讃岐の古代、語源と伝承 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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香川県は、古くは「讃岐ノ国」と呼ばれていました。この名の起こりは日本書紀では「讃吉」、続日本紀では「紗抜」、播磨国風土記では「讃芸」、正倉院文書では「讃岐」といろいろ表現されています。
古事記、万葉集、古語拾遺などによれば「讃岐」が一般的で、「讃」はホメルということ「岐」は山…

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  • 三吉地区の山崎神社

    福岡県遠賀郡岡垣町三吉735
    【祭神】大山祇神 天照皇大神 (合祀)豐玉姫命熊鰐命 伊賀彦宿禰

    三吉は、仲哀天皇と神功皇后が熊襲征討のため九州に来られたとき、船を仕立てて防府まで出迎え岡湊(芦屋)まで案内した「県主熊鰐」ゆかりの地といわれ、熊山の中腹には墓があります。
    この祭神「伊賀彦宿禰」は、岡湊で天皇の船が立ち往生したとき祈祷をした神様です。三吉は讃岐の古語です。倭宿禰ゆかりの人物か
  • 於 神 社
    奈良県広陵町大塚
    祭神--天照皇大神・天児屋根命・品陀別命
                         延喜式神名帳に、『大和国広瀬郡 於神社 鋤』とある式内社。社名は“ウヘ”(又はウエ)と読む。
    ※由緒大略
     ・当社は延喜式神名帳に記載される古社であること
     ・元慶7年に神階が綬叙されたこと
     ・元禄年間の失火のため由緒不詳となったこと

    当社に関する古資料
     ・大和志(1734・江戸中期)--元慶7年12月従五位下綬叙 大塚村に在り、城宮と称す、社已に廃す
     ・神社覈録(1870・明治3)--祭神祥ならず、大塚村に在す、城宮と称す、今已に廃す

    ・大和志料(1914・大正3)
    「延喜式神名帳に於神社鋤、大神分身類社抄に於神社大和国広瀬郡木俣神と見ゆ。今馬見村大字大塚の村社を式内・於社と称す。

    但し、広瀬社旧記には摂社・水分社を以て式内・於社となせり、是非を知らず。案ずるに、延喜神名帳に讃岐国苅田郡にも同名社ありて、大神分身類社抄(1265)附尾に依るに亦木俣神を祀ると云へり、彼此関係あるべきも事歴詳ならず」

     讃岐国苅田郡には於神社(オノ、香川県観音寺市)同鵜足郡には宇閇神社(ウヘ・香川県丸亀市、論社あり)があり式内社であるが、大和国広瀬郡の当地に讃岐・於の2社があることは、両者の間に何らかの関連を推察することができるのではないか。
     現在の三柱神を奉齊するに至った経緯は明かでない」
    とある。

     これらによれば、当社の創建由緒等は不明だが、讃岐国(香川県)に同名の式内社があることから、式内社調査報告は
     「讃岐人の移住に伴って於神社も同時に勧請されて、同名社として広羅郡に祀られるようになったのではあるまいか」
    という。

    ※祭神
     今の祭神は
    天照皇大神(皇大神宮)・天児屋根命(春日社)・品陀別命(八幡社)
    という。
     延喜式に祭神一座とあることからみて、これら三座は後世の勧請と思われるがその奉祀由緒等は不明。

     古資料によれば
     ・祭神詳ならず--神社覈録
     ・埴安姫命(ハニヤスヒメ)--特選神名牒--根拠不明
     ・木俣神(キマタ・又は御井木俣神)--大神分身類社抄・大和志料

