跡部、阿刀氏、物部氏、穂積氏、日下部君

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
image跡部、阿刀氏、物部氏、穂積氏、日下部君

水陸交通の要衝に位置した。河内国渋川郡五郷の一に跡部郷(訓は「阿止倍」)があり、『延喜式』神名帳に載る渋川郡跡…

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  • 物部一族の矢田部氏は添下郡矢田郷を中心に大和郡山市・奈良市辺りに勢力を持ち、穂積氏は摂津国島下郡穂積郷(現茨木市穂積)を中心に西方の豊島郡穂積村(現豊中市の穂積・服部)にかけての地域に居住した。大和郡山市矢田には名神大社の矢田坐久志玉比古神社があり、茨木市穂積の北方近隣の福井に三島郡唯一の名神大社・新屋坐天照御魂神社があって、ともに饒速日命を祀るから、各々矢田部氏、穂積氏が奉斎したものとみられる。
  • 物部の祖の伊香色雄や十市根は石上神宮に関与し、穂積から分かれて神宮の周辺から南方にかけての地域に本拠を移したのであろう。物部嫡宗家は代々 山辺郡の天理市中央部辺りを本拠(山辺郡に穂積郷をあげる『和名抄』もあり、これが妥当ならその郷域か)としてきて、西山古墳など同市杣之内町・勾田町・守目堂町一帯の古墳群(杣之内古墳群)は物部一族築造の可能性が大きい。河内のほうは阿刀の別業の名が示すように別荘地域であったが、守屋大連が「弓削大連」ともいわれるように、当地の弓削連との所縁が強い
  • 伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これは孝霊天皇とともに行動した吉備氏の稚武彦の子孫と称する。
  • 美濃国厚見郡の稲葉山(三野後国造の中心領域で、式内社物部神社も鎮座)、や「天孫本紀」の印葉という者(武諸隅の孫とされる)、「国造本紀」の久努国造の祖・印播足尼(伊香色男命の孫とされる)などに見え、これらは皆、物部氏の同一系統に関係すると考えられる。それが、みな大矢口宿祢の系統だとみられる
  • 大和でも、物部氏の初期本拠地と見られる唐古・鍵遺跡の北東近隣に八田(田原本町。同町南部には矢部もある)・稲葉(天理市)の地名があり、添下郡に矢田部造氏の本拠の矢田郷(大和郡山市矢田町)があり、近隣の生駒郡(平群郡)にも稲葉村(もと因幡で、現斑鳩町稲葉車瀬・西稲葉など)があった。摂津でも、島下郡の穂積氏本拠地・穂積の東方近隣に稲葉の地名がある(ともに茨木市域)。河内でも、守屋大連本拠の渋川郡の東隣の若江郡に稲葉の地名が残る
  •  『書紀』崇神紀には、物部一族は大水口宿祢や武諸隅、伊香色男が見え、『旧事本紀』天皇本紀の崇神段には、武諸隅のみを同朝の大連としたこと を記す。武諸隅が大水口宿祢の兄弟の大矢口宿祢と同人か?
  • 出雲郡伊努郷に久佐加社および来坂(くさか)社(2社)があり日下部氏の存在が想定され、
    出雲国秋鹿郡伊農郷と出雲郡伊努郷が、風土記神である「赤衾伊努意保須美比古佐倭気命」
    および「天甕津日女命」を共有しており、その伝承が日下部氏の氏族伝承と考えられます。

    要するに赤衾伊努意保須美比古佐倭気命という出雲神族の神と日下部氏が、実は深く関係しており、粟鹿神社の系図を裏付けます。

    更に、伊野郷と日下部氏との関連を考えるに、「いの」とは日下部氏に関連する地名のようです。
    出雲国大税賑給歴名帳によれば、出雲郡漆治郷において、工田・深江・犬上(いぬかみ)の三里があ
    ったといい、出雲郡漆治郷にも「いぬ」地名があり、粟鹿神社社家系譜に登場する「都牟自」、と同名の
    都牟自神社が存在し、日下部氏(神部氏)がこの地に土着していたことが伺われます。

