竹内宿禰 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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古事記
孝元天皇と伊迦賀色許売命の子が比古布都押信命、この皇子と木の国の造の祖先の宇豆比古の妹の山下影日売の子が建内の宿禰とある

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  • 福岡県の小郡市力武に、竈門神社があります。主祭神は玉依姫で、副祭神は、山下影姫です。小郡市誌史に、高良玉垂宮の母宮山下影姫とあります。そして、山下影姫の神廟であるとも伝えています。又、この神社の境内は大きい古墳であったともあります
  • 山麓の武雄神社は元は御船山の山頂にあった住吉社であり、表、中、底の筒男三神を祀っていた。この住吉三神は伊弉諾尊が禊祓のとき筑紫日向で生まれたとされる。九州生まれの神である。福岡市の住吉神社は、全国2100社の住吉社の元祖である。
     海上交通の安全の神で、特に遣唐使が出発にあたっては航海安全の祈願をした。
     天平7年(735)山麓に移され、主神を武内宿禰とし、伴神に仲哀、応神天皇、神功皇后、武雄心命を合祀した。最後の武雄心命は武内宿禰の父である。
  • 『肥前国風土記』藤津の郡 能美の郷(藤津郡は有明海の西側)
    (景行天皇)が行幸された時、その里に土蜘蛛が三人(兄は大白、次は中白、弟は少白)いた。堡(砦)を作って隠れていて、降伏しなかった。その時、紀直の祖穉日子を派遣した。云々とあります。
    穉日子については、大名草彦命の児若彦命を藤津国造に定めたと『国造本紀』にあります。若日古は熊本県で22社の祭神となっており、後は福岡件で一社のみの祭神です。
    なぜ、肥国に紀直の祖を派遣し、国造として祀られたのでしょうか。肥前国に基肄郡があり、紀氏の東遷以前の九州での拠点だったのかも。
  • 肥君猪手
    大宝二年(702年)筑前国嶋郡大領に肥君猪手の名が見えます。『青銅の紙の足跡』で谷川健一氏はその名前は五十迹手を思わせると指摘されており、
    、五十迹手はまた伊達や五十猛命へと連想が進みます。肥君が筑前へ、これは南九州の勢力が北九州に進出した残像ではないかなとも思えます。
    狗奴国の邪馬台国征服かも。

    仲哀天皇の軍は熊襲軍に敗れています。神功皇后はそのまま半島へ行ってから畿内へ攻め込んでいますが、熊襲の勢力は黙っていたはずがありません。神功皇后は傀儡として、東征した勢力の主力は熊襲のはず、武内宿禰一統の主勢力は紀氏も含めてルーツは熊襲の地、かっての狗奴国だったとみることができそうですね。
  • 日本書紀によると「武雄心命」は「彦太忍信命」の子で、孝元天皇の孫。紀国で影媛を妃とし武内宿禰をもうける。が、武雄心命を祀る神社は肥前に集中し、その痕跡は肥前に濃い。

    古事記では武内宿禰は彦太忍信命の子となっており、武雄心命の名はない。
     肥前の「武雄」地名は武雄心命に纏わる。が、武雄心命を祀る「武雄神社」は、本来、火君の祖「健緒組命」を祀っていたと伝わる。肥前で武内宿禰の父ともされる「武雄心命」は火君の祖、阿蘇に拘わる「健緒組命」と同神とされる。
  • 古事記、日本書紀の編纂時の7世紀末から8世紀初めにも「倭根子」の称号を持つ天皇が現れる。

     大倭根子天之広野日女尊の諡号をもつ第41代「持統天皇」、倭根子豊祖父天皇の第42代「文武天皇」、日本根子天津御代豊国成姫天皇の第43代「元明天皇」、日本根子高瑞浄足姫天皇の第44代「元正天皇」。持統、元明、元正の三天皇は女帝。
  • 日前国懸神宮 和歌山市宮

