膳臣、吉備臣、物部連と任那、5ー6世紀 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
膳臣、吉備臣、物部連と任那、5ー6世紀 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

膳臣とは古来宮廷において食膳の調理を司った氏で、遠祖の磐鹿六雁いわかむつかりが、景行天皇の 東国巡狩りに同行したとき、上総国から淡水門あわのみなとを渡ろうとしたときに白蛤をナマスに作って 進めたところ、その功によって膳大伴部を賜ったことに起因するという(書紀)

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  • 新羅
    552年
    (倭:欽明13年、百済:聖王30年、高句麗:陽原王8年、新羅:真興王13年)


    この年、階古、法知、万徳に命じて、干勒から音楽を学ぶようにした。干勒は、階古に琴を、法知に歌を、万徳に舞を教えた。(三国史記)
    (注) 于勒はもと省熱県の人。大伽耶の嘉悉王は伽耶諸国連盟を形成し、479年南斉に使者を派遣し、当時中国で用いられていた十二絃の琴を真似て伽耶琴を作らせた。さらに于勒に命じて伽耶琴のための十二曲を作らせた。十二曲の曲名は大伽耶連盟を構成する国名をとったものである。その後大伽耶が乱れたので、于勒は弟子の尼文とともに楽器を持って新羅の真興王に投じた。真興王は于勒と尼文を国原(忠州)に安置した、王が巡狩の際に娘城(清洲)に泊まったとき、二人を河臨宮に召し出して、楽を演奏させた。その楽に感動した王は552年、注知(法知)・階古・万徳の山陰に命じて、于勒の楽を学ばせた(田中俊明著「大伽耶連盟の興亡と「任那」より)。
  • 西暦571年

    (倭:欽明32年、百済:威徳王18年、高句麗:平原王13年、新羅:真興王32年)


    三月五日、坂田耳子郎君(サカタノミミコノイラツキミ)を新羅に派遣して、任那を滅ぼした理由を問わしめる。(紀)
    四月十五日、欽明発病、皇太子に任那復興を遺勅す。この月、崩御。享年不明。(紀)(注:皇代記などでは63,一代要記では62、神皇正統記では81を享年としている)
    五月、河内の古市に殯す。(紀)
    八月、新羅、弔使を遣わして殯に哀悼を奉る。(紀)
    九月、敏達帝を檜隈坂合陵に葬る。(紀)
    百済

    この年、威徳王が使持節都督東青州諸軍事東青州刺史に冊封される。(三国史記)
    高句麗

    二月、使者を陳に派遣して朝貢。(三国史記)
    八月、宮室を修理す。この月、イナゴが発生し、日照りが続いたので土木工事を中止す。(三国史記)
  •  加羅(任那)が新羅に滅ぼされた562年、『書紀』に次のような記述がある。

    秋七月一日 新羅は使いを遣わして調をたてまつった。
    その使いは新羅が任那を滅したと知っていたので、帝の恩に背いたことを恥じ、あえて帰国を望まず、ついに留まって本土へ帰らなかった。
    日本人民同様に遇され、いま、河内国更荒郡ウノ野邑(さららのこおりうののさと)の新羅人の先祖である。
  • 『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている[3]。

