占部、中臣 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

June 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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神功皇后が新羅に兵を出した時、雷大臣がお供していった。(雷大臣は中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と同一人物とされている)雷大臣の仕事は審神者(さにわ)である。神功皇后が受けたお告げ(ご神託)を判断する役。

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コメント

  •   天児屋根命か武甕槌神かの別名とみられる速経和気命(『常陸国風土記』に見えて中臣鹿島連の祖・片岡大連が奉斎したと伝える)も雷神に通じます。これらの事情があるのだから、その子孫となる中臣氏の系図にも端的に雷大臣命が見えますが、この者は仲哀・神功皇后紀の中臣烏賊津使主(イカツオミ)にあたります。その五代祖先にも伊賀津臣命の名が見えますが、ともに「雷」を名前にしています。

    山祇族諸氏の名前は『丹生祝氏本系帳』に見えて、始祖天魂命の子の高御魂命が大伴氏の祖、その弟の血速魂命が中臣氏の祖、次の安魂命が門部連等(註:久米氏)の祖、次の神魂命が紀伊氏の祖と記されますが、大伴・久米・紀伊の諸氏の分岐は実際にはもう少し後ですから、「高御魂命=安魂命=神魂命」と把握されます。血速魂命は市千魂命に通じる神で、やはり雷神とみられます。『古事記』にはタケミカヅチの父を伊都之尾羽張神(『書紀』では稜威雄走神と表記。市と伊都は通じる)としますが、やはり雷神でしょう。
  • 天尾羽張命
    あめのおはばりのみこと

    別名
    伊都之尾羽張神:いつのおはばりのかみ
    稜威雄走神:いつのおばしりのかみ
    ……
    伊邪那美が迦具土神を生んだ際に、 その火に焼かれて死んでしまったことを悲しみ、怒った伊邪那岐が、 十拳剣(長い剣)を抜いて迦具土神を斬り殺してしまった。その刀剣の名を天之尾羽張といい、 またの名を伊都之尾羽張という。

    尾羽張とは、一般に先が鋭く反ってよく斬れると解釈されている。

    『日本書紀』の天孫降臨の章に登場する稜威雄走神も同神で、 稜威雄走神の子が甕速日神、その子が熯速日命、その子が武甕槌神。

    『古語拾遺』に、須佐之男命が八岐大蛇を斬った天十握剣の名を天羽羽斬といい、羽羽は大蛇であるという。 よって羽張は、雄々しい大蛇とする説もある。

    『古事記』の建御雷神の条に、建御雷神の親神として登場し、 「天安何の水を塞ぎ止めて」とあり、水神とする説もある。
  • 斐伊神社

    一 祭神 須佐之男尊 稲田比売命 伊都之尾羽張命
    合殿 樋速夜比古神社 祭神 樋速夜比古命
    一 由緒 本社の創立は甚だ古く孝昭天皇五年にご分霊を元官 幣大社氷川神社に移したと古史伝に記載してゐる。
    出雲風土記の「樋社」で延喜式に「斐伊神社同社坐樋速夜 比古神社」とある。天平時代に二社あったのを一社に併 合したのであろう。他の一社は今の八本杉にあったと考へら れる。「樋社」を斐伊神社と改稱したのはこの郷の名が「樋」と いったのを神亀三年民部省の口宣により「斐伊」と 改めたことによる。延喜の制国幣小社に列せられ 清和天皇貞観十三年十一月十日神位従五位上を授けられた。 本社は中世より宮崎大明神と稱えられ地方九ヶ村の崇 敬厚く明治初年までその総氏神としてあがめら れた。明治四年五月郷社に列せられた。
    明治十六年馬場替をし、仝四十年五月日宮八幡宮稲 荷神社を本社境内に移転し、境内末社とした。
    昭和五十六年九月一日島根県神社庁特別神社に指定された。
    昭和六十三年八月廿五日社務所を改築した。
    一 祭祀 例祭十月廿一日 祈年祭三月廿日 新嘗祭十一月丗日
    一 境内神社 日宮八幡宮 祭神 誉田別尊 息長足姫命 足仲彦尊
    例祭九月十五日
    稲荷神社 祭神 宇迦御魂神 外三柱
    例祭十一月一日 合殿 廿原神社 祭神 古那比売命
    火守神社 祭神 迦具土命
    例祭八月廿四日
    一 神紋 二重亀甲に交い鷹の羽
    一 社殿 大社造変態
    -境内案内-
  • 『古事記』の天石屋神話(小学館版)

