阿蘇四社、健軍神社、甲佐神社、郡浦神社 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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阿蘇四社
健軍神社(けんぐんじんじゃ、元たけみや)は、熊本県熊本市東区にある神社である。阿蘇神社(阿蘇市)、甲佐神社(こうさじんじゃ、甲佐町)、郡浦神社(こうのうらじんじゃ、宇城市)と共に阿蘇四社である。

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  • 高良玉垂宮神秘書

    17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
    夫の高良明神と玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮を一緒に出た。
    武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
    豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

    高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった。
    (はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
    神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
    宝剣は神功皇后が持っていた。
    内侍(鏡)は玄孫大臣が預かっていた。

    40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
    異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
    皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

    アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という

    神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

    10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

  • 印鑰神社 八代市鏡町


    武内宿禰の第3子である蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)は筑紫の凶徒を鎮める為に下向し終わりはこの地にて薨じたとか言われる。後鳥羽天皇の建久九年(1198年)肥後の国球磨の地頭職-相良三郎名頼が弟の八郎為頼に八代の北三里「鏡ヶ池」の近くに神社を造営させ蘇我石川宿禰の分霊を祭神として鎮座して以来宿禰の徳を仰ぐ人々の崇神の所になったと伝えられている。
     奈良時代肥後国八代郡に郡司があり律令制度の下八代地方の祖米が集められ郡倉に収納されていた。役所には朝廷から渡された印と鑰(かぎ)があり平常は別殿に納められ大切に祀られていた。印鑰神社の〔印鑰〕とはその〔印〕と〔鑰〕のことである。
     後に郡倉が廃止されその跡(市指定史跡八代郡倉跡)に建久9年当神社が造営され「印鑰」が神社の名称にもなった。印にゃく神社の御祭神を石川宿禰としたのは宿禰が朝廷の内蔵-大蔵の管理者であったことに由来するものと考えられる。
  • 「稲佐」は新長埼年表(長埼文献社)によれば
    貞観三年(861)この記録として「肥前国正六位稲佐神に従五位下を授けられる(三代実録)「肥前古跡記によれば稲佐神の祭神は百済国聖明太子、空海人唐の折、稲佐山に上って怪異あり寺を創して海蔵庵と号す」とあり、中略 宮方についた武士の中に稲佐治都夫輔の名がみえる(大平記・鎮西志・治乱記)。

    稲佐山の麓には稲佐氏という武将がいたという。

    金比羅山の川向の稲佐山には、804年に海蔵庵が出来、祭神に百済国聖明太子を祀っていたという事である。

    この事実が正確ならば、無凡山に百済の琳聖太子を祀ったとしても不思議ではない。

    稲佐山の北側に岩屋山がある。この山は和銅年中(七〇八-七一四)行基菩薩の開基とある。
    後年、弘法大師がここで護摩の法を修してより寺門大いに栄え、支院三十六。その盛名は崇嶽の神宮寺と並び称され、表裏をなして共に西国有数の巨刹(大きい寺)であったという。
  • 阿村神社
    阿村神社の口碑伝説として、「太古、景行・成務天皇の御代この天草島を統括し給いし皇族建島松命等の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を同村古墳の所在地近傍に建立し祭られしに其の頃の土民も深く之の神を崇敬したりしが世の変遷とともに隔地なるを一同相議り村の中央(現在位置)に遷座せしといふ又肥後の国土を統括せしめ給いし阿蘇の国造健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称現今に祭られると言い伝え来れりこの口碑伝説を察すれば氏神と古墳とは大も密接の関係あると予想するにあり」とあります。

