竹内宿禰 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

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コメント

  • 竹内宿禰が生まれた。
    父が武雄市で祀られている。母も同様。
    母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。
    小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。
    竹内宿禰は佐賀生まれだろう。

    基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。
  • 筑前の南部、大野城や春日市にも黒男神社がある。
     大野城市筒井の「黒男神社」は神功皇后と武内宿禰を祀る。別名「九郎天神」。九郎は「黒」か。ここは後に天神と習合したようだ。
     春日市の「黒男神社」も九郎天神。祭神は黒男大明神、やはり武内宿禰。春日邑の氏神、春日神社の境外末社で古くは「おくろう様」と呼ばれたという。
     宇佐神宮の境内社にも「黒男神社」がある。他に国東郡国東町重藤の「黒雄神社」、浮羽郡田主丸町の「黒島神社」など。すべて武内宿禰を祭神とする。肥前武雄、朝日町の「黒尾神社」は武内宿禰の母、影媛を祀る。
     黒男神社、黒雄神社、黒島神社など「黒」は武内宿禰に纏わる。
  • 筑前、粕屋郡久山町の山田に黒男山という比高5、60mほどのお椀を伏せたような小山がある。「くろどんさん」と呼ばれ、麓に「黒男神社」がある。
     由緒によると、この黒男神社は山田に住む阿部氏族が「武内宿禰」を祀るという。山田には阿部姓が多く、この阿部氏族は大彦命の子、武渟川別命の直系であるという。

     14代仲哀天皇は熊襲征討のため九州へと下る。が、橿日宮(香椎宮)で薨去する。神功皇后は夫の仲哀天皇を弔うため、群臣百僚を率いて香椎の東、山田邑に齊宮(いつきのみや)を造営、そして在所である聖母屋敷を設けたという。
     この時、皇后に従っていた武渟川別命の子孫が山田邑に在し、繁栄したと伝わる。

     武渟川別命は8代孝元天皇の皇子、大彦命の子。崇神天皇の四道将軍の一人で、東海を平定したと伝わる。阿倍臣の祖とされる。
     武渟川別命と神功皇后では時代が合わない。武渟川別命の後裔が神功皇后に従っていたのであろうか。
  • 竹内宿禰一族は山代内臣か
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    内神社
    京都府八幡市内里内1
    「内里」の地名は当社に由来する。『和名類聚抄』に「山城国綴喜郡有智(うち)郷」と記されている古い地名になる。

    山城内臣「山代内臣」とも。
    味師内宿禰 (うましうちのすくね)
    文献では「甘美内宿禰」とも記される。武内宿禰の異母弟で、山城内臣の祖。相殿に祀られる。
    歴史
    社伝では、山城内臣の死後に祀ったのが創建とされる。相殿に祀られる味師内宿禰は、山城内臣の祖神として後に合祀されたと考えられている山城内臣の詳細は不明で、人名ではなく氏族名とも考えられ、『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」という氏族としての内臣の記載がある。

    第8代孝元天皇皇子彦太忍信命で、武内宿禰の父または祖父である。
    『日本書紀』第8代孝元天皇と、伊香色謎命伊賀迦色許売命)との間に生まれた皇子である。伊香色謎命は、『日本書紀』では大綜麻杵の娘、『古事記』では内色許男命(鬱色雄命)の娘

    『古事記』では、木国造の宇豆比古の妹の山下影日売を娶って建内宿禰(武内宿禰)を生むとして、建内宿禰の父にあてる。また同書では、意富那毘(尾張連等の祖)の妹の葛城之高千那毘売との間に味師内宿禰(甘美内宿禰)を儲けたとも記されている。
  • November 2018 編集されました
    富家伝承が伝えるところによると、

    武内宿禰とは、紀国の国造「高倉下」(たかくらじ)の子孫、「武内大田根」(武内彦)が物部王家重鎮の称号「宿禰」を得たことに始まると記しています。
    高倉下は出雲での徐福の子、「五十猛」(イソタケ / 香語山王)と出雲族「大屋姫」との間に生まれた子です。

    高倉下の末に「山下影姫」がおり、九州物部イニエ王(崇神天皇)の重鎮「彦布都押」(ひこふつおし)との間に生まれた子が武内大田根です。
    若くして才能溢れる大田根は、イニエ王に高く評価されて活躍しますが、イニエ王が早逝すると、王の後を継いだ宇佐の豊玉姫は、息子の豊彦(豊鍬入彦 /
    ウガヤフキアエズ)より偉くなるのを恐れ、これを疎みます。
    魏への使者として向かった大田根は、期待した官位を何も授かることなく、帰国します。
    これは豊玉姫の策略によるもので、先に使者として向かった息子の豊彦や天日槍の子孫「田道間守」には「中朗将」の官位を得させました。