    これは、類社抄に「於神社大和国広瀬郡木俣神」とあり、この木俣神を広瀬大社の旧摂社・散吉社(サヌキ、讃岐神社からの勧請という)の祭神・御井木俣神と同一神とみるもので、讃岐国の式内・粟井神社から勧請されたという(木俣神は大己貴と八上姫の子で、御井神はその別名)。
     ・水分神(ミクマリ)--広瀬神社社記--於神社を広瀬大社の摂社・水分神社とするによるものだが、根拠不明
    などがある
  • 広瀬川合神社(広瀬大社)略本記に、
       散吉神社三座 当殿は廊外にて河曲の西北の岡にあり、本は当国当郷散吉郷の讃岐に坐す、俗に南河合神社と云う官社也

     御井神 木俣神(御井神の別名) 
    此の神は大己貴命の子にして母は因幡国の八上姫也、讃岐国より神格をなす、仍りて讃岐神社と云、奴の字を略して散吉と呼ぶ也
    大嵩神(オオタカ) 大己貴命 
    此の神は大己貴命の子にして母は奇稲田姫也

     井精神(イセイ) 粟井水神(アハイノミズノカミ) 
    と見ゆ。

     之に依れば、当社は讃岐の御井木俣神を広瀬郷に勧請し、本国名を取りて社名にも及ほせるものにして、所謂讃岐の御井神は、延喜式神名帳に讃岐国苅田郡粟井神社名神大とあるものならん。

     大嵩神は三代実録に元慶7年(883)12月2日大和国正六位上散吉大建命神(サヌキオオタケノミコト)に従五位下を授くと云へる大建命神なるべく、
     粟井神は上に引ける当社来由記に所謂「赤穂の辺アハキあり」の井精にして、亦讃岐国より勧請せられ、乃ち木俣・大己貴・井精の三神を祭りたるものなり。
  • 倭迹々日百襲姫命
    奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定 める。御年七才より黒田を出、八才にて讃岐の水主宮内に着き給う。 成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の 神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。
  • 讃岐の水主神社
    当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方なる讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」と言われていました。
     創祀は遠く孝霊天皇の御宇にして一説には、宝亀年間の勧請と誤伝していますが、再建の年にして祭神は孝霊天皇の皇女「倭迹々日百襲姫命」で七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く御殿、水主に定め造営せられたとあります。
     土地の人は、ここを「大内」と呼び昔日の大内郡の郡名大内町の町名はここに起源となると言われております。
  • 城陽市の水主神社

    水主という地名は全国の城下町・港町に所在する地名で、
    水主衆(加子衆:水夫のこと)が集住する町」に由来するそうです。


    新撰姓氏録には、この辺りの豪族に水主直がおり、
    水主氏の祖を祀る氏神として水主神社を創建したとあるそうです。


    水主氏は、栗隈大溝(水路)に木津川から水を流入させる
    井堰の管理を司る一族とされます。
  • 讃岐公租五十香彦命と佐伯直和御諸別命に注目したい。
    景行紀五十五年二月壬辰条に豊城命孫彦狭
    嶋王を東山道十五国都督に拝したが春日穴咋邑で病死し,五十六年八月条にその子御諸別王が東国に派遣され蝦夷を平定したとある。針間国造の祖と毛野族の祖が同名でともに蝦夷と関わることは,針間国造が毛野放と同祖ということであろう
  • June 2016 編集されました
    石之日売が嫉妬に駆られて、奴理能美の家に滞在した時、口日売が歌った「山代の 筒木の宮に 物申す 吾が兄の君は 涙ぐましも」(古事記下巻)から、奴理能美の邸宅は皇后の滞在に相応しい立派なもので、仁徳天皇も後日、石之日売を訪ねて行幸したところであり、それが「筒木」、すなわち、山城国の「綴喜」にあったことが知られるのである。

    奴理能美(ぬりのみ)

