越後、五十日足彦、五十君 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

越後、五十日足彦、五十君 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

父:垂仁天皇・活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)
生母は山背大国不遅の娘の苅…

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  • 天足大明神
    備前國磐梨郡 雨垂布勢神社 あまだれふせじんじゃ -
    祭神:大已貴命 神紋:右三つ巴
    住所:岡山県赤磐市瀬戸町肩背2203

    当社の創建年月は不詳である。本国総社神名帳に雨垂布勢神社とある。
    山本氏本に従2位雨垂布勢明神として記載してある。備前国式外古社128社の1社である。古伝によると、古くは郷社領国幣105社の1つである。
    備陽国誌には、「孝謙天皇の御宇、奥州黒川郡の天足大明神を勧請す。此社の氏子は故あって伯州大山への参詣しない由伝う」とある。

    此の地 片背には他に神神社という備前国総社神名帳に記載される神社があるはずなので帰りに地元の人に道を伺うと
    雨垂布勢神社と同じ所みたいなので念をおすとそう「雨垂布勢神社はかみじんじゃと言います」とのこと????
  • 宗形神社 岡山県赤磐市是里3235  
    式内社 備前國赤坂郡 宗形神社
    社伝によると、崇神天皇の御代に勧請された神社。
    仁徳天皇が黒比賣を当社へ迎え、
    やまかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬしくもあるか
    と詠んだとも云われている。

    当社の西にある「血洗いの滝」は、
    素盞嗚尊がヤマタノオロチを退治した後、
    剣についた血を洗った滝だという。

    祭神は、宗像三女神。
    明治四十三年に以下の神々を合祀した。

    神峰神社(大己貴命)、神峰伊勢神社(大日孁命、豊宇気比賣命)、
    剣拔神社・素盞嗚神社(須佐之男命)、天満宮(菅原神)、
    熊山神社・熊野神社(伊邪那美命、速玉男命、事解男之命)、
    日吉神社(大山咋命)。


    創立年代を詳らかにすることはできないが、神 社明細書(昭和二十七年)には「當社は人皇十代崇神天皇の 御宇勧請うにして式内の舊社なり。人皇六代仁徳天皇吉備國 海部直女黒比賣を寵し、本國山方に幸行さるゝや黒比賣帝 を當社に奉迎し方物を採り、歓饗し奉る。帝欣然御製に”や まかたに、まけるあをなもきひひとゝ、ともにしつめはたぬ しくもあるか”と詠し給へり。是より以降、今に至る迄諸 人擧て山方の大宮と稱する所以なり。
    當時、帝より宗形神 社神領として神地三、四町、神戸若干を附置かる。依て今 に其地名を京免及神戸と呼ぶ。後世慶長八年池田忠繼公、 備前に封せらるゝや深く當社を崇敬し、同九年検地の節、 本村の内中田二反、高三石貳斗社領として附置かれ、明治 四年に至りて止む。加之歴代の皇室御崇敬の餘り神位従四 位上に叙せられ、後世一位に昇進贈位に預る。-『式内社調査報告』-
  • 垂仁天皇は比婆須比売命の妹である沼羽田之入毘売命を三人目の妻とした

    垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の系統

    沼帯別命 ぬたらしわけのみこと

    伊賀帯日子命 いがたらしひこのみこと 垂仁天皇と沼羽田之入毘売命の子
    ・書記では伊賀帯日子命ではなく膽香足姫命(いかたらしひめのみこと)と皇女の記載
  • 垂仁天皇は羽田之入毘売命の妹である阿邪美能伊理毘売命を四人目の妻とした

    垂仁天皇と阿邪美能伊理毘売命の系統

    伊許婆夜和気命 いこばやわけのみこと

    阿邪美都比売命 あざみつひめのみこと

    ・伊許婆夜和気命は沙本穴太部之別(さほのあなほべのわけ)の祖
    ・阿邪美都比売命は稲瀬毘古王(いなせひものみこ・伝不詳)の妻
  • 『布勢神社』富山県氷見市布施