    日下部氏は但馬国造氏族(丹波(丹後)国造氏族と同族)と称している一方、宝賀寿男氏の古代氏族系譜集成によれば、神宮外宮の度会氏は、丹波国造氏族と同族であったと言います。

    度会氏は、元々磯部姓であり、丹波国造氏族も磯部と呼ばれていたと、宝賀寿男氏は指摘します。
    倭姫命世記によれば伊勢の外宮および内宮の神を最初に祀ったのは、度会氏の大若子命であり
    元々は、伊勢の神は、丹波国造氏が祀った神であったと考えられます。
    その証拠に、丹後国には外宮の元宮とされる宮が複数あり、但馬国には、内宮の神を祀る神社が集中しています。

    そういった事情から見て、伊勢や丹波・但馬の国は、出雲と同様に出雲神族である三輪氏が土着の氏族として開拓したものであって、その祖神をそれぞれの国において祀っていたものと考えられます。

    例えば、丹後国与謝郡に鎮座する宇良神社は、日下部首氏の浦島太郎を祀る神社であり、日下部首氏は月読尊の子孫であるという伝承を持ち、外宮と内宮の神である祓戸神を祀ります。

    同様に、出雲国出雲郡伊努郷の来坂(来阪)神社には、祓戸社が大切に祀られており、
    伊努神社、同社神魂伊豆乃賣神社は、祓戸神の伊豆乃賣尊の御名を社名に持つ唯一の式内社です。
  • 兵庫県朝来市の赤淵神社には以下の伝説が伝わっている


    大化3年(647年)但馬国に攻めよせた新羅の軍船を丹後国与佐郡白糸浜で迎え撃って勝利する。逃げる敵を海上で追撃した際、嵐に遭い船が沈没しそうになるが、海底から無数の鮑が浮き上がり、危機を救った(新羅の入寇#大化の新羅の賊)。

    その後、表米は敵を隠岐国まで追い払う。凱旋途中に逆風が吹くが、再び無数の鮑が船を持ち上げ、さらに美しい船が現れ、その船の先導で丹後国与佐郡浦島港に入った。表米が大船に行くと誰もおらず、竜宮に住むといわれる大鮑が光っていた。

    表米は危機を逃れ勝利したことを海神の加護と悟り、鮑を丁寧に衣服で包んで鎧箱に納め、持ち帰り赤淵神社を建てて篤く祀った。

    以後、日下部氏の子孫は鮑を大事にし、決して食べないといわれる。
  • 太多彦命の子孫の速日・高日兄弟が神部直の姓を賜り、速日の子忍が但馬国造となって、粟鹿大神祭主となったと記されている。
    根麻呂の祖父にあたる「都牟自」は日下部氏の系図に見える日下部氏の祖、表米の子都牟自と同名であり、のちの粟鹿神社の社家が日下部宿禰であるところから、同一人物とも考えられる。

    粟鹿神社の祭主は、古代に神部氏が務め、その後、日下部宿禰

    が務めるようになった。そして、神部氏と日下部宿禰との接点が『粟鹿大明神元記』に
    ある神部氏系図のなかにみえる都牟自に感じ取れるのである。
  • 表米宿彌命(ひょうまいすくねのみこと)を祀る。宿彌命は赤淵(あかぶち)神社(枚田)俵米(ひょうまい)神社(久世田)の祭神でもあり、丹後・白井の浜に来襲した新羅の賊を討伐した武人である

    「校補但馬考」で、(表米王を祖とする)日下部系図を考えるに、表米の次男、正八位下荒嶋と云う者、藤原の朝廷より、奈良の朝廷まで、この(朝来)郡の大領となる。孝徳天皇第二の皇子表米が、異族退治の勲功によって、その嫡子都牟自(ツムジ)と言う者、(養父郡の)小領に任じ、後の岡本の朝己未に大領に専任す。
  • 史研究所