    古事記に記載のある男性。山城の筒木に住んでいた帰化人。
    第十六代仁徳天皇の皇后イワノヒメが、仁徳天皇の浮気に激怒して家出した時、身を寄せた家の主人。
    表向きの理由は、「珍しい昆虫を飼育しているので、それを見たいため」。仁徳天皇の使者・クチコが妹クチヒメの助力を得て、何とかイワノの態度を軟化させた時、クチコ、クチヒメともに事態の収拾を協議。
    やはり、「珍しい昆虫を飼育しているので、見に来ませんか?」というのを口実に、仁徳天皇にお出ましいただき、イワノを迎えに来てもらうことに。こうして前代未聞の皇后の家出騒動は終結する。

    磐之媛の子どもは倭五王の大王系譜そのものであることがわかる。
    それはつまり葛城襲津彦(沙至比跪)の孫という意味でもある。
    この意味から、応神・仁徳とは違う母方という大きな意味をまず読み取っておくべきだろう。倭五王系譜には二度か三度の曲折があったと見ており、その最初が磐之媛の葛城血統がある。そのあとは福井からやってくる三尾氏の母と息長氏の父を持つ継体大王の系譜である。これらが二朝並立説の前提になっている。

    韓人・奴理能美(ぬり・の・み)
    「調連  百済国、努理使主後也。応神天皇御世、帰化。孫、阿久太男、彌和。次、賀夜。次、麻利。彌和、顕宗天皇御世、蚕織献?絹之様。仍賜調首姓。」
    「河内国諸蕃に、「調日佐  同水海連 (百済国人、努理使主之後也)」
    「東漢氏の一族の調忌寸とは別氏である。」
    http://achikochitazusaete.web.fc2.com/manyoutorai/tukiobito/afumi.html
  • 的臣いくはのおみの祖口持臣(あるいは 和珥臣わにのおみの祖口子臣)

    難波の都に戻ろうとしない磐之媛に、仁徳天皇が使わした使者は和邇臣口子(わにのおみくちこ)。磐之媛に使えていた侍女(口比売)の兄。
  • 0005 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌
    霞立    長春日乃    晩家流   和豆肝之良受  村肝乃   心乎痛見    奴要子鳥  卜歎居者    珠手次   懸乃宜久    遠神    吾大王乃    行幸能   山越風乃    獨座    吾衣手尓    朝夕尓   還比奴礼婆   大夫登   念有我母    草枕    客尓之有者   思遣    鶴寸乎白土   網能浦之   海處女等之   焼塩乃   念曽所焼    吾下情

    かすみたつ ながきはるひの くれにける わづきもしらず むらきもの こころをいたみ ぬえことり うらなげをれば たまだすき かけのよろしく とほつかみ わがおほきみの いでましの やまこすかぜの ひとりをる わがころもでに あさよひに かへらひぬれば ますらをと おもへるわれも くさまくら たびにしあれば おもひやる たづきをしらに あみのうらの あまをとめらが やくしほの おもひぞやくる あがしたごころ

    01 0006 反歌
    山越乃   風乎時自見   寐夜不落   家在妹乎    懸而小竹櫃
    やまごしの かぜをときじみ ぬるよおちず いへなるいもを かけてしのひつ

    右撿日本書紀 無幸於讃岐國 亦軍王未詳也 但山上憶良大夫類聚歌林曰 記曰 天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午幸于伊与温湯宮云〃 一書是時宮前在二樹木 此之二樹斑鳩比米二鳥大集 時勅多挂稲穂而養之 乃作歌云〃 若疑従此便幸之歟
  • 0002 高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇
    天皇登香具山望國之時御製歌

    山常庭   村山有等    取與呂布  天乃香具山   騰立    國見乎為者  
    國原波   煙立龍     海原波   加萬目立多都  怜憾國曽   蜻嶋    八間跡能國者
    やまとには むらやまあれど とりよろふ あめのかぐやま のぼりたち くにみをすれば くにはらは けぶりたつたつ うなはらは かまめたつたつ うましくにぞ あきづしま やまとのくには

