近江、沙沙貴神社、沙沙城山君 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

May 2015 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

近江、沙沙貴神社、沙沙城山君 « 古代史&フォーラム by tokyoblog

近江の大族
近江の地誌『近江輿地志略』には、「佐々木もと鷦鷯の御名によれり。亦沙々貴、娑々岐にも作る。佐々木は仮名書なれば、篠笥と相通ず。きとけとは、かきくけ也。五音の相通なれば佐々木を篠笥といふにや」と記される。
往古、出雲も勢力圏とした大族佐々木氏の起源の地は、周知のように近江国蒲生郡篠笥郷(現滋賀県蒲生郡安土町辺…

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  • 笹部平野神社
    川西市の北部、笹部地区の北端の山麓字上竹谷に鎮座されております。
    この笹部には、武内宿弥(たけのうちすくね)の子孫の雀部朝臣(ささべのあそん)がここを拠点として原野を開墾したという説があるそうですが、
    この開拓者、雀部(ささべ)氏の名が地名の起こりとされています。
    古くは、篠部とも書かれていました。

  • 孝元天皇は孝霊天皇と細姫の子となっているが、雀部家に伝わる伝承では、神八井耳命の子孫である武恵賀前命の御子が第八代の孝元天 皇だという。原田氏は実際にこの子孫に面接して聞き出している。雀部家の記録は、持統天皇が記紀を編纂するに当たって没収されたそうである。 他に春日臣、安部氏、穂積氏等十六家の系図が没収の憂き目にあっているらしい
  • 佐々木氏の家紋は、狭狭貴神社の神紋でもある目結紋で、佐々木氏といえば目結紋といわれるほどに世に知られたものである。 目結はメユイと読み、古代の染め方の一種である纐纈染めのこと鹿子染ともよばれる。 源平盛衰記には佐々木高綱が三つ目結いの直垂を着ていたとあるのは文様として織り出されたもので、 佐々木氏の本来の家紋は「三つ星」であったようだ。 佐々木氏系の武家の家紋を見ると、加治盛綱の流れは「三つ星」、隠岐義清の流れは「花輪違い」、四つ目結は嫡流である定綱の流れが用いた。『近江與地誌略』には敦実親王にまつわる伝説から四つ目結紋を用いるようになったとあるが、もとより信じることはできない。また、佐々木氏の目結紋は本来「倚懸(ヨリカカリ)目結」といい隅立のものであった。のちに六角氏が隅立の目結紋、京極氏が平目結紋と使い分けたのは六角氏が嫡流になったからに他ならない
  • 狭狭城山君

    下記七族の祖・大彦命の子に、唯一、君姓がある

    大彦命の子孫 
    1阿倍臣 武淳河別・・・171年、一大率着任。のち埼玉県北武蔵を封國。
    意宇比跪其児多加利足尼(おおひきみこ・さわかるすくね)[稲荷山鉄剣]
    意宇比跪:大率(おおひき)、其児:箕児(みこ)、多:さわ:沢さんの義。
    狩野という船・・・多加利は、さわかり。
    軽野という船・・・多加利は、さわかる。(利は音転してル音)
    加利:狩野、または軽野という船の名前です。また、孝元の軽境原宮の軽。

    2膳臣 彦稲腰別・・・171年、卑弥呼の膳夫。のち若狭國を封國。
     稲荷山鉄剣の二刀:錬り別作らしむ。武淳河別と一対の刀。
    3阿閉臣・・・伊賀彦。
    4狭狭城山君・・・167年頃、棄て児(赤子)を大彦が拾う。後述。
    5筑紫国造・・・
    350年頃、國造本記・成務朝、筑紫国造:阿閉臣同祖大彦5世の日道命。
    400年頃、仁徳紀の松津國造は、佐賀駅南の小津で、物部金連。
      七海注記:日道命は、狭狭城山君の5世と看做します。
    6越国造・・・頚城國造、深江國造も大彦の系統。
    7伊賀臣・・・伊賀彦宿禰。


    大彦命は、伊賀國開拓の祖ですが、伊賀で捨て子を拾った。

    文殊院の大彦は、捨て子の貴人であろう。
    これが、狭狭城山君始祖(君姓)とみる。
    狭狭城山君は、645年の安倍倉橋麻呂(名代)の先祖でしょう。
    当時の人・倉橋麻呂は、崇峻天皇(588~592)の倉橋宮に因む名代を引き継いだのであろう。
    なぜならば、崇峻の子・蜂子皇子は、出羽の羽黒山へゆき湯殿神社を創建した。仏教でいう出家のような者となり奈良を出て居ないからです。