    「日下部出目について」
    日下部氏の祖は先に上げましたので、次は「多氏古事記」の裏付けに
    ついて、先ず多氏の祖は開花ー彦坐王ー若筒木王ー船穂足尼ー豊忍別乃君ー島根尼君ー太尼牟古乃君ー表米(日下部君)
    となっており、これが日田の関係と言う事になります。

  • 但馬国造の系譜と同じですね

    丹ものがたり 室町-4

     (但馬国造) 開化天皇━彦坐王━若筒木王━船穂足尼━豊忍別乃君━島根尼君━太尼古尼君ー(日下部君/国造)・表米王━━荒嶋

  • 所在地 兵庫県朝来市桑市

    船の宮古墳は船穂足尼(すくね)が埋葬されていると言われています。
    船穂足尼は郡内の「「の始祖で開化天皇ー彦坐主王ー若筒木王ー船穂足尼(但馬国造)と言われ、子孫には日下氏、日下部氏、朝倉氏(越前朝倉氏の粗)などがあります。これは九条家の文庫から発見された「粟鹿大明神元記」に記されたもので708年に作られたものとされています。門脇禎二氏によりますと、足尼、足奴、宿祢はいずれも氏の始祖に付された称とされ、南但地方を統治した一族の祖神であったものと思われます。
  • 日下部氏は、9代開化天皇の皇子・彦坐命の子、狭穂彦命の後(日下部連・甲斐国造)とも、吉備氏の大吉備津彦命の子の大屋田根子命の後とも、16代仁徳天皇の皇子、大草香・若草香王の御名代部ともいわれ、各地に存在するのだが、実態のつかめない謎の氏族である。しかし、天皇位を狙える立場という共通点からも、吉備氏と同族という可能性は高い。また、大屋田根子命の兄に、吉備氏系の日奉部氏(火葦北国造家)の祖の三井根子命がおり、同じ「日」を奉斎するという意味からも、「部」という名からも、天皇家と同等の家に奉仕する部曲かと思われる。
    また、但馬国造の日下部君の祖とされるのは、沙穂彦・沙穂姫の異母弟、山代之筒木真若王の子で、船穂足尼(ふなほ?のすくね)。その甥っ子の息長宿禰王の娘が、仲哀天皇の皇后・息長帯比売(神功皇后)である。但馬というのは、神功皇后の母方の祖先、天之日矛を祀る出石神社(兵庫県出石郡)があり、興味深い。
  • 日下部連使主(くさかべのむらじおみ)
    息長氏系21代雄略天皇が、近江国蚊帳野で、17代履中天皇の子、市辺押磐皇子を騙し討ちにした時、その子の弘計王(後の顕宗天皇)と億計王(後の仁賢天皇)を護って、息子の吾田彦と共に、丹波国与謝に逃げ、更に播磨国縮見山に逃れた。そして追手に分からないよう、そこで全ての証拠を隠滅し、自殺する。息子の吾田彦は、顕宗・仁賢兄弟に長く仕えたという。
  • 日田の日下部


    豊後国日田【ひた】郡のうち「豊後国風土記」にいう日田郡5郷の1つ「和名抄」は「父連」とする「叉連」の誤写と見るべきである叉は靫や靱に通じ,連は編に音訓が通じる(豊後風土記新考)「豊後国風土記」は当郷を郡の東南にありと説く

    そして,欽明天皇の代に日下部君【くさかべのきみ】の祖である邑阿自【おおあし】が靱部【ゆぎべ】に仕えていたその邑阿自が宅を造って住んでいたところを靱負村と言ったのちに「靱編郷」と呼ばれるようになったという