    左京諸蕃 大市首 - 出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止。
    左京諸蕃 清水首 - 出自は任那国人の都怒何阿羅志止。
    大和国諸蕃 辟田首 - 出自は任那国主の都奴加阿羅志等。
  • 新羅による金官・卓淳・?己呑の三国占領に際して、百済が要請に応えて安羅に進駐した(531年)が、先に百済が占領した帯沙と安羅の間の下韓(ないしは南韓)の地を、百済が直轄化するために郡令・城主を置いた問題である。
     このことは、加耶諸国が百済に面と向かって要求している場面は描かれていないが、代わりに倭王権の口を借りて明確に要求されている。
     たとえば、『日本書紀』欽明4(西暦543)年11月条で、天皇が「津守連(つもりのむらじ)」を百済に派遣して詔して、「任那の下韓にいる郡令・城主を日本府に附けるべきである」といっていることで明らかである。
     「郡令・城主」問題が交渉の第一論点となっていることは、百済側もまた、十分自覚している。だから、百済の聖明王が、倭国の要求について佐平(*百済の官位十六階の第一)らに相談した際、佐平らは「郡令・城主は出すべきではありません。(三国の)復建のことは(天皇の)勅を聞くべきです。」と答えている。
     また、欽明5(544)年11月条で(第二次「任那復興会議」で)、聖明王は「任那(三国)復興」について、次の三つの計略を述べた。すなわち、「任那を復興し、元のように兄弟となりたい。聞くところによれば、新羅と安羅両国の境には大きな江(かわ)があり、要害の地という。私はここに六城を築き、天皇に三千の兵士を請い、新羅に耕作させないように苦しめれば、久礼山の五城は自ずから武器を捨てて降服し、卓淳も復興するだろう。これが第一の策である。南韓に郡令・城主を置くのは、多難を救い、強敵(*高句麗のこと)を防ぎ、新羅を制するためであり、そうでなければ滅ぼされてしまう。第二の策である。吉備臣、河内直、移那斯、麻都がなお任那に居れば、任那の復建はできない。彼らを本邑に還(かえ)すべきである。これが第三の策である。」と。
     聖明王は、第二策で、明確に「郡令・城主」を置くのは、対高句麗・新羅戦で不可欠であり、それなくしては滅ぼされるとまで言っている。聖明王は、それに止まらずさらに安羅と新羅の間に築城を増やすとまでいっている(第一策)。「郡令・城主」問題は、双方にとって譲ることができない問題になっているのである。
     第二に確認すべきことは、聖明王の第三策にも見える倭王権のミコトモチの更迭要求に関してである。
     聖明王は、欽明2(西暦541)年4月の第一次「任那復興会議」で、近肖古王(在位346~375年)や近仇首王(在位375~384)時代から、百済と安羅・加羅・卓淳との間の友好関係を強調し、「三国が滅んだのは新羅が強いためではなく内応などのために滅んだのであり、新羅は独力で任那を滅ぼせない。ともに力をあわせよう。」と強調している。
     欽明4(西暦543)年12月条では、聖明王の諮問に対して群臣らが、「任那の執事(つかさ)・国々の旱岐(かんき)らをよび、ともに計るべきです。また河内直・移那斯(えなし)・麻都(まつ)らが、なお安羅にいると任那復建は難しいので、本国に返らせるようにしましょう。」と答えている。聖明王も、自分の意見と同じであるといった。
     同年11月の第二次「任那復興会議」でも、同様の更迭要求が百済から出されていることは前述した。
