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弘法大師の『勤操大徳影の讃序』によると、父は秦氏、母は嶋史氏で、初め子がないのを憂え、駕竜寺に詣でて一子が授かるよう祈ったところ、在る夜、明星が懐に入るという霊夢を見て懐妊したとされ、生まれてまもなく父とは死別。母の手一つで養育されたようです。
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空海を枕頭に呼んだ恵果は、「汝が来れるを見て、命の足らざることを恐れぬ。今即ち 授法のある有り、経像功おはりぬ。早く郷国に帰って、もって国家に奉り、天下に流布 して蒼生の福を増せ、然れば即ち、四海平らけく、万人たのしまん」と遺言した。
密教には二つの体系があるという。
精神原理を説く金剛頂経系(金剛界)はインド僧・ 金剛智が不空(西域出身)に伝えた。物質原理を説く大日経系(胎蔵界)は、同じくイ ンド僧・善無畏が伝えた。恵果は、不空から 20 年学んで金剛界の法を授けられ、その 後に善無畏の弟子・新羅僧玄超から大日経系も相続した。
恵果は中国でただ1人両系の 相伝者だった。その両方を空海に授けた。
◆ 弘法大師(空海)が安置したと伝えられる清岩寺五百羅漢
福石観音は、市内福石町にある清岩寺の観音堂に安置されている十一面観音で、九州七観音の一つに数えられています。
高さ2mのこの観音像は諸国行脚の途中にこの地を訪れた行基によって養老(717~723)年間に作られたと伝えられています。
その後行基の足跡をたどっていた弘法大師(空海)によって清岩寺(せいがんじ)が創建され、弘法大師(空海)が安置したとされる五百羅漢が北側の羅漢窟にあるのですが、 ほとんどが頭の部分がありません。今は簡単な団子のような頭が付けられていますが、雑な造りです。
なぜ、頭が無いのか、現地の説明板では「迷信を信じる人達により持ち去られた・・・」と書いてありました。うーん、どういう迷信なんでしょうかね? 馬鹿な事をしたものです。
(拝観自由)
名を無空と改めました。その後四国で修行。勤操のはからいで和泉国槙尾山施福寺で出家得
度をし 名を教海と改めました。さらにその後、如空を名乗り、そして795年、4月9日東大寺戒壇院ではじめ教海、そして如空、やがて具足戒を受け空海と改名します。 勤操は後に遣唐使に随行する際にもさまざまの援助をし、空海の後ろ盾となります。
「空海」の名は、四国の室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をしてい
た時「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから自ら付けた名前であるとのことです。(空海の名前の出自)(四国八十八ヶ所、24番御崎寺)
山林修行者となった空海は、阿波の大滝岳や土佐の室戸崎(『三教指帰』)、あるいは石鎚
山や石峰山(『聾瞽指帰』)など、主として四国の山地を巡り、修行を重ねました。その結果、霊験奇瑞があり、世間の栄華を厭い、静かな山野を慕うようになった空海は、24歳の時『三教指帰』(『聾瞽指帰』)を著し、公に出家の宣言をしました。この『三教指帰』は出家の宣言書であり、また優れた思想評論書でもありました。
入唐出発までの七年間は消息がわかっておりません。ただ、四国・近畿あたりの山々を渡り歩
いて、厳しい修行と学問の道に励んだこと思われます。『続日本後記』に「書法に在つては最もその妙を得たり。張・芝と名を斉しくし、草聖と称せらる」とある以外は何の記録も残されていません
大同元年(806)10月に判官遠成一行に従って帰国した空海は入京出来ず、しばらく九州の
太宰府に滞在しますが、やがて消息を消してしまいます。入京できなかった理由は、20年の
留学予定だったにも関わらず2年で帰国したことを咎められたためであろうとされています。ただ、大同二年(807)2月11日に、太宰府の時間某の亡母の供養ための法会を行い、その願文を起草しているので、この頃はまだ太宰府に滞在していたことは明らかです。いずれにしても、在唐中に求めた膨大な荷物を保管できる場所は限られてくるので、太宰府か観世音寺に
いたのではないかと思われます。
大同4年2月3日に空海は最澄に名刺を投じたことが『延暦寺護国縁起』に書いてあることから、空海がすでに都に近いところにいたことは想像できますが、四月に嵯峨天皇が即位してから三ヶ月後の7月16日に太政官符が和泉の国司に下り、ようやく入京を許され、八月初めに高雄山寺に入ることができたのです。(以後14年間、居住)
道慈は大和国額田氏の出である。氏寺の額田寺を額安寺とし、手ずから造った乾漆虚空蔵菩薩半跏思惟像(現存)を祭ったという。額田氏は手工業者の熊凝(くまごり)氏と同族であり、その氏寺・熊凝寺は聖徳太子が発願したという。これが後ちの大官大寺の前身であり、道慈によって平城京に移されて、大安寺となった。虚空蔵菩薩と言えば、山背国法輪寺(秦氏出の道昌が開祖)のそれは漆器業や工芸職人の守護仏である。虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造にも結び付き、山岳や弥勒信仰にもつながっている。
空海の遺言『御遺告二十五ヶ条』の第十七条には「必ず兜率天に往生し、五十六億年の後、必ず弥勒慈尊とともに下生する」とある。空海は高野山を、弥勒の兜率天へ上生往生するための聖地としたのだ。「即身成仏」の空海とはずいぶんと違う。しかし後ちには、高野山そのものが兜率天内院に擬せられ、空海も弥勒の化身とされていく。これは、英彦山が兜率天とされ、法蓮が弥勒の化身とされたのと同じだ。
弘法大師、帝都を立て紀州のかなたに趣き給うに、大和国宇智郡にて一人の狩人にあい たまへり、その長8尺ばかり、面にあかき髭あり、身に青衣を着し、手に弓箭を携へ黒白 の狗を牽て道の側にたてり、大師いづくの人ぞと問いたまへば、南山の狩人なりとこたふ、 大師の云、我一の伽藍をたてて秘密の教法を安置せんとおもふ、若山中に霊地あらば願は くば教示されよと、狩人の云、・・・我住山、独ぬきんでて虚空に聳え、地に宝瑞を蔵め、天 竜鬼神常に守護、昼は樹上に瑞気ありて山谷を照らし、夜は地中より光曜を現して雲漢に いたる、天地開闢よりこのかた凡人のいまだ至らざる聖地なり、この狗よく道を知れり、 狗は高野明神の化現なり。大師狗に随て行くと一の藪沢に至る。(今の天野)周辺 10 町ば かり林樹森森として、かみさびたる中に神社あり(天野明神の社)、大師の前に一人の神女 忽然とあらわれ、大師に告げる、我を丹生津姫といふ、昔現人神のとき応神天皇の時この 山地1万町をたまふ。東は丹生河の上をかぎり、南は当河の南の横峯を限り、西は神匂星 河を限り、北は吉野川を限りとす、我神道にありて仏法の威福をのぞむこと久し、故に昨 日我子をつかわして菩薩を迎えた・・・。 丹生・狩場両明神を祀る天野丹生都比売神社に高野山開創以前から伝わるという告門(の りと)や丹生祝氏文に、崇神や応神朝に淡路島三原郡の白犬と紀伊国の黒犬各一がその口 代などを添えて奉納されたとある。丹生の川上は辰砂や砂鉄の産地で、古代砂鉄をさがし た部民を「犬」と呼び、その掌握者を「犬飼」と称したという。(塩見暁『古典文学と南海 沿線』より抜粋)