    天平9年の「豊後国正税帳」断簡のうち日田郡の記載と考えられるところがある郡司の連署が見えて,
    「正領外正七位上勲九等日下部連吉嶋,少領外従七位上勲十等日下部君大国,主張外少初位上勲十等日下部君〈死〉」
    とある邑阿自の伝承には充分根拠があったものと思われる靱編郷域を中心に,大化前代の5世紀後半もしくは6世紀から,靱部や靱編として朝廷に仕える部民などを日下部君が掌握していたらしい郷域は日田盆地の東南で,玖珠川そして三隈川の北岸流域に当たる日田市大字日高に通称刃連【ゆきい】の名が残る
    (九州天領の研究)
  • 但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏から出た氏族。起源にはいくつかの説がある。
    開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)

    孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
    出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった 八木氏は山名家臣。 越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

    田公氏は但馬国の日下部氏族八木氏から別れた中世豪族で、その出自は、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになりました。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになります
  • 『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。
     すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫。

    佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。
  • 物部氏は本来、穂積であり、その本宗は穂積臣であって、豪族系の臣姓をもっていた。「物部」という名から知られるように、「部の成立以後でなければ存在しえない」という直木孝次郎氏の指摘もある(「物部連に関する二、三の考察」『日本書紀研究』第二冊)。 ただ、部が百済・高句麗の影響を受けていたとしても、我が国天孫族自体がこれらと系統を同じくするのだから、四世紀末以降の成立でなければならないことも なく、初期国家制度が整う崇神朝以降であれば時期的に問題はなく、その意味で「物部賜姓」が垂仁朝と伝えることも矛盾しない。
     物部氏族の主居住地についてもふれておくと、穂積の遺称地・保津(奈良県磯城郡田原本町保津)は弥生期の大遺跡たる唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置するし、河内国の哮ヶ峰(現在の生駒山)への降臨伝承が残る石切劔箭命神社(河内国河内郡の式内社で、東大阪市東石切町に鎮座。穂積堂と呼ばれた摂末社もある)の社家は、地域的に見て物部の初期分岐とみられるが、初め穂積と称し、いま転訛して「木積(コツミ)」を名乗る事情もある。鈴木真年翁も『史略名称訓義』で、可美真手命が大和国十市郡穂積里に居たとして、穂積臣氏本宗説を記している。
    わが国の物部氏の淵源をなす地が筑後川中下流域の御井郡を中心とする地域(邪馬台国や高天原の主領域と重なる地域)であった。当地域における物部の分布は、例えば『日本の神々1』の奥野正男氏の記述(二〇八~二一一頁)に見えるように、物部関係神社の分布が稠密であり、配下の諸物部に縁由の地名も多くある。この地から、北九州筑前の遠賀川の中下流域へまず移遷し、そこから近畿の河内、さらには大和へと氏族(部族)が移遷した
  • 日下部氏の女から生まれた大祢命の後裔とみられる日下部(同、河内神別では比古由支命の後裔)
  • September 2016 編集されました
    物部氏族の主居住地

    穂積の遺称地・保津(奈良県磯城郡田原本町保津)は弥生期の大遺跡たる唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置するし、河内国の哮ヶ峰(現在の生駒山)への降臨伝承が残る石切劔箭命神社(河内国河内郡の式内社で、東大阪市東石切町に鎮座。穂積堂と呼ばれた摂末社もある)の社家は、地域的に見て物部の初期分岐とみられるが、初め穂積と称し、いま転訛して「木積(コツミ)」を名乗る事情もある。鈴木真年翁も『史略名称訓義』で、可美真手命が大和国十市郡穂積里に居たとして、穂積臣氏本宗説を記している。
  • January 2017 編集されました
    饒速日命は畿内に遷住して河内国河内郡の日下の地に入り、のちに大和国鳥見白庭山(磯城郡)に遷ったと伝える。その子・可美眞手命とその正統は、大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)に居て穂積姓を負い、孝元天皇~成務天皇朝に后妃を輩出した。この氏族の原始名が穂積で、嫡裔が穂積臣であったと考えられる