    古文献によると、当社に関する社名は「布勢社、諏訪社、御影社」などの相違が見られる。現在、御影社は境内社として大伴家持を祀り、本社では大彦命を祀る。ともに当地へ赴任してきた開拓者としての立場。諏訪社に関しても出雲から信濃への途上に当地へやって来たものだろう。



    『布勢神社』香川県さぬき市

    創祀年代や由緒に関しては不詳。祭神の大彦命は四道将軍の一人。越中(富山)にも同じ祭神を祀る同名社が存在するが、大彦命は孝元天皇の皇子で、阿部朝臣・布勢朝臣の祖であるところから、大彦命を祀ると思われる布勢が多いようだ。



    『日本書紀』景行天皇3年条に「阿部氏木事(コゴト)の娘の高田媛は、伊予国御村別(イヨノクニミムラワケ)の先祖の武国凝別皇子を生んだ」とあり、伊予国(愛媛県)に姻戚関係をもったことで、安倍氏の開拓者が讃岐国まで進出したのかもしれない。
  • 能登の雨の宮古墳群
    眉丈山(標高188メートル)の山頂を中心に、4世紀の中頃から5世紀の初めにかけて造られた36基の古墳から成っています。
     最も高い場所にある通称「雷ヶ峰」に位置する1号墳は、墳丘の長さが64メートルの前方後方墳で、県内最大規模を誇っています。墳丘は2段に築かれており、斜面は葺石(ふきいし)に覆われています。
     2号墳は、1号墳の北東に向き合って立地している墳丘の長さが約65メートルの前方後円墳です。1号墳と同じ構造をしています。
     これら2つの古墳に埋葬されている人物は、古墳の規模や副葬品の内容などから考えて、いずれも能登全体に支配権を持つ権力者であったと推測されます。
     古墳時代のこの地域の歴史を考える上で、雨の宮古墳群は、邑知地溝帯を挟んで対峙している小田中親王塚、亀塚の両古墳と共に、欠くことのできない重要な文化財です。1982(昭和57)年10月12日、国史跡に指定されました。
    中能登町
  • 黒部銚子山古墳の位置は、「青竜三年銘鏡」のでた大田南5号墳とも近い。
    中古の郡家(こおりのみやけ)(郡役所)で、丹波の道主の命の故墟かとみられる峰山町の字丹波にも近いところからみて、黒部銚子山古墳が、丹波の道主の命の墓なのであろうか。

    神明山古墳のほうは、古い竹野郡にある竹野神社のそばにあるところからみて、ほぼ同時代の、開化天皇の妃となった竹野比売(たかのひめ)の墓であろうか。

    『日本の神々7 山陰』の、「竹野神社」の項には、およそ、つぎのように記されている。
    「(竹野神社は、)日子坐王(ひこいます)の命・建豊波豆良和気(たけとよはづらわけ)命・竹野媛命の三神を祀っている。(系図をみればわかるように、この三者ともに、崇神天皇のころの人である)。

    地元の伝承なども、あるていど考慮するならば、たとえば、つぎのようなあてはめも考えられよう。
    黒部銚子山古墳を、丹波の道主の命の墓と考える。
    地元に、丹波の道主の命の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほぼ相似形である。墳丘全長は100メートルで、大吉備津彦の命の墓と伝えられる中山茶臼山古賁(120メートル)に、規模が近い。丹波の道主の命の館跡と伝えられるところや、中古の丹波郡の郡家(こおりのみやけ)(郡役所)の近くである。
  • 伊加良志神社
    祭神は垂仁帝と丹波道主王の娘・薊瓊入媛との間に産まれたとされる五十日足彦命(イカタラシヒコ)その人で、記紀はこの人物の後裔として石田君、春日の山君、高志の池君などをあげていますが、実は京都山城の久世(現在の八幡市岩田)にも同皇子を主祭神とする石田神社があり、大山咋命と共に祀られています。そして、不思議なことに五十日足彦命には『母親は薊瓊入媛ではなく、実は山背大国不遅の娘の苅幡戸辺である(つまり天津彦根命の子孫)』という有力な伝承もあって、息長一族との接点も見え隠れするのです