延暦8年
(789) 15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学ぶ。
延暦11年
(792) 18歳で京の大学寮に入った、専攻は明経道で、春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学んだ。
延暦12年
(793) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った。御蔵洞(高知県室戸市)で修行をしている時、口に明星が飛び込んできて悟りを開いた。その間、空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わ。24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある「聾瞽指帰(ろうごしいき)」を著して俗世の教えが真実でないことを示した(「聾瞽指帰」は、後に序文と巻末の十韻詩を改定、「三教指帰」(さんごうしいき)と改題されている)。この時期より入唐までの足取りは断片的で不明な点が多い。「大日経」を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられている。中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もある。
この時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところである。「三教指帰」の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたこと、明星が来影するという形で行が成就したこと、が記されている。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、大安寺の戒明ではないかと云われる。戒明は同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した「釈摩訶衍論」の請来者である。
得度は20歳で勤操を師とし槇尾山寺で出家した説、25歳出家説が古くからあるが、現在は延暦23年(804)入唐直前31歳の年に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではない。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もある。
延暦23年
(804) 正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。第16次(20回説では18次)遣唐使一行には、最澄や後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいた。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていたが、空海は無名の一沙門だった。
同年5月12日難波津を出航、博多を経由し7月6日肥前国松浦郡田浦から入唐の途についた。空海が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船。この入唐船団の第3・4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみ だった。
空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(延暦23年)8月10日福州長渓県赤岸鎮に漂着。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。11月3日長安入りを許され、12月23日長安に入った。
延暦24年
(805) 2月西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となった。長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の印度僧般若三蔵。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられる。般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられている。
5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事する。6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける。ちなみに胎蔵界・金剛界のいずれの灌頂においても彼の投じた花は敷き曼荼羅の大日如来の上へ落ち、両部(両界)の大日如来と結縁したと伝えられる。
8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇する真言として唱えられるようになる。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表している。
8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われた。また恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられた。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智-不空金剛-恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像(高野山に現存)など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟(東寺に現存)や供養具など5点の計13点である。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上している。
12月15日恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年/806)1月17日空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。