    遠祖の天目一箇命・少彦名神兄弟の母は、海神族綿積豊玉彦命の姉妹、豊玉媛(高比売)であり、饒速日命の母は足浜目門比売命とみられ、その系譜は不明だが、海神族の一員で、足浜は葦浜の意で猿田彦神(豊玉彦命の子)の姉妹ではないかと推される。
  • January 2017 編集されました
    穂積臣(録・左京。鈴木-紀伊国牟婁郡の熊野大神神人より起り、紀州名草郡藤白の鈴木を宗家として、三河、尾張、駿河、伊豆、武蔵、上野、下野、下総、越中等多くの地域に分岐も、なかには本来別系統で混入したものもあろう。特に三河では繁衍し、賀茂郡の矢並・足助・酒呑・則定・寺部・九久平・小原、碧海郡竹村などに分居し、江戸期には旗本に多い。

    阿刀連(安刀連、跡連、迹連、安斗連、安都連。録・山城、摂津、和泉)、阿刀宿祢(安都宿祢。録・左京、山城。阿刀-京の東寺の執行職。中橋-紀伊国高野山に住、同山政所別当家)

  • 忍山神社は亀山市野村町の新国道の南側の低地にあるがこの地は古来字を布気林と称した。低地に住む部族が増加し崇神天皇の時代には相当の数に達したので此処に一社を創建して、その祖神猿田彦を奉祀し地名をとって布気神社と称したという。当社付近には石器や縄文式土器等が出土している。ここに居住した人々が猿田彦命の一族であり、この一族が祖神猿田彦命を奉祀したのが、この神社の本宮であるといわれている。その後、このフケ(布気)の語が転訛して鬚となり、更に白鬚となり、当社を白鬚大明神というようになった(山田木水『亀山地方郷土史』『亀山の史蹟と名勝』『竜川~白木ウオッチング』ほか)と伝えられている。従ってこれらの部族はこの神社創建以前にこの地方を開拓・居住し、更に一志方面にまで繁衍していたようである

    忍山神社の由緒については諸説ある。「社記」には崇神天皇(四世紀初)の七年秋九月、饒速日尊五世の孫伊香我色雄命が勅を奉じて猿田彦大神を祀り、伊香我色雄命の子・大水口宿禰の子孫相次ぎ神職となる。猿田彦の一族と伊香色雄命一族(後の忍山氏)とが何らかの因縁で結ばれていたのかも知れない。さらに、垂仁天皇(四世紀)の二十五年、皇女である倭姫命が、天照大神を祭るのに最も適した場所を求めて大和(現奈良県)から近江(現滋賀県)、美濃(現岐阜県)を経て伊勢国に入り、忍山の地に至った時に大彦命が「ここは味酒の鈴鹿国奈具波志忍山」と姫に答えたことにより、六ケ月間、皇大神宮の鎮座地となった。その跡が忍山宮または、小山宮といわれた。その間に神戸及び神田が寄進され、之が本となって後世に鈴鹿神戸郷といわれるようになった、その中心人物が忍山宿禰であった(皇大神宮はその後、磯宮、宇治家田田上宮などを経て五十鈴川上に鎮座となった)といわれる。忍山神宮の祠官である忍山宿禰(「紀」の景行天皇の条に穂積氏忍山宿禰とある)については社記に「地主祖神と申事。饒速日尊五世の孫、伊香我色雄命の子大水口の宿禰と相次いで神主となり同社に奉仕した」とある。「新撰姓氏録」によると、穂積の忍山氏は左京神別上・天神の部に属し「穂積朝臣、石上同祖、神饒速日命速日命六世の孫・伊香色雄の後」とある。また、大水口宿禰も同録に、左京神別・上に穂積朝臣は「伊香賀色男、大水口宿禰之後也」とある。饒速日命は物部氏の祖であるので、この神社の祭神は忍山宿禰の祖・饒速日命ということになる。神官も物部氏の一族ということになる。因みに、忍山宿禰の長女である弟橘媛は日本武尊の妃である。この忍山神宮は延喜式記載の鈴鹿郡忍山神社であろう。忍山神宮には神宮を守る神宮寺が建てられており、室町時代の記録によると、戦乱で焼けたこの寺院の復興を伊勢神宮が援助している。当時の忍山神宮はかなり壮大な神殿であったらしい。しかし、度重なる戦乱などにより忍山神社に関する記録類がほとんど失われ、江戸時代にはその場所すらも定かではなくなっていた。
  • 忍山神社と布気神社
    兵火が収まって後、忍山の傍らに仮宮を営むも信長の兵火で再び焼かれ、元の地に奉斎せんと望むも資力がなかったので、布気林にある布気神社の社に仮宮を営んでこれに奉祀した。そこで布気神社と忍山神社の二座が一つの所に坐すこととなった。その後神職は布気神社を本社とし忍山神社を合祀神社とすべきところを、社名に忍山神社を残したので、布気神社の名が消えてしまったので布気神社は忍山神社に庇を貸して遂に母屋をとられた形となり、布気神社はいつの間にか隠れてしまった。つまり、忍山神社の今の地は上古、布気林といい、猿田彦命を祀った、布気神社が鎮座していた場所である。現在は忍山神社の社域に布気神社即ち白鬚神社と別宮天照大神を奉祀する忍山宮の二社が同居し、更にいつしか、本社の布気神社は野尻村の皇館社の森に遷宮した(山田木水「亀山の史蹟と名勝」、「亀山地方郷土誌」など)。―何ともややこしい話であるが、文明の兵乱と信長の焼き討ちで資料が焼失してしまい記録が残っていない為に、白木山に御神体が逃れた後の話で忍山の地に還奉されたのか、布気の地に仮宮を造られたのかが明確に判明していないということである。いずれにしても平安時代には二社とも式内社として存在していた。
  • 天足彦国押人命。春日親君
    孝昭天皇と世襲足媛の子
    『書紀』尾張連祖、瀛津世襲の妹。『旧事』またの名を日置日女命(ひおきひめのみこと)。

