七枝刀 銘文

December 2014 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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『日本書紀』の「神功皇后」摂政52年(372年)条に、「秋9月10日、百済王の使い「久?」は「千熊長彦」と共に…

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コメント

  • 「泰■四年」

    「泰」に該当する年号としては
    東晋の「太(泰)和4年(369年)」
    西晋の「泰始4年(268)」
    南宋の「泰始4年(468)」
    のいずれか

    文献や史的事実との整合性を検討し、論証する必要がある。

    神功皇后紀52年に七支刀記事があることから、

    神功・応神紀が2運120年ずれているのは、『三国史記』で405年乙巳の百済の阿花王死亡が、『書紀』では応神16年(『書紀』紀年285年乙巳)に書かれていること等から明らかである

    神功紀には半島での新羅・百済をめぐる戦闘が記されているが、新羅・百済の成立は4世紀後半で、3世紀では史実にあわないこと
    (中国に朝貢した最初は百済が347年、新羅377年です)

    高句麗広開土王の碑の391年に倭が百済、新羅を破り臣民としたとの記述から、このころ倭国が半島で軍事行動を起こしていたことは疑えないこと、

    などから、今は泰和4年(369年)でほぼ異論のないところとなっています。

    石上神社の七支刀が神功紀の七支刀と考えればこの考えは正しい。


    神功皇后紀52年(『書紀』紀年壬申252年)を120年ずらせば372年になり、369年と3年ずれますが、百済の史書は干支で記述されていたと考えられるので、刀の鍛造が369年で献上が372年と考えられる。

    369年という年は
    高良記の玉垂命三潴遷都とも一致し、かつ新羅との戦闘に備え博多湾岸から筑後に都を移したということになり、神功皇后の新羅との戦闘記事とも整合するとのことです。

  • 「久氐比古神社」
    鎮座地が、久江であるところから、 本来は、「久延比古神社」(くえひこじんじゃ)だった ...http://www.genbu.net/data/noto/kute_title.htm
    社名の「氐」は、氏に下線。
    「弖」とも書き、「て」と読む。

    近世には、「剣明神」と呼ばれており、
    当時の祭神は、天目一箇神。
    相殿に、現在の主祭神・久延毘古神を祀る。

    延喜式に、「久氐比古神社」と記載されているが
    鎮座地が、久江であるところから、
    本来は、「久延比古神社」(くえひこじんじゃ)だったようだ。
    久延毘古神は、古事記によると天下のことを知り尽くした智恵の神で、
    案山子のこと。
    智恵の神であるとともに、穀物を護る神でもある。

    ただし、石動山が近く、久江は「崩へ」とも解釈できるため、
  • 『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年)九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 - 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、七枝刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。
  • 05/13編集されました
    五十狭茅宿禰 いさちのすくね

    記・紀にみえる武人。
    朝鮮外交に活躍した吉士(きし)(吉師)氏の祖。神功(じんぐう)皇后に反乱をおこした忍熊(おしくまの)皇子・麛坂(かごさかの)皇子方に,東国の兵をひきいる将軍として参加。敗れて近江(おうみ)で入水した。「古事記」では伊佐比宿禰。


    海上五十狭茅(うながみの・いさち)
    興味深い伝承が残っているので、紹介したい。

    海上五十狭茅であるが、実は反乱に加担している吉師五十狭茅宿禰(きしの・いさちのすくね)の子であるというのだ。

     もしこれが事実であれば、五十狭茅は、父に矢を向ける側に付いている事になる。

    どうしてそのような人物を祭主としたのかは、不明
  • 難波吉士が、記紀に最初に登場するのは神功朝。
    肩書は、応神天皇の異母兄である忍熊王・香坂王派の将軍。