    ショックを受けた大田根は、イニエ王の息子イクメ王に反旗を翻して大和の磯城王朝側に就き、イクメ王と戦います。
    が、この戦に破れた大田根は、出雲王家に保護を求め出雲に向かいます。
    出雲王家に守られる形になった大田根は、出雲王家の姫を後妻に迎え、出雲王家の称号「臣」を名乗ります。
    やがて「武内臣波多」を儲けた大田根は、松江の意宇の森で余生を送り亡くなりました。
    遺体は奥出雲の神原遺跡の古墳に葬られたとありますが、それを指揮したのは弟の「甘美内」(うましうち)でした。

    波多は熊本の八代に移住し、武内臣八代を名乗ります。
    八代の娘に「久米マイト姫」がおり、日向に移住して「襲津彦」(そつひこ)を産みました。
    襲津彦は宮崎西都原の王となり、「日向襲津彦」と呼ばれるようになります。
    その襲津彦こそが、神功皇后の伝承でキーマンとなる武内宿禰です。
    つまり記紀は、武内大田根から、そのひ孫である日向襲津彦王までを含めて、一人の武内宿禰と呼ばせているのです。

    武雄神社の祭神について
    主祭神の武内宿禰は、本来「武内大田根」であったが、後に神功皇后との縁により「襲津彦」に置き換えられた思われます。では父とされる「武雄心」とは誰なのか。

  • 彦太忍信命は、これ武内宿禰の祖父なり(孝元天皇紀)

    武内宿禰といえば、九州と所縁の深い人ですね。

    彦太忍信命から屋主忍男武雄心命(やぬしおしをたけをこころのみこと)、その子武内宿禰、その子の石川宿禰から蘇我満智(そがのまち)宿禰とつながっています。

    では、屋主忍男武雄心命を書紀でさがします。
    景行天皇(12代)の三年、紀伊国に行幸して占いをしたが吉と出なかったので、屋主忍男武雄心命が派遣されました。屋主忍男武雄心命は紀伊国で神祭りをして九年留まり、紀直(きのあたひ)の遠祖・菟道彦の娘の影媛を娶り、武内宿禰を生んだと、景行紀にあります。そこは、紀伊国でしょうか?

    佐賀県の武雄市には武雄神社があります

    武内宿禰を祀る神社は、圧倒的に福岡が多いのです。続いて大分・佐賀・和歌山の順になり、福岡は大分の2倍、佐賀の4倍、和歌山の10倍です。奈良の40倍以上の数になります。
    特に、佐賀県武雄市には、武雄神社があり武内宿禰を主祭神とし、神功・応神・仲哀天皇と父の武雄心命を祀っています。
    また、武雄市には、武内宿禰の母・山下影媛を祀る神社もあります。やはり、九州と所縁の深い人になります。

    武内宿禰の母も、紀伊国(和歌山)の人と言うより基山のある基肄国(佐賀県)の人だったのではないでしょうか。

    日本書紀も古事記では「孝元天皇」のところで、多くの氏族の祖が分かれたことになっています。案外、孝元天皇が倭王と重なるのかも知れませんね。ちなみに、皇子達は、大毘古命・少名日子建猪心命。若倭根子日子大毘毘命、彦太忍信命、建波邇夜須毘古命の五人。
    孝元天皇の皇子から出た氏族は、書紀では「安倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣 など七族の始祖」と書かれています。

    武内宿禰の子孫たち(古事記)
    羽田矢代宿禰⇒波多臣・淡海臣・林臣・波美臣・星川臣・長谷部臣
    許勢小柄宿禰⇒巨勢臣・雀部臣・輕部臣
    平群木菟宿禰(平群都久宿禰)⇒平群臣・佐和良臣・馬御?連
    石川宿禰(蘇賀石川宿禰)⇒蘇我臣・川邉臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣
    紀角宿禰(木角宿禰)⇒紀臣(木臣)・都奴臣・坂本臣
    葛城襲津彦(葛城長江曾都毘古)⇒玉手臣・的臣・生江臣・阿藝那臣
    若子宿禰⇒江野財臣
    女子は、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、の二人です。
    武内宿禰は、色々な氏族の祖となっています。



    履中天皇(17代)紀二年に、蘇我満智宿禰が平群氏・物部氏・円氏と共に国事に携わっています。突然、国政に参画したのでしょうが、何の力もなくてはできません。この頃の蘇我氏にできて、他の氏族にできなかったこと。それは、『古語拾遺』にも書かれているように「三蔵を検校すること」、帳簿をつけること・数字を読み書きすること、計算すること、ですか……財政を握っていたようですね。

    ちなみに三蔵とは、斎蔵=祭祀に関わる財源、内蔵=王家の生活に関わる財源、大蔵=国政に関する財源
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