百済王族の亡命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

百済王族の亡命 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

いったいなぜこんな山奥の地に!?
百済は六六三年の白村江の戦いで滅亡するが、神門に百済王が亡命するのは八世紀半ば。その間何があったか?

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  • 天武天皇二年(六七三)六月二日、天武天皇は百済人の沙宅昭明の死に際して、彼に外小紫の位を贈るとともに「大佐平」の位を賜っている。この「大佐平」の位というのは百済の王が臣下に授ける最高位の位とされている。

    日本の天武天皇が、沙宅昭明に百済の位を授けたのは何故か?
  •  異説もいくつかあるようなのだが、『隋書』に寄れば百済の八大姓は沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏となっている。
  • 随書・百済伝に「国中大姓有八族。沙氏、燕氏、刕氏、真氏、解氏、国氏、木氏、苗氏」とあり。八氏は五世紀頃の百済国の支配層なり。百済王十七代直支王(文周王)の後裔と称す。
  • 大原 高安(おおはら の たかやす、生年不詳 - 天平14年12月19日(743年1月19日))は、奈良時代の皇族・貴族。当初高安王を称するが、大原真人姓を与えられ臣籍降下した。敏達天皇の孫である百済王の後裔]。筑紫大宰率・河内王の子[3]。官位は正四位下・衛門督。
  • 703年に伊予守となった百済王良虞は、聖武帝に黄金九百両を献上した敬福の父親
  • 福智王と比木大明神

    高鍋町持田の大年にある「大年神社」の祭神は「稲田姫命」。スサノオノミコトの妹で、同町蚊口の鵜戸神社の由緒では、「大年神」はスサノオノミコトの子神である。五穀豊穣(ほうじょう)、農耕の守護神で、中世には領主伊東氏から田8反と屋敷が与えられていた。
     また同神は、木城町比木の比木神(五社大明神)と縁が深く、同社の大祭に先立って「大年下り」が大年神社境内に祭られた「比木大神」を中心に行われる。比木社のご神体「御袋神」の浜下りの神事である。
     高鍋町鴫野(しぎの)の浜の真砂を持ち「上り」、比木社の大祭は始まる。流布している「比木大明神本縁」(宝暦5年、加賀美光章編)をさかのぼる59年前の元禄9(1696)年、新田村(新富町)の神官井上良光(よしてる)が書写した「旧記」は次のように述べている。
     百済の王は「貞家」(ていか)と言い、王位に21年間あって皇太子に王位を譲った。皇太子は福智王で、王位について3年で国に内乱が起こり、日本に逃れた。
     天平勝宝8(756)年9月、安芸国(広島県)の厳島に着き、同10年秋、日向国児湯郡嘉口(かぐち)の港に入った。そのとき、ぬれた衣を乾かしたところを「もひろげ」、馬具を干したところを「くらかけ」という。
     福智王は住むところを決めるため珠玉を投げた。18里も飛び、そこを「火棄」(ひき)と名付けた。
     同じころ、貞家王は臼杵郡金ケ浜に着く。ここから78里の山奥に住居を構える。百済から追ってきた賊と坪谷伊佐賀坂(東郷町)で戦いとなったが、福智王が火棄から駆け付け、賊を滅ぼした。
     この戦いで食料が尽き、王と兵士が困っていたが、神門の武将・益見太郎が鹿(しし)を狩り、助ける。このことから、神門の祭りには捕れた獲物を神に供える神狩(みかり)がある。戦死した二男の皇子を伊佐賀大明神として祭り、流れ矢に当たって死去した貞家王の墓を「塚原」という。神門大明神がこれ。
     福智王は火棄に火棄大明神として祭られた。火棄を比木と改めたのは仁寿2(852)年。福智王の母が「大年大明神」で、陵は鴫野にある。
     このように比木神社の4つの大祭は、比木神が「大年神」と「神門神」という農耕世界と狩猟世界の2つの守護神を結ぶ神であることを示している。
    永井哲雄
    http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/seikatu/miyazaki101/shinwa_densho/041.html
  • 続日本紀延暦9年(790年)の条。
    百済王一族の上表文に、「応神朝、百済に人を求めた時、百済王貴須王の孫、辰孫王が、倭国に派遣された。
    辰孫王は、皇太子の師となり、その子孫は、葛井、船氏等となった」とある。