    御神体 日前神宮 日像鏡
         国懸神宮 日矛鏡

     御祭神
     日前神宮 日前大神
     国懸神宮 国懸大神

     配祀神 思兼命、石凝姥命、玉祖命、明立天御影命、天鈿女命、天道根命、名草姫命、名草彦命、事代主神、野槌神、宇迦迺御魂命、大山咋命、松平頼雄命、誉田別命、武内宿禰、月夜見命
  • 摂社 天道根神社 天道根命 紀の國造の祖、物部氏降臨防衛の供奉神三十二神の一神
     摂社 中言神社  名草姫命、名草彦命
     摂社 宇迦迺御魂命、松尾神社、邦安神社、八幡神社、高良神社、月夜見神社、境内末社他に十四社 祭神座数百七十座合祀
     元々伊太祁曽神社鎮座との伝承がある。総社であった頃には再度伊太祁曽三神が祀られていたが、今日では見あたらない。

      日前大神は天照大神の別名との説明がある。

    現在は日前神宮と国懸神宮とはまったく同格に祀られており、日前神宮が天照大神とすれば、国懸神宮は紀氏の祖神を祀っており、建国期の紀氏力をいかんなく示しているとの興味ある見解も示されている。
     また国懸神には天武天皇が奉幣されている。この頃は日前神より神威が高かったのであろう。志賀剛氏は、懸[かかす]は案山子で[威す]、国懸とは紀の国を威す猛霊であろうとの説を出されている。

    伊太祁曽神社に伝わる社伝によれば、この地には元々伊太祁曽神社が祀られていたが、紀伊の国譲りの結果、日前神・国懸神がこの地を手に入れたのである。伊太祁曽神は山東の地に引いたが、その神威いよいよ高く、紀氏のこの地の統一のためには更に伊太祁曽の神々を分遷する願いを朝廷に出したのである。追い打ちをかけたのである。
  • 神武東遷説話に「軍名草邑に至る。即ち 名草戸畔 という女賊を誅す。」とある。日前・國懸の両社に挟まれて名草姫命.名草彦命を祭る中言神社が摂社として鎮座している。この女酋長を祀った祠との見方も可能である。

    王は木氏であり、紀氏であると言われている。木氏は蘇我氏にも分かれたとされている。 宮司の紀氏は現在で80代目とされ天皇家、出雲の千家とならび、日本では最も古い家系である。武内宿禰やその後裔に紀貫之を輩出している。紀伊国造家は、国造補任式のスタイルも独特で、朝廷も一目置いていた一族であった。
  • 日前大神国懸 大神は、天照大神の前霊に座しまして、 其の稜威名状すべからぎるなりと社伝 にあります。太古天照大神が素盞嗚尊 の行いを嘆き、天の岩窟に幽居まして しまい、世界が闇となってしまった時、 思兼命の教えに従い種々の弊吊を備え、 大御心を慰め和めし奉るに当り、石凝姥命が、天の香山 の金を採って大御神の御像を鋳造られました。『日本書 紀』第一の書に、時に高産霊の息思兼神といふ者有り。 思慮の智有り。乃ち思ひて白して曰さく、「彼の神の象を 図し造りて招示壽ぎ奉らむ」とまうす。故、即ち石凝姥を 似て冶工として、天香山の金を採りて、日矛を作らしむ。 又真名鹿の皮を仝剥ぎて、天の羽輔に作る、此を用て造 り奉る神は、是即ち紀伊国に所坐す日前なり。とあり、 この時鋳造られたのが、伊勢神宮奉祀の八咫の鏡、日前 神宮奉祀の日像鏡、国懸神宮奉祀の日矛鏡であります。 『日前国懸両大神宮本紀大畧』 によると、神鏡者則日前 大前也日矛者則国懸大神也とあり、天照大神 (日神) 招 示壽ぎ奉るのに鏡を用いたことが窺われます。御鎮座の次 第は、天孫降臨の時、天道根命が日像 日矛の両鏡を奉 斎して持ち来り、神武天皇二年名草郡毛見郷浜宮に祀り、 垂仁天皇十六年名草万代之宮、すなわち現在の地に鎮座 したと伝えられています。以来、天照大神の御神体とし て祀られており、八咫の鏡の御同体として、古代より朝廷 の崇敬厚く、藤原定家が献弊使として神馬を奉った記録 もあります。両神は天道根命の子孫である紀氏の手によ り代々奉斎され、平安時代には四七年ごとの遷宮もされ ていたと伝えられています。『紀伊国造系図』 によると、 始祖は天御中主命にはじまり、高皇産霊尊を経てその子 を天道根命とし、紀伊国造は天道根命が始祖といわれ現 在に至っています。中世には御炎上のことありと記録に 見え、天正の兵乱に侵され神域はなはだしく荒廃の時も ありましたが、南龍公 (徳川頼宜) により社殿は再建さ れました。日前国懸両神宮は、ともに延喜の制、名神大 社、月次、相嘗、新嘗には案上の宮弊に預り紀伊国一の 宮でありました。明治四年、神格の治定により両宮とも 宮弊大社に列せられていました。尚現在の御社殿は大正 十四年に造営されています 由緒より
  • 舊事記に曰令鋳造日矛此鏡少不合意則紀伊国所坐日前 神是也