    天理市和爾町、和爾下 (ワニシタ) 神社
    滋賀県大津市真野町、神田 (カンダ) 神社

    彦国葺。
    アマタラシヒコクニ (春日親君) の曾孫。チチハヤの孫。オケツ(彦姥津命)の子。 
    シホノリヒコの祖父。和珥臣の先祖。 
    タケハニヤスの反乱の時、山背のワニタケスキに斎瓮を据え、ハニヤス軍を破る。 
    垂仁天皇25年、阿倍の祖タケヌナガワ・中臣の祖オオカシマ・物部の祖トイチネ・大伴の祖タケヒと共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる (五大夫)。 
    イセ宮完成の時、内宮(ヒハス姫) の代理として詣でる。
      
  • 建波邇夜須毘古命は京都府相楽郡精華町の「いずもり」には、建波邇夜須毘古命が「死んだ場所」の石碑が建てられています。現在でも「いごもり祭・綱曳きの式」というタケハニヤスヒコの祭りがあります

    吾田媛は五十狹芹彦命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)によって殺されます。その後、武埴安彦命が大彦命に鎮圧される。と言うことは、先に嫁が鎮圧されて、その後、夫が鎮圧された

    伯耆国日野郡阿太 大和国宇智郡阿太 阿太比売神社(阿多隼人の居住地)
    出雲国意宇郡 阿太加夜神社 ホーエンヤラ神事 吾田片隅命
    神武天皇の妻 日向国吾田邑の吾平津媛
    神武天皇は弟猾と椎根津彦に命じて埴土を取って天平瓮を作り神々を祭った。
    河内国に吾田媛(崇神紀:武埴安彦と叛乱)は香具山の埴土を
  • August 2017 編集されました
    孝元天皇の妃の伊香色謎命は、彦太忍信命を生んだ。つぎの妃の河内青玉繋の娘の埴安媛は、武植安彦命を生んだ。

