伊吉連博德書 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

December 2018 編集されました カテゴリ: 古代史書
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『日本書紀』には、百済滅亡、白村江敗戦という歴史的事件を見聞きした人たちが書いた、その記録が載っている。
『伊吉連博德書』と高麗の僧・釈道顕が書いた『日本世記』である。

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コメント

  • 伊吉 博徳(いき の はかとこ、生没年不詳)は、飛鳥時代から奈良時代の人物で、斉明朝から天智朝にかけての豪族・外交官。姓は伊岐、壱伎、名は博得とも表記し[1]、カバネは史のち連。中国系渡来氏族で周の第11代王である宣王の末子尚父の子孫で長安人の楊雍の後裔であるとする
    壬申の乱において近江朝廷(大友皇子)側で活躍した壱伎韓国は同族と思われる。
  •  新唐書  (巻220・東夷)
     
     『新唐書』は宋(北宋時代)の4代目皇帝・仁宗の5年(1060)に欧陽脩(1007~1072)らが編纂した中国正史で、225巻からなる。『旧唐書』の不備を補う目的で編まれたという。
     それまで『旧唐書』は単に『唐書』だったが、これ(新唐書)が完成すると『旧唐書』と改名された。だが、ともに中国二十四正史のひとつである。


       < 日本 >

     日本は、古(いにし)えの「倭奴」である。京師を去ること萬四千里、新羅の東南に直(あた)り、海中に在る。島にして居る。東西五月行、南北三月行(の広さ)である。
     国に城郭無く、木をつらねて柵落と為す。草を以て屋を茨(おお)えり。
     左右の小島五十余、みな自ら国と名付け、これを臣付す。本率一人を置き、諸部を検察せり。
     其の俗、女多く、男少なし。文字有りて、浮屠の法を尚(とうと)ぶ。其の官、十有二等(あり)。
     其の王、姓は「阿毎」氏、自ら言うところの初主は「天御中主」と号し、「彦瀲」に至るおよそ三十二世、みな「尊」を以て号と為す。筑紫城に居れり。
     彦瀲の子・神武立ちて、更に「天皇」を以て号と為す。大和州に徙(うつ)り治む。
     次は、綏靖と曰い、次に安寧、・・・・・・(中略)。欽明の11年は梁の承聖元年に直(あた)る。次に海(敏)達、次に用明、亦(また)、「目多利思比孤」と曰い、隋の開皇末に直(あた)り、始めて中国と通ぜり。
    次に祟峻。・・・・・・(中略)。

     太宗の貞観5年(631)、使者を遣わして入朝せり。
     (皇)帝、其の遠きを矜(あわれ)み、有司に詔して歳貢に拘(こだわ)るを毋(な)からしむ。新州の刺史・高仁表を遣わし、往きて諭さしむも、王と礼を争いて平らげず、天子の命を宣ぶるを肯(がへん)ぜずして還る。久しくして更に新羅の使者に附して書を上せしめり。

     永徽の初め、其の王・孝徳即位し、改元して白雉と曰う。・・・・・(中略)。天智死し、子の天武立つ。死して、子の総持立つ。

     咸亨元年(670)、遣使して高麗を平ぐるを賀す。のち、やや夏音を習い、「倭」の名を悪(にく)み、「日本」と号す。使者自ら言えるは、「国、日の出る所に近し。以て名と為す」と。或は云う、「日本すなわち小国、倭を併わすところと為し、故に其の号を冒す」と。使者は情を以てせず。故にこれを疑えり。・・・・・(中略)。

     長安元年(701)、其の王・文武立ち、改元して大宝と曰う。朝臣・真人粟田を遣わして方物を貢げり。・・・・・(中略)。

     其の東海嶼中に、又、邪古・波邪・多尼の三小王有り。北は新羅を距(へだ)て、西北は百済、西南は越州に直(あた)る。糸絮・怪珍有り、と云う。


    (注)
    日本は古「倭奴」・・・旧唐書では「倭国は古えの倭奴国」としてあった。日本国の成立については旧唐書において、「倭国」と「日本」を並列させて記述しており、その記事から「貞観22年(648)」から「長安3年(703)」までの7世紀後半の55年の間に、日本列島の政権が倭国から日本へ移行したことが判明するが、どのような移行の仕方をしたのかについては、大きく二説に分かれている。
     一つは「倭という字は良くないので、日本に改めた」。もう一つは「日本という小国が倭を併合して列島全体の政権を掌握した」。日本からの使者が、そのどちらであるか判然としない言い方をするので、『新唐書』でも中国では首をかしげている(疑っている)書き方をしている。
     ただ、そのどちらであるにせよ、日本(国)という大和王権が、その昔はあの漢王朝から金印を授けられた「倭の奴国」の後裔であるとしている点に変わりはないのである。

    初王は「天御中主」・・・日本の初代の王は「アメノミナカヌシ」といい、彦瀲(ヒコナギサ)まで三十二世までは「尊」の称号を持ち、「筑紫城」に居たという。そして「ヒコナギサ」の子の神武が九州から大和国へ遷り、初めて「天皇」を称したとする。
     「尊」号を持っていたという事からは、中国には古事記ではなく日本紀(日本書紀)がもたらされていたことが判明する。古事記では「尊」はすべて「命」としてあるからである。
     中国正史の『宋史」の「日本国」条に、擁熙元年(984)、日本から5,6人の僧が渡来し、銅器・延喜式「職員令」などとともに「王年代紀」を献じた、とあるが、最後の「王年代紀」こそが「日本紀」であろう。

    高仁表・・・旧唐書には「高表仁」とあるが、同じ人物である。新唐書では王と言い争った、とあるが、旧唐書「倭国条」では「王子と礼を争う」とあり、若干の違いはある。どちらにしてもこの王や王子は九州倭国の人間であり、けっして大和王権(日本)のそれではない。

    邪古・波邪・多尼・・・日本の東海の島であると書くが、南の誤り。次の「北は新羅」「西北は百済」「西南は越州(南越)」を素直に解釈すると、これはどう見ても日本は九州島にあるとしか思えない書き方である。
     もし大和(奈良)が日本の中心であれば、新羅と百済をそれぞれ北と西北にあるなどと詳しく区別した方角で書くことは出来ないだろう。ともに西方となるはずだ。単なる前史の引き写しだろうか、若干の疑問は残る。
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