    五十日足彦命の母親が丹波道主王の娘、つまり彦坐王の孫娘・薊瓊入媛ではなく、天御影命から分かれた阿多根命の子孫で山背国造の娘・苅幡戸辺かも知れないという異伝の存在は????
  • 日本書紀によれば「石田君」の祖先は垂仁帝と山背の苅幡戸辺との間に産まれた五十日足彦命(イカタラシヒコ)という皇子なのですが、古事記は苅羽田刀辨の生んだ五十日帯日子王は「春日の山君、高志の池君、春日部の君の祖」であると記して内容が一致しません。また厄介なことに古代氏族の名鑑とも言うべき「新撰姓氏録」には肝心の「石田君」という姓を持った氏族が掲載されておらず、その代わりに次のような文章が記録されています。

      讃岐公  右京皇別   大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
      酒部公  右京皇別   同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
      酒部公  和泉国皇別  讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。

    そして姓氏録は、この他にも「山公 和泉国皇別 五十日足彦の後なり」「山守 摂津国皇別 五十日足彦の後なり」とも伝えていますから、垂仁帝の皇子だと記紀の云う「イカタラシヒコ」の実体は、どうやら景行帝の皇子だとされている「神櫛別命」という人物であるらしい事が分かります。
  • May 2016 編集されました
    祖別命(おおじわけのみこと/おおぢわけ-、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
    第11代垂仁天皇の皇子である。『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。
    表記は次のように文書によって異なる。

    落別王 (おちわけ) - 『古事記』
    祖別命 (おおじわけ/おおぢわけ) - 『日本書紀』、『先代旧事本紀』「天皇本紀」
    於知別命 (おちわけ) - 『新撰姓氏録』
    意知別命 (おちわけ) - 『先代旧事本紀』「国造本紀」


    第11代垂仁天皇と、山背大国不遅(山代大国之淵)娘の苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁)との間に生まれた皇子である。 同母弟には五十日足彦命(いかたらしひこ、五十日帯日子王)、胆武別命(いたけるわけ、伊登志別王<いとしわけ>)がいる。

    『先代旧事本紀』「天皇本紀」では命を産んだ垂仁天皇の妃を丹波道主王娘の真砥野媛(まとのひめ)とし、同母兄に磐撞別命(磐衝別命:記紀では異母兄弟)があると異伝を記す。また「国造本紀」では、三世孫として武伊賀都別命(たけいがつわけのみこと)の名を伝える。

    妻・子について史書に記載はない。
    祖別命の墓に関して史書に記載はなく、宮内庁から公式に治定された墓はない。

    伝承として、愛知県豊田市久保町の児ノ口社境内には命の墓という前方後円墳があったといわれ、「衣之君落別王命陵」の石碑が建てられている。
  • 伊賀津彦神 いがつひこのかみ

    別名 武伊賀都別命:たけいがつわけのみこと、建伊賀津別命:たけいがつわけのみこと
    ……
    意知別命三世孫。成務天皇の時、伊賀国造となった。
    ーーー

    式内社 伊賀國伊賀郡 猪田神社

    御祭神 猪田神
    合祀
    依那古神 健御名方命 宇迦能御魂神 小泉太郎左衞門
    蛭子命 大日孁貴命 坂戸神 應神天皇 仁徳天皇 大物主神
    市杵嶋比賣命 大山咋命 健速須佐之男命 天兒屋根命 綾門日女命
    猿田彦命 菅原道眞 大山祇神 木花佐久夜比賣命 伊弉册命
    火之迦具土神 速玉男命 事解男命 倭姫命
    配祀
    底土命 赤土命 磐土命
    合祀
    神功皇后

    合祀 式内社 伊賀國伊賀郡 依那古神社
    合祀 式内社 伊賀國伊賀郡 坂戸神社
  • 猪田神社 (伊賀市猪田)

    創祀年代は不明。神奈備山の麓にあるらしいが、この山には五基の横穴式古墳があり、山頂付近に、山宮跡があるらしい。
    また、社殿の南に「日月石」と呼ばれる円形と三角形の磐座がある。
    当社は、式内・猪田神社の論社であるが、一説には、国史見在社・伊賀津彦神であるという説もある。(貞観六年(864)十月十五日従五位下)
    境内には「伊賀津彦大明神廟前」と刻まれた四角型石燈籠もある。
    また、中世以降では、住吉神社と称されていたらしい。