    (天照大神が岩戸隠れして葦原中国が暗闇となり、悪神万妖が満ちた後)
    是を以ちて、八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、①高御産巣日神の子、②思金神に思はしめて、常世の③長鳴鳥を集め、鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(くろがね)を取りて、鍛人(かぬち)の④天津麻羅を求めて、⑤伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科(おほ)せ、鏡を作らしめ、⑥玉祖(たまのおや)命に科せ、八尺(やさか)の勾玉(*玉の字は代用)の五百津(いほつ)の御須麻流之珠(みすまるのたま)を作らしめて、⑦天児屋命・⑧布刀玉命を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内(うつ)抜きに抜きて、天の香山の天之波々迦(あまのははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(まさかき)を、根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾玉(*)の五百津の御須麻流之玉を取り著(つ9け、中つ枝に八尺の鏡を取り著け、下つ枝に白丹生手(にきて)・青丹生手を取り垂(し)でて、此の種々の物は、布刀玉命、ふと御幣(みてぐら)と取り持ちて、天児屋命、ふと詔戸(のりと)言祷(ことほ)ぎ白(まお)して、⑨天手力男神、戸の掖(わき)に隠り立ちて、⑩天宇受売(あめのうずめ)命、手次(たすき)に天の香山の天の日影を繋(か)けて、天の真析(まさき)をカズラ(糸曼)と為て、手草に天の香山の小竹(ささ)の葉を結ひて、天の石屋の戸にうけを伏せて、踏みとどろこし、神懸り為て、胸乳を掛き出だし、裳(も)の緒をほとに忍し垂りき。(以下、略)
  • 天照らす大御神の詔りたまはく、またいづれの神を遣はさば吉けむ」とのりたまひき。ここに思金の神また諸の神たち白さく、「天の安の河の河上の天の石屋にます、名は伊都の尾羽張の神、これは遣はすべし。もしまたこのならずは、その神の子建御雷の神、これは遣はすべし。またその天の尾羽張の神は、天の安の河の河上の水を逆に塞きあげて、道を塞き居れば、他し神はえ行かじ。かれ別に天の迦久の神を遣はして問ふべし」をまをしき。
    かれここに天の迦久の神を使はして、天の尾羽張の神に問ひたまふ時に答へ白さく、「恐し、仕へまつらむ。然れどもこの道には、僕が子建御雷の神を遣はすべし」とまをして、頁進りき。
    ここに天の鳥船の神を建御雷の神に副へて遣はす。ここを以ちてこのニ神、出雲の国の伊耶佐の小浜に降り到りて、十掬の剣を抜きて浪の穂に逆に刺し立てて、その剣の前に趺み坐て、その大国主の神に問ひたまひしく、「天照らす大御神高木の神の命もちて問に使はせり。汝が領ける葦原の中つ国は、我が御子の知らさむ国と言よさしたまへり。かれ汝が心いかに」と問ひたまひき。ここに答へ白さく、「僕はえ白さじ。我が子八重言代主の神これを白すべし。然れども鳥の遊漁して、御大の前に往きて、いまだ還り来ず」とまをしき。かれここに天の鳥船を遣はして、八重事代主の神を徴し来て、問ひたまふ時に、その父の大神に語りて、「恐し。この国は天つ神の御子に献りたまへ」といひて、その船を蹈み傾けて、天の逆手を青柴垣にうち成して、隠りたまひき。
  • 伊耶那美命の死の場面に、「故、斬れる刀(たち)の名は、天之尾羽張と謂ふ。亦の名は、伊都之尾羽張と謂ふ」とある。迦具土神を斬った十握剣のことを言っている。それが天の石屋にいるという
  • 天の岩屋探し