    伊賀臣・阿閉臣の祖:伊賀彦宿禰は大彦命の曾孫(ひまご)ですが、
    文殊院の記述は、
    大彦命:狗彦の意味でしょう。狗:大の義。
    一人は伊賀臣宿禰ですが、もうひとりの伊賀彦は、神功の従者で、300年頃に九州へ行っています。
    伊賀彦の子が、五代目阿閉臣日道命となるのでしょう。以下、系統を整理します。

    初代 狭狭城山君・・・捨て子[赤子]
    ―2大稲奥命
    ―3彦家主田心命
    ―4伊賀彦宿禰-5稚山守臣―6へ
    (-4伊賀彦:神功の祝となる宇田の人)
    ―4屋主忍男武雄心命 ここまで300-167=133、÷4=33年
      紀の山下影姫を娶り、武内宿禰が生まれる。隅田八幡鏡。
    ―5武内宿禰・・・300年頃登場、景行紀の蝦夷視察、仲哀の大臣。
    ―5日道命(筑紫国造:阿閉臣同祖の大彦5世:狗彦5世の義)
    ―6近江山君稚守山[仁徳40年]

    伊賀市の一宮・敢国神社の祭神は、孝元皇子大彦命です。少彦名命と金山比咩も祭られています。

    では、捨て子は、誰の子なのか。
    まず、神功皇后は、洞海で従者伊賀彦に祀らせた。これは、直接には伊賀彦を指していますが、伊賀臣伊賀彦宿禰ではないと考えます。
    神功は狭狭城山君を知っているのではないか。
  • 福岡市箱崎神社は、元筑穂町大分宮にあり、神功は、阿閉臣伊賀彦と分れて、大倭へ行く。阿閉臣は、筑紫に残りました。

    埼玉稲荷山鉄剣による一大率の系譜
    1武沼名川別・・・大彦命と沼名川姫の子。[以下女の家の姓がつく]
    2豊韓別・・・・・・・豊国の辛島氏の後裔の娘の子。
    3高橋別・・・・・・・奈良県桜井の高橋臣後裔の娘の子。
    4多沙岐別・・・・・狭狭城山君の後裔の娘の子。
    5果日・・・・・・・?
    6風早・・・・・・・?
    7猪将別・・・・・・卑弥呼の猪に因む名代にした。531年没。
    8乎別・・・・・・・・埼玉県北武蔵の封國主。

    5、6代の果日、風早に別がつかない。なぜか。

    5果日・・・日道(ひじ)命の後裔。肱、肘・・・大洲市肱川に因む。少彦名神社。
    果日は、伊賀臣伊賀彦宿禰と異系統で、阿閉臣の後裔でしょう。

    6風早・・・四国愛媛県の風早國に因む
  • 舟津神社』福井県鯖江市舟津町
     祭神は大彦命、崇神天皇の十年(前87年)、勅を奉じて、北陸道に下向し給い百姓を鎮撫して功あり。成務天皇四年(134年)、命の五世孫市入命に詔して、高志舟津郷に勅祭したまい、土地の郷名により社郷を船津神社と称す。
    相殿の「大山御板(オオヤマミイタ)神社」の祭神、猿田彦大神は大彦命進軍の節に神勅あり、大山の峰に楯を三方に建て、社形としてここに猿田彦大神を祭り、副将軍忍男彦を神主に定む。社司橋本家の祖先、すなわちこれなり。

    舟津神社は式内社として北陸最古の歴史を持つ古社だが、鯖江市の観光紹介では「崇神天皇の頃、北陸平定のために遣わされた大彦命を祀り、その折、賊に向って放った矢が「さばの尾」に似ていたことから鯖矢、そこから鯖江の地名が生まれたといわれています」と記している。
    『日本書紀』雄略紀に「高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、膳臣斑鳩(カシワデノオミイカルガ)、吉備臣小梨(ヲナシ)、難波吉士(キシ)赤目子を勧めて、行きて新羅を救はしむ」とあるが、膳臣斑鳩の墓と想定されるのが福井県の5世紀末の前方後円墳「西塚古墳」である。
    副葬品は、位の高さを象徴する中国製の鏡、武将であることを示す甲冑(カッチュウ)、馬具、そして朝鮮半島製の金の耳飾り。墳丘には吉備(岡山)で作られた埴輪(ハニワ)が出土しており、副葬品から将軍として半島と関係を持ったこと、埴輪から吉備氏族と僚友関係があったことを示している。下記「関連遺跡等位置図」を参照。