    明治四十一年、境内社九社と、山出村社熊野神社、笠部村社春日神社ほか周囲の二十一社を合祀し住吉神社を猪田神社と改めた。さらに、大字上ノ庄村社菅原神社と境内社五社、無格社三社も合祀した。

    式内社 伊賀國伊賀郡 猪田神社
    御祭神 武伊賀津別命
    相殿
    少毘古那命 上筒男命 中筒男命 底筒男命
    健速須佐之男命 天兒屋根命 健御名方命
    速玉男命 事解男命 大物主命 大山咋命
    大山祇命 金山毘古命 蛭子命 猿田彦命 應神天皇 菅原道眞公

    合祀 式内社 伊賀國伊賀郡 比々岐神社 大内社参道を歩いていると、左手の森の入口に鳥居がある。末社・真名井神社の鳥居。少し歩くと、屋根付きの真名井がある。
    この真名井を、西行法師が詠んだといわれる句がこれ。
    久かたの天の長井田くむ賎が袖のつるべの縄のみじかさ 西行法師

    猪田神社

    三重県上野市猪田五一三九番地近鉄依那古駅下車西一・二粁
    近鉄依那古駅西一・二キロ神奈備型(註一)の丘の東北麓に西面して鎮座している。
    創立年代は分らないが、史実・環境・雰囲気から非常に古い年代であったように思われる。「和名抄」(十世紀前半成立)の伊賀郡猪田郷の名を承けた猪田村の産土社で、延喜式内社について、丘陵東南の下郡猪田神社と論社になっている(註二)。当初は猪田村の宮と言われていたようであるが(註三)、天正十八年(一五九〇)の棟札には住吉大明神と書かれているから、少なくとも中世以降から住吉神社と言われたものと思われる。明治二十二年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村・が合併して猪田村となり、同四十一年村内各神社を合祀後、猪田神社と改称した。
    伊賀国造に任ぜられた垂仁天皇の皇子竟知別命の曾孫武伊賀津別命(旧事記・国造本紀)を主祭神に(註四)、三筒男命・少毘古名命・健速須佐之男命・速玉男命・事解男命・健御名方命・天児屋根命・金山毘古命・大物主命・大山咋命・蛭子命・猿田彦命・大山祇命・応仁天皇・菅原道真公をお祀りしている(註五)。
    神奈備丘頂上附近には榊の古木が多く、山宮の跡と伝えられ、西南の谷にある夫婦塚池遺跡は十一世紀の黒色土器などを出しているが、祭祀遺物かと思われている(三重県の地名)。社殿西側には磐座が、背後には猪田神社古墳、前方には姫塚古墳、丘陵東麓には天真名井、北方には山神祠・四角形石灯篭及び行者堂がある。宮坊善福寺(註六)は現在社宅になっている。参道東側には津島神社が、西方の飛地境内には金比羅神社があった。
    又旧大内郷の菅原神社(天満天神)は中世以降上之庄村と下之庄村で三年毎にご遷座されていたが、現在も猪田神社と菅原大邊神社との間でご遷座が引き継がれている

  • 大幡神社
    新潟県佐渡市大倉小平12
    式内社 佐渡國賀茂郡 大幡神社

    御祭神 大股主命 
    (大幡主命 別名 大若子命、または 大俣王)

    日本海側を佐渡島の北端目指して進む。大倉の集落の裏にある。分かりにくい。地元の老婆に道を聞き、狭い路地に入り、民家の横を抜けると赤い橋があり、その先に見える。

    境内は狭い。鳥居の注連縄、拝殿の額は新しく、近隣の崇敬を感じる。境内から日本海が見渡せる。

    貞觀三年(861)の創祀。一説には、延喜元年 (901)の創祀ともいわれるが、『三代実録』に、元慶七年(883)二月二日、従五位下を叙されたとある。

    式内社・大幡神社に比定されている古社。佐渡北部二十四ケ村の総鎮守であったという。

    祭神の大股主命は、開化天皇の第三皇子・彦坐命の長子・大俣王。

    あるいは、天御中主尊の後裔・彦久良伊命の御子・大若子命。大若子命は、垂仁天皇の頃、北狄を平らげる功により大幡主命と呼ばれるようになった。その大股主命が、佐渡の地で戦死したため、祀られたという。