3月長安を出発し4月越州に到り4か月滞在した。土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典等を収集した。8月明州を出航して帰国の途についた。
途中暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開宗し、以来、大宝寺を西の高野山というようになった。なお、福江に本尊虚空菩薩を安置してあると知った空海は参籠、満願の朝に明星の奇光と瑞兆を拝されて、異国で修業された真言密教が日本の鎮護に効果をもらたす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけられたという 。
「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示している。
延暦25年
大同元年
(806) 10月空海は無事帰国し、大宰府に滞在する。、この年の3月に桓武天皇が崩御、平城天皇が即位していた。
10月22日付で朝廷に「請来目録」を提出。唐から空海が持ち帰ったものは目録によれば、多数の経典類(新訳の経論等216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物等々膨大なものである。「未だ学ばざるを学び、-聞かざるを聞く」(「請来目録」)空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系であった。
807-808 空海は20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、当時の規定ではそれは闕期の罪にあたるとされた。そのためかどうかは定かではないが、帰国後は、入京の許しを待って数年間太宰府に滞在することを余儀なくされた。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住している。この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどしていた。
15歳頃
平城京の大学に入る。明経科の博士筆頭(大学頭)は岡田牛養。(讃岐寒川の出身) だった牛養は空海に目をかける。五経、は叔父の阿刀大足に学ぶか。論語・孝経・礼記・春秋左氏伝そのほか9科目をマスター。儒教的な「経書」以外の道教的な「緯書」も学ぶ。(神仙や陰陽道など雑多な関心)
藤原仲麻呂は陰陽寮を太史局と改称して、国家重大事を緯書によって調べたか?。
華厳経や雑密(ぞうみつ)に関心が深まる。(東大寺の別当となった良弁(ろうべん)がこの雑密の修行者)。
政治の舞台が平城京から長岡京に移り、さらに山城(山背)の平安京に移転しようとしていた。
大伴家持が失脚した。大伴氏と佐伯氏は親しい家系。
最澄という青年僧が、比叡の山中に一乗止観院という庵をつくる。
大学を捨て、“山林出家”
ブッダのように出家者となることをを選んだのである。畿内四国の山野を跋渉し、虚空蔵求聞持法を駆使して森羅万象・経書緯書を修得。
24歳頃
最初の著作の『三教指帰』(さんごうしいき)にとりくむ。延暦16年、西暦797年
五段構成になっている。亀毛(きもう)先生論、虚亡(きょむ)隠士論、仮名乞児(かめいこつじ)論、観無常賦、生死海賦の、三論二賦だ。これまで空海が収集検討した諸家諸見に対するすべての反駁を、「ただ憤懣の逸気をそそぐ」ために、書きまとめる。
阿刀大足や岡田牛養にたいして、儒教批判としての亀毛先生論
神仙に遊ぼうとするひとたちには道教批評としての虚亡隠士論
大安寺や東大寺の僧に対しては、仏教思想仮説としての仮名乞児論
天才は、儒教、道教、仏教の別が無い時代にこの違いを見抜き、否定した。
肯定したのは
出家者として、ブッダに連なりたいこと。
「無常の賦」という漢詩を挿入し、「無常」ゆえになにするか
総合的認識の追及
31歳 延暦23年(804)に藤原葛野麻呂を大使とした遣唐使船に乗船
実に7年の空白があるが、なにをしていたか不明。
http://www.eitikai.co.jp/siozi3.htm
思春期の少年真魚は、鋭い感性で悩み抜いて、あるとき生き方を変えるんや。これには近所に住んどった遠縁(?)の長老、佐伯宿禰今毛人(サエキノスクネイマエミシ)の影響が大きかったげなで。同じ佐伯姓でも、連(ムラジ)や宿禰と空海さんの直では、身分が違ごうたし、直接の縁戚は無かったげな。それでも真魚少年は今毛人老人に近付いた。そんで大学で習う儒教ではない、今毛人老人が信じとる仏教への関心が強うなっていったらしい。ついに伯父さんや讃岐出身の大先輩、現在の香川県寒川(サンガワ)出身の岡田牛養(ウシカイ)大学博士の教えも振り切って、真魚は大学を飛び出して行方不明になってしもうたげな。
怡土城専知官
怡土城(いとじょう) 前原市大字高来寺、大門、高祖 前原市と福岡市の境に位置する高祖山(たかすやま:標高 416m)の西側斜面一帯に築かれた大規模な古代山城で、「続日本紀」(しょくにほんぎ)によると、遣唐使として755年に唐に渡り、唐で19年の修行をしてきた吉備真備(きびのまきび)が、天平勝宝8年(756)6月から神護景雲2年2月(768年)まで12年間かけて築いた中国式山城
大宰府防衛を主な目的として築かれ、築城当初の責任者吉備真備は、当時大宰大弐(だざいのだいに:大宰府の副長官)であった。築城当初は吉備真備が責任者だったが、途中天平勝字7年(763)真備は京へ帰還命令が出たの で、佐伯宿禰今毛人(さえきすくねいまえみし)が怡土城専知官となり、3年後に完成した。建築には、当時他の作業に着かせる事が禁止されていた防人まで動員された
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石上朝臣宅嗣 †
薨伝にない宅嗣像:http://www.neonet.to/kojiki/ronko/na03yakatugu-boku.htm
まず宅嗣が生まれたのは、長屋王の変(729)があった年である。 長屋王は、祖父・石上朝臣麻呂の後継者。 そんな人物が、藤原氏一派によって謀殺された年に、宅嗣は生を受けている。
天平11年(739)父・乙麻呂は、藤原宇合未亡人・久米連若売との不義を問われ、土佐に配流された。 時に宅嗣10才。 彼の処遇は、まったく分からない。 翌年、九州で藤原広嗣の乱(740)が勃発する。 広嗣は、宇合の第一子。 その母は、石上朝臣麻呂の娘である。 つまり広嗣と宅嗣は、ともに麻呂の孫であり、いとこだった。 故左大臣のいとこ同士。 その名に同じ「嗣」を持つ跡継ぎである。 11才の宅嗣は、広嗣の憤死をどう受け止めたのだろうか?