    ここで、建島松命とは誰なのか調べると、先代旧事本紀 巻第十 国造本紀には、「志賀の高穴穂の朝の御世に、神祝命の十三世の孫 建嶋松命を国造に定賜ふ」とあります。つまり、景行天皇の御子です第13代 成務天皇の御世(西暦131~190年)2世紀 弥生時代 卑弥呼の頃、天草国造に任命されたカミムスビの命の十三の孫ですと云います。
  • 古代芦北の古墳芦北郡には、葦北、桑原、伴、野行、巨野、川田、水俣の七郷があるが、水俣市が水俣郷、芦北町の旧湯浦町が川田郷、同町の旧佐敷町桑原、大野が巨野郷、田浦町が野行郷に比定される。芦北郷は、目奈久付近が比定される。
    大和朝廷の支配下に入ったのは、刑都(允恭后妃の都民)から考えて五世紀中ごろと思われる。芦北郡に刑部が分布していることは、『肥後国芦北郡人刑部広瀬女』(神護景雲二年九月条などの史料)にも由来する。この刑部は六世紀になって靱負軍に編入され、大伴氏の統属化に入った証は日下部と大体同じようである。また『和名抄』に芦北郡に伴郷がみられるが、これは芦北郡に大伴部の集団が置かれたことを物語るものである。『火の国』井上辰雄著によれぱ、伴郷はどこに当たるかは不明であるが、あるいはこの芦北郷の付近にあったのかも知れない
  • 阿蘇神話では健磐龍命(たけいわたつ)が九州鎮護のため阿蘇に下向し、開拓してゆくさまが述べられている。古く、阿蘇には草部吉見命(日子八井命)が在ったとされる。紀元76年に神武天皇の孫である健磐龍命が下向し、草部吉見命の女(むすめ)、阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着したという。
     大鯰の逸話は中央から派遣された氏族に、鯰をトーテムとする先住の民が征服されるという図式を表しているといわれる。阿蘇の古い民は鯰をトーテムとするという。

     阿蘇の大鯰の霊は「国造神社」の鯰宮に祀られる。阿蘇の手野に鎮座する国造神社は健磐龍命の子、速瓶玉命と妃の雨宮媛命を祀る。
     が、国造神社は阿蘇神社の元宮ともされ、本来は、阿蘇の神々の母とも呼ばれる「蒲池媛」を祀るといわれる。蒲池媛(かまちひめ)は八代海、宇城の地より阿蘇に入り、阿蘇の神に嫁いだとされる。小国の出自である速瓶玉命の妃、雨宮媛とは別神。
     また、蒲池媛は神功皇后の三韓征伐に従い、満珠干珠の玉で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたといわれる八代海の海神。そして、満珠は蒲池媛の出自、宇土の郡浦神社に、干珠は阿蘇外輪の草部吉見神社に祀られたとされる
  • 一ノ宮国造速瓶玉命 阿蘇神社主神・健磐龍命の御子

    草壁
  • 阿蘇神話は肥後国誌、阿蘇神社縁起などで語られる阿蘇の地方神話。神武天皇の御子の日子八井命(草部吉見神)と、孫の健磐龍命が、順次、阿蘇に派遣され、阿蘇を開拓してゆくさまが語られる。
     そこには「満々と湛えた湖水を外輪山を蹴破って流し、阿蘇を開拓した。」などといった神話的な伝説に彩られた神々の姿が見られ、その中で征服氏族が阿蘇の先住の民と婚姻を通して同化してゆく過程が語られている。

     阿蘇神話の系譜において、古く、阿蘇には神武天皇の御子、日子八井命(草部吉見神)が在ったとされる。のちの紀元76年に神武天皇の孫であり、日子八井命の弟、神八井耳命の御子である健磐龍命(たけいわたつ)が、九州鎮護のため阿蘇に下向する。
     そして、健磐龍命は日子八井命の女(むすめ)の阿蘇都比売命を娶って阿蘇に土着する。ゆえに日子八井命は健磐龍命の叔父であり、義父ということになる。
     健磐龍命と阿蘇都比売命の御子、速甕玉命(はやみかたま)は、崇神天皇の代に阿蘇国造となり、速甕玉命の子、日子御子命(惟人命)が阿蘇大宮司家の祖となる。阿蘇大宮司家は代々、阿蘇を支配し、健磐龍命は阿蘇神社の主祭神となる。

     先に阿蘇に在った日子八井命(草部吉見神)は不思議な存在である。その存在は古事記にしか記されず日本書紀には登場しない。阿蘇神社縁起にも「阿蘇大宮司家の祖は神武天皇の皇子、神八井耳命であり、第二代綏靖天皇の同母兄である。」とのみ記されて健磐龍命の父、神八井耳命が紹介されている。
     もうひとつ。神武天皇の御子、日子八井命と、孫の健磐龍命のふたりが二代に亘って阿蘇に派遣され、阿蘇の氏族に血縁を作ってまで土着してゆく必要が何故あったのかという謎。
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