザキ)」なのも「鳥」つながりで肯けます。葛城国造の系図の傍証となる系図がもう一つあります。それが「鴨縣主」系図と呼ばれるもので、これも国会図書館に『諸系譜』の一部として収められています。鴨氏にも諸流がありますが、系図に示された一族は明らかに天孫の流れを汲む一家と見られます。その始原の様子を伝える文献資料が「山城国風土記」逸文に在る『賀茂社』の記述です

    可茂と云うは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建津身命、神倭石余比古の御前(みさき)に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、
      そこより漸くに遷りて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまい、山代河のまにまに下りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし(中略)
      賀茂建角身命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女にみ娶いて生みませる子、名を玉依日古といい、次を玉依日売という。

    中洲(うちつくに)を目指しながら峻絶な山中で「行くべき路」を失いかけていた神武にアマテラスが夢で語りかけます。『わたしが、今、頭八咫烏を遣わします。これを以て嚮導者(くにのみちびき)としなさい』と。新撰姓氏録は山城国の「賀茂縣主」「鴨縣主」の二家をあげて「神魂命、孫、武津之身命の後なり」と記し、神武の「東征」に当って鴨建津之身命が「大きな烏の如くに化けて奉導し、遂に中洲に達することが出来た。天皇はその功を嘉び、特に厚く褒賞し、天八咫烏の称号は此処より起こった」と自画自賛しています。
  • 飯豊天皇(飯豊青皇女)は本拠地「葛城の忍海」(おしぬみ、おしみ)の角刺宮(つのさしのみや)で政治を行った。相当立派な宮だったのでしょう、詠まれた歌があります。
       倭辺(やまとへ)に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮
    (大和のあたりで見ておきたいものは、忍海の地の高木にある立派な角刺宮である。)

     日本書紀の清寧天皇記に、(482年頃)『天皇は飯豊皇女の兄弟の億計(オケ)を皇太子とし、弘計(ヲケ)を皇子とした。飯豊皇女は角刺宮で男と交合(まぐわい)をされたが、「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない。以後男と交わりたいとも思わぬ」と云われた。』とあります。
     話の流れからすると、清寧天皇には皇嗣(こうし、跡継ぎ)がなかったので、飯豊皇女の二人の兄弟を皇太子と皇子にした。そして飯豊皇女は角刺宮で清寧天皇と交合したが、良くなかったので以後男を避けた、と考えられます。

     飯豊天皇は執務1年弱で崩御、ヲケ王が23代顕宗天皇として485年に河内飛鳥(大阪府羽曳野市)で即位した。この地は元々蘇我氏の本拠地のあったところで、石川が流れている。蘇我氏は大和の飛鳥に移住した。
     487年に顕宗天皇崩御の後、兄のオケ王が24代仁賢天皇として488年に石上(天理市)で即位した。
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