倭国大乱、卑弥呼と豊、豊比売 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

倭国大乱、卑弥呼と豊、豊比売 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

其国本亦以男子為王 住七八十年
倭国乱 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑弥呼
卑弥呼以死
・・・
更立男王
国中不服 更相誅殺 当時殺千余人
『魏志倭人伝』

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コメント

  • 高良内町には赤星神社・富松神社があって弦田物部の祖・天津赤星を祀り、近くには物部祖神・経津主神(これも実体は天目一箇命か)を祀る楫取神社もあり、これら物部系の小社の中心が高良大社とされる。筑紫君磐井の乱にあたって、物部の族長たる麁鹿火大連が討伐に向かったのも、こうした背景があったものとみられる。
  • 久留米市域の南、三瀦(みずま)に鎮座する「大善寺玉垂宮」は、高良玉垂宮と同じく玉垂命を祀る。この地の古代氏族「水沼氏(水間、みぬま)」が始祖を玉垂神としてこの宮に祀ったとされる。また、この社は三瀦の総社にて、高良玉垂宮の元宮ともされる。
     この玉垂命に関して、筑後国神名帳には「玉垂媛神」の存在があり、大善寺では玉垂神は女神であるともされる。
     禊(みそぎ)の介添えの巫女が「水沼(みぬま)」であり、水の女神が水沼女とされる。水沼氏は禊の巫女を出す家柄であった。そして水沼が三瀦(みずま)に変化している。
  • 玉垂神の名義とは潮干珠、潮満珠に纏わるもの。火(肥)の伝承において、古く、蒲池比JIS+7957が潮干珠、潮満珠を用いて潮の満ち引きを司る八代海の海神でもあった。

     高良山は古く、高牟礼山(鷹群山、たかむれ)と呼ばれ、高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」であったとされる。
  • 大善寺玉垂宮周辺にこの高木氏族が濃密に在り、水沼氏に由来する日下部氏族に拘わったとみられる。
     のちの高木氏族が「日」の神祇、日章の「日足紋」を家紋とし、同族の草野氏(くさの)が日下部(くさかべ)の名義に纏わるとされる
  • 英彦山では高木神が自身の領域を譲った相手は「天忍穂耳命」であった。記紀神話での高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)と天忍穂耳命の婚姻に由来し、英彦山は日の御子の山「日子山(ひこさん)」とされた。
  • 遠賀川流域から香春二岳や添田の岩石山、そして英彦山へ「天忍穂耳命」の神霊が連鎖して祀られ、その域には「鷹」の神祇が重なる
     高良域に痕跡の濃い物部氏族は、天忍穂耳命と高木神の女(むすめ)、萬幡豊秋津師姫命の子神、饒速日命を祖とする。物部氏は高良大社において、大祝など重要な神職をつとめ、筑後域には物部氏族に拘わる社は多い。また、遠賀川流域でも物部氏族は兵伎の氏族として濃い痕跡を残している。
     高木神の裔とされる大伴、久米氏の祖神、天忍日命と天久米命は天忍穂耳命の御子、邇邇芸命の降臨を先導する。また、神武東征においては天忍日命の裔、道臣命が神武天皇に随伴し、久米氏と共に宮廷の軍事に携さわる
  • 高良山の北には筑紫平野が広がり、その向こうには基山が高良山と対峙するように聳える。基山には「五十猛神」が祀られ、基山(きやま)の名は五十猛神の播種伝承に纏わる「木」地名とされる。
     五十猛神も「筑紫の国魂」と呼ばれる。また、白日別神として基山山下の「筑紫神社」に祀られる

    九州北部域の拠点的な甕棺墓域には必ずといっていいほどこの五十猛神が祀られている。糸島の白木神社群、早良の神奈備、飯盛山。そして、基山、西肥前の神奈備、杵島山など
  • 卑弥呼の後を継いだ壱与と考えられる倭女王が建国直後の西晋に遣使したのは、西暦二六六年
  • May 2016 編集されました
    魏志倭人伝には、「魏朝の景初3年(239年)、倭の女王は大夫難升米等を遣わし、郡に到着、京都に朝貢することを求めた。」とあり、その年の12月の記事に「倭の女王の大夫難升米(ナシメ)、次使の都市牛利(ツシグリ)を送ってきて貢献したことを、倭の女王に知らせた。」と記している。
    引き続き、「女王を親魏倭王となし、金印・紫綬を仮し、難升米を率善中郎将に、牛利は率善校尉となし、銀印・青授を仮した。」とする。
    「大夫難升米」に関しては、正始6年(245年)と正始8年(247年)にも名前が記されている。