    大倭本紀一書曰 天皇之始天降来之時共副護斎鏡三面子 鈴一合也 一鏡者天照大神之御霊名天照大神也一鏡者天照大神之前御霊 名国縣大神紀伊国名草宮崇敬鮮祭神也一鏡及子鈴者
    天皇御食津神朝夕御食夜護日護斎奉大神今巻向穴師社宮所坐鮮祭大神也○按 するに此文にては天孫の天降り給ふとき大神の授け給へる御霊寶の八咫鏡の 外に三の鏡を相副て授け給へるなり其三の鏡とは紀伊国名草宮の天縣大神と 国縣大神と巻向穴師大神との三なりとの文也天縣大神とは即日前大神なり

     日本紀畧天徳四年(960)内裏回禄條に曰 賢所三所遷御奉縫殿寮 之聞内記奉納威所三所一所鏡件鏡雖在猛火上而不涌く 損即云伊勢御神云云中右記及釈記に引く 村上御記に其径八寸許とあり 一所円形無破損長六寸許一所鏡巳涌乱破損紀伊国御神云々 釈記に引く 外記文同じ又小右記引故澱御日記曰恐所雖在火炭燼之中曽不焼損云鏡三面伊勢大神紀伊国日前国縣云々とあり○按するに賢所の三大神の御霊宝は天孫の持て天降り給ひし三大神の御霊宝を模し鋳さしめ給へるなれは大小形状同しかるへけれは賢所の両大神の御霊宝の鏡なるを以ても当宮両大神の御霊宝の鏡なる事を知るへく日矛の鏡なる事甚明なり 又此文に伊勢大御神の神鏡を径八寸許とし紀伊国大御神の神鏡を長さ六寸許とあるを照らし考ふるに径りとは鏡の径り長さとは柄の長さと見ゆ 其はことに目に立つはかり柄の長さより日矛の名は起りしならむ 矛は鉾刃ある物のみにあらむ 総て棒といふものの類を云ふなり 日矛は日神の美麗き御光彩の御像をほこに捧げたるさまをいふなるへし
  • 日本紀曰 崇神天皇六年先是天照大神和大国魂二神並祭於 天皇太殿之内然畏其神勢共住不安故以天照大神託 豊鍬入姫命奉於倭笠縫邑七年定天社国社及神地神戸垂 仁天皇二十五年三月離天照大神於豊鍬入姫命託于倭姫 命云々随大神教其祠立於伊勢国因興斎宮干五十鈴川 上二十七年令祠官卜兵器為神幣吉之故弓矢及横刀 納諸神之社仍更定神地神戸以時祠之

     古語拾遺曰 至干磯城瑞垣朝漸長神威同殿不安故更 令斎部氏奉石凝姥神斎天目一箇神斎氏更鋳鏡造 剱以為護身御璽是今践祚之日所献神璽鏡剱也仍就於倭 笠縫邑殊立磯城神籬奉遷天照大神及草薙剱令皇 女豊鍬入姫命奉斎焉云云

     大同元年大神宮本紀曰 御開城入彦五十瓊殖天皇干時天照 大神乞給国伊豆久曾止随大神教命求坐奉止詔皇子豊次比 賣命奉戴而従倭内国始而覓給云々従此奉行而木乃 国奈久佐浜宮三年斎其時紀国造進地口御田

     倭姫世紀曰 御開城入彦五十瓊殖天皇五十一年甲戌遷三木乃 国奈久佐浜宮積三年之間奉斉斎干時紀伊国造進舎人紀 麻呂良地口御田五十四年丁丑遷吉備名方濱宮四年奉斎 云云

     国造家舊記曰 崇神天皇御宇豊鋤入姫命拳戴天照大神之御 霊同五十一年四月八日遷干当名草浜宮之時日前国縣両 大神並宮而共住同五十四年天照大神者雖遷于吉備名方 濱宮日前国縣両大神者留住于名草浜宮至于垂仁天皇十 六年自浜宮遷于同郡神宮名草萬代宮而鎮座 今宮地是也 寛永記に出たり 
  • 元伊勢

