国号 日本、百済将軍・袮軍の墓誌 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 倭国・倭人
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墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國袮公墓誌銘并序」といい、唐の儀鳳3年(678)に66歳で死亡し、その年の10月に埋葬された百済人将軍「袮軍」のものであるという。

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コメント

  • 『日本後紀』
    これは六国史の中の一つですが(注『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳実録』『三代実録』)

    平城天皇のところに面白い記事があります。

    「倭漢惣歴帝譜図(わかんそうれきていふず)。天御中主尊を標して始祖(しそ)と為す。魯王、呉王、高麗王、漢高祖等の如きに至るを、其(その)後裔(こうえい)に接ぐ。倭漢(わかん)雑[木柔](ぞうじゅう)し、敢(あえ)て天宗を垢(く)す。愚(ぐみん)迷執(めいしゅう)して輙(すなわ)ち実録と謂(おも)ふ」(『日本後紀』大同四〈八〇九〉年二月辛亥の勅)。

    雑[木柔](ぞうじゅう)の[木柔](じゅう)は木編に柔。JIS第4水準。ユニコード697A

    『倭漢惣歴帝譜図』というものがある、と平城天皇が詔勅でのべるわけです。この図では天御中主尊を始祖としている。そして魯王、呉王、高麗王、漢の高祖なんかを、その後裔に接(つ)いでいる。で、倭のことや漢のことが入りまじって正しい天皇家の系図を傷つけている、垢まみれにしている。そういう傷ものだけど、愚かな民は迷うてこれを本当の歴史を表わしていると思っている。けしからんことだ。とまあ、こういう詔勅が出ている。

    なんだか一つの文献を天皇が目の敵にして、それをさげすむための詔勅が出ている。
  • 百済禰軍 は、新羅軍に捕らえられた百済人捕虜人物で最近(2011)の論文で、西安で墓誌が発見
    された。論文によれば、墓誌は正確には「大唐故右威衛将軍上柱國禰公墓誌銘并序」。 これは、大唐(国)は、故将軍に上柱國という武官賜位 を与えた。禰公(百済禰軍のこと)。 百済で 唐(と新羅の連合)軍と戦って敗れた「日本」の残党は、「扶桑(大陽が昇るという中国伝統の東 方海上の島国=唐代には日本と同一視されるようになった)」に立てこもって唐による誅罰を逃れ ているということiiから日本という国名は三国史記が云う様に 670 年かも知れない・・・
  • 袮軍の活躍は、『三国史記』の新羅本紀も伝えている。武王10年(670)7月、彼は熊津都督府の司馬として新羅に赴いたが捕らえられ、翌々年の武王12年(672)9月に釈放されたことが見える。熊州都督府とは、唐が百済を占領した後に置いた5都督府の一つで、現在の忠清南道公州市に位置していた。司馬は将軍や都督の属官である。唐・新羅連合軍が668年に高句麗を滅亡させた後、唐と新羅は半島支配を巡って対立した。おそらく袮軍は熊州に留まり、唐と敵対するようになった新羅との交渉にあたっていたのだろう。

    唐の髙宗は咸亨3年(672)11月21日、帰国した60歳の袮軍を右威衛将軍(従三品)に任じた。右衛は十二衛府の一つで、全国の府兵を分けて統べ、平時は宮廷の護衛を担当した。右衛将軍はその最高責任者である。しかし、6年後の儀鳳3年(678)2月19日、袮軍は長安県の延寿里にある私宅で生涯を閉じた。享年66歳だった。墓誌によれば、皇帝は絹布300段などを下賜し、同年10月2日、雍州乾封県の高陽里に厚く葬らせたという。
  • 2010年5月、西安市文物保護考古研究院は建設用地を発掘調査し、唐代のものと分かる墓3基が出土した。盗掘されていたようだが、残されていた墓誌から、禰寔進と、子・素士、孫・仁秀の三代の墓と判明した。禰寔進は、禰軍の弟で、百済滅亡のさい百済・義慈王を伴って禰軍とともに唐へ降ったという。これら3基の墓から北方約100mのところでもう1基の墓が発見され、すでに盗掘されており、墓誌などは残されていないが、これが禰軍の墓と推測されているとのこと。