  • 孝元こうげん天皇てんのう 大日本根子おおやまとねこ彦国牽ひこくにくるの天皇すめらみこと  七年春二月二日の条に 「…后は二男一女を生まれた。第一を大彦おおひこの命みことという。… 兄の大彦命は阿倍あべ臣のおみ、膳かしわでの臣おみ、阿閉あへ臣おみ、狭狭ささ城きの山やまの臣おみ、筑紫国造、越国造、伊賀臣、等すべて七族の先祖である。…」とされています。


    滋賀県伊香郡高月町(平成22年1月長浜市に合併)大字東阿閉あるいは西阿閉と、表記される地域が(凡そ120戸)ありますが、ここに「阿閉」と書く「姓せい」を持つ人達(20戸位)が住んでいます。
  • 阿閉氏について「新撰姓氏録」(弘仁6年・815年)における記述

     第一帙
    右第一巻 左京皇別上 阿閉臣 阿倍朝臣同祖。
    右第二巻 右京皇別上 阿閉臣 大彦命彦背立大稲輿命後也。(背は別書では、皆・自ともあります)
    右第二巻 右京皇別上 阿閉間人臣 同氏。
    右第五巻 山城國皇別 阿閉臣 阿倍朝臣同祖。大彦命之後也 。
    右第八巻 河内國皇別 阿閇朝臣阿閇朝臣同祖。孝元天皇皇子大彦命之後也。
    右第八巻 河内國皇別 阿閇臣 阿閇朝臣同祖。大彦命彦瀬立大稲起命之後也。
    右第一巻 左京皇別上 阿閉臣 阿倍朝臣同祖。
    等の記述があります。
    なお阿倍朝臣についても、第一巻 左京皇別上に孝元天皇皇子大彦命之後也。ともあります。
  • 「阿閉の氏名は、後の伊賀国阿拝(阿閇)郡(三重県阿山郡西部・上野市一帯)の地名にもとづく。阿閉の地名の初見は『日本書紀』天武天皇元年九月戊戌条の「宿=阿閉‒」である。阿閉は阿閇・敢にも作る」“新撰姓氏録の研究 考證篇 第一 佐伯 有清 吉川弘文館”とあります。つまり上記地名発生の契機の 3、と捉えられています
  • 大彦命は「大和宇陀郡から伊賀の名張に出て、それから阿拝郡を經て此國に入り、甲賀郡、蒲生郡などを過ぎて北陸に出られた。」“日本國誌資料叢書 第三巻 近江國 太田亮 臨川書店 ”とあります。

    日本書紀には「ついに宇陀うだの下県しもつこおりについた。よってそのつかれたところを名づけて宇陀の穿邑うかちのむらという。・・・秋八月二日、兄猾えうかしと弟猾おとうかしを呼ばれた。この二人の人は宇陀うだの県の人々のかしらである。・・・」の記述があります。
  • 伊賀(隠市守宮・穴穂宮・敢都美恵宮)
    建田背命の孫である倭得玉彦命は伊我臣祖 大伊賀彦の女を妻としてい る(天孫本紀)。尚、伊賀は四道将軍である大彦命(垂仁の祖父)が北陸道平定後に移 り開拓を行った、倭王権の支配力の強い地でもある。

    近江(坂田宮) 倭得玉彦命は淡海國からも妻(谷上刀婢)を迎えている(天孫本紀)。叉、卑彌呼の系 譜を引く彦坐王は、息長水依比売(天之御影神(野洲郡 御上神社の祭神)の女)を妃 に迎え、その子 水穂之真若王は近淡海安直の祖。
  • 膳臣は、『新撰姓氏録』左京皇別、高橋朝臣の条に、「阿部朝臣と同祖。景行天皇(中略)姓(かばね)を膳臣と賜(たまわ)ふ。(下略)」とあり、