    名前は、書紀は、吉師の祖、五十狭茅(いさち)宿禰。
    古事記は、難波吉師の祖、伊佐比宿禰。

    難波吉士氏は、6世紀後半(欽明朝)から7世紀中葉
    (天智朝)まで、任那・新羅・百済・隋・唐との外交使節
    として活躍する。

    最初の登場が、皇子の将軍あるいは側近というのは、
    この氏族が、並大抵の氏族ではないと察せられる。

    不思議なことは、登場以前の活躍や出自が、全くと
    いうほど記述されていないこと。

  • 久氐比古神社 くてひこじんじゃ
    鹿島郡中能登町久江ヘ66

    御祭神
    久延毘古神 天目一箇神 火産霊神
    中能登町
    久江久江原山分
    由緒
    久延毘古神は、古事記に「この神は山田の 曽當騰(案山子)のこと足は歩かねど居ながら にして天下のことを知れる神なり」と書かれてあり博識の神で田や山を司る神なり。
    天目一箇神は、古典に「天岩戸に隠られた 天照大神をお迎えする祭祀に献奉りし鏡の元鉄を鋳造し 自も刀斧鉄鐸を作り献奉りし」 と書かれてあり、鉄の器具を造り司る神なり。 往古当社が剣神社 剣明神を崇拝されたのは この御祭神の御神徳灼なればなり。
    火産霊神は、軻遇突智命とも称え火を掌り、護り給う神で、この神の恩頼に依り火の禍を 避け火を防ぎ鎮めんと祀りし神なり。
    久延毘古神、天目一箇神は、最初に久江に定着した住民の五穀豊穣祈願神として祀られ、久氐比古神社と称した。平安時代の延喜式に「小社に列し祈年の国幣に預る」と記される古社である。火産霊神は時の推移と共に住民の過半数の守護神として祀られ 愛宕神社と称し、江戸末期に久氐比古神社に移転合祀す。明治三十一年県社に列し 当時、久江に在りし、貴船社、諏訪社、櫛社の三社を境内社とし、現在は社務所内に奉斎す。
  • 05/13編集されました
    『日本書紀』によれば、神功皇后52年(252年?)九月丙子の条に、百済の肖古王が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。

    五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面及種種重寶、仍啓曰:「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰:「今我所通東海貴國、是天所啓、是以垂天恩、割海西而賜我、由是國基永固。汝當善脩和好、聚斂土物、奉貢不絕、雖死何恨!」自是後、每年相續朝貢焉。

    この頃の書紀の記述は丁度干支二巡分(120年)年代が繰り上げられているとされており、訂正すると372年となって制作年の太和(泰和)四年(369年)と符合する。

    千熊長彦は『百済記』によれば、「職麻那那加比跪」と表記され、367年に新羅が百済の貢ぎ物を奪ったため、千熊長彦が新羅を責めたとあり、またその二年後の369年に千熊長彦が新羅を伐ち、比自火本、南加羅、安羅、多羅、卓淳、加羅などの七カ国を平定し、また比利、布弥支、半古などの四つの村を平定したとある。倭国によるこれらの事蹟に対して百済肖古王が、久氐らを派遣した。
  • 卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。

    神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。

    神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。

    神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされるが、こちらの説の場合には秦の文字を太と書き換えねばならず疑問視する声もある[6]。また西晋の泰始4年(268年)だという説もあり。こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。
  • 七枝刀
    裏の銘文読解
    裏に関しては、不明な文字が少なく銘文通りに読めるのではないか。先ず、この裏の銘文に次のように標点(句読点)を打ってみる。
      先世以来未有此刀。百済王世□奇生聖音。故為倭王旨造。傳示後世。
    ここで問題になるのは、「百済王世□奇生聖音」の部分である。
    □の字が不明だが、これを「子」とすれば、「百済王の世子の奇が聖音に生まれる。」となる。「世子」とは世継ぎであり、『晉書』「孝武帝曜」に 「太元十一年(386)夏四月。以百濟王世子餘暉為使持節、都督鎮東將軍、百濟王。」とあり、ここの「百濟王世子餘暉」が「百濟王世子奇」と、符合する。「餘暉」の「餘」は、百済王の「姓」であり、「暉」が名である。「暉」と「奇」は漢語では違う音韻であるが、日本の音読みではどちらも「キ」となる。「奇」は万葉仮名で「乙類」の「キ」に分類される。「暉」の発音は、漢語の音韻を示す反切表記で「許帰切」(『廣韻』)とされるが、ここで韻母を示す「帰」は、万葉仮名の「乙類」の「キ」である。つまり朝鮮と日本での古代漢字音では、「暉」と「奇」は同音となるか。また「暉」が泰(太)和四年(369年)生まれなら、先の太元十一年(386)では、<386-369+1=18>で、18歳となる。
     次の「聖音」とは、聖朝の治世と言える。『禮記』に、「凡音者、生人心者也。・・・治世之音、安以楽、・・・乱世之音、怨以怒」とあり、今の「歌は世に連れ、世は歌にれ・・・」と同じで、時の世情を言う(聖徳太子の『法華経義疏』「序品第一」には「物見聞、遅受聖音」)。後句の「旨造」の「旨」は、『説文』に「美也。」とあり、「美」は「甘也。美與善同意。」とある。
     よって「裏の銘文」の私見は、次の通りとなる。
    「先世以来、この刀にいまだあらず。百済王の世子の奇が聖朝の治世に生まれる。故に倭王の為に、うまく造り、後世に傳示す。」
    後句に「故為倭王」とあるので、前句の「聖音」とは、当時の倭王の治世を言うか。また恐らく裏の銘文は、後から職人に特注で刻ましたか。どちらにせよ、この銘文には譲渡関係を示す語句は無い。