    葛城系の孝元天皇が磯城系の穂積臣の内色許売命を娶って生んだのが開化天皇、河内の青玉の女波邇夜須毘売を娶って生んだのが健波邇夜須 ... 孝元天皇の庶子で、生母は埴安媛で河内青玉繋の女である

    ※祭神
     今の祭神は埴安姫(ハニヤスヒメ)となっているが、江戸時代の古書(河内志-1733・河内名所図会-1801)には「今熊野と称す」とあって、埴安姫の名はない。明治以降になっても、
     ・延喜式内の神社にして埴安姫命を祀り、今は天王と称す。--大阪府誌(明36・1903)
     ・延喜式内の神社にして埴安姫命を祀り、今は熊野と称す。創建年代不詳。--大阪府全志(大11・1922)
    とあるように、祭神はハニヤスヒメとはするものの、今“天王”あるいは“熊野”と称すという。

     江戸期の古書の中で、神名帳考証(度会延経・寛文年中1661--73・江戸初期)のみが祭神・埴安姫命とするが、その根拠が示されておらず、その信頼性には疑問があるという(式内社調査報告・1979)。
     ハニヤスヒメの出自については2伝があり、
     ①古事記では、イザナミが火神・カグツチを生んで病んだとき、屎からハニヤスヒコ・ハニヤスヒメが生じた、
       書紀では、カグツチを産んだイザナミが亡くなろうとされるときに、土の神・埴山姫(ハニヤマヒメ)を生んだ、
    とあり、いずれもイザナミの御子とする。

     ②古事記・日本書紀共に、その孝元天皇の条に
     「(孝元は)河内青玉(カワチアオタマ・書紀ではカワチアオタマカケ)の娘・ハニヤスヒメを娶ってタケハニヤスヒコを生んだ」
    とある。父・河内青玉の出自は不明だが、河内を冠することから河内国と関係があるのかもしれない。
  • 法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。
    この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。
    平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても法相宗は積極的に関わり、特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたため、天皇の厚い信任を得ました。南都六宗の影響下から逃れるために遷都に踏み切った経緯からして、これまで一見、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗との関係ですが、実際には朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたのです。
  • 日本後紀

    日本後紀 45‐13
    此の国山河襟帯して、自然に城を作す。 斯の形勝に因りて、新号を制す可し。 宜しく山背国を改めて山城国と為すべき。 又子来の民、謳歌の輩、異口同辞にして、号して平安京と曰う。


    日本後紀 47-12
    山城楽 ・・・・ 山城国が安楽の地であることは、古くから伝えられてきていることである。


    日本後紀 113-8
    僧正善珠卒す。 ・・・・
    法師は、俗姓安都宿禰。 京兆の人なり。
    京兆  京をさす。 元来は中国漢代の長安(現 西安) 周辺の地域
      ↓
    安都は漢代の倭の都にあり、山城国にあった。


    日本後紀 657-2
    小野朝臣野主等言さく、「猨女の興、国史に詳かなり。 其の後絶えず、今猶お見在す。 又猨女の養田は、近江国の和邇村・山城国の小野郷に在り。

    私見
    猨女の記述から高天原は山城国にあり、隣に近江国がある。


    山城国は安岡の小字「後山」 である。
    平安京の「安」 は安岡である。
    猨女の養田は山城国にあるので、高天原は 安岡6丁目-4 あたりである。


    万葉集
    663  安都宿祢年足 ・・・ 安岡の上大歳公園

    710  安都扉娘子 ・・・ 「扉」 は天の磐戸 (天石屋戸)
    三空去 月之光二 直一目 相三師人之 夢西所見
    「空」 ・・・ 安岡の小字「塚の空」
    「去」 ・・・ 安岡の小字「去る長」



    文庫書紀⑤80-2
    山背部小田・安斗連阿加布 ・・・ 両者は家が近い

    阿斗連薬 ・・・ 安岡の薬光寺前の薬師堂 ・・・ 経筒の出土あり
    阿斗連智徳 ・・・ 安岡の小字「千徳」
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