    阿閉臣は、『新撰姓氏録』左京皇別、阿閉臣の条に、「阿部朝臣と同祖」とある。

    狭狭城山君は、『新撰姓氏録』左京皇別、佐々貴山(ささきやまの)公(きみ)の氏族に、「阿部朝臣と同祖」とある。

    越国造は、『先代旧事本紀』国造本紀、高志(こし)国造の条に、景行時代に「阿閉臣の祖、屋主田心(やぬしたこりの)命(みこと)の三世孫」が国造に任じられたとある。

    伊賀臣は、『新撰姓氏録』右京皇別、伊賀臣の条に、「人屋主田心命の後」、道公の条に、伊賀臣と「同氏」で、「大彦命の孫、彦屋主田心命の後」とある。


    筑紫国造=筑紫君・越(高志)国造と、越国造と同祖の伊賀臣は応神(昆支・武)大王時代の人物と考えられる
  • 敢國神社 伊賀国一の宮

    阿拝郡に居住した、阿閉氏が祀ったと考えられ、
    祭神は、その祖神・大彦命。
    孝元天皇の皇子・大彦命は、
    阿部臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖。
    阿閉臣は、大彦命の子・大稲輿命の子孫。
    当社の北1Kmには、大彦命の墓と言われる御墓山古墳がある。

    当社は南宮山の麓に位置しているが、
    南宮山は、円融天皇貞元二年(977)、
    美濃国一宮・南宮大社から、金山媛命を勧請したもの。
    小冨士嶽と呼ばれる南宮山には、それ以前から磐座信仰があったと思われ、
    当社の南400mには、大石明神と呼ばれる黒岩があった。

    また、南宮山は、国見山とも呼ばれており、
    織田信長の伊賀侵攻の折には、信長が南宮山に登り
    国中の様子を観察したという。

    また、『梁塵秘抄』には、当社を
    「をさなきちごの宮」と記されており、
    少彦名命祭神説もある。

    さらに、当社は、一宮諏方社と記した記録もある。
    当社のある伊賀国と山を隔てて甲賀があり、
    甲賀の地頭であった、甲賀三郎が諏訪明神になったという話は有名。
    当社がこの地方の諏訪信仰の中心であったと考えられる。
    諏訪明神を伊勢津彦神とする説もあり、
    当地と諏訪との関係が興味深い。
    そういえば、諏訪社も諏訪南宮と呼ばれる場合がある。

    また伊勢国風土記で、伊勢津彦神が、神武東遷にともなって、
    天日別命に国を譲れと迫られた時、初めに「不敢聞命」と命令を聞かず、
    最後に「吾敢不居」と答えて、土地を去り国を譲るが、
    この「敢」て国譲りした説話と当社社号は関係あるのだろうか。

    境内右手には、桃太郎岩がある
    南宮山山頂の浅間社から遷された岩で、
    安産にご利益があるらしい。

    本殿の左右には、六所社と九所社。

    境内社の祭神は、以下の通り。
    大石社 不詳一座・須佐之男命・金山比古命・大日孁貴命・大山祇命
    神明社 天照大御神
    子授け神 祭神不詳
    若宮八幡宮 仁徳天皇
    楠社 楠正成・藤堂元甫
    結社 高皇産霊尊・手間天神
    市杵島姫社 市杵島姫命
    六所社 伊弉諾尊・伊弉册尊・日神・月神・蛭児・素盞嗚尊
    九所社 祭神不詳
    南宮山山上 境外社・浅間社 木華開耶姫命
  • 周玖那彌。少名御神。
    イノクチの山陰を治める守。 
    モモヒナキ・モモヒナミに初めて酒を献上し、これによりササナミの守名を賜る。
      

    ★酒壽(サカホガイ)祝詞の中に周玖那彌伽未(スクナミカミ) として出てくる。
    ★古事記では少名御神(スクナミカミ) とある。
    ★『書記 巻九 神功皇后』「此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒の司 常世に坐す いはたたす 少御神の豊寿き 寿き廻ほし 神寿し 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ」
    ★スクナミをスクナヒコナと勘違いして、スクナヒコナが酒の神だという説もある。
  • ホツマは酒のことを、「さけ」「ささ」「ささけ」「みき」などと言い表し、
    その起源について次のように伝えている。