    元伊勢「名方浜宮」(なかたのはまみや、名方濱宮)は、『倭姫命世記』に記載される元伊勢の第五である。所在地は吉備国。現在の岡山県岡山市や広島県、和歌山県にあたる。豊鍬入姫命(トヨスキイリビメ)が「奈久佐浜宮」より遷り、アマテラスを4年間奉斎した。アマテラス安住の地(現在の伊勢の神宮(伊勢神宮)の皇大神宮(内宮))を求める長い旅の途上。
    (第十代崇神天皇)五十四年[丁丑]、吉備国名方浜宮に遷り、四年間奉斎。この時、吉備国造は、采女 吉備都比売、地口・御田を進った。(『倭姫命世記』 口語訳)
    地名の音から、この吉備国は、紀伊・和歌山県に相当するという説がある。紀伊の「奈久佐浜宮」から、いきなり吉備・岡山方面に渡るのは飛躍過ぎる部分も確かにある。
    しかし、吉備国のみならず、吉備国造、吉備都比売なども出てくる以上、吉備国は吉備国として考えるのが自然か。
  • 竈門神社 由緒

    1.鎮座地 小郡市力武字宮の脇1の63-1
    1.御祭神 玉依姫命(主祭神)  
            山下影姫命(副祭神)
    1.創建  承平元年9月勧請(931年)
    1.御由緒 藤神社の御創建物については、小郡市史編集にも記載にある小郡市でも一番古い建物であり、江戸時代当神社や拝殿、福童神社(寺福童)の本殿と三棟にすぎないと記載してある。

    『寛延記』に、「玉母宮、氏神、山下影姫命の神廟也。御跡の経塚と申し伝え候」とあり、この神社の境内は大きい古墳であった。梵字を刻んだ大きな石がある。これぞ先輩の方々や地域の皆様の行き届いた管理の賜物であると理解出来る。
    近年は建物にも老化が進み、一部補修。拝殿の向かい柱の取り替えや拝殿、幣殿の瓦葺きを桐朽化葺きかえの工事を氏子一同で決定し取り組む。
    平成21年12月吉日をもって、改修工事も無事完了する。

    祭礼 1月1日 歳旦祭
        7月16日 夜渡祭
        10月17日 例祭   氏子一同

  • 「玉母宮、氏神、山下影姫命の神廟也」について

    竈門神社は、かつては「玉母宮」と呼ばれていたそうです。
    小郡市史誌には「高良玉垂宮の母宮・山下影姫」とあるので、
    「玉母」とは「玉垂宮の母」という事かも知れません。

    http://lunabura.exblog.jp/16421532
  • 九州では黒尾社は武内宿禰を祀る場合が多い。
     黒男神社 福岡県大野城市(筑前国 御笠郡)「長帶日賣命 武内宿禰命」
     黒尾神社 佐賀県武雄市朝日町(肥前国 杵島郡)「神母景媛」
     黒尾神社内摂社黒尾神社 佐賀県武雄市朝日町(肥前国 杵島郡)「?」
     黒尾大神社 佐賀県杵島郡山内町(肥前国 杵島郡)「?」
     黒雄社 大分県東国東郡国東町(豊後国 国東郡)「武内宿禰他」
     玉垂神社 大分県日田市大字十二町(豊後国 日田郡)「武内宿禰命他」
     宇佐神宮内摂社黒男神社 大分県宇佐市(豊前国 宇佐郡)「建内宿禰命」
     黒尾神社 宮崎県都城市梅北町(日向国 諸県郡)「伊邪那美命他」
     黒尾神社 鹿児島県鹿児島郡三島村(薩摩国 鹿児島)「住吉神」
     神母景媛は武内宿禰の母神である。
  • 彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと、生没年不詳)

    『日本書紀』では「彦太忍信命」、『古事記』では「比古布都押之信命」と表記される。
    第8代孝元天皇皇子で、武内宿禰の父または祖父である。『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。

    屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと、生没年不詳)
    『日本書紀』等に伝わる古代日本の人物。『日本書紀』では「屋主忍男武雄心命」「武猪心命」、他文献では「建猪心命」「屋主忍雄命」「武男心命」等とも表記される。『古事記』に記載はない。

    第8代孝元天皇皇孫で、武内宿禰の父とされる人物である

    『日本書紀』景行天皇3年2月1日条によると、天皇は紀伊に行幸して神祇祭祀を行おうとしたが、占いで不吉と出たため、代わりに武雄心命が遣わされた。武雄心命が阿備柏原(あびのかしわばら:現・和歌山市相坂・松原か)にて留まり住むこと9年、その間に影媛との間に武内宿禰を儲けたという

    『政事要略』所引「高橋氏文」によると、膳氏祖の磐鹿六雁命が死去した際に、景行天皇によって藤河別命・武男心命(武雄心命)が宣命使として派遣されたという

    『住吉大社神代記』によれば、垂仁天皇の癸酉年2月1日に武雄心命は住吉大神の願に従って遣わされ、山を寄せて幣とし、阿備柏原社で斎祀し、9年のうちに難破道龍住山(比定地未詳)を申し賜ったという。

    『新撰姓氏録』には、次の氏族が後裔として記載されている。
    右京皇別 紀朝臣 - 石川朝臣同氏。屋主忍雄建猪心命の後。
  • 出雲の伝承
    西出雲王・神門臣家の大屋姫は、五十猛の妻となり高倉下(たかくらじ)を生んだが、その子孫の家は紀伊国造家となった。その子孫の山下陰姫は、磯城王朝のクニクル(孝元)大王の御子・彦フツオシノマコトと結婚した。その息子が武内(たけしうち)大田根であった。武内宿祢と言われるが、本名は武内(たけしうち)大田根である。宿祢というのは物部氏からもらった敬称である。それで武内宿祢という言われ方が一般的になった
  • 古事記  孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー建内の宿禰
    日本書記 孝元天皇ーー比古布都押の信の命ーー屋主忍男武雄心命ーー建内の宿禰
    母親は、木の国の宇豆比古[ウヅヒコ]の妹、山下影日売[ヤマシタカゲヒメ]であることは共通です。

    建内の宿祢の子供を祖とする氏族
    波多の臣、許勢の臣、蘇我の臣、平群の臣、木の臣(中央の紀朝臣)、葛城の長江の曾都毘古、若子の宿祢

    武雄神社 佐賀県武雄市 武雄は宿彌の父の名、宿彌の生誕地との説がある。
    武内宿彌を祖とする各氏族と同じ地名が福岡県の中央部の甘木市の周辺と大和(紀氏は肥前基肄郡と紀伊)に分布している。。
  • 古事記では、木の国の大屋毘古(オホヤビコ)神の名前で登場します。
    大穴牟遅命が、兄たちに殺されかけたとき、助けを求めた大屋毘古神とは、大穴牟遅命の兄(おそらく異母兄)だったのです。
    大屋姫と大屋彦は年代が違うが一族か
  • 津野神社 (今津町北仰)

    社伝によると、
    景行天皇が志賀の高穴穂宮に坐す時、志賀の仰木に居た武内宿禰に、西淡海(琵琶湖の西)の屯田を賜はり
    武内宿禰の子・紀角宿禰に治めさせたという。

    一説には、武内宿禰が敦賀に向ふ途中、当地で病になったが、天地神祇に祈り、病を払った。
    そこで、武内宿禰の子紀角宿禰を周防国都乃郡より呼び寄せ、この地を治めさせたともいう。

    よって、当地は、角郷と呼び、以来、その裔である角氏の治める土地となった。

    当地で死んだ紀角宿禰の遺骸を角山に葬られているという。紀角宿禰の六世孫である角臣来子宿禰が祀ったのが
    当社の起源であるという。異説もあるようだが、要するに土地を支配した豪族角氏ゆかりの神社で、
    角氏により、角氏の祖が祀られたもの。


    境内の左手に、天満宮と共に祀られている田部神社は、以前は、当地の西1Kmの位置の田上森(現在御旅所)に
    鎮座していた、式内・田部神社の論社。応仁の乱により焼失し、津野神社境内に遷されたという。
    石神とされ、大将軍とも称している。祭神は、大国主神。あるいは大荒田別命。あるいは饒速日命。