    若八幡神社
    福岡県田川市夏吉

    人皇第12代景行天皇の熊襲征伐に際し、天皇を周防の佐波(今の防府市)まで出迎え、九州平定に寄与されたのが我が夏吉地域開発の祖神、神夏磯姫でした。

    「榊の枝に八握剣、八咫鏡、八坂瓊をとりかけ、船の舳先に素幡をたてて参向した」と日本書紀には記されています。

    年代は下がって、姫の後裔夏羽は朝廷に恨みを持ち、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を援(たす)けんと軍勢を催してかけつける途中で、妹の敗戦を知り逃げ帰って館に立て籠ったところを、追って来た皇后の軍勢に焼き殺されました。(岩屋須佐横の洞窟との説もある)

    それ以来、夏羽焼―夏焼とこの村が呼ばれる事になったのです。
  • 中臣烏賊津使主と云うのは、中臣(なかとみ)氏(あるいは藤原氏)の系図で雷大臣(いかずちのおおみ)として出てくる人物と見ることができる。
    中臣氏(あるいは藤原氏)は津速魂命(つはやむすびのみこと)、およびその三世の孫天児屋根命(あめのこやねのみこと)に始まる壮大な系図を持っているが、これは後世の創作と思われる。当時彼らは大和国高市郡大原村(現在の明日香村小原(おおはら))に住んでいた小さな家族であり、烏賊津と云う名の当主は、允恭天皇がたまたま近くに皇居を定めたので、そこに出仕し、天皇の近辺の用を行う舎人(とねり)の職を得ていたものに過ぎないと考えられる。


     江戸時代の国学者谷川清士(ことすが)は、允恭天皇の「遠つ飛鳥宮」と云うのは高市郡の鳥形山、すなわち現在の飛鳥坐(あすかにます)神社の後ろの小丘辺りではなかろうかと云っている。そうすると、そこは大原とは極めて近い場所である。この大原の地は「藤井が原」略して「藤原」とも呼ばれていた。清らかな水が湧き出る井戸の上を藤の大木が覆っていたからと云う。中臣鎌足が藤原朝臣の姓を賜ったのは、この地名によるものである。
  • 梨迹臣と伊世理の父親は、伊香津臣(いかつおみ)と呼ばれた人物である。伊香津臣を祭る神社が、滋賀県伊香郡木之本町にある。
    伊香具神社(いかごじんじゃ)と呼ばれる式内社で、その神社由緒に次のような事が記される。

    『當社の祭神は天児屋根命五世の孫伊香津臣命にして、創立は天武天皇白鳳十年以前なり。古傳に當社祭神始めてこの地に来たり給ふや、田園未だ開けず國郡と 別れず因って子孫に告げて曰く、吾天児屋根命の命を傳へて皇孫に侍従久しく宝器を守る。尚この地に止まりて永く属類を守るべしと』
  • October 2017 編集されました
    中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。

    伊世理命は畝尾連(うねびむらじ)の祖とされる。
    姓氏録和泉国神別は畝尾連を天児屋根の後とする。中臣氏や鹿嶋氏系譜の上でも、伊世理命の父、伊香津臣は天児屋根の五世孫であり、系譜との矛盾はない。

    そして畝尾と関連すると思われる場所がある。
    奈良県橿原市木ノ本に畝尾都多本神社(うねびつたもとじんじゃ)という、延喜式にその名を見る古社がある。
    『古事記』上巻国生みの神話の中で『香山の畝尾の木ノ本に坐して』とされる神社である。神社の場所は畝尾の木ノ本である。滋賀県の木之本と同じ地名である
  • 10/12編集されました
    上総の車持、蔵持、車
    上総国に車持(蔵持)氏の領地があったことはあまり知られていないと思いますが、車持氏は藤原不比等の母である車持与志古(よしこ)姫の里で、中臣氏と深い関係がある氏族です

    6世紀初め頃
    雄略天皇時代に美麗な輿車を献上して車持の姓を与えられた(新選姓氏録)と伝えられています
    このことから推測すると、輿車を作る技術を持ちながら、かつ生活に必要な鉄製品の生産を生業として、一族はかなり栄えていたのではないでしょうか?