    クニトコタチの時代を「トコヨ」と言うが、その末期に「スクナミ (少名御神)」 という国守が、琵琶湖南岸の「ヰノクチ (井口・水口)」という地域を治めていた。
    スクナミは、すずめが竹株に籾を入れるのにヒントを得て、はじめて酒の製造に成功する。

    スクナミは造った酒を、御酒(みき) と称して都にいる君(きみ) にささげる。
    都は越国 (越前国) の「ヒナルノ岳 (日野山)」にあり、モモヒナキとモモヒナミが、今まさに新たな君とならんとしていた時であった。

    三月三日、二人は、宮の庭に植えた桃の花の下で、その酒を酌み交わす。
    器に注いだ酒に逆さの月が映り (さかづき) 、優雅な雰囲気を醸し出す。
    まずモモヒナミが飲み、気分が高揚する。次にモモヒナキが飲む。(三三九度)
    こうして二人は結ばれ、君となった。

    モモヒナキは、スクナミを褒めて「ササナミ」という名を授ける。
    また「ヒナルノ岳」は「ヒナが岳 (雛ヶ岳・日永岳) 」と称えられるようにもなった。
  • オホアマの兄建諸隅の子倭得玉彦は近江の女性と婚し、また伊賀の女性との間にヤマシロ根子・若都保らを儲けた。
    前者は雀部連、後者は五百木部連の祖である。また、両者の弟の彦ヨソの子の大八椅が初
    代飛騨国造である。斯様にこの氏族の本家筋は南山城から近江を経て、美濃・飛騨に至ったが、その後は絶えてしまったらしく、子孫は続いていない。
  • 山背根子 …… 古墳時代の伝説上の人。山氏の祖。神功皇后の命で広田神社を祭った葉山媛と長田神社を祭った長媛の父。

    勘注系図および旧事本紀(天孫本紀)には
     「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇冝部氏・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」
    との注記があり、ここでいうタマカツヤマシロネコ命とは、由緒にいう山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ)と同一神という(由緒に10世孫とあるが、系図では9世孫)。

    同系図の建田勢命(タケタセ、ヤマシロネコの曾祖父、旧事本紀には海部直の祖とある)の脚注には
     「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ・地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(当地)に移り座す。云々」
    とあるという

    丹波国から当地へ移ったのはタケタセ命の頃か後の世代かは不明だが、3代後のヤマシロネコ(ヤマシロオオクニタマ)の後裔氏族が当地一帯に多いことから、この世代までには移っていたと推測され、由緒が“山背大国魂命(玉勝山代根子命)にいたり山背に移り、云々”というのは、これをうけたものであろう。
  • 久世の水主神社
    由緒には、
     「当社は往古より世に聞えたる名神大社なり。その祭神は天照御魂神(饒速日尊)・天香語山神・・・山背大国魂命の十柱にして、天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。
     第十世・山背大国魂命にいたり山背に移り、大に其国に功烈あり。之を尊びて山背大国魂命という。其の子孫・山代水主連となり、世々其の祀を奉せしものなり」
    とある。ただし、当社は久世郡唯一の大社ではあるが名神大社ではない。

     山代水主連(ヤマシロミヌシムラジ)とは、新撰姓氏禄(815)に
    山城国神別(天神) 水主直 火明命之後也
    とある氏族。


    城陽町史(1969)に、
     「水主氏とは、栗隈の大溝の入口に設けられた水門(井堰)の管理を司った」
    とあり、栗隈大溝が、仁徳紀12年条にいう“南山城の栗隈県(クリクマノアガタ・現宇治市大久保付近という)に作られた大溝”とすれば、仁徳朝の頃に創建されたともとれるが、それを証する史料はない。
  • 久世の水主神社
     相殿神の大縫命(オオヌイ)・小縫命(オヌイ)とは、本殿に祀られている衣縫神社(キヌヌイ)の祭神で、上記由緒には
     「天地ひらけ豊組野尊(古事記の豊雲野尊トヨクモノ-神代七代の一柱か、神格不詳)のご神託にして、天照大神の時より衣類の女神の仕業として世に備れり。
     左右に座する二柱の神達は、神代天香語山命の御子・天村雲命より九世の孫にして、成務天皇の御宇、淡路国志賀の高穴穂の宮に仕え奉り、糸縫針の職業を主宰し給う。故に末代の今に至るまで、其職たる人達は此の大神を祖神として敬い奉り給う」
    とある。
     勘注系図(旧事本紀)には、ニギハヤヒ十世の孫(=アメノムラクモ八世の孫)に、この両神の名があり、
     新撰姓氏禄には、
    「左京神別(天神) 衣縫造(キヌヌイノミヤツコ) 石上同祖」(「石上朝臣 神饒速日尊之後也」)