    もとは50mほど低地にあったという伝承があるらしい。あるいは、佐渡の中央部にある加茂湖周辺から遷座したという伝承もある。

    【由緒】『佐渡神社誌』には由緒として『元緑寺社帳』 に貞觀三年(八六一)の創設とあり、一説には、延喜元年 (九○一)の創祀なりとも云へり。式内九社の第八にして、 往時は佐渡北部二十四ケ村の總鎭守たりし也。祭神に就て は異説少なからず。『寶暦寺社帳』には大股主命とあり。 こは開化天皇の第三皇子比古座王、即ち後の四道将軍の内 なる丹波道主命の長子なり。狹穗彦の變に方り、其家長た るの責を負ひ、豫て叔父大彦命に従ひ此地に至りし縁由も て、再ぴ佐渡に渡り朝廷に對し謹愼の意を表し、地方開發 に努めたりと云ふ。又の説に、大股主命は大幡主命にて、 大若子命とも稱し、天御中主尊の裔彦久良爲命の子なり。 垂仁の朝北狄を平げたる功に依、大幡主命と改稱せられし と云ふ。明細帳の大股主命とあるは後考を要す(大股主の股 は服の誤寫ならん)とする。今村人の語るところでは、「昔 祭神がこの村へきて賊を退治した。その場所は村はずれの ワセリという場所で、その時矢を射たところがウツボガヒ ラ、隣村のヤガラ(失柄)はその時の矢がらがとんだとこ ろ」と説明する。
    神階については三代實録元慶七年(八八三)二月二日己 亥條に「授二佐渡國正六位上大幡神従五位下一」とある。明 治三十九年懸肚に列した。
    尚大幡社は吉井の青龍寺村(現在の兩津市旭〉から移轉し たといふ傅承が國仲地方にある。
    -『式内社調査報告』-

    祭神 佐渡志に大幡主命を祀るにやと疑ひたり、明細帳に大股主命を祭るとあるは何に拠りたるか疑はしければ従 ひがたし。志に云へる説は豊受宮祢宣転補次第に大若子命一名大幡主命云々、彦久良為命第一子也。越国荒振凶賊阿 彦在……幡主罷り行き取平テ……天皇歓給テ大幡主名を加給キとある大幡主命の名と社号と似たる上に越国に下りし こともあればかくよれるなるべし。されど大幡神必しも大幡主命と定めがたくなむ
    神位 陽成天皇元慶七年二月二日授佐渡国正六位上大幡神従五位下
    祭日 九月十一日 社格 県社
    所在 大倉村(佐渡郡外海府村大字大倉)
    -『式内社の研究』-
  • 大俣王 おおまたのみこ

    開化天皇の皇子・彦坐王の子。 母は山代の荏名津比売(苅幡戸弁)。 曙立王(伊勢の品遅部君・伊勢の佐那造の祖)、 菟上王(比売陀君の祖)の父。

    第三十代・敏達天皇の皇子にも同名の大俣王がいる。
    寶暦寺社帳』には大股主命とあり。 こは開化天皇の第三皇子比古座王、即ち後の四道将軍の内 なる丹波道主命の長子なり。狹穗彦の變に方り、其家長た るの責を負ひ、豫て叔父大彦命に従ひ此地に至りし縁由も て、再ぴ佐渡に渡り朝廷に對し謹愼の意を表し、地方開發 に努めたりと云ふ。又の説に、大股主命は大幡主命にて、 大若子命とも稱し、天御中主尊の裔彦久良爲命の子なり。 垂仁の朝北狄を平げたる功に依、大幡主命と改稱せられし と云ふ。明細帳の大股主命とあるは後考を要す(大股主の股 は服の誤寫ならん)とする。今村人の語るところでは、「昔 祭神がこの村へきて賊を退治した。その場所は村はずれの ワセリという場所で、その時矢を射たところがウツボガヒ ラ、隣村のヤガラ(失柄)はその時の矢がらがとんだとこ ろ」と説明する。
    神階については三代實録元慶七年(八八三)二月二日己 亥條に「授二佐渡國正六位上大幡神従五位下一」とある。明 治三十九年懸肚に列した。
    尚大幡社は吉井の青龍寺村(現在の兩津市旭〉から移轉し たといふ傅承が國仲地方にある。
    -『式内社調査報告』-