広嗣の弟に、藤原良継という人物がいた。 兄の罪に連座して伊豆に流されたが、2年後に許される。 薨伝によると、天平宝字6年(762)頃、“佐伯宿禰今毛人・石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持らと太師の恵美押勝を暗殺しようとした”という。 この計画は、事前に発覚。 良継は、“一人罪を被り、姓と位を剥奪された”とされる。 しかし恵美押勝の乱(764)に際し、“良勝は即日詔を承り、兵数百を率いて仲満を追撃し、これを討った”と記されている。
佐伯直 http://www.e-obs.com/heo/heodata/n300.htm
佐伯部は『 日本書紀 』景行天皇51年条に、日本武尊が東国遠征の際に捕えた 蝦夷(えみし)(東部 北部の原住民)を伊勢神宮に献上したが、昼夜なく騒がしいので播磨 讃岐 伊予 安芸 阿波に移して住まわせたとみえる。これをそのまま事実とは認めがたいが、伊予を除く4か国については他の史料より 佐伯部 やその管轄者である 佐伯直 の存在を推測できるので全くの虚構とは考えにくい。おそらく大化以前の5~6世紀ごろ大和政権の征討により「部民」(豪族の隷属民)となった蝦夷であることは誤りないであろう。佐伯部の「佐伯( 佐倍岐(さえき))」とは、朝廷の命を「 塞(さえぎ)る」という意味である。各地域において佐伯部を管轄していたのが佐伯直である。直の姓を持つ佐伯氏は、『新撰姓氏録』右京皇別下によれば景行天皇皇子稲背入彦命の 後裔(こうしょう)とある。佐伯直は播磨 安芸 阿波 讃岐 豊前などの瀬戸内海沿岸に見え、佐伯部を統轄していたと考えられる。もともとはその地域の国造であり、佐伯部を統轄するため佐伯直という姓を帯びるようになった。これら地方の佐伯直は佐伯部を率いて交替で中央に上り、宮廷の警備にあたった。そして中央にあっては佐伯連がこれを統率した。平安時代の高僧、弘法大師こと空海は讃岐の佐伯直の出身である
姓氏家系辞書/太田亮によれば、上記伴氏系図で略されている空海につながる9代は、
「歌連」(佐伯氏姓を賜る)--平曾古連(安芸厳島に住)--平彦連 --伊能直(讃岐多度郡縣令)--大人直--枳都直--男足(初めて佐伯直を号す) --田公(少領)--道長(大領)--空海(774-835)
718ごろ~785(養老2ごろ~延暦4)『万葉集』第4期の歌人。父は同じく万葉歌人の旅人(たびと)。その作歌数は集中群を抜いており,長短合わせて479首となっている。一般にその歌人としての生涯を,3期に分け,第1期を最初の歌の733年(天平5)から,越中守になるまでをいい,先人の作に学んだ習作時代をさす。第2期は越中守時代で,遠く都をしのび種々の経験をしたことにより,独自の詠風を確立した。第3期は,少納言となって帰京した751年(天平勝宝3)からの,8年間をさす。この期には,藤原氏の勢いに圧倒されてしだいに衰退する名門大伴氏の氏上として,苦悩の日々を送ることとなってしまう。作歌数は,しだいに減少してゆく。758年(天平宝字2)因幡守となり,その翌年の正月の歌が最後の歌である。その後,薩摩守に左遷され,各国国守をつとめ,中納言などとすすむが,政変のなか,遺骸も葬ることができない有様であった,とされている。大伴家持論 http://www2s.biglobe.ne.jp/~machino/yaka1/
紀小鹿女郎は大伴家持の年上の恋人(歌の上?)。「紀女郎」の歌の題詞には、「鹿人大夫之女。名曰小鹿也。安貴王之妻也」と注があり。大炊頭おおいのかみ・典鑄正いものしのかみなどを歴任した紀鹿人きのかひとのむすめで、名は「小鹿」、安貴王あきのおおきみの妻。
安貴王は(小鹿との結婚後のことと推測されますが)采女あがりの人妻と密通事件を起こす。養老末年、因幡八上采女(藤原麻呂に娶られ浜成を産んだ采女と同一人であろう)を娶り「不敬之罪」で本郷に退却せらる。この時の歌が万葉集の長歌「安貴王歌一首」。現役の采女を娶ったのであれば、天皇に対する侮辱となり、「大不敬」にあたる。したがって「因幡八上采女」は采女あがりの婦人の字(あざな=通称)であろう。ここに言う「不敬之罪」とは、おそらく八上采女の夫であった藤原麻呂に対する不敬であったと思われる。むろん罪状は姦通であったはずである。
安貴王の子、市原王は、美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任。同年5月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。 以後、史料に見えず。翌天平宝字8年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっており、これ以前に引退または死去したか。しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。一説に、宝字7年12月29日、造東大寺司判官葛井根道らが酒席で不敬の言葉を吐き流罪に処せられた事件の折、上司である王がその責に連座したともいう。