    とあることから、同じ尾張氏(物部氏)系氏族の祖神として当社に祀られたのであろうが、その勧請時期など詳細は不明。
  • 山君、佐々貴山君(狭狭城山君。録・左京、摂津。桐原-近江国坂田郡桐原村人。佐々木-近江のほか出雲など各地に繁衍、甲州にも住し、後に遷奥州磐井郡。萩原-甲州山梨郡萩原住人。津金、穂阪、池田、岩崎、萩原、川辺-甲州人。川上-信州佐久郡住。小松、加賀野、有吉-奥州人)。佐々貴山君が実際に阿倍氏族の出であったかについては、その氏神沙々貴神社が少彦名命を本来主神としていたことからみて、天孫族系としてよさそうである。

    蒲生郡佐々木庄より起る近江の大族佐々木氏は、宇多源氏敦実親王後裔として源姓を称するが、実際にはやはり佐々貴山君の流れであろう。佐々木一族は平安後期にはすでに源姓を称したことが文書に見えるが、この一族諸氏のなかには宇多源氏流も含むという見方はとらない。佐々木一族すべてが古族末流とみるわけである(久米邦武、太田亮の説に賛意)。
      佐々木一族は近江・出雲などに大いに繁衍し、江南の六角を宗家とし、江北の京極(苗字はともに京の居館の地名に因る)がこれに準じて、多くの苗字を輩出したが、ここでは詳細は省略。
  • 瓢箪山古墳 4世紀後半
    佐々貴山君(狭々城山君)とは、その実体は「雀部+山君」であり(従って、その後裔が「山君」を除いて、単に「佐々貴」あるいは「佐々木」と名乗ったのも肯ける、仁徳の御名代雀部の山関係の管掌氏族であったということである。

      だからこそ、平野部の農業生産力や鉄資源が豊かであった蒲生郡を本拠にして財力を貯え、篠笥郷域に近江最大の古墳である瓢箪山古墳(全長162Mの前方後円墳)も築造できたものと推される。
    同墳は沙沙貴神社の東北方の宮津の地、繖山(きぬがさやま)や佐々木氏本宗六角氏の観音寺城の西南麓に位置し、四世紀後半ないし末葉頃の築造とみられている。その出土品には、二神二獣鏡・キ鳳鏡や車輪石・鍬形石・筒形銅器・鉄製刀剣などあり、年代的に妥当なものであろう。そうすると、五世紀前葉ごろを活動期とした仁徳朝の稚守山(後述)より少し先の時代の墳墓と考えられる。
  • June 2016 編集されました
    大彦命の曾孫伊賀彦宿祢の子にあげられる稚山守臣が始祖とされる。この者が『書紀』仁徳40年是歳条に見える「近江山君稚守山」と同人だと考えられる。稚守山(稚山守)は仁徳天皇に同族(ないし通婚による準同族)として仕え、その御名代たる雀部を山部とともに管掌して佐々貴山君の祖となったものであろう。先に瓢箪山古墳を見たが、その示す事情から考えて、稚守山の先代(おそらく伊賀彦宿祢とは別人か)のときに蒲生郡に遷住してきた可能性が強い。

    伊賀彦宿祢は阿倍氏の始祖大彦命の曾孫(-大稲輿命-彦屋主田心命-)で伊賀臣・阿閉臣等の祖とされ、『書紀』にも神功皇后朝鮮出兵の際に舵取りとして参加し、岡水門では祝部として同処の二神を祀らしめたことが記載される(仲哀八年正月条)。この伊賀彦宿祢の活動時期は実際には成務・神功皇后朝のことだから、仁徳朝の人・稚守山との間に一世代入ったほうが妥当だと考えられる。
  • 近江の都怒山君は、『古事記』孝昭段には和邇氏族のなかに記されるが(都怒山臣と表記)、その系譜は具体的には知られず、一方、『滋賀神社由緒記』には別伝を記す。すなわち、紀角宿祢の三世孫に島根宿祢・来子宿祢の兄弟があり、前者が角国造の祖、後者が角山君の祖となったと記されている。
  • 近江の地誌『近江輿地志略』には、「佐々木もと鷦鷯の御名によれり。亦沙々貴、娑々岐にも作る。佐々木は仮名書なれば、篠笥と相通ず。きとけとは、かきくけ也。五音の相通なれば佐々木を篠笥といふにや」と記される