    ここに登場した貴須王は、百済国13代王。しかし、6代王も、貴須王と呼ばれていた。
    在位は、214年~234年。倭国女王卑弥呼の頃
  • 八艘帆が崎
    五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した
    佐賀県杵島郡。艘帆が崎で、正面に見える森が島でした。
    その向こうに、武内宿禰の居館跡山惣があり、その近くの石崎に湊がありました。
    百済王子の渡来が書かれていました。その名は阿佐太子。

    八艘帆が崎(はっすぼがさき)
     古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、
    一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

    一、口承によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

    二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

    三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

    一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

    四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
    補、焼天神の 白は、八艘帆が崎と同じである。

    平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
    稲佐文化財委員会
  • June 2016 編集されました
     武蔵野国への古代朝鮮からの入植の記録を、日本書紀・続日本紀から抜粋すると,
    (日本書紀)天智天皇五年(666):高麗遣前部能婁等進調。
    、、位玄武若光等。是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車。
    天武十三(684)年:化來百濟僧尼及俗男女幷廿三人、皆安置于武藏國。
    持統元年(687):以投化高麗五十六人、、、
    (続日本記)霊亀二年(716):以駿河。甲斐。相摸。上総。下総。常陸。下野七国高麗人千七百九十九人。遷于武蔵国。始置高麗郡焉。
    天平宝字二年(758):帰化新羅僧卅二人。尼二人。男十九人。女廿一人。移武蔵国閑地。
    天平宝字四年(760):置帰化新羅一百卅一人於武蔵国。

    があり、さらに、新編武蔵風土記稿の高麗郡総説では、上記のほかに青木村に住む青木内蔵助家譜に「其先武石麻呂霊亀二(716)年二月詔を蒙り、高麗人九百九十人を具して、丹波国より本郡に至り、住居せし、其の地を即ち青木村と名くとあり・・・」とあります。当然、正史に載らない入植者も多数あったと考えるべきでしょう。
     一方、同じ古代朝鮮からの入植者のためにおかれた、新羅郡(現在新座市と旧保谷市)には、その一族をしめす神社はなく、氷川神社の領域になっています。また、高麗郡、新羅郡には、式内社のないことも特徴の一つ。
  • 稲佐神社 杵島郡白石町

    祭神
    天神(てんじん)、女神、五十猛神、大屋津比賣之神 配 聖王神、阿佐神

    由緒
     式外社。大同二(807)年創祀。三代実録に貞観三(861)年従五位下とある。
     西国寺社奉行伊豆藤内の『稲佐大明神、神者人王三十代欽明天皇之朝、附国百済聖明王、為明王為新羅之冦所殺也、其世子余晶並弟恵等数十人率妻子従族而来、于我朝』(肥前国誌)とある。
     余晶が父の遺骨を稲佐山(杵島)山の山頂に葬り、帰化して稲佐大明神として祀ったという。
     上記由緒は、配祀の神の説明である。
  • 〈史料 5〉『日本書紀』天智天皇二年九月辛亥朔丁巳条。
    百済州柔城、始降於唐。是時国人相謂之曰。州柔降矣。事無奈何。百済之名絶于今日。 丘墓之所豈能復往。但可往於弖礼城、会日本軍将等、相謀事機所要。遂教本在枕服岐城之 妻子等、令知去国之心。
    〈史料 6〉『日本書紀』天智天皇二年九月甲戌条。
    日本船師及佐平余自信。達率木素貴子。谷那晋首。憶礼福留。并国民等至於弖礼城。明 日、発船始向日本。
    〈史料 5〉は、国を失った百済人たちが日本に亡命しようとする状況を詳しく説明して いる。〈史料 6〉は、百済遺民が帰国する日本の水軍とともに渡来していた状況を示して いる。ここでは、佐平余自信、達率木素貴子、谷那晋首、憶礼福留などの人名が確認でき る。彼らの氏姓である「余」と「木」などからみると、王族や中央貴族の出身であったと 考えられる。また、彼らの官位である「佐平」や「達率」は、百済官僚制度の中でも高位 なので、彼らは百済復興運動を主導した勢力であったとみられる。ここでは、一部の人名 しか確認できないが、百済が滅亡した後、復興運動の主要な勢力が亡命国として選択した ところは、やはり友好関係の日本であったと推定される。
  • 京都に平野神社という神社がある。桓武天皇が平安遷都と共に創建し、皇室の崇拝を集めてきた神社である。この神社の祭神は四柱あり、今木神、久度神、古開神、比売神を祀っている。このうち比売神は9世紀になってから祀られたようで、創建時祀られていたのは三柱だった。
    これらのうち今木神は「皇大御神(すめおおみかみ)」と呼ばれている。『延喜式』によれば「皇大御神」と呼ばれる神様は、天照大神と春日神とこの今木神だけであるという(歴史読本2003・10月号)。また久度神と古開神は「皇御神」と呼ばれている。共に皇室の祖先神として扱われているわけだが、天照大神は記紀の記述から祖先神であることは明白であるし、春日神は藤原氏の祖先神で、平安時代にはそれが皇室の母方の祖先神として敬われていたことがよくわかる。
    では記紀にも載っていない、今木神、久度神、古開神とはいったいどんな神様なのであろう?