聖武天皇は天平十二(740)年、奈良を捨てて恭仁くに(今の京都府相楽郡あたり)への遷都を敢行しました。大伴家持が小鹿女郎との仲を深めたのは、この頃のことでした。 当時、天皇に近侍する内舎人うちとねりという職にあった家持は、遷都と共に恭仁に移り住みました。彼にはすでに坂上大嬢という幼馴染みの定められた相手がありましたが、彼女は旧都に残ります。いっぽう、官女だったらしい小鹿女郎は恭仁にやって来ました。小鹿女郎への歌 百年ももとせに老舌(おいした)出でてよよむ(腰が曲がる)とも吾は厭はじ恋は増すとも
笠女郎(かさのいらつめ)/奈良時代 女流歌人。大伴家持の若い頃の愛人と言われ、『萬葉集』中の作は、29首全て家持へ贈られた恋歌。修辞に秀でた歌が多い。
天智天皇--志貴皇子--春日王--安貴王--市原王(家持の友)
志貴皇子の正室は多紀皇女(天武天皇の皇女で伊勢斎宮。天平勝宝3年薨)。側室に紀朝臣橡姫(白壁王の母)がいる。
石川年足
年足の父親は、「石足」(いわたり)、子息は「名足」で、「足」の漢字を継承しています。 蘇我氏族の流れは次のようになっています。(出典:「国史大辞典」吉川弘文館)
石川石足
667年 天智年間安麻呂子息として生る。
708年 和銅元年 正五位下・河内守
729年 天平元年2月 長屋王の変時、
仮の参議叙任、 正四位上左大弁、
天平元年3月 従三位昇進、
8月9日63歳で没。
名門豪族蘇我一門の末裔として老年漸く正式に参議に成りかけた時に亡くなっています。 しかし、息子の年足は親の分までいい目をしました。それは、おばさんに当たる媼子が藤原不比等に嫁して、武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)の兄弟を生んだのです。
775年六月十九日 正四位下の佐伯宿禰今毛人を遣唐大使に任じ 正五位上の大伴宿禰益立と従五位下の藤原朝臣鷹取を副史に任じた 判官と録事はそれぞれ四人を任じた 使節の乗る船四隻は安芸国に造らせた
777年四月十七日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人らが 暇乞いのため天皇に謁見した ただし 大使の今毛人は羅城門まで来た時 病と称して留まった P168 四月二十二日 この日 遣唐大使の佐伯宿禰今毛人は病の身を輿に乗って出発した攝津職まで着いたが 日数を経ても治らなかった そこで 天皇は副使の小野朝臣石根に「節を持って先発し 大使の職務を代行せよ 順風を得たら大使を待たずに出帆せよ」と勅した また 右中弁・従四位下の石川朝臣豊人を遣わして 遣唐使の一行の対し 次のような詔を述べさせた 「判官以下で死罪を犯した者は 節を持つ主席の使者が独断で判決することを許す」と
762年9.30
九月乙巳、御史大夫正三位兼文部卿神祇伯勲十二等石川朝臣年足薨。時年七十五。詔、遣摂津大夫従四位下佐伯宿禰今毛人、信部大輔従五位上大伴宿禰家持、弔賻之。
764(天平宝字8)年1.21
己未、以正五位下山村王、為少納言。(中略)従四位上佐伯宿禰毛人、為大宰大弐。従五位上石川朝臣宅嗣、為少弐。従四位下佐伯宿禰今毛人、為営城監。従五位下佐味朝臣伊与麻呂、為豊前守。従五位上大伴宿禰家持、為薩摩守。
777年9.18
丙寅、内大臣勲四等藤原朝臣良継薨。平城朝参議正三位式部卿大宰帥馬養之第二子也。天平十二年、坐兄広嗣謀反、流于伊豆。十四年、免罪補少判事。十八年、授従五位。歴職内外、所在無績。太師押勝、起宅於楊梅宮南、東西構楼、高臨内裏。南面之門、便以為櫓。人士側目、稍有不臣之譏。于時押勝之男三人、並任参議。良継位在子姪之下、益懐忿怨。乃与従四位下佐伯宿禰今毛人・従五位上石上朝臣宅嗣・大伴宿禰家持等、同謀欲害太師。於是右大舎人弓削宿禰男広、知計以告太師。即皆捕其身、下吏験之、良継対曰、良継独為謀首。他人曽不預知。於是強劾大不敬。除姓奪位。居二歳、仲満謀反、走於近江。即日奉詔、将兵数百、追而討之、授従四位下勲四等。尋補参議、授従三位。宝亀二年、自中納言拝内臣、賜職封千戸。専政得志、升降自由。八年任内大臣。薨時年六十二。贈従一位。遣中納言従三位物部朝臣宅嗣・従四位下壱師濃王、弔之。
恵美押勝暗殺計画の存在が初めて明らかにされている。家持は佐伯今毛人・石上宅嗣らと共にこの謀略に参加したが、罪は良継が独り被る形になった。
780(宝亀11)年2.1
二月丙甲朔、以中納言従三位石上朝臣宅嗣、為大納言。参議従三位藤原朝臣田麻呂・参議兵部卿従三位兼左兵衞督藤原朝臣継縄、並為中納言。本官如故。伊勢守正四位下大伴宿禰家持・右大弁従四位下石川朝臣名足・陸奥按察使兼鎮守副将軍従四位下紀朝臣広純、並為参議。
(注)参議を拝命。八日後には伊勢守から右大弁に遷任されており、家持の政治的地位は著しく躍進した。当時の議政官は以下の通り。
・右大臣 大中臣清麻呂
・内大臣 藤原北家魚名
・大納言 石上宅嗣
・中納言 式家田麻呂 南家継縄
・参 議 南家弟縄(乙縄) 南家是公 北家小黒麻呂 大伴伯麻呂
大伴家持 紀広純(同年三月没、代わって神王) 石川名足
京家浜成 北家家依
781年4.15
癸卯、天皇御大極殿。詔曰。(中略)正四位下大伴宿禰伯麻呂・大伴宿禰家持・佐伯宿禰今毛人・坂上忌寸苅田麻呂、並正四位上。