    籠神社に残された「勘注系図」から宇那比姫命の周辺を見ると、父親は「天登米または建斗米命」であり、兄弟には「建多乎利」や「建田背命」がいて、「建田背命」の子は「建諸隅命」亦の名[由碁理(ユゴリ)]がいる。
    さらに「建諸隅命」の子に「大倭姫」亦の名「天豊姫」がいる。

    宇那比姫命の父親の「建斗米」タケトメと兄弟の「建多乎利」タケコリが気になる。
    魏志倭人伝には、伊都国の官を「爾支」と記載する。倭氏の「邇支倍」がいますが、、、。
    倭氏の系図では、珍彦(椎根津彦命)の後、志摩津見、武速持、邇支倍、と続く。邇支倍は孝安の時代3世紀中頃の人である。
  • 後漢末(157年ごろ)には5600万人を超えるまで中国の人口は回復しますが、再び食料難や社会秩序の乱れなど社会不安の高まりから、大規模な農民の反乱として歴史に残る「黄巾の乱」(184年)が起きます。それをひとつの契機として後漢は崩壊し、中国大陸に3人の英雄が君臨してしのぎを削る三国志の時代に入ります。

    このことが、また想像を絶する人口減少という悲惨な結末を招き、短期間のうちに三国の戸籍登録総数は1000万にも満たなくなりました。そしていつしか三国時代の戸籍登録数は818万人という驚くべき数まで激減したのです。晋や魏、呉など、各国政府高官らによる「10分の1になってしまうほどの全国的な人口減少」というような表現も古文書に散見されるため、戸籍登録の誤差は多分に考慮したとしても、実人口の激減は確実視されています。その後、西晋の統一下(280年)においても、人口数は戸籍上1600万までしか戻りませんでした。また609年、隋による戸籍登録では、人口数は4600万人まで回復するも、それでも600年以上前の人口数にさえも戻ることができなかったのです。

    確かに戸籍上の人口が激減した背景には、戦乱による戦死者や、戦火を逃れて戸籍を外れる私民が大勢いたことなど、さまざまな政治要因が絡んでいることでしょう。しかし、それだけで、短期間に総人口が7分の1に減少するというような極端な理由は説明できません。その背景には前述したとおり、東夷による大規模な民族移動があったに違いないのです。まず、「黄巾の乱」(184年)が起きた後の大陸における3世紀の動向に注視してみました。大陸の北部には長い年月を経て遊牧民族が拠点を持っていましたが、この動乱に乗じて武力を増大し、華北へ向かってその影響力を伸展し、大勢の民が移動する動きが生じました。それは、秦氏らを中心として民族が、列島に向けて総結集する号令がかかるときでもあり、また、実際に日本列島の人口が突如として急増したときとも重なります。

    歴史的な人口崩壊が大陸で発生し、遊牧民族が華北へ移動しはじめた直後の3世紀後半、かたや日本列島では応神天皇が詔を発し、神の都の造営を同胞に呼びかけたのです。このタイミングはもはや偶然とは思えません。
    それまで大陸の湾岸を北上し、朝鮮半島にかけてまで広範囲に民族移動を展開していた東夷、そして秦の末裔、信望者がこぞって、日本を目指した結果、列島では人口が急増。また、多くの遊牧民族が北方より華北方面へ流入し、中には列島まで渡来した遊牧民族も一部、含まれていたのではないかと想定されます。
    こうして4世紀初めから大陸は、「五胡十六国」時代と呼ばれる、中国華北を中心とした複数国家の分立と興亡が繰り返される混乱の時代に突入し、隋が国家を統一する589年までの間、長期にわたり、およそ分裂と争いが繰り返されることになります。
  • 晋書に、泰始二年11月巳卯 倭人の使者が入貢した記事がありますから、266年になります。この後、倭国のことは中国の史書には現われません。
    次に記録されるのは、同じく晋書と宋書に「倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年,」で始まるもので、良く知られる倭国王讃・珍・済・興・武が、413~478年の間に使いを送って貢物を献じたとあります。ほぼ150年間の空白があります。
    何故、中国の史書から消えてしまったのでしょう
  • 魏志倭人伝
    其(正始)八年(247)、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遺倭載斯・烏越等詣郡、說相攻擊狀
    魏志扶余
    正始(240-249)中、幽州刺史毌丘儉討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫餘
  • 3世紀なかば、幽州刺史・毋丘倹も領土的野心の持ち主だった。
     まず、公孫淵討伐では司馬懿に従った高句麗を離反させ、玄菟太守・王頎に攻撃させる。その際、夫余を脅して軍糧を提供させる。高句麗の都を陥した後、王を追撃するという名目で沃沮に侵入、略奪・殺戮を繰り返す。穢は高句麗と同族なので討伐する。韓の支配層を離間・挑発させ、怒った韓が帯方郡に殴込みをかけたことを懲して韓国を攻撃、これを滅ぼす。