    祭神 佐渡志に大幡主命を祀るにやと疑ひたり、明細帳に大股主命を祭るとあるは何に拠りたるか疑はしければ従 ひがたし。志に云へる説は豊受宮祢宣転補次第に大若子命一名大幡主命云々、彦久良為命第一子也。越国荒振凶賊阿 彦在……幡主罷り行き取平テ……天皇歓給テ大幡主名を加給キとある大幡主命の名と社号と似たる上に越国に下りし こともあればかくよれるなるべし。されど大幡神必しも大幡主命と定めがたくなむ
    神位 陽成天皇元慶七年二月二日授佐渡国正六位上大幡神従五位下
    祭日 九月十一日 社格 県社
    所在 大倉村(佐渡郡外海府村大字大倉)
    『式内社の研究』
  • 菟上王は、彦坐王の子である大俣王の子で曙立王の弟。比売陀君の祖。
    物言わぬ品牟都和気命に付き添って出雲大神を拝し、神宮造築を奉行した。

    兎上命は、『常陸国風土記』によると、薩都里の土雲を討ち「よく殺さしめて福(さち)なるかも」といい、佐都(薩都)の地名となった。
  • June 2016 編集されました
    五十日足彦命(春日の山君、高志の池君、春日部君の祖=古事記)
           (小石田君の始祖=日本書紀)
    山守――――垂仁天皇皇子、五十日足彦命の後――――――摂津国皇別
    山公―――垂仁天皇皇子、五十日足彦命の後――――――和泉国皇別

    讃岐公―――大足彦忍代別天皇皇子、五十香足彦命の後――右京皇別下

    讃岐公―――大足彦忍代別天皇皇子、五十香足彦命の後――右京皇別下

    稲背入彦命(播磨別の始祖=日本書紀)
    佐伯直―――――景行天皇皇子、稲背入彦命の後――――右京皇別下

    大山守王
    日置朝臣――――応神天皇皇子、大山守王の後―――――右京皇別下
    榛原公―――――息長真人同祖、大山守命の後―――――摂津国皇別
    蓁原――――――誉田天皇皇子、大山守命の後―――――河内国皇別
  • 「国造本紀」によれば、江沼国造は「柴垣朝御世、蘇我臣同祖、武内宿四世孫志波勝足尼定賜国造」となっており、加賀については加我国造と加宜国造の二項があり、加我国造は「泊瀬朝倉朝御代、三尾君祖石撞別命四世孫大兄彦君定賜国造」、加宜国造は「難波高津朝御世、能登国造同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっている。ここで能登国造同祖となっているが、能登国造は「志賀高穴穂朝御世、活目帝皇子大入来命孫彦狭嶋命定賜国造」とあり、大入来命は、『記』に能登臣祖として出てくる大入杵命と同一人物と思われる。明らかに加宜国造の祖とは違っている。加宜国造と同祖なのは、高志深江国造で、「瑞籬朝御世、道君同祖、素都乃奈美留命定賜国造」となっていて、明らかに同一人物を祖先としており、かつこれによって加宜国造が道君であることもうかがわれる。ただし素都乃奈美留命については不明であり、加宜国造は仁徳(難波高津)朝、高志深江国造は崇神(瑞籬)朝の成立となっていて、この伝承の不確実性を示している。
  • 京丹後市の五十河村と五十日
    「延利」周辺の延利遺跡からは、弥生時代前期から人々が生活していた痕跡が確認されている。「明田」には弥生時代の岩立橋遺跡と数基の古墳がある。「新宮」には須恵器を焼いていた飛鳥時代の新宮窯跡がある。古墳時代の遺跡としては笠町古墳群があり、少なくとも南北朝時代から岩滝に抜ける交通の要所であったことが明らかになっている。『丹哥府志』によれば、古くは「五十日」と書いたとされる。天保の大飢饉では明田村、久住村、延利、五十河を合わせて16人の餓死者を出した。