    01 0003 天皇遊獵内野之時中皇命使間人連老獻歌
    八隅知之  我大王乃    朝庭    取撫賜     夕庭    伊縁立之    御執乃   梓弓之     奈加弭乃  音為奈利  朝獵尓   今立須良思   暮獵尓   今他田渚良之  御執能   梓弓之     奈加弭乃  音為奈里

    やすみしし わがおほきみの あしたには とりなでたまひ ゆふべには いよりだたしし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり あさがりに いまたたすらし ゆふがりに いまたたすらし みとらしの あづさのゆみの なかはずの おとすなり
    01 0004 反歌
    玉剋春   内乃大野尓   馬數而   朝布麻須等六  其草深野
    たまきはる うちのおほのに うまなめて あさふますらむ そのくさふかの

    続いて、讃岐の歌
  • December 2017 編集されました
    宮武の姓の分布
    1 香川県(約4,900人)
    2 大阪府(約1,400人)
    3 北海道(約1,000人)
    4 兵庫県(約600人)
    5 東京都(約500人)
    人口 約12,000人 順位 1,376 位
    1. 香川県 高松市 (約1500人)
    2 香川県 丸亀市(約1,200人)
    3 香川県 三豊市(約500人)
    4 香川県 善通寺市(約500人)
    5 香川県 観音寺市(約300人)
  • 野田院古墳
    所在地:善通寺市善通寺町野田(大麻山山上)
    形式:前方後円墳
    築造時期:3世紀後半
    大麻山(標高617m)の北西、約405mの高地に所在する盟主的古墳。阿讃特有の積石塚墓・古墳のひとつである。被葬者は、讃岐平野に最初に現れた豪族の首長と考えられている。周辺にも積石塚の塚・古墳が存在し「有岡古墳群」を形成している。香川県でこのような積石塚古墳が集中するのは、当該地域と高松市の「石清尾山積石塚」古墳群(同3世紀)だけである。

    その他、県内の積石塚古墳は、前2世紀(弥生中期)の成重遺跡(東かがわ市白鳥)、1世紀の稲木遺跡(善通寺市)、3世紀の鶴尾4号墳(高松市)、丸井古墳(さぬき市前山)がある。
  • 穂積氏はニギハヤヒを祖とする物部氏の同族であり、いずれにせよ物部氏系の娘だとなるが、母の高屋阿波良姫が気にかかる。安倍氏の氏神は「高屋安倍神社」で、安倍氏族の高橋氏が奉ったのも「高家神社」。高橋氏との関係が考えられる。

    大矢口宿祢は吉備津彦らとともに出雲討伐に活躍したと伝え、その子孫は中世の入沢氏(伯耆国日野郡の楽々福神社祠官)、名沢氏などであって、伯耆西部の日野川流域を中心に美作・因幡など周辺各地に分布が見られる。日野郡あたりの地域の平定には孝霊天皇が吉備津彦とともに活躍したとも伝え、いまも日野川東岸に孝霊山の名が残るが、この「孝霊」が大矢口宿祢に置き換えられるとしたら、伊予の越智国造(大新河の後裔氏族)が孝霊天皇の御子とする伊予皇子(実名を「彦狭島命」とするが、これはともに行動した吉備氏の稚武彦〔桃太郎伝説〕に当たり、誤伝)の子孫と称することと符合する。吉備系の楽々福神社が古層の製鉄神信仰として存在したという指摘(坂田友宏氏)もある。

    「天孫本紀」に兄弟と記される武諸隅命(矢田部造の祖)と大母隅連(矢集連の祖)とは、名前に「モロスミ」を共有しており、『書紀』崇神六〇年条の記事でも割注で同人と記すので、これらの事情から同人としてよい。