    ・幽州刺史毋丘倹討句麗、遣玄菟太守王頎詣夫余、位宮遣大加郊迎、供軍糧。<夫余伝>
    ・景初二年、太尉司馬宣王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加将数千人助軍。正始三年、宮寇西安平。其五年、為幽州刺史毋丘倹所破。<高句麗伝>
    ・句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千余級。<東沃沮伝>
    ・楽浪太守劉茂・帯方太守弓遵、以領東穢属句麗、興師伐之。不耐侯等挙邑降。<穢伝>
    ・部従事呉林以楽浪本統韓国、分割辰韓八国以与楽浪。吏訳転有異同、臣智激韓忿、攻帯方郡崎離営。時太守弓遵・楽浪太守劉茂興兵伐之。遵戦死、二郡遂滅韓。<韓伝>
    ・正始中、倹以高句驪数侵叛、督諸軍歩騎万人出玄菟、従諸道討之。句驪王宮将歩騎二万人、進軍沸流水上、大戦梁口。宮連破走。倹遂束馬縣車、以登丸都、屠句驪所都、斬獲首虜以千数。<毋丘倹伝>
    ・幽州刺史毋丘倹討高句驪。夏五月、討穢・貊、皆破之。<少帝紀>

    …というように、高句麗・沃沮・穢・韓が毋丘倹によって次々と滅ぼされている。
     さて、残る東夷諸国は倭国と挹婁のみ。次は倭国かもしれない。
     そんな中、毋丘倹の忠実な部下で、高句麗を征伐したあの王頎が、帯方太守に赴任した――。
  • 後漢の人口
    140年:969万8630戸 4915万0220人 (後漢書・郡国志)
    (途中省略)
    157年:1067万7960戸 5648万6856人 (晋書・地理志)

    蜀の人口
    221年:20万戸 90万人 (晋書・地理志)
    263年:28万戸 94万人 (「三国志・蜀志・后主紀」注引「蜀記」、通典・食貨七)
    ※三国志の引用では「領戸二十八万、男女口九十四万、帯甲将士十万二千、吏四万人」とあるので、合計108万2千人と計算する人もいる。

    魏の人口
    263年:66万3423戸 443万2881人 (「後漢書・郡国志」注引「帝王世紀」、通典・食貨七)
    呉の人口
    242年:52万3千戸 240万人 (晋書・地理志、通典・食貨七)
    263年:93万2千戸 (「後漢書・郡国志」注引「帝王世紀」)
    280年:52万3千戸 256万7千人 (「三国志・呉志・孫晧伝」注引「晋陽秋」、晋書・武帝記、通典・食貨七)

    晋の人口
    280年:245万8969戸 1616万3863人 (晋書・地理志、通典・食貨七)
    282年:252万0865戸 (晋書・地理志)

    何故こんなに人口が変動するのかというと、それは把握できた戸数・人口は納税者の人口で、人頭税逃れで扶養家族の数を誤魔化したり、流民化した分の人口が不明だからです。実際の人口はこれよりも多いはずです。

    時代を140年と282年で区切ったのは、これらの年次には地域別の人口、または戸数の文献上の数字が残っているからです。学者によって戸籍外人口の見積もりは異なりますが、趙文林、謝淑君著「中国人口史」(1988年)による推定に従うと、現中国国境域(台湾を含む)内の推定人口は:

    140年:5061万人 (後漢支配地域はベトナム北部等を含む5213万人)
    157年:5813万人 (後漢支配地域はベトナム北部等を含む5966万人)
    188年:5978万人
    221年:1408万人 (魏682万人、蜀132万人、呉315万人、その他278万人)
    263年:1885万人 (魏954万人、蜀185万人、呉258万人、その他389万人)
    280年:2090万人 (西晋支配地域は1644万人、その他446万人)
    282年:2117万人 (西晋支配地域は1664万人、その他453万人)