    継体天皇3年に「久羅痲到・くらもちの君」が百済に使いしたとの記述があるそうなので(日本書紀)車持氏は早くから中央で活躍していたと思います。

    ま欽明天皇時代に安閑天皇側に付き政争に破れ、いち早く恭順したが、本拠地の鉄を産する緑埜(みどの)屯田(同族の韓矢田部の胡人が鉄と鉄製品を生産していた)を取り上げられ、また、6世紀初めと中頃に2度榛名山の噴火があり、2度目の噴火は規模が大きく火砕流や降下軽石があり、火山灰が広範囲に降り積もった。この噴火により生産性がいちじるしく落ち、この地域の噴火後の古墳と噴火前の古墳を比較して、住民(豪族)は移住したのではないかと推測されています。

    車持氏はごく早い時期から大王家に仕えているので、その氏族としての性格は大伴氏や物部氏に近いと思います。また、鉄と鉄製品の生産を生業としていたこともあり、榛名山の噴火で、不本意ながら本拠地を離れ、他所に移住

    6世紀中頃に本拠地が榛名山の噴火で壊滅的な打撃を受けたその約100年後、

    大化の改新(645年)頃に車持氏の与志子姫は中大兄皇子に采女として献上された。そして、659年中臣鎌足は天智天皇より与志子姫を賜り不比等が誕生するのですが、一族は困難の後、不比等が誕生したことで再び繫栄の礎を築いたと思います。

    (不比等は与志子姫の産んだ子ではないとの説がありますが、上総国蔵持に燐接する藻原壮は平安時代、上総介に任じられた藤原黒麻呂の牧であり、興福寺に献上され、一族が経営に当たっています。この地域は私には車持氏と中臣(藤原)氏がセットになっている様に見え、両氏族の絆の深さが感じられるので、やはり不比等の母は与志子姫ではないでしょうか。

    https://blogs.yahoo.co.jp/miyamoto83885/21683613.html
  • 11/01編集されました
    ◎:「中臣氏」の系譜を並べると、年代(歴史の物差し)として見えてくるものがあります。 ──────────────────────────────────────────────
    (始祖)天御中主尊 :(以下07世の孫まで、省略)
    (08世の孫)・・居々登魂命
    (09世の孫)・・天児屋根命_:(天の岩屋の段に登場)・・・「天照大神」はこの時代の人。

    (10世の孫)・・天押雲命
    (11世の孫)・・天種子命__:(神武天皇紀に登場

    :(風土記):伊勢の国は、天御中主尊の12世の孫の天日別命が平定した所である。

    (12世の孫)・・宇佐津臣命 ※:天日別命は、天の磐船のモデルと思われる。
    (13世の孫)・・御食津臣命
    (14世の孫)・・伊賀津臣命_:(風土記:近江国):伊香刀美は、「天女の妹」と夫婦になった。
    (15世の孫)・・梨迹臣命_____(兄:臣知人命:伊香連祖)
    (16世の孫)・・神聞勝命___(同世代:角弖命)
    (17世の孫)・・久志宇賀主命_(同世代:古加斐命:崇神朝奉斎伊香具神)
    (18世の孫)・・国摩大鹿嶋命____: の「五大夫」のひとり (19世の孫)・・巨狭山命__※:津守:
    (20世の孫)・・雷大臣命( )__※:「度見媛命」=(神功皇后の祖母) (21世の孫)・・大小橋命
    (22世の孫)・・中臣阿麻毗舎
    (23世の孫)・・阿毘古 ※:仁徳天皇紀:依網(よさみ)の屯倉の阿弭古(あびこ)が、云々。
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