    越智氏族略系図

    饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕

    伊香色雄・十市根の後裔のみが本来の物部であった。十市根が垂仁朝に朝廷の武器庫でもあった石上神宮の神宝を管掌した

    『日本書紀』では、大水口宿禰について穂積臣遠祖としている。

    また『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。

    左京神別 天神 穂積臣 – 伊香賀色雄男の大水口宿禰の後。
    右京神別 天神 采女朝臣 – 石上朝臣同祖。神饒速日命六世孫の大水口宿禰の後。
  • 10/18編集されました
    祟神天皇の兄の比古由牟須美王(ヒコユムスミ王)の子供は
    大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)、
    讃岐垂根王(サヌキタリネ王)
    の二王です。このニ王には娘が5人いました。

    讃岐垂根王(サヌキタリネノキミ)は皇族。
    開化天皇(9代)の孫。
    性別は不明。
    開化天皇と竹野比売(タカノヒメ)の子の比古由牟須美王(ヒコユムスミ王)
  • 播磨の国風土記の記載によると、崩御され仲哀天皇のために神功皇后とともに石棺材を求めた石作連大来は讃岐国の羽若石(鷲ノ石)を求めたが結局、美保山(伊保山)の竜山にたどりついた。

    畿内では古墳時代前期、長大なコウヤマキ丸太を刳り抜いた割竹形木棺が普遍的だが讃岐では前期後葉に火山石や鷲ノ山石という安山岩を刳り抜いた石棺が開発され、河内の大王墓にも採用された。

    中期に開発された長持形石棺では鷲ノ山石ではなく、高砂市周辺で産する竜山石が使われ後期の横穴式石室の家形石棺では、播磨、近畿地方中心部から西は山口県まで広範囲に広がった。
  • 応仁元年(1467)、京都の東西に対陣していた細川勝元と山名宗全(やまな そうぜん)は、ついに戦端を開きます。戦国時代の幕開けを告げる応仁の乱の勃発です。このとき讃岐から、安富・香西・奈良・香川・羽床・長尾・寒川そして三谷・神内・十河の植田一族らの諸将が勝元軍に参加しています。当時、京に向かう軍勢のために讃岐では沿道や航路が甚だしい混乱を招いたといわれています。

    南北朝時代の細川頼之以来、讃岐は細川宗家である京兆家(けいちょうけ)の本拠地となっていました。勝元は当時、その当主であり、讃岐武士たちは細川家臣団として参陣したというわけです。そして、勝元軍の中でも、安富・香西・奈良・香川氏は細川四天王と呼ばれ、特に主力を構成していました。彼らは、内衆として常に在京し、身近で京兆家を支えていました。

    安富氏は雨滝山(さぬき市津田町)に、香西氏は勝賀山(高松市香西地区)に、奈良氏は聖通寺山(宇多津町・坂出市)に、そして香川氏は天霧山(多度津町、三豊市三野町)にそれぞれ城を築き勢力を張っていました。今でもそれらの山に登ると、城の遺構を見ることができます。

    応仁の乱の中でも最も激しい戦闘であったといわれる相国寺の戦いでは、香西、安富の2将が、讃岐武士を率いて戦い、安富元綱らが戦死しています。元綱は勝元の寵臣の第一であったといわれ、その死を聞いた勝元の悲嘆は大きかったといいます。
    細川勝元の祈願所といわれる巨鼇山地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)。萩の名所
    細川勝元の祈願所といわれる巨鼇山地蔵院萩原寺(観音寺市大野原町)。萩の名所
    文明9年(1477)、宗全と勝元が相次いで亡くなったことにより、11年間にわたる大乱もここに至りようやく終息します。しかし京兆家は、勝元の跡を継いで当主となった政元が暗殺されたことにより、家督をめぐる内紛が始まり、急速にその勢力を低下させていきます。讃岐が京兆家の本拠地だったという時代も終焉を迎え、その支配を脱した細川家臣団が自立していき、群雄が割拠することとなります。そして、この混乱に乗じて阿波の三好の勢力が及んでくることにより、讃岐も戦国時代に入っていくこととなります。
  • 四国で二の宮があるのは土佐と讃岐だけです。伊予も阿波も一の宮しかありません
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