    本殿の屋根には、三巴の紋と、2種類の鶴の紋が付けられていた。一つの鶴は、右向きの鶴丸紋。
    もう一つは、二羽の鶴が向き合って植物を咥えている形。

    『滋賀県神社誌』には「三つ巴」とあるので三つ巴紋が主紋なのだろう。
  • 武内宿禰(父親)の9人の子供達

    1、長男  羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)
    2、次男  巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
    3、三男  蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)
    4、四男  平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)
    5、五男  紀角宿禰(きのつのすくね)
    6、長女  久米摩伊刀姫(くめのまいとひめ)
    7、次女  怒能伊呂姫(ののいろひめ)
    8、六男  葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)
    9、七男  若子宿禰(わくごのすくね)



    香椎宮には武内宿禰のほか3人を祀る社(摂社・末社)がありますので先に確認しておきます。

     ①父親である武内宿禰を 祀る「武内神社」です。(摂社)

     ②長男の羽田八代宿禰を祀る「朽瀬(くちとせ)神社」です。(末社)

     ③三男の蘇我石川宿禰を祀る「印鑰(いんやく)神社」です。(末社)

     ④四男の平群都久宿禰の子孫(現在の香椎の武内家)を祀る「高陪(こうべ)神社」です。(末社)                
  • 竈門神社 1.鎮座地 小郡市力武字宮の脇1の63-1 1.御祭神 玉依姫命(主祭神)           山下影姫命(副祭神) 1.創建  承平元年9月勧請(931年) 1.御由緒 藤神社の御創建物については、小郡市史編集にも記載にある小郡市でも一番古い建物であり、江戸時代当神社や拝殿、福童神社(寺福童)の本殿と三棟にすぎないと記載してある。 『寛延記』に、「玉母宮、氏神、山下影姫命の神廟也。御跡の経塚と申し伝え候」とあり、この神社の境内は大きい古墳であった。梵字を刻んだ大きな石がある。これぞ先輩の方々や地域の皆様の行き届いた管理の賜物であると理解出来る。 近年は建物にも老化が進み、一部補修。拝殿の向かい柱の取り替えや拝殿、幣殿の瓦葺きを桐朽化葺きかえの工事を氏子一同で決定し取り組む。 平成21年12月吉日をもって、改修工事も無事完了する。 祭礼 1月1日 歳旦祭     7月16日 夜渡祭     10月17日 例祭   氏子一同
  • 景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

    代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀させました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で、神祇を祭祀しました。そこに9年間住みました。
    その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。  (日本書紀)
    影姫については古事記の方では、
    ヒコフツオシの信の命が木の国造の祖であるウヅヒコの妹、山下影姫を娶って生まれた子供は建内宿禰。
  • 力武の竈門神社

    「玉母宮、氏神、山下影姫命の神廟也」について この竈門神社は、かつては「玉母宮」と呼ばれていたそうです。 小郡市史誌には「高良玉垂宮の母宮・山下影姫」とあるので、 「玉母」とは「玉垂宮の母」という事かも知れません。 そして、「山下影姫の神廟である」とも言い伝えています。 「この神社の境内は大きい古墳であった」ともあります。
  • 04/23編集されました
    山城 内神社
    京都府八幡市内里内1
    「内里」の地名は当社に由来する。『和名類聚抄』に「山城国綴喜郡有智(うち)郷」と記されている古い地名になる。

    山城内臣 (やましろのうちのおみ)
    「山代内臣」とも。
    味師内宿禰 (うましうちのすくね)
    文献では「甘美内宿禰」とも記される。武内宿禰の異母弟で、山城内臣の祖。相殿に祀られる。
    歴史
    社伝では、山城内臣の死後に祀ったのが創建とされる。相殿に祀られる味師内宿禰は、山城内臣の祖神として後に合祀されたと考えられている山城内臣の詳細は不明で、人名ではなく氏族名とも考えられ、『新撰姓氏録』には「大和国 内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也」という氏族としての内臣の記載がある。