    発見されたのは、「禰軍墓誌」そのものでなく、2011年、西安市の文物市場で入手した墓誌の拓本だとのこと。墓誌の所在は分かっていない。

    参考資料:Web「百済人将軍・祢軍の墓誌に記された日本という国名」

    管見ながら、墓誌拓本や史書などから、禰軍の足跡を探してみた。

    禰軍は字を温といい、中国西晋の永嘉の乱を避け、百済に逃れて来た曾祖父の代から、代々、百済の最高官職・佐平を継承してきた家柄であった。(「墓誌」。『三国史記』百済本紀には、禰氏の名はみられない)

    660年、唐・新羅軍によって百済は滅亡するが、このとき義慈王を奉じて唐軍に降るか。唐では右武衛【さんずい+産】川府折衝都尉に任じられる。(「墓誌」)

    663年、白村江の戦いでは唐軍の将として功があったようで、左戎衛郎將、のちに右領軍衛中郎將兼檢校熊津都督府司馬となる。(「墓誌」)

    665年、唐は百済を統合して熊津都督府とした。旧百済王子である扶余隆を都督に任命するが、扶余隆は新羅の軍事力を恐れ、長安に帰る。(『新唐書』百済)

    そのため、熊津都督府司馬の禰軍が、熊津都督代行に任じられたか。

    同年9月には、唐使・劉德高に随行して、筑紫にきている。この時、「右戎衛郎将上柱国百済禰軍」とある。(『紀』天智4年9月条)

    668年、唐は倭国征伐を理由に船艘を修理するが、実は新羅を討とうとしているとの噂がたつ。(『三国史記』新羅本紀)

    670年、このような状況で、禰軍は新羅へ派遣されるが、窺覘(密偵)の疑いで拘束される。この年、新羅は熊津都督府82城を落とす。(『三国史記』新羅本紀)

    672年、新羅は唐と和睦し、拘束していた禰軍らを送還する。(『三国史記』新羅本紀)

    帰国後、禰軍は、右威衛將軍になる。(「墓誌」)

    678年、中国雍州長安縣(西安市)延壽里第で没し、雍州乾封縣之高陽里(西安市蓮湖区高陽里か)に葬られた(享年66才)。(「墓誌」)

    墓誌が作られたとする儀鳳3年(678)は、唐は日本(倭)とは直接の国交はなく(669年の遣唐使で途絶し、再開は702年)、新羅経由でしか情報は入らなかったはずである。ましてこの時期、唐と新羅の間は、旧百済の地を巡って対立している。金法敏(文武王)が死に、子の政明(神文王)が唐から新羅王として冊立され、唐と国交を再開するのは、681年になってからのこと。禰軍は670年から2年間、新羅国内にいたが、牢獄のなかである。墓誌文の起草に、甥・素士(弟・寔進は、咸亨3年(672)没)らの関与があったとしても、678年当時、唐の長安で墓誌に日本国号を記すような情報があったとは考えにくい。

    また、「扶桑」とは、中国古書『山海経』によれば「はるか東海上にある黒歯国に立つ巨木」で、そこから太陽が昇るとされている。600年代に編纂された『梁書』扶桑国伝でも、「扶桑国は大漢国の東2万余里、中国の東方にある」とある。『三国志』魏志倭人伝では、倭国までを1万2千余里、倭国から黒歯國までを4千余里とするから、単純に考えれば、倭国=扶桑国との見方は成り立たないだろう。管見ながら600年代までの中国史書には、扶桑を倭国(日本)に比定する記事を見つけることは出来なかった。
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