(注)桓武天皇が母高野新笠に皇太夫人の尊称を与える旨の詔の後、「又仕え奉る人等の中に自(し)が仕え奉る状に随ひて一二人等冠位上げ賜ふ」(原文は宣命体)として三十数名の名を挙げ、位を授けた。
733年 - 799年4月4日 奈良時代末期から平安時代初期の高級官僚。備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。
安遷都の建設の進言し自ら造営大夫として尽力した。785年(延暦4年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行った。その後、また、大和川を直接大阪湾に注ぐ工事を行ったが失敗。
810年 空海 神護寺で国家鎮守の法をする。
813年 空海 金剛界潅頂
824年 神護国祚真言寺(略して神護寺)となる。
827年 両界曼荼羅(国宝)が製作される。
神護寺の前身は、この地に古くからあった和気(わけ)氏の氏寺である高雄山寺。和気清麿が、白雲寺などと共に建てた愛宕五坊の1つ。河内の神願寺(和気氏創建)と合併して「神護国祚真言寺」と称した。
802 和気清磨呂の子・広世の発願により、最澄と南都七大寺の学徒を招請し講義が開かれるなど、高雄山寺は和気氏と最澄との関係によって発展していた。
空海が大同4年(809)に入山、14年間住持を勤めた。現在の伽藍は数次の興亡を経て、大師堂(桃山)を除き、江戸初期の再建による。
空海は、大同4年(809年)~弘仁14年(823年)まで、この高雄寺におられ、翌年、天長元年(824年)に、神護国祚真言寺(略して神護寺)となり、空海の真言宗が中心となって栄えたそうです
神護寺の唐門を越えると和気公霊廟で、平安京造営(794~)の最高責任者であった和気清麿呂公と、姉の広虫が祀られていた護王神社跡
神願寺と高尾山寺との合併は、空海の働きかけがあったとされている。
その太龍寺縁起でありますが金剛遍照こと弘法大師空海の作であり、驚嘆すべき内容が書かれております。
「在々処々是くの如し、その阿波国那賀郡舎心山太龍寺に及ぶ。天神七代の内、六世、面足尊、惶根尊降り磯輪上に居坐す秀真国これなり。当七代伊弉諾尊、伊弉冉尊居坐に降る玉墟うち国産み八嶋あり。まず淡路州を生む、これを淡道穂狭別という。」
と国産みから書き出される寺の縁起。
そして太龍寺山に神武天皇の行幸があったと言うこれも驚くべき記載。
また、「蛭子」の縁起についても
「蛭子、足無し分間無し、天豫樟船に乗せ奉り大海原に放し捨て在り、和修吉(わじき)龍、拾いとり奉り養育す。自地を授け出でて売買を主とし万民に幸す。愛敬神あり、名を戎と奉る、今鷲敷社にあり」
出典 https://www.facebook.com/awakodaishi/?hc_ref=ARQOCa1osh5rG64wJzU62or-yuJrYXorXIfzYexfrDNRALaPRGSWKAViDY9Jhpm6FtE&fref=nf
皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856年)、藤原式家の流れをくむ左大臣藤原緒嗣が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『続日本後紀』によれば藤原緒嗣は承和10年(843年)に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。
別の伝承は開創者を空海とする。すなわち、空海が天長年間(824年 - 834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年(855年)藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を大同2年(807年)とする伝承もあり、この寺院が後の今熊野観音寺(泉涌寺山内にあり、西国三十三所観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。
『日本後紀』延暦二十四年十二月壬寅条に次のようにあります。
是の日、中納言近衛大将従三位藤原朝臣内麻呂、殿上に侍す。勅有りて参議右衛士督従四位下藤原朝臣緒嗣と参議左大弁正四位下菅野朝臣真道とをして天下の徳政を相論せしむ。時に緒嗣、議して云く、「方今、天下の苦しむ所は軍事と造作となり。此の両事を停めば百姓安んぜむ」と。真道、異議を確執して肯えて聴かず。帝、緒嗣の議を善しとし、即ち停廃に従ふ。
この論争の結果、桓武天皇は蝦夷征討と平安京造営を止めました
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第5代天台座主にして、園城寺(三井寺)中興の祖、後の寺門衆の心のシンボル
円珍は、空海の姪の子だ。
円珍が比叡山に入門したとき最澄は既に他界していたが、空海は存命中であった。
それも時の天子様(嵯峨天皇)のブレーンとして、飛ぶ鳥おとす勢いの時期である。
現代の家族縁故で想像すれば、なんでまた母方筋とはいえ空海のお血筋の子が、天台宗に入ったのか?と興味の湧くところだ。