    延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国綴喜郡に「内神社二座」と記載され、式内社に列している。中世には「春日宗像神社」と称されていた。
  • 04/23編集されました
    香椎宮には武内宿禰のほか3人を祀る社(摂社・末社)がありますので先に確認しておきます。
    父親である武内宿禰を 祀る「武内神社」です。(摂社)
    長男の羽田八代宿禰を祀る「朽瀬(くちとせ)神社」です。(末社)
    三男の蘇我石川宿禰を祀る「印鑰(いんやく)神社」です。(末社)
    四男の平群都久宿禰の子孫(現在の香椎の武内家)を祀る「高陪(こうべ)神社」です。(末社)

    次男  巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
    兄の羽田八代宿禰、父親と共に出陣しています。応神天皇時代にも兄弟と百済へ渡っています。巨勢氏、軽部氏の祖。

    三男  蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)
    末社の印鑰神社に祀られている。蘇我氏・石川氏の始祖である。彼も兄達と一緒に応神天皇の命により百済に行ってます。彼の孫の韓子(からこ)とひ孫の高麗(こま)の名前は朝鮮半島と何か関係があったのでしょうか。蘇我稲目(いなめ)から歴史に登場します。百済から仏教が伝わると自分の家をお寺にし、廃仏派の物部(もののべ)氏と対立。子の馬子(うまこ)の時に、物部守屋(もりや)との武力対決に圧勝。ともに戦った聖徳太子と一緒に難波の四天王寺を建てます。稲目と馬子は娘を天皇の妃として嫁がせ、強大な権力を掌中にしている。              

    四男  平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)
    平群(へぐり)氏の祖であり、現在の香椎武内家の系図。
    神功皇后が大和に凱旋した後、武内宿禰の子供達はそれぞれ有力豪族として、朝廷に仕えていた。律令制度が整い平城京遷都の年(710)に、神功皇后の霊を祀る香椎廟創立が決まります。神功皇后の功臣の末裔から廟司を送ろう、とした時に選ばれたのが、武内宿禰の四男(平群都久宿禰)から十二代目の大膳紀宿禰(おおかしわできのすくね)。彼は香椎到着後、武内宿禰が居住していた旧屋敷跡に館を構え、周りにクスノキを植えた、とあります。727年、大宰府長官である大伴旅人の赴任挨拶を受けたのは彼の時代です。彼の息子から新たに武内姓を名乗ります

    五男  紀角宿禰(きのつのすくね)

    紀氏の祖である。平安前期の歌人、紀貫之(きのつらゆき)は末裔である。「古今和歌集」編纂者のひとり、また「土佐日記」は有名。
  • 04/23編集されました
    六男  葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)
    応神天皇は即位後、朝廷を大和から河内へ移します。これは崇神天皇の王朝が新しく応神王朝に代わったとする説(王朝交代説)もあれば、朝鮮半島情勢を受けて出来るだけ海に近い場所に政治拠点を移した、と言う説もあります。
    神功皇后が九州・朝鮮遠征中にクーデターを起こし、大和凱旋のとき戦ったのが仲哀天皇の先の皇子達です。彼らを支持した豪族もまだ大和に残っていたでしょう。河内朝は大和近辺からの脅威も感じていました。応神・仁徳両天皇のこれらの不安事を一手に引き受けていたのが武内宿禰の子供たちです。大和に戻ったあと、其々の居地で力を蓄え、朝廷に仕えます。大和から河内の間の生駒山系、ここを平群氏が守ります。もう一つの葛城山系、ここを葛城氏が守ります。その後ろを蘇我氏、羽田氏が押さえています。武内一族の一番強力な時代です。その中で応神天皇から一番の信頼を得ていたのが、葛城襲津彦。九州の海人族である胸形氏・阿曇氏の力も借りたのでしょうが、この時代の瀬戸内海・対馬海峡航路を掌握し、朝鮮半島外交を任されています。

    娘の磐之媛(いわのひめ)が仁徳天皇の妃となり、三人の天皇を産みます。中国の史書にみえる「倭の五王」とは、履中・反正・允恭・安康・雄略天皇だとも言われています。この時代、葛城氏の力がいかに大きかったのか想像できます。この絶大なる権力も王位継承に関した一連の政変により落ちていくことになります。しかしその後、同じ武内一族から、今度は蘇我氏がのし上ってくることになります

    七男  若子宿禰(わくごのすくね)