    実はこの神様たちは百済の王というのがその正体である。今木神とは百済の聖明王のことであり、久度神は百済の仇首王のこと、古開王とは百済の開祖・沸流王のことである。これら神様はもともとは百済系渡来人によって祀られており、光仁天皇が即位するの及んでその田村後宮において桓武天皇とその生母の高野新笠が祀っていた神様であった。高野新笠は和氏(やまとし)出身で、この和氏が百済系渡来氏族であった。したがってこれら神様は桓武天皇の母系に繋がっている。

    ところが、和氏は『続日本紀』や『新撰姓氏録』では百済の武寧王の子孫と称しており、仇首王や沸流王には繋がるが聖明王には繋がらないのである。聖明王とは武寧王の子供で「武寧王の子孫」という場合は聖明王とは別の兄弟の子孫ということである。ではなぜ聖明王を「皇大御神」として祀ったのだろうか?

    本当は聖明王は高向王に繋がっているのではないか?そして漢皇子=天智天皇を通じて桓武天皇に繋がっているのではないだろうか?桓武天皇という人物は天智系であることを非常に意識した天皇であり、また自分に百済王族の血が流れていることを非常に意識した天皇である。その百済王族の血は母親の高野新笠を通じてもあるのだが、同時に父方の天智天皇を通じてはなかったのか?今木神が必ずしも高野新笠とは繋がってないところをみると、その可能性はないとは言えない。

    この今木神はまた五穀豊穣の神様ともいわれる。さらにその原型を尋ねると水を司る神様といわれる。奈良県川合にある広瀬神社は竜田神社とセットで天武・持統天皇の時代に尊崇されたことが『日本書紀』にみえる。竜田神社には風の神である「シナガツヒコ・シナガツヒメ」が祀られているが、この「シナガ」は「息長」である。一方広瀬神社の神は「大忌神」と言いまた「水足明神」とも言って水の神様である。この「水足明神」は「今木の里」に降りてきた伝承を持つ。竜田・広瀬の神は夫婦神であるという説もあり、天武が「息長氏」であるなら持統が「今木=百済王族」であるとも捉えられる。二社がセットで祀られたのはそういう意味ではなかったか?(平林章仁氏;『七世紀の古代史』より参照)
  • 10/06編集されました
    阿智王と七姓漢人
    (しちしょうかんじん)とは、応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人
    最初から
    段 (古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり 郡)首、民使主首の祖。

    高向氏(高向村主・高向史)は応神朝に阿知王と共に渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で、魏の文帝の末裔を称する渡来系氏族
    一説では東漢氏の一族とする。
    高向の名称は河内国錦部郡高向村(現在の河内長野市高向(たこう))の地名に由来する

    遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らと共に隋へ留学する[6]。なお、留学中の推古天皇26年(618年)には、隋が滅亡し唐が建国されている。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使と共に新羅経由で帰国し、冠位1級を与えられた[7]。

    大化元年(645年)の大化の改新後、旻と共に新政府の国博士に任じられる[8]。大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ[9]、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳)[10]。大化5年(649年)に八省百官を定めた[11]。白雉5年(654年)遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した[1
  • 武烈王(602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位:654年 - 661年)であり、
    姓は金、諱は春秋。