それは父方の叔父である仁徳が最澄直弟子の高僧だったからだ。
故に〔惠果大師,空海に〕法を附して云く。
「今,日本の沙門あり。來り て聖教を求む。兩部の秘〔密深〕奥の壇儀印契を以て,唐梵たがふことな く心に受く。なほ,瀉瓶の如し。めでたし。汝,傳燈し了る。吾が願ひ, 足れり」
と。
体(deha),言葉(va ̄ c),心(manas)の3局面で人間の活動をとらえる習 慣が古くからインドにあった。7世紀になって,仏教徒のあるグループがこ の伝統にのっとって象徴操作を体系づけた時にも,手先と指の形を記号とするのが「体による象徴」であり,円や三角形などの図形記号86)を心に浮かべるのが「心による象徴」である。そして,音節(aksara)を記号とするのが ・
「言葉による象徴」である。この人々は,象徴操作によって究極的真理に到達しようとして,新しい体系を打ち立てたのである。87)この体系を「密教」と言 う。8)
インド文字は表音文字であり,一つ一つの音節と文字とは一対一で対応する。
しかも,サンスクリットは多音節言語であるので,意味単位(単語)を構成する個々の音節には意味がなく,したがってそれを写す文字にも意味がない。音節(aksara)と文字(lipi)との違いは,聴覚対象と視覚対象 ・との違いにすぎず,「音節と文字の同一性」は改めて主張しなければならない 問題ではない。ところが漢字は表意文字であるから,意味のない母音は存在 しても,意味のない文字は存在しない。
「国風文化」が成立する以前の日本に育った空海にとっても,文字が表記す る音節は単なる音声単位ではなく,意味単位(単語)でもあった。「聲」(響 くもの)と「字」(物の名を表すもの)の関係を棚上げにすることはできなか った。空海の議論はインド古典密教の体系とは無関係である。インドの古典 密教では,「音節」と「文字」との関係や「言語音」と「単語」との関係が, 論じられることはなかった。
インド人はサンスクリットの音韻を用いて音声象徴の体系を作り上げた。
サンスクリットを知らない空海は,多音節言語の音節と語を視野の外に置い たまま,元の体系では音節を指す「字」に勝手な解釈を加えた。)こうして, 空海の象徴論は不透明で分かりにくいものとなった。
もし空海がサンスクリットを学んでいたら,サンスクリットの音節と単語 の構造を知ることができたであろう。そうすれば,「聲」と「字」の関係につ いて論じるようなことはしなかったはずである
代表的 なのは「三經義疏」の話であり,読む者もいないのに 聖徳太子が『勝鬘經』 と『法華經』と『維摩經』の注釈を書いたという話である。
空海が中国で サンスクリットを学習したという話もその一つである。
「平城京の官大寺は,唐の諸学派の学問的成果をほとんど吸収することがで きた」と井上光貞は言う。この発言は事実を反映するものではなく
伊都郡かつらぎ町三谷631番地
(主祭神)丹生都比賣命 (配祀神)高野御子命 誉田別命 建御名方命
当神社は丹生都比賣大神が紀の国三谷に御降臨あそばされてより氏神と称え奉られ、明治6年4月1日村社に列し、昭和10年6月18日上天野村官幣大社丹生都比賣神社の攝社として合併され、戦後独立、現在に至っている。
一、丹生都比賣大神(右坐)。
天照大御神の御妹であらせされ、稚日女命とも申し上げ、神代の昔、御子高野御子と共に大和地方や紀伊地方を御巡歴遊ばし、人民の為に農耕の事、糸をつむぎ機を織る事や煮焚の事など衣食の道をはじめ教え導かれ、特に木の川(紀の川)の水を以て酒を醸し奉りてより、丹生酒殿神社と称えられる。
最後に天野の現地に御本居を御定め遊ばし、御鎮まりなされたのである。
丹生と云う神社の多き事、伊都郡の郡名、和歌山県の県名など、皆御神恩や御名を忘れない為の永久への記念的称呼たることを思わねばなりません。
二、高野御子大神(中坐)。
丹生都比賣大神の御子神にましまして、高野山の名称も此の神の御名よりでたるものと伝えられ、狩場明神とも称えられている。
三、誉田別大神(左坐)。
元熊手八幡とも称し、鎌八幡宮とも称され、香川県讃岐国多度郡風ケ浦に鎮座ありしを弘法大師産土神の故を以って高野山に勧請せしを明治2年神佛分別の際、官費を要し当時の兄井村へ新殿を設立し遷座され、明治42年9月5日丹生酒殿神社境内の許可を受け、同年10月13日大字兄井鎮座八幡神社を当丹生酒殿神社に合祀されたのである。
鎌八幡宮は、無病息災、子宝、受験諸々の願かけの御祭神として広く信仰され、昔は大和(奈良県)河内(大阪府)の信者も多かったと伝えられている。
四、建御名方命(大国主神の御子)。
虚空蔵菩薩を安置しています。虚空蔵菩薩は弘法大師・空海が青年時代に修行された「虚空蔵求聞持法」の本尊で宇宙全体に満ちている仏様の無量無尽の知恵や功徳を蔵する菩薩です。特に「入試合格」「学業成就」に霊験顕たかな菩薩です。【御真言】虚空蔵菩薩:ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オンアリキャ・マリボリ・ソワカ
空海、和気氏の高尾山寺へ入る
空海は806年に帰朝するが、すぐには入京せず、しばらくは九州に留まったらしい。