    小野小町伝承
    曹洞宗小野山妙性寺は小野小町の開基と伝えられる。『妙性寺縁起』によると、火事に悩んでいた村人の相談を受けた小野小町が、「五十日」という地名を「五十河」に変えれば火事が治まると教えたのが、五十河という地名の由来とされている。五十河は小野家の所領であったとされ、晩年の小町は五十河に足を運んでその生涯を閉じたという伝承があり、「五十河」には小野小町のものとされる墓がある小町公園がある
  • 新潟三条市は金物、刃物の産業で全国に知られた地方都市ですが、その中心を流れる河川を五十嵐川と云い、同地には伊加良志神社もあります。祭神は垂仁帝と丹波道主王の娘・薊瓊入媛との間に産まれたとされる五十日足彦命(イカタラシヒコ)その人で、記紀はこの人物の後裔として石田君、春日の山君、高志の池君などをあげていますが、実は京都山城の久世(現在の八幡市岩田)にも同皇子を主祭神とする石田神社があり、大山咋命と共に祀られています。そして、不思議なことに五十日足彦命には『母親は薊瓊入媛ではなく、実は山背大国不遅の娘の苅幡戸辺である(つまり天津彦根命の子孫)』という有力な伝承もあって、息長一族との接点も見え隠れするのです。それはさておいて、五十嵐が「イカ+アラシ」の結びついた言葉であることだけは確かですから、やはり「五十」には「イカ」の音が原点に存在したと考えたいのですが如何でしょう?(天明年間にまとめられ、文化七年[1810]に小松国康が校訂した『丹後旧事記』は五十日足彦尊を「イカガタラシヒコ」と訓み、垂仁帝の娘・胆香足姫命(イカガタラシヒメ)の『イカガ』は、京丹後市五十河そのものの意だとする)
  • 09/09編集されました
    天明年間にまとめられ、文化七年[1810]に小松国康が校訂した『丹後旧事記』は五十日足彦尊を「イカガタラシヒコ」と訓み、垂仁帝の娘・胆香足姫命(イカガタラシヒメ)の『イカガ』は、京丹後市五十河そのものの意だとする

    秀真伝

    胆香足姫命。 
    垂仁天皇(イクメイリヒコ) と典侍・ヌハタニイリ姫の第二子。


    ミマキイリヒコ─┐
      (崇神天皇) ├────イクメイリヒコ(垂仁天皇)
    ミマキ姫────┘       ┃
                    ┃
    ヒコヰマス────────サホ姫[内宮1] ─────── (1)ホンツワケ
                    ┃
    ツヅキ県主タルネ───┬─カバヰツキ姫[内宮2] ──── (2)ヤマト姫
               │    ┃
               └─カクヤ姫[内侍]       ┌ (3)ニシキイリヒコ
                    ┃          ├ (4)ヤマトヲシロワケ(景行天皇)
    タニハチヌシ─────┬─ヒハス姫[内宮3] ─────┼ (5)オオナカ姫
               │    ┃          └ (6)ワカギニ
               │    ┃          
               ├─ヌハタニイリ姫[典侍]───┬ (7)ヌデシワケ
               │    ┃         └ (8)イカタラシ姫
    ├─マトノ姫[内侍]
               │    ┃          ┌ (9)イケハヤワケ
               └─アサミニイリ姫[内侍]───┴(10)アサヅ姫
                    ┃
    オホクニサラズ──────カマハダトベ[内宮4] ────(11)イワツクワケ
                    ┃
    ヤマシロフチ───────カリハタトベ[??]─────┬(12)ミヲヤワケ
                              ├(13)ヰイソタリヒコ
                              └(14)ヰタケワケ
      

    『典侍ヌハタ 生むヌデシワケ 次に生む イカタラシ姫』36文
  • 09/09編集されました
    五十河(いかが)
    京都府京丹後市の大字。かつての五十河村にあたる。丹後半島の中央部、旧大宮町の最東部に位置し、「五十河」「久住」「新宮」「延利」「明田」の5集落が含まれる。丹後半島屈指の多雪地域であり、約400mの低標高から広がる自然ブナ林が特徴である。小野小町ゆかりの里として知られている