    『日本書紀』の関係記事
    「七支刀」に関連する記事は「記紀」共にあるが、『日本書紀』の記事を下記に抜粋する。
     『日本書紀』神功皇后摂政五十年
    「百濟王亦遣久読朝貢・・・啓曰。貴國鴻恩重於天地。何日何時敢有忘哉。聖王在上。明如日月。今臣在下。固如山岳。永爲西蕃。終無貳心。」
     『日本書紀』神功皇后摂政五十二年
    「久読等從千熊長彦詣之。則獻七枝刀一口。七子鏡一面。及種種重寶。仍啓曰。臣國以西有水。源出自谷那鐵山。其瘉七日行之不及。當飮是水。便取是山鐵。以永奉聖朝。」
    ここで、百済側使者の口上に「七枝刀」や「聖朝」などの文言があらわれる。「聖朝」の文言が使われるのは、『日本書紀』ではここだけであり、次に使われるのは『続日本紀』「文武天皇三年閏四月」の新羅側使者の表文である。
     また『日本書紀』の暦日は、『日本書記暦日原典』により、編纂時の長暦による後付であることが明らかなので、実際の暦日は、基本的に金石文等によるものが優先される。「七支刀」に刻された暦日が実際に近いものであろう。
  • 百済製造の7支刀に刻まれている
    4世紀の倭王旨がでてきません。
    姫氏は北部九州と連携し権力を取っていなかったのではないでしょうか。
  •  ”松野連家家系図”

    ★夫差(呉王)-公子忌(考昭天皇3年来朝住火国山門)-順(居于委奴)-(これから、直系の「第二系図」と、傍系のイ土郡大野住の「第1系図」に分かれる)



    ★第2系図
    恵(旧字)弓-阿岐-布怒之-玖賀-
    宇[門の中が下](漢宣帝時遣使地節2年)-阿米-
    熊鹿文(姓姫氏称卑弥子後漢光武中元2年正月私通漢土印綬僭称委奴国王-
    (この後第2系図直系は)厚鹿文ー市乾鹿文(と続き)-
    (妹の?)市鹿文(壱[不詳文字]、壹與かも?)。



    ★第2系図
    市鹿文の弟?の、宇也鹿文(からまた連続し)-
    垂子(この傍系に伊聲耆の名前がある)-
    騰-讃-珍-済-興-武-
    哲(倭国王)-満-牛慈(金刺宮御宇服降為夜須評督)-
    長提(小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡野住)-大野-廣石-
    津萬侶(甲午籍[?]松野連姓。
  • 魏志倭人伝には31の地名(「倭」を含む)と8人の人名、そして14の官名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である[1]。 一覧表にすると下の表になる。

    国名 31

    倭、対馬、一支、末廬、伊都、奴(北九州)、不彌、投馬、邪馬臺、斯馬、巳百支、伊邪、都支、彌奴、 好古都、不呼、姐奴、對蘇、蘇奴、 呼邑、華奴蘇奴、鬼、爲吾、鬼奴、 邪馬、躬臣、巴利、支惟、烏奴、奴(絶遠地)、狗奴

    人名 8

    卑彌呼、卑彌弓呼、掖邪狗、伊聲耆、臺與、載斯烏越、難升米、都市牛利

    官名 14

    卑狗、卑奴母離、爾支、泄謨觚、柄渠觚、兕馬觚、多模、彌彌、彌彌那利、伊支馬、
  • 鈴木真年という系図研究家は、「資治通鑑」(1084年成立)という中国の史書に、「周の元王3年(管理人注:「十八史略」では「周の元王の4年」となっている)、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記しているという。確認できていないが、中国でも、夫差の一族が日本列島に落ちのびて倭人になったという伝承が伝えられていたようだ

    中国の正史では晋書や梁書にも、
    「倭人自らいう、太伯の後(子孫)なり、と」
    と記録している。(管理人注:「十八史略」に太伯は「周の文王の伯父」とあった)

     周代の後半、東周時代(春秋戦国時代ともいう。紀元前771ー同256年)には中国各地に封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、多くの半独立国が建てられた。現在知られている約200国のうち、約50国、すなわち4分の1ほどは姫(紀)氏の国だった。日本の縄文時代晩期から弥生時代にあたる。

     戦国時代をへてこれらの国はつぎつぎ淘汰され、負けた国の王やその一族は殺されたり奴隷にされたり、日本列島や朝鮮半島に新天地を求めてぞくぞく渡って来たらしい。中国は倭のことを「東海姫氏国」と呼んでいた(釈日本紀など)という。
  • 金印に刻まれた文字「漢委奴國王」の読みについて記しておこう。定説となっている読み「漢の委(わ)の奴(な)國王」がだめなことは古田さんが詳しく論証している。要点を簡単にまとめると

    1、「委」を「わ」と読むのは無理「委」にそのような音はない。

    2、「委」国の支配下にある国「奴」の王が金印を授与されるなどありえない。
     「委=倭=大和」としたいためのヤマト王権一元主義者の苦肉の愚説だ。古田さんは、この系図とは無関係に、「委奴」で一つの国名であり、これを「いど」と読むべきとしていた。最近は「いぬ」説をとっているようだ。
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