807年、最澄が空海の師・勤操に遊行を止めて比叡山に戻るように言っているが、これは九州の空海の許へ向かったものらしい。二人は香春岳や英彦山などの秦王国を「山野遠遊」したのだろうか。
その後、空海は勤操に導かれて和泉国槇尾山寺に移りここで受戒し、さらに山背国の高尾山寺へ入る。
高尾山寺は、河内国のヌテシワケ命を祭る例の高尾社近くにあった、和気清麻呂が八幡神の託宣により創建した神願寺(一名、高尾寺。高尾社が鎮守)を、子の真鍋と仲世が山背国の高尾山寺に移したもので、後ちの神護寺である。この寺は愛宕山とともに、秦氏に関わる山岳信仰の寺である。愛宕社の神宮寺・白雲寺の開祖は役小角と雲遍上人となっているが、後者は加賀白山の開祖・泰澄のことである。
その中の一つ星田妙見宮には、空海が唐から「宿曜経」を持ち帰り、星の道場を創建した。
星田妙見宮 境内説明板より
当霊山は平安時代の弘仁年間(810~824)に弘法大師空海上人が私市の獅子窟寺の岩屋で仏眼仏母尊の修法をされたときに当霊山に七曜の星が降臨し、大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され、北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳、神仏の法宅諸天善神影向來会の名山、星霊場としてまつられました
『大阪府全誌』より妙見山は東方にあり、大和との国境を限れる連山の支峯にして、峯頭に巨石二個あり、里人は織女石又は妙見石と呼ベり、即ち小松神社の神躰にして一に妙見神と唱ふ。
縁起に依れば、弘仁年間に弘法大師が獅子窟に入りて佛眼尊の秘法を修しけるに、天より七曜星當村の三ケ所に降臨ありしを以て星田村の名を爲し、其の降臨ありし三ヶ所の一は、即ち當山の星石即ち妙見石なり。
後、高野山を開きて同大師再び當山に登り、先年星の影 ありし此の霊石を拝せるに、北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳なるを以って、慇懃に勧請して、妙見山龍降院と稱し、四海泰平五穀豊饒国家擁護の霊場と崇め、雙石を開眼供養せりと。
當山の星石と同時に三ヶ所に降臨ありしと傅ふる他の星石なるものは、光林寺と星森とにありて、各石の距離は8町なりと。
而して祠を神道家は天御中主尊といひ、陰陽家は北晨星といひ、真言家は妙見菩薩と仰ぎて崇信せり。
平安初期、朝廷が悩まされた早良親王の怨霊問題についても法相宗は積極的に関わり、特に善珠は、早良親王の「怨霊」を語るだけでなく、霊力をもって鎮めることもできたため、天皇の厚い信任を得ました。南都六宗の影響下から逃れるために遷都に踏み切った経緯からして、これまで一見、対立関係にあったと思われていた朝廷と南都六宗との関係ですが、実際には朝廷と法相宗のリーダーは緊密な関係を保っていたのです。朝廷は怨霊を恐れるあまり、藁をも掴む思いで霊力を有する者であれば躊躇せず登用しており、最澄ら地元で活躍する宗教家だけでなく、奈良を拠点とする善珠らにも声が掛けられました。
阿刀氏がいかにして、これほどまでの宗教政治力を持つに至ったのか、その背景を見極めるために、阿刀氏が渡来系と言われているゆえんについて検証してみました。阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました
明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。
大和の国へ進出した饒速日命は、その地域を支配していた豪族の長髄彦(ナガスネヒコ)を一旦は服従させ、長髄彦の妹を妻にします。その後、瓊瓊杵尊の孫にあたる後の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)が東征して長髄彦を打ち破った際に、天皇が天照大神の子孫であることを知り、饒速日命は神武天皇に帰順し、それからは祭祀の役目を一筋に担うことになります。つまり、天照大神の孫である饒速日命は、天神御祖の勅令をもって神宝を管理し、祭祀の役目を担い、国治めを支えるために尽力した大祭司だったのです。同じ兄弟でも兄の饒速日命は宗教儀式を司る家系の流れをくむ一族となり、弟の瓊瓊杵尊は、皇室の原点となる神武天皇をはじめとする皇族を輩出する一族の流れとなり、それぞれが別系統の血筋を継いでいくことになります。
宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄
宇摩志麻治―味饒田命(うましにぎた) の系統は、阿刀連になりました。
伊香色雄命の同母姉妹に伊香色謎(いかがしこめ)命がおり、8代孝元天皇の妃となり、後に9代開化天皇の皇后となり、10代崇神天皇の母となります。
伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と続き物部氏は天皇家との関係を密にして大躍進することになります。
なお、石上神宮は武器庫を兼ねていたらしく、桓武天皇のときに神宮の兵仗は 山城国 葛野郡に遷されたとの記事が日本後紀にあります