    『丹哥府志』によれば、古くは「五十日」と書いたとされる

    丹後半島のほぼ中央部分を丹後町海岸へと流れる竹野川(延長27,594m) の源流は五十河の内山山系になります。

    小野小町伝承
    曹洞宗小野山妙性寺は小野小町の開基と伝えられる。『妙性寺縁起』によると、火事に悩んでいた村人の相談を受けた小野小町が、「五十日」という地名を「五十河」に変えれば火事が治まると教えたのが、五十河という地名の由来とされている。

    五十河は小野家の所領であったとされ、晩年の小町は五十河に足を運んでその生涯を閉じたという伝承があり 。「五十河」には小野小町のものとされる墓がある小町公園がある

    間人は京都府京丹後市丹後町にある漁港である。 間人(たいざ)という地名は難読地名のひとつに数えられ、京都府民でもこの地名が読めない人がいる。京都府下では有数の漁港として知られ、冬場に水揚げされるズワイガニ は、「間人ガニ」として有名である。

    6世紀末、聖徳太子の母で、用明天皇の后の穴穂部間人皇后が、蘇我、物部氏間の戦乱からこの地に逃れ住み、乱がおさまった後、都へ帰る時に里人へ感謝の念を込め自らの名「間人」を村名に贈った。里人は皇后の名をそのまま地名にするのはおそれ多いとして、皇后の御退座にちなみ、「間人」と書いて「たいざ」と読み伝えたといわれている。彼女の滞在を記念したこの像は、受けた恩を忘れぬように、そして里人がいつまでも優しい心をなくさないようにと願い、間人の海を見守るように優しくたたずんでいる。
  • もうと まうと 【間▽ 人▽】
    〔「もうど」とも〕
    中世から近世にかけて,村落の正式な構成員とは認められなかった者の称。多くは新参の住民であった。亡土。
  • 万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629~641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。

    中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」とという立場になったのでした。

    中皇命が間人皇女だとして、 遊猟の時の皇女は十歳そこそこでしたから、天皇の遊猟に歌を献上することは難しかったでしょう。だから、代わって皇女の養育を担当する役だった間人氏が歌を詠んだというのです。

    それにしても、舒明天皇の遊猟の時になぜ中皇命(間人皇女)がついて行ったのでしょう。
  • 間人皇后は、穴穂部間人皇后ではなく孝徳帝の皇后の間人(はしひと)皇后だったのではないかと。それというのも、穴穂部間人皇后は、用明天皇崩御後に義理の息子の田目皇子(用明天皇の皇子)の妃となりました。なぜ、義理の息子に? 

    それは、穴穂部間人皇后が望んだことではなく、皇族の決まりのようなものだったのではないでしょうか。後宮の女性は自由に相手を選ぶことができずに、同じ皇統の男性のもとに置かれたということです。

    同じことが孝徳帝の崩御後もあったのではないかと考えたのです。つまり、間人皇后は義理の息子の有間皇子の後宮に移された、または、移る決まりになっていた、と。

    そうすると、中皇命が有間皇子を追って紀伊温泉に往った理由がはっきりしますし、「我が背子」と呼んだわけも分かります。中皇命は夫となるべき皇太子を心配して、牟婁の湯に護送された有間皇子を追って紀伊温泉に往ったことなります。



    万葉集を繰り返し詠んでいると、巻一3の歌の題「天皇、遊猟したまう時…」の中皇命が同行した天皇が舒明天皇だったとは思えないのです。

    「中皇命」とありますから時期は孝徳天皇崩御後になり、その時「遊猟したまう」天皇は誰でしょう。この天皇は男性ですから、斉明天皇ではありません。

    その天皇は、難波長柄豊崎宮御宇天皇とよばれたのではありませんか。難波長柄豊崎宮天皇といえば孝徳天皇のことですが、有間皇子も同じ宮にすんだのであれば、同じ難波天皇と呼ばれたでしょう。

    不思議なことに、万葉集には孝徳天皇代の歌は一つもありません。
    https://blog.goo.ne.jp/codaisinonazo/e/b0c3fb8a36750539816858f3a08a7781
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