  • 欽明5(西暦544)年3月条である。そこでは、百済が倭に使者として派遣して上表した、という。そこでは、「先に任那や日本府の執事らをよびましたが参りませんでした。それは、阿賢移那斯(あけえなし)と佐魯麻都(さろまつ)の策謀によります。そもそも任那は安羅を兄とし、安羅の人は日本府を父として、その意に従っております。的臣(いくはのおみ)・吉備臣・河内直らは、移那斯・麻都に従っております。この二人が日本府の政をほしいままにしているのです。二人が安羅にいて策謀すれば、任那を復建することはできません。二人を本国に召還して下さい。」と述べられている。
     的臣・吉備臣・河内直は、明らかに「日本府」(倭国の使節―ミコトモチ)である。だが、移那斯・麻都は、「日本府」(ミコトモチ)とは記述されておらず、河内直らよりも身分は低い者である。二人は、倭系の加耶人であり、現地で採用された者と思われる。
     それにもかかわらず、欽明5年3月条によると、この河内直らは「移那斯・麻都に従っている」と、百済に批判されている。つまり、立場が転倒していると思われるような関係に陥っている。その原因は、現地情報に詳しい移那斯・麻都ら抜きには、的臣・吉備臣・河内直らミコトモチは情勢を把握できず、また任務を遂行できないからである。しかも、現地情報にくわしい現地出身者は、極めて限定されていたと思われる。だから、余計に移那斯・麻都に頼らざるを得なかったのだろう。
     そのうえさらに、ミコトモチのひとりである河内直は、加耶から倭へ渡来した者の子孫と言われる。論者によって細かいところは異なるが、河内直が加耶(星山加耶の説もある)からきた渡来人の子孫であることは、明らかである。
     移那斯・麻都が「日本府」(ミコトモチ)をリードし、河内直らもまた彼らと意を同じくする。彼らが加耶諸国の利害を追求することを第一として、そのために倭王権を利用する
    真意は、百済や新羅によって滅ぼされた自らの先祖たちの無念を大事にするからである。
  • 548年、高句麗が百済を攻撃し、三国の間での戦争がまた激しくなる。高句麗に対して、百済と新羅が共闘し、これを撃退する関係が大きく変わる情勢となる。
     550年正月、今度は百済が兵1万で高句麗を攻め、道薩城(天安)を陥落させた。だが、3月には逆に高句麗が百済の金?城(全義)を陥落させた。新羅は二国の兵が疲労している隙に乗じ、勢力を拡大し、漁夫の利を占めている。
     551年には、新羅が高句麗を襲い、10郡(漢江上流域)を奪い取った。
     553年7月には、新羅は百済の東北地方を攻め取り、新州という郡を設置し、阿?(あさん)の金武力(最後の金官国王の三男)をそこの軍主とした。
     554年7月、百済の聖明王は、加良(高霊)とともに新羅の管山城(忠清北道沃川)を攻めるが、逆に百済王は討ち取られる。この戦いで、新羅は大勝利し、百済側は「馬一頭すら生きて帰ったものはいなかった」といわれる。
     『書紀』によると、この間、百済は547年、553年、554年と、倭に救援を要請し、倭国もこれに応え、救援軍の派遣や武器・軍糧の援助などを行なっている。
     554年の管山城の戦いの後の数年は大きな戦いはない。
     562年7月、百済が国境を侵したので、新羅王は兵を出してこれを防ぎ、1千余人を戦死させたり捕虜にした。『三国史記』新羅本紀によると、同年「9月、加耶(大加耶 今の高霊郡)が叛いた。王(*新羅王)は異斯夫にこれを討つように命じ、斯多含は彼を助けることになった。斯多含は五千騎を率いてまず栴檀門から攻め入り白旗を立てた。城の中の人々は恐れおののいてなすすべを知らなかった。ついで異斯夫が兵を率いてたどりつくと、たちまちみな降服してしまった。」という。
  • 『本朝月令』所引