    出雲国における雀部の分布を見ると、天平十一年の「出雲国大税賑給歴名帳」に出雲郡漆沼郷土田里の雀部君千主、神門郡滑狭郷阿禰里の雀部君小島が見えるから、古代出雲には御名代の雀部とそれを管掌する伴造氏族としての雀部君が居たことが知られる。出雲郡漆沼郷も神門郡滑狭郷も、現在の八束郡美保関町(古代では島根郡美保郷)から少し遠いが、雀部君は出雲国造の同族としてこの辺りまで分布していたことが十分考えられる。
    大族佐々木氏の起源の地は、周知のように近江国蒲生郡篠笥郷(現滋賀県蒲生郡安土町辺り)であり、この地の大字常楽寺に鎮座し、佐々木一族が古代から祖神として奉斎してきた式内社・沙沙貴神社には、鷦鷯神伝があったと系図に見える。

    平野部の農業生産力や鉄資源が豊かであった蒲生郡を本拠にして財力を貯え、篠笥郷域に近江最大の古墳である瓢箪山古墳(全長162Mの前方後円墳)も築造できたものと推される*7。同墳は沙沙貴神社の東北方の宮津の地、繖山(きぬがさやま)や佐々木氏本宗六角氏の観音寺城の西南麓に位置し、四世紀後半ないし末葉頃の築造とみられている。その出土品には、二神二獣鏡・キ鳳鏡や車輪石・鍬形石・筒形銅器・鉄製刀剣などあり、年代的に妥当なものであろう。そうすると、五世紀前葉ごろを活動期とした仁徳朝の稚守山より少し先の時代の墳墓と考えられる。
  • 十世紀の『和名抄』には、雀部郷という地名は三河国宝飯郡、上野国佐位郡、丹波国天田郡の三個所に見え、雀部郷から転訛した「佐才郷」も摂津国菟原郡にある(神戸市東灘区の雀の松原がその遺称)。しかも、丹波国天田郡の雀部郷はいま佐々木(現京都府福知山市北部)となっており、その地からあまり遠くない但馬国出石郡に鎮座の式内社・佐々伎神社は、佐々木大明神と称されて、中世の雀岐荘の地、現兵庫県出石郡但東町佐々木(福知山市佐々木から山越えした西北方近隣に位置)にあって、少彦名命を祀るという。

    摂津国武庫郡にも雀部郷(現尼崎市今北辺り)があり、中世には大島雀部荘となって雀部氏の活動が知られる。同郡には佐々貴山君の一族が分住しており、『姓氏録』にも摂津皇別に佐々貴山君があげられる。
  • November 2016 編集されました
    中田憲信編纂の『諸系譜』第30冊所載の佐々木山君に

    大彦命の曾孫伊賀彦宿祢の子にあげられる稚山守臣が始祖とされる。この者が『書紀』仁徳40年是歳条に見える「近江山君稚守山」と同人だと考えられる。稚守山(稚山守)は仁徳天皇に同族(ないし通婚による準同族)として仕え、その御名代たる雀部を山部とともに管掌して佐々貴山君の祖となったものであろう。
    その祖が伊賀から来たということであれば、阿倍氏族伊賀臣の一族としてよい。仮にそうでない場合には、伊賀臣と通婚があった伊賀国造と同族で、前掲の春日山君・小槻山君とも同族の五十足日子命の後裔に位置づけるのが最も自然な系譜ということになる。

    近江の佐々木氏については、「市辺押磐皇子の陵守たりしより見れば,佐々木は陵(ササキ)に因める名称なるべしと云ふ」という説も散見する。これは、佐々貴山君の祖韓袋(カラフクロ)宿祢は大長谷王子(雄略天皇)の意を受けて押磐皇子を謀殺したが、市辺押磐皇子の子(実際は孫と考えられる)の顕宗天皇が即位すると、韓袋宿祢の子孫は処罰を受けて陵戸とされたと『古事記』に記されることに由来する。