    と、文献よりもましとはいえ、相変わらず西暦200年前後でのカタストロフィックな人口減を認めていますが、最近の研究者はこれよりも緩やかな人口変動を推定しているようです。

    さて西暦140年の戸数、人口ですが、趙文林らの推定により文献値を修正すると:

    遼東:6万4158戸 28万1714人 (「二十」が原文より脱落と推定)
    玄莵:9594戸 4万3163人 (「九」が原文より脱落と推定)
    遼東属国:2万5千戸 12万5千人 (六域からの推定)
    楽浪:6万1492戸 29万7050人 (「五万」を「九万」の誤記と判断)
    交趾:16万0665戸 84万人 (原文には記載なし、総数からの除算と按分等により推定)

    西暦140年から西暦188年の間の人口増加率は18%と推定しており、
    董卓政権成立時における後の公孫氏の支配域は90万人、士氏の支配域は100万人
    趙文林らの説に従うと、直後に人口が1/4程度に減少したとしていますが、最近の研究者はそこまでの人口減に賛同していませんし、遼東は辺境の地ですので、そこまでの人口減少は発生していないと思われます。またベトナムは人口が順調に増えたと思われます。

    一方西晋時代の282年の戸数は、
    遼東:5400戸
    玄莵:3200戸
    昌黎:900戸
    1戸6.6人としても合計6万2700人ですが、扶余・段部・慕容鮮卑等の推定人口60万人を加えて66万人

    公孫氏の最大時の支配域の推定人口は、大体50万~100万人、士氏の最大時の支配域の推定人口は、100~150万人といったところということになります。
  • 『後漢書』東夷伝には次のの記事があります。

    自女王國東度海千餘里至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王。自女王國南四千餘里至朱儒國,人長三四尺。 (中華書局版『後漢書』2822頁)
    女王國より東に海を渡り千余里で拘奴國に至る。皆倭種といえども女王に属さず。女王國より南に四千余里で朱儒國に至る。人長は三、四尺。

     『魏志』倭人伝の内容から知りうることは、狗奴國は「卑弥呼の境界」の南にあって、王の「卑弥弓呼」と重臣の「狗古智卑狗」がおり、卑彌呼とは、もとより不和であって対立したということですが、『後漢書』では、倭人伝の認識を改め、書き換えられています。

     すなわち、『魏志』倭人伝では、女王國の南に狗奴國があるとされ、その女王國の東千余里に国名が示されない國があって倭種とされます。また、魏志倭人伝の「其の」は女王國を指しますので、女王國の南に、狗奴國のほかに侏儒國もあるとされます。

     これに対して『後漢書』では、女王國の東千余里に拘奴國があると書き改められます。魏志倭人伝では国名不詳の國であったものがここでは国名が拘奴國であると明らかになっています。朱儒國はあらためて“女王國”の南であると示され『魏志』倭人伝において混乱していた拘奴國と朱儒國の位置関係が、拘奴國は東、朱儒國は南と明確に示されます。

    『魏志』倭人伝の「狗奴國」と『後漢書』の「拘奴國」は文字が似ていますが異なる文字です。違う国であるとの意見もありますが、『魏志』倭人伝の「侏儒國」が『後漢書』では「朱儒國」と表記されていることからすると、『魏志』倭人伝で女王國の南にあったとされた「狗奴國」は『後漢書』の「拘奴國」と同じ国でしょう
  • 馬韓では、「其北方近郡諸国差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚」(その北方、郡諸国近くはやや禮に通暁しているが、遠いところは、囚徒や奴婢が相聚っているに等しい)などと、三韓のうち、もっとも開け、豊かであり、永年、箕氏によって治められていた馬韓でさえこの有様である。他の二国は推して知るべしである。

    辰韓の地に鉄だけは産出したので、濊人、韓人、倭人(半島南端の倭国=狗邪韓国および列島の倭国)がこれを取りに来ていた。

    百済と新羅の文化は果たして倭国を凌駕した事があったのだろうか? 

    『隋書』倭国伝は記す「新羅 百濟皆以倭為大國 多珍物 並敬仰之 恒通使往來」(新羅や百済は皆、倭を大国としている。珍物が多く、並んでこれを敬仰し、常に通使を往来させている)。隋も唐も、「新羅と百済はともに、倭国を先端技術産物(手工業製品)が多い文化大国として敬い仰ぎみており、産物をもとめて使者を送っている」と認めていた
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