    高橋氏文にいう。
    口に出すのも恐れ多い巻向日代宮(まきむくのひしろのみや)で天下をお治めになった景行天皇の治世五十三年八月、天皇は群卿たちに詔して仰せられた。
    「私が愛しい子を思うことは、いつになったらやむであろうか。小碓王(おうすのみこ)[またの名を倭武王(やまとたけるのみこ)]が平定した国を巡ってみたいと思う」
    この月に、伊勢へ行幸になり、さらに東国へ入られた。冬十月、上総国安房の浮島宮へご到着された。このとき、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと)も天皇の一行に従っていた。
    天皇は葛飾野(かつしかのの)へ行幸して、狩りをされた。そのとき、大后の八坂媛(やさかひめ)は仮の宮にいらっしゃり、磐鹿六獦命もまた、留まって大后にお仕えしていた。
    このとき、大后が磐鹿六獦命に仰せられた。
    「この浦で、霊妙な鳥の鳴き声が聞こえた。それは、“ガクガク”と鳴いていた。その姿を見たいと思う」
    そのため、磐鹿六獦命が船に乗って鳥のところまで行くと、鳥は驚き、他の浦へ飛んでいった。なおも追いかけて行ったが、ついに捕らえることはできなかった。そこで、磐鹿六獦命は呪いをかけていった。
    「鳥よ、お前の声を慕って姿を見たいと思ったのに、他の浦に飛び移って姿を見せなかった。今から以後、陸に上がってはならぬ。もし陸に降りることがあるならば、必ず死ぬぞ。海中を住処とせよ」
    帰るとき、船の艫のほうを振り返って見ると、魚がたくさん追いかけてきた。そこで、磐鹿六獦命が角弭の弓を泳ぐ魚たちのなかに入れると、魚が弭にかかってきて、たちまちたくさんの魚を獲ることができた。そこで、その魚を名づけて、“頑魚(かたうお)”と呼んだ。これを今の言葉で“カツオ”という。[今、角を釣り針の柄をにしてカツオを釣るのは、これに由来する]
    船は潮が引くことに遭って渚の上に乗り上げ、動けなくなった。船を掘り出そうとすると、大きな白い蛤がひとつ出てきた。磐鹿六獦命は、カツオと蛤の二種類の品物を捧げて、大后に献上した。
    すると大后は、そのことをお誉めになりお喜びになって仰せられた。
    「それをおいしく美しく料理して、天皇のお食事に差し上げなさい」
    そのとき、磐鹿六獦命は、「六獦が料理をさせて奉りましょう」と申し上げ、無邪志国造(むさしのくにのみやつこ)の上祖・大多毛比(おおたもひ)、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の上祖・天上腹(あまのうわはら)、天下腹(あまのしたはら)の一族らを喚び寄せ、膾をつくり、煮炊きして、さまざまに料理し盛りつけて、阿西山の梔の葉を選び採ってきて高坏八枚を作り、真木の葉を選んできて平坏八枚を作り、ヒカゲノカズラを取って鬘とし、蒲の葉で角髪(みずら)を巻き、まさけの葛を採って、襷にかけ帯とし、足結を結んで、天皇に供するさまざまな物を美しく整えて、狩りからお戻りになり、宮へお入りになったときに献上しようとした。
    このとき、天皇が仰せになるには、「これは、誰が料理して進上したものか」とお尋ねになった。そこで、大后が申し上げた。
    「これは磐鹿六獦命が献上したものです」
    すると天皇はお喜びになり、お褒めになって仰せになられた。
    「これは、磐鹿六獦命一人の力で行ったことではない。天にいらっしゃる神が行われたものである。大和の国は、行う仕事によって名をつける国である。磐鹿六獦命は、我が皇子たちに、また生まれ継ぐ我が子々孫々までに、永遠に長く、天皇の食事に関わる職掌に清め慎んで従事し、仕え申しあげよ」
    と、膳(かしわで)のウヂ名をお負わせになり、若湯坐連(わかゆえのむらじ)らの始祖の物部意富売布連(もののべのおおめふのむらじ)が帯びていた大刀をお解かせになって、添えお与えになった。
    また、「この仕事は、多くの伴が立ち並んで奉仕するものとせよ」と仰せになり、東西南北の諸国から人を割き移して、大伴部と名づけ、磐鹿六獦命へお与えになった。
    また、諸氏の氏人や東方諸国の国造十七氏の童子を、それぞれ一人づつ献上させ、平坏と領布をお与えになって、彼らの統括を委ねられた。「山野海河は、ヒキガエルの渡る果てまで、船の通う果てまで、海の大小の魚、山のさまざまの獣など、お供えするすべてのものを統括し取り仕切って奉仕せよ」と任じられた。
    「このように委ね任じることは、私ひとりだけの意思ではない。これは、天にいらっしゃる神のご命令であるぞ。我が王子・磐鹿六獦命よ、諸々の伴たちを督励し統率して慎み勤めて奉仕せよ」と仰せられ、祈誓されて委ね任じられたのである。
    このとき、上総国の安房大神を御食つ神としてお祀りして、若湯坐連らの始祖・意富売布連の子の豊日連(とよひのむらじ)に火を鑚らせて、これを神聖な火として、斎い清めて御食にご奉仕し、また、大八島を象徴するものとして、八男・八女を定め、神嘗や大嘗などのご奉仕を始めたのである。
    [安房大神を御食つ神とすると言ったのは、いま大膳職で祀っている神である。いま、斎火を鑚っている大伴造は、物部豊日連の後裔である。]
    同じ年の十二月、天皇は東国から伊勢国の綺宮へお帰りになった。治世五十四年甲子の九月、伊勢から大和の纒向宮へお帰りになった。
    五十七年丁卯の十一月、武蔵国の知々夫大伴部の祖である三宅連意由(みやけのむらじおゆ)が、木綿で蒲の葉に代えて角髪を巻いた。このとき以来、角髪を結うには木綿を使い、ヒカゲノカズラなどの葛を副えて用いることになったのである。
    纒向朝の歳次癸亥の年から、はじめて貴い詔勅をうけたまわり、膳臣という氏姓を賜って、天皇の御食に斎み慎んで奉仕し、いまの朝廷の歳次壬戌の年に至るまで、合わせて天皇の御世なら三十九代、年なら六百六十九年を重ねてきたのである。[延暦十一年]
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