    父は第25代真智王の子の伊飡(2等官)の金龍春(後に文興葛文王と追封)、母は第26代真平王の長女(もしくは次女)である天明公主(後に文貞太后と追封)、実父は金龍春の兄の金龍樹。『旧唐書』『新唐書』には真徳女王の弟と記されているが、『三国史記』新羅本紀・太宗武烈王紀の分注ではこれを誤りと指摘している。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人・文姫であり、金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫)の妹660年3月には唐は百済討伐の出兵を行なったが、この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問としていた。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出されており、唐と新羅との連合軍としての百済討伐であることが明瞭であった。同年7月18日には義慈王の投降により百済は滅び、11月には武烈王は凱旋して論功行賞を行なった。このときに評価されたのは中央貴族の私兵層ではなく、位の低かった地方豪族や投降してきた旧百済の官人に重点が置かれており、新羅王の直接支配できる軍事力の拡大を図っている

    死去 ー
    さらに翌661年より唐と連合して高句麗を滅ぼそうとした(唐の高句麗出兵)が、軍を北上させている途上で病に倒れ、661年6月に陣中で病死した。金城(現の慶尚北道慶州)永敬寺の北に埋葬され[5]、武烈王の諡と太宗の廟号を贈られた。また、唐の高宗は武烈王の死を悼んで洛陽の城門で葬儀を行なった。後に第36代の恵恭王の時代に新羅の祖廟を定めたときには、恵恭王の父景徳王・祖父聖徳王とあわせて金氏の始祖である13代味鄒尼師今、三国統一の偉業を為した武烈王・文武王を選んで五廟とし、味鄒尼師今・武烈王・文武王の三者については代々不変の宗としたという[6]。

    武烈王陵は現在の慶尚北道慶州市西岳洞にあり、その陵碑は大韓民国の国宝第25号に指定されているに当たる
  • 10/06編集されました
    小林氏が調べた高向氏の系譜についてまとめておきます。
    1.日本書紀がいう、高向王は用明天皇の系譜にない。
    2.新撰姓氏録の
      右京皇別に「高向朝臣、石川同氏、武内宿禰六世ノ孫、猪子臣之後也。」
      右京諸蕃下「高向村主、出魏武帝太子文帝之後也。」
      和泉国諸蕃「高向村主(多加無古)継体天皇之御母振媛之御所在也。」
            越前高向の高向神社には、継体の母方祖父、乎波智君が祀られている。
            この阿智王は誉田天皇(応神)御世に帰化し、「佐野仁応によれば、
            振媛や乎波智の名は安羅、新羅系と解しているが、大体高向氏は、
            漢人系でであり、継体生母の一族と理解される。」
    3.常陸風土記に孝徳天皇白雉4年、惣領高向大夫と中臣幡織田大夫が行方郡を分設、
            大化5年には惣領高向大夫が香島郡を設置したとある。
    この3の惣領高向大夫は高向玄理が孝徳天皇の勅で常陸に遣わされていることから同一人物と考えられています。

    その後、小林氏は天武天皇の正体を高句麗の宰相、淵蓋蘇文(せんがいそぶん)だ、と発展させていくのです。

    新羅王は沙喙部沙飡さとくほうささん金多遂を日本へ遣わしました。これは前年来日した新羅王の息子、金春秋(のちの太宗武烈王)に交代したものです。佐々氏は金多遂を金春秋の弟と推理しています。また、日本書紀には「人質」としていますが、自由な行動から「特命全権大使」ではないかとします。この金多遂の帰国記事がなく、金多遂のその後の消息もなく、朝鮮の史書にもその名がないことから、このまま日本にとどまり着々と勢力を拡張し、壬申の乱により天下を取ったというのです。
    その結果、日本書紀は「大海人皇子」を創作したとしました。

    小林恵子 漢皇子=天武天皇=淵蓋蘇文、高向漢人玄理を父とする
    1990平成2年「天武と持統」季寧熙 文藝春秋社
    1990平成2年「白村江の戦いと壬申の乱」現代思潮社
    1990平成2年「天武は高句麗から来た」 別冊文藝春秋夏号