    出典:
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/sasakikou.htm
  • 瓢箪山古墳の境内地に接する四ノ坪遺跡からは、昭和52~53年の発掘によって、四世紀初頭から中期にかけての住居跡とみられる遺構群が発見されたが、「これらは狭狭城山君氏や沙沙貴神社の草創と何らかのかかわりをもつ遺跡ではなかろうか」、と芝野康之氏が述べる(『日本の神々5』468頁)。
  • 近江の都怒山君は、『古事記』孝昭段には和邇氏族のなかに記されるが(都怒山臣と表記)、その系譜は具体的には知られず、一方、『滋賀神社由緒記』には別伝を記す。すなわち、紀角宿祢の三世孫に島根宿祢・来子宿祢の兄弟があり、前者が角国造の祖、後者が角山君の祖となったと記されており、こちらのほうが妥当性がありそうである。
      角山君の本拠は高島郡角野郷で、式内社の津野神社(現高島郡今津町北仰に鎮座)を奉斎しその祠官家として続いたが、近くにやはり式内社の日置神社があって、その例祭は両社合同で行われる。日置部も天孫族の流れを汲むものであった。高島郡も小槻山君居住の栗太郡も、古代の鉄産地として名高い。大橋信弥氏は、角山君が鉄生産に関与し、その材木を供給する山林の管理をしていたと推測するが、これは妥当な見解と思われる(「近江における和邇氏の勢力-小野臣・都怒山君・近淡海国造」『古代を考える 近江』平成4年5月刊)。
  • November 2016 編集されました
    讃岐国造
    須賣保禮命
    国造本紀には軽島豊明朝時代に景行帝の皇子神櫛王の三世孫に須賣保禮命がいて、国造の称を賜ったと、書かれている。今、鵜足郡勝浦村に鵜足明神の祠があり、神櫛王の五世孫の篠目命を祭っていると言われている。又、那珂郡柞原村に素戔権現の祠がある。これは篠目命が建立したとの伝説である。だから此の人も神櫛王の血筋であると考えられる。

    鷲住王
    「年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」(
    この王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、当地で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。

    「宇多津町」は「讃岐の綾歌郡」に属しています。「綾歌郡」は、阿野(あや)郡と鵜足(うた)郡を一つにした際の名称で、現在の「宇多津町」には両郡が含まれます。「宇多津」の古い表記の一つに「鵜足津」があり、その「津の郷」に旧石器時代の遺跡があります。今回、古くから「鵜足大明神」と称ばれていた神社がある。

     『香川県神社誌』に「弘仁8年(817)邦内に大旱あり。僧 空海 勝浦の御門淵に来たりて雨を祈る。時に一老翁淵より現れ、我は讃岐國造神櫛王八世の孫、篠目親王小高命の勝浦大神なり、我此の淵に入りて久し、今師に遇ふ幸ひなるかなと宣ひて忽ち見えず。しばらくして大雨沛然として至り人皆蘇生の思をなす。ここに於いて空海神託に任せ社殿を造営して勝浦大神と奉稱すと云ふ」とあり、『寶暦神社帳』には「勝浦大明神」とあるそうです。
  • November 2016 編集されました
    東三河の小坂井には菟足神社(うたりじんじゃ)という神社がある
    菟上足尼は穂国に養蚕を広めた功績を高く評価されて、死後に神として祀られたといわれています。

    日本書紀の朱鳥元年八月一三日条は「秦忌寸石勝を土左大神に遣わし、幣を奉る」と載せています。また 書紀は天武は草薙剣の祟りにより病になったとしています 。

    「草薙剣が熱田神宮に収まる前には菟足神社に保管されていた」との伝承もあるそうです。この菟足神社の祭神菟上足尼は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」となっています。真偽はわかりませんが、『古事記』に記載されている「兎上王」とする説もあります。
    また誉津別命の出雲神参拝に随行したのは、兎上王兄弟という兄弟でまさに菟上足尼とのつながりも感じますし、誉津別命といえば、ある日、白鳥が飛んでいくのを見て、初めて言葉を発した垂仁天皇の第一皇子です。

    讃岐の綾織物の綾氏の祖が神櫛王、神櫛王の五世孫の篠目命。
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