    江沼氏、利波氏の祖です。

  • 越中 石黒氏

    「福井県史通史編」掲載の武内宿祢の系統図
    石黒氏の祖の利波臣志留志は池田氏の祖の紀氏等と同じ「武内宿祢」を祖とすると云われ、「武内宿祢」は「蘇我氏」の先祖である。蘇我入鹿は中大兄皇子と藤原氏の祖の中臣氏の鎌足に殺され、一族の蘇我倉山田石川麻呂も自害させられて一挙に古代豪族の蘇我氏は凋落する。その後、蘇我氏は「蘇我」では無く「石川朝臣」を名乗るようになる。では、何故石黒氏が「藤原氏」を名乗ったか? 石黒氏は後になって藤原氏一族の井口氏の系統の林氏と縁組し、途中から「藤原氏」を名乗っている。(※石黒氏系図)  武内宿祢の末裔は射水臣や加賀の江沼臣等古い時代の高志の国には広範囲に栄えていた。赤丸浅井神社を開いたのが文武天皇の子で母が石川刀自郎女であった蘇我氏系の皇子であった「石川朝臣広成」と見られるのは、元々、蘇我氏の利波臣志留志が開発・領有していた礪波郡に開かれた神社であり、赤丸浅井神社は蘇我氏の神社として開かれた可能性が高い。当時の元正天皇の祖母も蘇我氏で有り、母の元明天皇は蘇我氏の娘で有った。藤原不比等の陰謀で母は「嬪」の位を奪われ、広成も臣籍に降下させられたが、絶大な力を持つ藤原不比等から命を守る為に東国33か国を担当させると云う名目で蘇我氏の勢力の砺波臣に保護させたと考えられる。元正天皇は717年に美濃に行宮を開き、有名な「養老の滝」を名付けたと伝わる。石川朝臣広成は万葉集に3首掲載されており、740年頃に「内舎人」として、後には「山城国恭仁京」に勤務しているが、もっと若い時期の事で有ったのだろうか?二上射水神社も赤丸浅井神社と同時期に創建されているが、射水臣もやはり蘇我氏と同じ武内宿祢を祖とする。
    石黒氏は東大寺の大仏造営に際して米3000碩(※「続日本紀」⇒「東大寺過去帳」では米五千石寄進とされる。)を寄進し官位を得ているが、その時の天皇は「石川朝臣広成」の兄の「聖武天皇」である。蘇我氏の元明天皇、元正天皇にしてみれば母を藤原不比等の娘の宮子とする「首皇子」を何としても天皇にしなければならない事情と、「石川朝臣広成」を救う必要とに挟まれて、同族の利波臣に保護させたのではないか? 利波臣にしてみても藤原氏の聖武天皇に逆らう事は出来ない為、自らの庄園から大仏造営資金として米3000碩を聖武に差し出したとすれば事情が判る。

    出典:https://blog.goo.ne.jp/magohati35/e/58319b476c2ddd918285420725011499
  • 越前
    宮地みやじ町と篠原しのはら町との間の水田の中に「じょうじゃのかま」と呼ばれる大きな石があり、宮地廃寺の塔とう心しん礎そに使われた石とされています。同じく、弓波町の忌浪いみなみ神社で使われている手水ちょうず鉢ばちは弓浪ゆみなみ廃寺はいじの塔心礎に使われた石とされています。

    大宝たいほう律令りつりょうの制定(701 年)により江沼地方は「越前えちぜんの国くに江沼郡えぬまぐん」となりました。その後、弘仁14年(823)に加賀国が越前国より独立し、江沼郡の北半が能美郡として分立すると、新しい江沼郡内には、長江ながえ、忌浪いんなみ、山やま背しろ、竹原たけはら、額田ぬかだ、菅浪すがなみ、八田やた、三枝さえぐさの8郷ごう、または郡家ぐうけ郷ごうを加えての9郷が置おかれました。かつては江渟えぬの国くにの首長しゅちょうで、6世紀後半頃から国造くにのみやつこの地位を世襲せしゅうした江沼えぬ氏しは、律令りつりょう体制たいせいの中で郡司ぐんじとして地方行政官に位置付けられ、西島にしじま遺跡は、建造物けんぞうぶつの規模や出土品などから、一般住宅とは考え難がたく、律令制下の郡ぐんの中心官庁である郡家ぐうけもしくは有力ゆうりょく豪族ごうぞくなどの住居として使われたものではないかと考えられています。
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