    日本書紀の宝皇女(後の皇極天皇)が舒明天皇に嫁ぐ前に髙向王との間に漢皇子を得たとあることから、漢皇子=大海人皇子とされました。つまり、髙向王が天武天皇の父とされたのです。さらに、その髙向王とは、遣唐使の髙向漢人玄理だと主張されたのです。
    さらに季寧熙氏の古代朝鮮語の分析から天武天皇=淵蓋蘇文とした説に同意します。
    まず、天武天皇の最初の子とした大伯皇女が生まれたのは39歳のときと遅いこと示唆しています。また、新羅系との位置付けの枠を広げ、高句麗派であったとしています。
    また日本書紀の記述からも、日本は百済ばかりでなく高句麗救済も視野に入れていたといいます。
    父とする高向は高のつく姓で高句麗は高辛氏の裔とされると示唆した。
    同時に、斉明と高向王の子漢皇子は大海人皇子であるが、斉明の子でもないとする。
    よって、天武天皇は高句麗からやってきたとします。また、玄理自身が高句麗に本拠を持っていたらしい。その後、日本にきたと思われると考えたのです。
  • 10/06編集されました
    淵蓋蘇文

    『日本書紀』では伊梨柯須弥(イリカスミ)という。父の後を継いで東部(あるいは西部)の大人となり、大対盧(だいたいろ)となった。彼は豪気果断な武人的性格で、敵対する栄留王をはじめ宮廷貴族たち100余人を殺害し、宝蔵王を擁立して戦時体制を確立した(642)。彼はこの国内体制を背景に、積極的な対外活動を展開した。643年には道教を受容するなど文化活動も積極的に行ったが、百済(くだら)と結んで新羅(しらぎ)を攻撃し、旧領を奪回するなど領土の拡張にも努めた。このとき唐は新羅の依頼により調停に乗り出したが、これに応ぜず、唐の使者を幽閉した。そこで唐の太宗は644年に高句麗を討伐に踏み切ったが、失敗し、その後も高句麗との戦闘が続いた。彼は優れた統率力と戦略とをもって唐軍の侵入を防いだが、彼の死後、国内が分裂したためついに唐軍に敗れ、668年高句麗は滅びた
    姓は「淵」とも「泉」ともされる。『旧唐書』『三国史記』等が「泉」として「淵」とは書かないのは、もともと「淵」だったにかかわらず唐の高祖の諱(淵)を避諱して類似の意味をもつ文字で代用したのだ、という説もあるが、『日本書紀』に伊梨柯須彌とも書かれているように、漢字訳はもともと便宜的なものであり最初から「淵」と「泉」が並行して使われていた可能性もある

    三国史記よれば、666年に亡くなった高句麗末期の宰相です。
    日本書紀には642皇極1年2月6日に伊い梨り柯か須す弥みとして高句麗の国情を紹介しています。また、664天智3年には、蓋こう金きんという最高位で亡くなった記事を載せています。兄弟仲良くし、爵位を争ってはならない。そうでなければ隣人に笑われる、と詳細に遺言まで紹介しています。
    これを、他国の大臣の遺言をここまで紹介する不自然さを指摘されています。
    さらに、天武天皇は徹底した親高句麗派の人であったとし、天武天皇は天文と遁甲に通じ、淵蓋蘇文も銅鏡と方術に長けていたと似ているとしています。
    「大莫離支」という高句麗の官職名と「大海人」の天武天皇の名前と同じといいます。

    642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する[1]。しかし安市城の城主だった楊萬春が淵蓋蘇文への権力集中を認めず抗議したことから、淵蓋蘇文は直接軍隊を率いて安市城を攻撃した。しかし、長期間の攻撃にもかかわらず安市城を占領することができなかったことから、結局2人は妥協するに至り、淵蓋蘇文は楊萬春の職権を、楊萬春は淵蓋蘇文を執政者として承認した。

    この頃、高句麗は対外的に緊迫した情勢にあったが、淵蓋蘇文は対外強硬策を採り、高句麗に救援を要請するために到来した新羅の金春秋(後の武烈王)を監禁し、新羅と唐との交通路である党項城を占領した。

    644年(宝蔵王3年)、新羅との和解を勧告する唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君虐民の罪を問い、645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)。しかし、楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。なお、その後4回に亘って唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んでいる。

    一方、643年(宝蔵王2年)に唐へ使臣を派遣し、道教の道士8名と『道徳経』を高句麗に持ちこむなど、淵蓋蘇文は文化面でも功績を残した。
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